恩師16
「センター試験では近年出題されなくなったが、二次試験の古文にはほぼ間違いなく文学史の問題が最低一問は出題されている。そして、受験生には文学史を疎かにする者が非常に多い。出ると分かっているのにみすみすそれを逃すのはもったいないとは思わないか? 二次試験において、文学史の配点はおそらく三点から五点ぐらいだろう。たかがそれぐらいと思うかもしれないが、その五点で順位がどれだけ下がると思う? 読解と違って、文学史はただ覚えるだけでいい。取れる点は確実に取っていこうじゃないか」
まだ休校が続いている大沢高校のとある三年生の教室にでは、芹沢による特別授業が行われていた。
「ただ、単なる文学史は日本史でも学ぶ内容だから、きちんと覚えている受験生は一定数いる。なら私たちは、もう少しレベルの高いことを求めてみようじゃないか。文学史を学んだら、次は古典作品のあらすじや内容まで覚えておくといい。近年のセンター試験ではマイナー作品からの出典がほとんどになったが、二次試験ではまだまだ有名な作品から出題されることがある。その作品のあらすじを知っているのと知らないのとでは、スタートラインが全く違ってくることは言わずもがなだろう。そんなに難しいことじゃない。ほとんどの作品は一行で内容を説明できる」
芹沢の授業を、生徒たちは興味深そうに黙って聞いている。芹沢の授業は、その辺の予備校のそれよりもレベルが高く、かつ分かりやすかった。
「例えば日記文学。覚えておくべきなのは古い順に、土佐日記、蜻蛉日記、和泉式部日記、紫式部日記、更級日記辺りだろう。そしてそれぞれの内容は、土佐日記は土佐から都へ帰るまでの日記。紀貫之が女性の振りをして書いたことがポイントだな」
芹沢は、生徒の一人を指差して尋ねた。
「君、どうして紀貫之はわざわざ女性の振りをしたんだと思う?」
生徒は首を傾げただけで答えられなかった。芹沢はすぐに答えを明かした。
「いいか? 当時、男性が書く文章は全て漢字で表記される漢文だった。それに対し、平仮名・片仮名などの仮名文字は普通、女性や子供が使う文字だったんだ。しかし紀貫之は、どうしても仮名文字を使って日記を書きたかった。そこで考えたのが、”女性の振り”というわけだ。それがあの有名な書き出し、『男もすなる日記というものを、女もしてみむとてするなり』というわけだ。あ、ちなみに『すなる』の『なる』は断定ではなく伝聞の意味だから気をつけないと駄目だぞ。断定の意味で使いたいなら『するなり』じゃないとおかしいからな」
機械的で覚えにくい古典文法も、有名な文章に紐付けて説明されると、理解しやすかった。
「少し話が逸れたな。ちなみに、紀貫之が土佐から都へ帰る道中、自分の娘が亡くなったのも覚えておくといいだろう。家に帰って、出発したときに植えた木が大きく成長しているのを見て、それに対して大人になることができなかった娘を思って悲しい歌を呼んだ場面は、一年生のときに授業でやったな」
文学の話をする芹沢は、実に楽しそうだった。
「そして蜻蛉日記は、藤原道綱母が、夫である兼家の浮気に苦しむ日々が書かれている。ある日、遂にしびれを切らした道綱母が、浮気相手の家から夜中に帰ってきた兼家を家から閉め出したエピソードが有名だな。和泉式部日記と紫式部日記は宮中での暮らしやそこでの恋愛、上司への愚痴などが書かれている。そして更級日記は、菅原孝標女というおばあちゃんが、『源氏物語』を読みたいと恋い焦がれていた若い頃を回想して書いている日記だ。というふうに、日記文学だけでもいろいろ語れる。では、次は随筆に行こうか」
芹沢は、さっきとは違う生徒を指差した。
「君、古典文学の三大随筆を答えて」
指名された男子生徒は、朗々と答えた。
「枕草子、徒然草、方丈記です」
「ではそれぞれの筆者は?」
「清少納言、吉田兼好、鴨長明です」
「よろしい」
芹沢は満足そうに言った。
「タイトルと作者は当然として、それぞれの作品にどんなことが書かれているかも覚えておくといいだろう。まず枕草子。そもそもこのタイトルの意味は知っているか? 諸説はあるが、当時は紙というのは高級品で、簡単に手に入るものではなかったんだ。そんな高級品をある人から大量にプレゼントされた清少納言は、自らを謙遜して、『こんなたくさんの紙、もったいなくて何も書かずに枕にしてしまいそうだわ』と冗談を言ったらしい。それが枕草子の由来だと言われている。そしてその内容は、半分は宮中での日記。主に清少納言が仕えた定子との日々が書かれている。そしてもう半分は、今で言う”あるある”だな。例えば、こんな人は腹が立つとか、こんな状況は気まずいとか、いろんな”あるある”が書かれている。あの有名な『春はあけぼの』という書き出しも、いろんな”春あるある”や”夏あるある”を挙げていってるわけだ。そしてその内容は、今でも共感できるものばかり。昔も今も人間の考えることは一緒なんだと思える面白い作品だから、時間があれば読んでみるといいだろう」
生徒たちは、芹沢の授業に聞き入っていた。
「続いて徒然草だが、この筆者の吉田兼好という男は非常にあまのじゃくな男でね。桜は満開よりも枯れてる方がいいとか、月は満月よりも新月の方がいいとか、とにかくみんなが良いと言うものを絶対に良いとは言いたがらない男だ。君たちの周りにも、一人はそんな奴がいるだろう。そんな世の中に対する偏見が書かれた作品だと思っておけばいい。そして最後に方丈記だが、有名な書き出しである『ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず』からも分かるように、世の中は無常で、常に移り変わっていくということをテーマに書かれた作品だ。これぐらい知っておけば、読解にかなり役立つだろう。そしてお次は物語だがーー」
芹沢は、低く響く心地よい声で授業を続けた。
「覚えておくといいのは竹取物語、伊勢物語、源氏物語、狭衣物語ぐらいだろう。竹取物語はもはや説明する必要は無いな? 伊勢物語は六歌仙の一人でもある在原業平がモデルの主人公の恋の物語。重要なのは、ただの物語ではなく、物語の中で随所に和歌が挟まれる『歌物語』というジャンルであること。他に歌物語は平中物語と大和物語があるから、これもセットで覚えておくといいだろう。『源氏物語』は全文で五十四帖あり、あまりに長すぎるから、細かいところまで覚える必要はないが、光源氏とその周りの人物の関係性ぐらいは知っておくといい。例えば光源氏の正妻が葵の上で、その息子が夕霧、葵の上の兄が頭の中将で光源氏のライバルであり親友、という具合だ。そして狭衣物語は、『源氏物語』に大きく影響を受けた作品だな。主人公の『狭衣』の恋物語だ。そして最後は歌集だがーー」
そのときだった。教室の後ろの扉が開き、とある人物が入って来た。その人物は、黒いスーツに身を包んだ、背の高い男だった。生徒と芹沢は、突然開いた扉の音に反応し、一斉に後ろを振り向いてその男を見た。男は少し驚いた様子を見せたが、何も言わず、教室の後ろに立って授業の様子を眺めていた。
「はい。みんな、あの人は不審者じゃないから大丈夫だ。授業に集中して」
芹沢の言葉に安心したのか、生徒たちは前に向き直り、再び授業を受ける態勢になった。芹沢は教室の後方に立っている男に笑顔で軽く会釈をした。男も会釈を返した。
「で、歌集についてだが、万葉集の後にできた八つの勅撰和歌集、いわゆる『八大集』は覚えておこう。覚え方は簡単だ。最初は古今和歌集。その後に選んでできたから後撰和歌集。その二つに選ばれなかった歌を拾い集めたのが拾遺和歌集。その後にできたから後拾遺和歌集。その後の三つ、金葉和歌集、詞花和歌集、千載和歌集は『金曜しかぜんざい食べない』という語呂合わせ。そして最後が新古今和歌集だ。これぐらいは覚えておかないと駄目だぞ」
芹沢の授業を久しぶりに聞いた山崎は、懐かしさから思わず微笑んでいた。
「少々語りすぎたな。もちろん一気に覚える必要は無いが、今話したのはあくまで最低限だ。各々復習しておくように」
そこまで言って、芹沢は持っていた教科書を教壇に置いた。
「ではここで、ある人に特別授業をお願いしようか」
芹沢は、教室の後ろで立っている山崎を見ながら言った。
「私の教え子で、捜査一課の刑事をやっている、山崎君だ」
そう言って、芹沢は山崎を指差した。生徒たちは、山崎の方を見ながら思わず拍手をしていた。山崎はというと、予想外のことに動揺を隠せなかったが、この状況で引くことはできないと判断し、照れくさそうに教室の前へと出て来た。
「聞いてませんよ、先生」
「まあまあ、いいじゃないか」
「でも何を話せば?」
「何でもいい。今の高校生たちに、捜査一課の刑事である君から言えるアドバイスでもあれば」
「アドバイスですか。そうですね……」
山崎はしばらく考えた後、「分かりました」と言って、教壇を前に真っ直ぐ立ち、教室を見渡した。芹沢は、温かく見守りながら、教室の隅の椅子に座った。
山崎は、ふうっと息を吐いた後、ゆっくりと話し始めた。
「ええ、まずは自己紹介から。先程、芹沢先生からもご紹介がありましたが、私は現在、捜査一課というところで刑事をしています、山崎と申します。『やまざき』ではなく、『やまさき』なのでお間違えのないように。まあ、どっちでもいいんですがね」
刑事という普段は会えないような職種の人間の話に、生徒たちは興味津々な様子だった。
「ううん、何を話しましょうか……。まず、捜査一課というところですが、みなさん名前ぐらいは聞いたことがあるとは思うんですが、実際はどんなところなのかご存じない方も多いと思います。簡単に言ってしえば、日々起こる様々な事件の中で、殺人、強盗、誘拐などの凶悪犯罪を扱う部署です。中でも私は、主に殺人事件を担当することが多いです。まあそんな仕事をしているので、これまで何十何百という殺人犯に会ってきました。みなさんは、殺人犯というと、どんな人を想像しますか?」
突然問いかけられた生徒たちは、各々が思う殺人犯を、頭の中で想像した。
「おそらく、強面で、いかにも怖い人を想像した方が多いと思います。確かにそういう人もいますが、私が今まで会ってきた犯人たちは、決してそんな人ばかりではなかった。むしろ、『こんな人が?』と思うような方ばかりでした」
山崎は、朗々と続けた。
「みなさんに分かっていて欲しいのは、テレビのニュースで見るような殺人犯は、みなさんと何ら変わらない、普通の人間だということです。彼らは、みなさんと同じように両親に育てられ、みなさんと同じように学校へ通い、そしてみなさんと同じように友達と遊んだり仕事をしたりしていた人たちなんです。それが、ちょっとしたきっかけで、人は殺人犯になってしまうことがあるんです。極端な話を言えば、このクラスの中から将来殺人を犯してしまう人が出ないとは言い切れないわけです」
山崎の言葉に、生徒たちは少しぎょっとしたような表情を見せた。
「あ、すいません。別に脅すつもりはないんです。ただ、殺人を犯してしまった人たちを、自分たちとは違う世界の人間だとは思わないで欲しい。もちろん、自分勝手な理由で人を殺す人間もいますが、中には大切な何かを守るため、大切な人を救うために人を殺した犯人もたくさんいました。彼らを逮捕するときに心を痛めたことも何度もあります」
芹沢は、山崎の話を聞きながら、無言で自分の手のひらを眺めた。
「言うまでもなく、殺人は大罪です。絶対にやってはいけない。ただ、テレビのニュースは、事実を極めて無機的に伝えるだけですが、犯人にもみなさんと同じように感情があります。彼らがどうして殺人を犯してしまったのか、少しでも考えてみる時間を作ってもらえたら、みなさん自身の成長にも繋がるのではないかと思います。すみません。少し長くなりましたが、これで私の話は以上です」
そう言って、山崎は生徒たちに頭を下げた。生徒たちは、山崎に向かって賛辞の拍手を送った。椅子に座っていた芹沢も立ち上がり、山崎に握手を求めた。
「ありがとう。いい話だったよ」
「とんでもありません。話が上手くまとまらず、お恥ずかしい限りです」
「いやいや。君の思いは、確かに生徒たちに伝わったようだよ。なあ、みんな」
そう言って芹沢が生徒たちの方を見ると、何人もの生徒が頷いた。
「ああ、ありがとうございます。あまり大勢の人の前で話すような機会がないので緊張しました」
「そうなのか? あまりそういうふうには見えなかったが。とにかくありがとう。また遊びに来てくれ。みんな、改めて山崎君に拍手を」
芹沢の呼びかけに応じ、生徒たちは二度目の拍手を送った。山崎は照れくさそうに頭を掻いた。