恩師3
校舎裏に立つ、永峰学園で一番大きな木に、芹沢は何十年ぶりとなる木登りをしていた。
「あった! あったぞ!」
「本当ですか!」
「ああ! 山崎君の言った通りだったな」
芹沢は木の上に作られた鳥の巣から、黒革の財布を手に取り、下でまだ不安そうな表情をしている吉田に向かって投げた。見事財布をキャッチした吉田は、すぐに中身を開き、何も無くなっていないことを確認すると、やっと胸を撫で下ろし、安堵の表情を浮かべた。それから吉田は、一緒に見守ってくれていた曽根崎に謝罪した。少し早とちりなところはあるが、中身は男らしい吉田は、自分の過ちを素直に認め、曽根崎に向かって頭を下げた。曽根崎は、吉田を怒るどころか、自分も管理意識が低かったと謝った。
木から降りてきた芹沢は、そんな二人を微笑ましく見ながら、近くで「友情」の続きを読んでいる山崎の隣に立った。
「しかし、よく分かったな。犯人がカラスだなんて」
「大したことじゃありません。ここ最近、カラスがあそこに巣を作ったのはこの学校の人間ならみんな知ってることですから。そして、開いていた部室の窓。吉田君の財布に付いていた水晶のようなストラップ。光るものを集めたがるカラスの習性を考慮すれば、カラスが吉田君の財布を持って行ったことは容易に想像がつきます」
「盗まれたのは財布じゃなく、それに付いていたストラップの方だったというわけか」
山崎は小さく頷いた。
「となれば、考えられる財布の在り処は一つだけ」
「カラスの巣か。なるほどな」
芹沢は、山崎の推理に素直に感心した。この生徒に任せた自分の判断は間違っていなかったと安堵した。
「先生ーー」
ふと、山崎が芹沢に言った。
「こういう言い方は少し不謹慎かもしれないですけど、人が分からない謎を解いたり、問題を解決したりするのって、何というか、楽しいですね」
すっかり仲直りした吉田と曽根崎を見つめる山崎の横顔は、芹沢に輝いて見えた。
「そうか」
「はい」
「ところで山崎君」
「はい?」
「君は、将来なりたい職業とかはあるのかね?」
「いえ。そういうのは全然……」
「なら、警察官を目指してみたらどうだ?」
「警察官? 僕がですか?」
「ああ。さっき言ってたじゃないか。人の問題を解決するのが楽しいって。それなら、警察官なんてぴったりな仕事だと思うがね」
「嫌です」
「え?」
芹沢の提案に、山崎は即答した。あまりに返答が早かったので、芹沢は少し驚いてしまった。
「警察官なんて激務、僕には向いてません。僕は毎日のんびり暮らせて、好きな本が読めて、妹と楽しく過ごせればいんです。それに、人を助ける仕事なら、別に警察官じゃなくても、弁護士や医者でもいい。それに何より、僕は血が苦手です」
「そ、そうか……」
無表情でまくしたてる山崎に、芹沢は思わず気圧された。
「ま、まあもちろん無理にとは言わない。君の人生だ。好きにしなさい」
「はい。……ただ……」
「ただ?」
山崎は少し考える素振りをして言った。
「先生のことは大人の中でも一番尊敬しています。先生が言うことなら、少し、参考にします」
「お、おお。そうか。それはありがとう」
予想外の言葉に、芹沢は動揺し、そして喜んだ。この山崎という生徒には、他の生徒とは明らかに違う何かを感じていた。この少年は、将来大物になるような、そんな気がしていた。
山崎は、素知らぬ顔で吉田と曽根崎のことを眺めた後、「では」とだけ言い残して、どこかへ去って行ってしまった。芹沢は、その背中をしばらく眺めていた。
窓の外は雨が降っていた。夜の景色にザラザラとリズムよく響く雨音が心地よく、いつの間にか眠ってしまっていたようだった。
「お疲れですね、山崎さん」
運転席でハンドルを握るエリナが言う。
「すいません。眠ってしまって」
「いえ。ていうか、山崎さんの寝顔、初めて見た気がします」
「そうですか?」
「はい。だって山崎さん、滅多に人の前で寝ないじゃないですか」
「確かにそうかもしれませんね。別に意識していた訳じゃありませんが」
「ところで、何の夢見てたんですか?」
「え?」
「寝言喋ってましたよ。先生が何とかって」
「ああ。少し、昔のことを思い出してました」
「昔のこと?」
「はい。僕の恩師のことです」
山崎とエリナを乗せた車は、少しの思い出話と共に、雨の降る夜の街をこの後も走り続けた。