恩師1
私立永峰学園校舎の三階の教室。窓から夕焼けの暖かい光が差し込む、自分以外誰も居ない放課後の教室は、山崎少年にとって絶好の読書空間だった。だったのだが、最近はやたらとカラスが鳴いている。噂によれば、校舎裏に一羽のカラスが巣を作ったらしい。新たな生命が生まれることは、本来なら喜ばしいことかもしれないが、静かに読書を楽しみたい山崎にとっては、甚だ迷惑なことであった。
今日はもうやめにしようかと考えていたとき、教室のドアが開いた。山崎がそちらに目を向けると、そこには体格のいい初老の男性が立っていた。
「やあ、山崎君。今日も読書かね」
「芹沢先生。はい、そうです」
「芹沢先生」と呼ばれたその男は、山崎の前の席に腰を下ろした。
「今日は何を?」
山崎は、何も言わずに持っていた文庫本の表紙を芹沢に見せた。
「『友情』か。武者小路実篤。良い本を読んでいるね。面白いかい?」
「はい、とても。理不尽で」
「はは、そうだな。これはとても理不尽な話だ。だからこそリアルで生々しい」
「はい。でも、今日は全然集中できません」
「どうして?」
「カラスがうるさくて。それに、さっきは地震もあったし」
「ああ。あれは結構大きかったな。久しぶりに冷や汗なんてかいてしまったよ」
「だから、今日はこれぐらいにして、もう帰ろうかと思ってたところです」
「そうか。気を付けて帰りなさい」
「はい。ありがとうございます」
山崎は帰宅部だ。同級生たちが汗や涙とともに青春を謳歌している間、山崎はほぼ毎日こうして誰も居ない教室で読書に耽るのが好きだった。芹沢もそれを承知しており、生徒の自主性を重んじる彼は、山崎をどこかの部活に入れようとすることもなかった。
山崎が帰り支度を済ませ、学生鞄を持って立ち上がったときだった。芹沢より少し若い、中年の男性教師が、血相を変えて教室に入って来た。
「どうしたんですか? そんなに慌てて」
「芹沢先生! 急いで来てもらってもいいですか!? 生徒同士が喧嘩をーー」
「分かりました。すぐ行きます。じゃあ、山崎君、私はこれで。くれぐれも寄り道しないように」
「……はい」
短く返事をする山崎ににっこりと笑みを見せ、芹沢は自分を呼びに来た教師と共に急ぎ足で教室を出て行った。
一人残された山崎は、教室を出ると学校の出口とは反対方向に歩いて行った。
芹沢と男性教師が部室棟の前にやって来ると、二人の男子生徒が取っ組み合いの真っ最中だった。周りの生徒たちは、その勢いに押され、止めることもできず、ただそれを傍観していた。
「こら! やめなさい! 二人とも! 離れなさい!」
そう言いながら、芹沢は男子生徒を力ずくで離し、二人を叱責した。大きな声を上げたり、圧倒的な力で押さえつけた訳ではないが、その威厳に、二人の男子生徒はすっかり大人しくなってしまった。
「何があったのか、話しなさい」
芹沢が言うと、勢いよく怒鳴っていた方の生徒が口を開いた。
「こいつが俺の財布を盗んだんです!」
「何?」
「違います! そんなことしてません!」
話を聞くと、同じバスケットボール部に所属する吉田と曽根崎は、部活をサボって部室でゲームをして遊んでいたそうだ。その最中、教室に忘れ物を思い出した吉田は、それを取りに行くため十分ほど部室を離れていた。曽根崎を友人として信頼していた吉田は、どうせすぐに戻って来るからと、携帯電話や財布などの貴重品を部室に置いたままにしていた。そして十分後、再び部室に戻って来た吉田は、自分の財布が無くなっていることに気付いたのだった。
「お前以外誰がいるんだよ!」
「知らないよ! 僕は財布に触ってもいない!」
また喧嘩をしようとする吉田を、芹沢がなだめる。
「落ち着きなさい、吉田君。心当たりのある場所は全部探したのかね?」
「はい。ていうか、俺は部室の机のど真ん中に財布を置いてたんです。無くなったことにはすぐ気付きました。バレバレなのに、こいつは知らない知らないって、全然財布を返そうとしないんです!」
吉田は横の曽根崎を見ながら興奮気味に話した。
「なるほど」
吉田の話を聞いた芹沢は、次は曽根崎の方に体を向けた。
「時に曽根崎君」
「はい」
「これは念の為に聞くんだが、君は誓って吉田君の財布を盗んだりはしていないんだね?」
「はい。もちろんです」
曽根崎は、芹沢の目を見て即答した。その目に嘘偽りはなかった。
「分かった。君を信じよう」
「ありがとうございます!」
「ちょーー先生!」
芹沢の言葉に、曽根崎は笑顔を見せたが、吉田は納得がいかないようだった。しかし、さっきの曽根崎の目に真実を感じた芹沢は、曽根崎を信じることに決めた。
だが、そうは言うものの、どうしたものか。芹沢には、吉田も曽根崎も本当のことを語っているように見えた。お金が絡んでいる以上、きちんとした解決策を講じなければならない。芹沢が頭を悩ませていたそのときだった。
「すいません。ちょっといいですか?」
芹沢の耳に、聞き馴染みのある声が聞こえてきた。後ろを振り向くと、そこにはさっきまで教室で一人、理不尽な小説を読んでいた、学ラン姿の十七歳の少年が立っていた。
「山崎君。さっき帰ったんじゃーー」
「何かお困りみたいだったので、付いてきちゃいました。僕にも話を聞かせてもらえませんか?」
「いやしかしーー」
芹沢が止めるのも聞かず、山崎はいつの間にか吉田と曽根崎に話を聞いていた。芹沢は少し困ったが、現状を打破する策も見つからないので、ここはこの少年に賭けてみることにした。
今思い返せば、全てはこのときから始まったのかもしれなかった。