恩師5
この日の私立大沢高校の生徒たちは、前日の夜に起きたウサギ惨殺事件の話題で持ちきりだった。
「知ってる? 誰かが昨日の深夜に、ウサギ小屋のウサギを全部殺しちゃったんだって!」
「ナイフでめった刺しにされてたんだって」
「飼育係の子が朝登校して来たときに見つけて、それからずっと泣いてたんだって」
「大切に育ててたもんねえ」
「今はショックで保健室で休んでるって」
「もう今日は帰ったらしいよ」
「そうなんだ。心配だね」
「早く元気になって欲しいなあ」
「ていうかさ、最近この学校やばくない?」
「確かに。この前も花壇が荒らされたりしてたもんね」
「誰かがこの学校に恨み持って襲ってんじゃない?」
「えー何それ。怖い」
そんな会話が、学校の至るところから聞かれた。この件は朝の職員会議でも話題に出され、教頭からいつもより防犯意識を高めるようにとのお達しがあった。
「不審者の件、芹沢先生は何かご存知ですか?」
「一体何者なんでしょう。怖いですよね」
職員会議の後、後輩教師の平井と横溝が芹沢の元へやって来た。この二人は三十代前半の教師で、担当教科はそれぞれ数学と物理。国語を担当する芹沢には授業に関する専門的な指導は受けていないものの、教師としての在り方を何度も教えられ、芹沢を「教師の鑑」として尊敬していた。
「いやあ、さすがに心当たりはないですね。とにかく、生徒の安全が第一です。気を引き締めましょう」
芹沢の言葉に、若い二人の教師は声を揃えて「はい!」と返事をした。二人に嘘をついていることに胸が痛んだが、芹沢はそれが顔に出ないよう努めた。
「いいか? 過去完了は一見ややこしそうだけど、法則さえ分かってしまえば実はたいしたことないんだ」
三年一組の教室では、このクラスの担任でもある窪塚翔による英語の授業が行われていた。
「過去完了は、過去の時点より更に過去、文法用語で言えば『大過去』を表現したいときに使う英文法だけど、長文でもない限り、そんなややこしい時制を短い文で表現するのはなかなか難しい。だけど、実はそれを簡単にする方法がある。それは、過去形の英文を無理矢理くっつけてしまえばいい。それだけで、『大過去』は簡単に表現できる。説明だけじゃ分かんないだろうから、実際に例文を見ていくぞ。まずーー」
窪塚の授業は分かりやすく、生徒たちも聞き入っていた。それは授業の分かりやすさだけではなく、窪塚のルックスも手伝ってのことだろう。窪塚は現在二十九歳。脚が長く高身長で、ジーンズとセーターというシンプルな装いでも、見事に着こなしてしまうスタイルの良さがあった。それに加え顔も整っている窪塚は、女子生徒はもちろん、人当たりの良い性格から、男子生徒からも人気が高かった。
「だから、文法問題で過去形の文が無理矢理くっついてる感じがしたら、まず間違いなく過去完了が使われていると思っていい。センターでは時間との勝負になる。できるだけ長文に時間を割くためにも、こういう機械的に解ける文法問題は、パッパと答えていかないとダメだぞ」
窪塚の言葉を、生徒たちは各々ノートに書き残した。
とはいえ、やはり今日の生徒たちは、どこかそわそわしていた。いつもは集中して授業を聞いている生徒たちも、話半分で聞いているような感じがした。それを感じ取った窪塚は、授業を一旦止め、三年一組の生徒たちに言った。
「みんな、やっぱり昨日のことが気になってるみたいだな」
窪塚の言葉に、生徒たちは沈黙した。返事をせずとも、それが何よりの答えだった。窪塚は生徒たちに、優しい口調で語りかけた。
「不安になるのも仕方ないけど、学校も対策を講じてる。今朝の職員会議で、警備会社にお願いして、警備員さんに24時間態勢でついててもらおうかって話になった。だから、お前たちは何も心配しなくていい。でも、もし万が一不審者が学校の中に入って来るようなことがあったら、どういう行動を取るか分かってるか? じゃあ、優香」
窪塚は、一番前の席に座っていた優香という女子生徒を指差した。
「えっと……みんなで逃げる?」
優香は遠慮がちに答えた。それに対し、窪塚は笑顔で言った。
「確かに逃げたくなるけど、もし全校生徒が一斉に逃げ出したら、不審者はどう思う?」
女子生徒は答えられなかった。窪塚は続ける。
「自分が学校に侵入していることがバレたと分かって、どんな行動を起こすか分からないだろ? だから、学校に不審者が侵入したと分かった瞬間に、ある校内放送が流れることになってるんだ。それは、『昼の全校集会を始めるから、生徒はグラウンドへ集合してください』って内容でな。この学校に通っている人間なら、昼の全校集会なんて存在しないことは知ってるだろ。でも犯人はそのことを知らない」
ここで窪塚は、敢えて「犯人」という言葉を使った。そう呼ばれるべき人間が、確かに身近にいるかもしれないことを、生徒たちに悟らせようとした。
「こうして生徒は全員グラウンドに出て、後は警察が来るのを待つってわけだ。もちろん、この方法が完璧なわけじゃないけど、これが最善だ。みんなも、校内放送はちゃんと聞いとけよ?」
生徒たちが「はい」と答えると同時に、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「じゃあ今日はこれで終わり。ちゃんと家に帰ったら復習しとくように」
そう言いながら教材をまとめた窪塚は、三年一組の教室を後にした。