恩師6
上原凛は、過去完了の攻略について語る窪塚の話を碌に聞かず、ぼうっと窓の外を眺めていた。しかしこれは決して、凛が過去完了の何たるかを理解できないために退屈を持て余していたからではなく、むしろその逆で、凛にとっては基本的な内容すぎて今更真面目にノートに取るほどのこともなかったらである。
上原凛はこの大沢高校の生徒会長であり、成績も学年トップ。おまけに容姿も優れているとあって、男女問わずこの学校の全生徒にとっての憧れの存在だった。
しかし実際は、この上原凛という女生徒は、刺激のない、退屈な毎日を嘆き、例えば明日学校が爆発しないだろうかとか、巨大な怪獣が現れて街を破壊しないだろうかとか、はたまた白馬に乗ったイケメンの王子様が現れて自分を連れ去ってはくれないだろうかとか、頭の中ではそんな妄想に耽っているような少女であった。それに真っ先に勘付いたのが、今は学校に不審者が侵入してきたときの対処法を語っている、窪塚という英語教師だった。
まもなくしてチャイムが鳴ると、窪塚は教室を出て行った。昼休みに入り、凛はいつものように友人の武田さつきと一緒に昼食の弁当を食べた。さつきとは特別仲がいいという訳でもないのだが、女子高生には、誰かとつるんでいないと迫害されるという謎の文化がある。凛はこの悪しき慣習に辟易していたが、かといって体制に抗う気概も持ち合わせていないので、クラスでは一番気の合うこの女と、とりあえずは仲良くしていることにしていた。
昼休みが終わると五時間目、六時間目の授業があり、あっという間に放課後になった。部活動に所属している生徒たちは、各々の部室なり練習場所なりに散っていくのだが、部活に所属していない凛とさつきは、いつものように真っ直ぐ帰宅しようとしていた。
二人がちょうど校門を出ようとしたときだった。後ろから、「上原!」と、凛の名字を呼ぶ声が聞こえた。凛は、振り返らずともその声の主が誰であるか、瞬時に理解した。
「あ! クボちゃん先生!」
後ろを振り返らずに固まっている凛をよそに、隣のさつきが先に呼びかけに応じた。
「おお、さつき。今日も二人で一緒に帰るのか?」
「うん、そうだよ! クボちゃん先生はどうしたの? 凛に何か用?」
「ああ、ちょっと大事な話があってな。さつき、悪いけど、先に帰ってもらってもいいか?」
「……? まあ、別にいいけど」
本当は、「帰らないで!」と、凛はさつきの腕を今すぐ握りたかったが、無情にも凛の体は動かなかった。ちなみに、「クボちゃん先生」とは窪塚翔のあだ名である。窪塚は多くの生徒や、一部の教師、父兄からもこのあだ名で呼ばれ親しまれていたが、凛は寒気がするほど嫌いだった。
「じゃあ凛。後で連絡してね!」
「……うん」
「先生もまたね!」
「おお。また明日な」
別れの挨拶を済ませると、さつきは二人を残してさっさと帰宅してしまった。さつきの姿が完全に見えなくなったことを確認すると、窪塚はさっきまでの笑顔から一転、真顔になり、周りに聞こえないよう小さな声で凛に言った。
「ここじゃ下校する生徒に見られるから、あっちの陰で話そうか」
凛は無言で従った。
窪塚の言った通り、二人は校舎の壁の間の、外からは見えにくい狭い隙間に入った。中に入るや否や、窪塚は懐からタバコとライターを取り出し、くわえたタバコに火をつけた。
「学校内は禁煙ですよ」
「いいんだよ。今はお前しか見てない」
「私が誰かにチクるかも」
「誰かって?」
「……」
答えられない凛を見て、窪塚は勝ち誇ったように笑い、鼻からタバコの煙を吐き出した。
「今日八時からでいいか?」
窪塚は俯いている凛に言った。
「……今日は、塾だから……」
「そんなの一日行かなかったからって影響なんて無いだろう? お前の成績なら尚更だ。何なら、遅れた分を俺が補修してやろうか? 個人的に」
そう言いながら窪塚が凛に見せたにやけた顔は、普段授業中に見せている爽やかな笑顔とはかけ離れた下品なものだった。凛は背筋がゾッとするのを感じた。
「じゃあ、そういう訳だから。八時に俺ん家な」
窪塚はタバコの火を携帯灰皿で消し、懐に入れた。凛は何も答えなかった。窪塚は絶対に有無を言わせない男だ。ここで口答えすれば何をするか分からない。相手が女子で、自分の生徒であろうと、手を上げることを厭わなかった。
「そんな顔すんなって」
不満そうに俯く凛を見て、窪塚は凛の頭を撫でながら言った。
「美味いもん食わせてやるから。な? それで文句ないだろ?」
文句が無い訳などなかった。この男が自分を家に呼ぶ理由は一つしか無かった。窪塚は自分の性欲を満たすため以外の理由で自分を呼んだことはない。高い食事などは体の良い理由でしかないのだ。
窪塚が凛に近付いてきたのは、凛がまだ高校一年生の頃だった。最初は警戒した凛だったが、学校で一番人気の教師との秘密の関係というものに憧れて、ついついこの男を信じてしまった。最初は優しかった窪塚だったが、徐々にその本性を見せ始め、いつの間にか、凛は窪塚の都合のいい性欲処理の道具に成り下がっていた。このことを告発することもできたのだが、それは同時に自分の学校や家庭、さらには自分の両親の立場をも危うくしかねない行為であり、凛にはその勇気が無かった。もしかすると窪塚は、自分にその勇気が無いことも予め見抜いた上で近付いて来たのかもしれないと、今では思うのだった。
「じゃあ、俺まだ仕事あるから。気を付けて帰れよ」
そう言い残し、窪塚は校舎へと戻って行った。凛は、その背中を恨めしく眺めるしかなかった。自分は、卒業するまであの男の言いなりなのだろうか。いや、あの男のことだ。卒業してからも付き纏ってくる可能性は十分にある。
凛は、遠い目をしたまま、学校を後にした。
職員室にいた芹沢は、窓の外を眺めていた。正門の近くで、窪塚が女子生徒と校舎の陰へ消えていくのが見えた。あの生徒はおそらく、一組の上原凛だろう。
芹沢は、苦虫を噛み潰したような顔で、窓の側を離れた。