愛しすぎた女9
敦美の部屋を出た後、山崎はその足で東洋薬科大学へと向かった。薬学部学部棟のとある一室の前に着くと、ドアをノックした。
「はい」
「お世話になります。昨日お伺いした山崎です」
「ああ、どうぞ」
ドアの向こうから許可をもらうと、山崎は「失礼します」と断り、ドアを開けた。教授室では、福永がすごいスピードでノートパソコンのキーボードを叩いていた。
「すみません。今論文が佳境でして、このままでも大丈夫ですか?」
「構いません。むしろ、お忙しいところをお邪魔してしまい申し訳ありません」
「いえ。で、山崎さん、でしたっけ。今日はどのような用件でしょうか?」
「はい。昨日お聞きしたお話に加えて、再度いくつか確認したいことがありまして。あ、その前に、私の名前なんですが、『やまざき』ではなく、『やまさき』なんです」
「ああ。これはどうもすみません」
福永はキーボードを叩く手を一度止めて謝罪した。
「いえいえ。別にどっちでもいいですから」
「……で、確認したいこととは?」
「ああ、そうでしたね。まず、昨日もお話ししたんですが、島田さんが持っていたチョコレートのことがずっと引っかかってまして」
「それについては昨日もお話ししましたが、僕には何の心当たりもありませんよ」
「やはりそうですか。しかし、島田さんが誰かと会っていた、もしくは会う予定だったことは、まず間違いないと私は踏んでます。そして、その人物は島田さんの死に大きく関わっている」
「……気になる言い回しですね」
福永は、再びキーボードを叩く手を止めた。
「島田さんは自殺じゃないと?」
「まだ分かりません。しかし、その可能性は高いかと」
「そんな……。もしかして、他殺という可能性も……?」
「……」
山崎は無言で頷いた。
「そんな……まさか……。彼女はとても人当たりがよくて、誰かに恨みを買うような人間じゃーー」
「それを確かめるために、先生にお聞きしたいことがあるんです」
「……何ですか?」
「もし島田さんが自殺ではなく他殺だとしたら、あの密室は犯人によって作り出されたということになります」
「はい」
「ゼミ室の鍵は二つ。一つは事務室にあるもの。もう一つは先生がお持ちのもの。そして前者は島田さんが持っていました。ということは、先生がお持ちだった方の鍵が使われた可能性が高いわけです」
「しかし、僕の鍵はずっとここにありました。誰にも渡したりしていません」
「……鍵はいつもどこに?」
「そこの、白衣の内ポケットの中です」
と、福永は部屋の隅のハンガーにかけてある白衣を指差した。山崎は白衣の方へ近付き、その内ポケットからゼミ室の鍵を取り出した。
「ここに鍵があることを知ってる人間は?」
「僕のゼミの生徒ならみんな知ってるはずです」
「なるほど……」
「……ちょっと刑事さん。まさかとは思いますが、うちのゼミの学生の中に犯人がいるなんて考えてないですよね?」
「……」
何も答えない山崎に、福永は立ち上がって反論した。
「馬鹿げてる! 僕のゼミの学生に限ってそんなことは絶対にない! 確かにみんなまだ若いし、それ故の過ちを犯してしまうこともありますが、モラルはきちんと持っている子たちです! ましてや人殺しなんてーー」
「先生。私もそう信じたいんです。ですから、彼らの中に犯人がいないことを証明するためにも、ご協力頂きたいんです」
「……私は、何を答えればいいんですか?」
福永は冷静になり、再び椅子に腰を下ろした。山崎は変わらず落ち着いたトーンで話を続けた。
「もし、島田さんが何者かによって殺害され、先生の鍵を使って密室が作り出されたのだとしたら、犯人は昨日、この部屋を訪れているはずです」
「それなら、学生以外にも何人もいます」
「ただですね、犯人はここから鍵を持ち出し、島田さんを殺害した後、もう一度ここに来て鍵を元の場所に戻す必要があります」
「はあ……」
「そこでお聞きしたいのですが、昨日、この部屋に二度訪れた方はいませんでしたか?」
山崎は指で「二」を作りながら言った。
福永は、すぐには答えなかった。該当する人物が思い浮かばなかった訳ではない。むしろ、その人物はすぐに思い浮かんだ。問題なのは、その人物が彼のゼミに所属している学生であるという点だった。その人物の名を挙げてしまえば、この刑事は一気にその生徒に疑いの目を向けるだそう。しかし、もしここで嘘をつくようなら、それは自分自身がその生徒を疑っていることになってしまう。自分の生徒を信じているからこそ、ここは真実を話すべきだと、福永は意思を固めた。
「一人だけ、います」
「……どなたですか?」
「……前園さんです」
「それはいつ、どのような用件で?」
「一度目は、昼休みの少し前だったと思います。次の課題について教えて欲しいと。ある程度聞いたら『もう大丈夫です』と言って出て行きました。そして、それから数十分後にもう一度やって来ました。どうしたのかと聞いたら、さっきここで学生証を落としたと言ったんです。確かに、彼女が座っていた椅子の下に、彼女の学生証が落ちてました。それを取ったら、今度はすぐに出て行きました」
「……なるほど」
山崎は空中を眺めながら何かを考えていた。
「しかし、刑事さん。彼女は犯人じゃない! 犯人な訳がない! だって、彼女と島田さんは、小学生の頃から十五年近くも一緒にいる親友です! そんなことがあるわけーー」
「私も、そう信じています。話しにくいことを話していただき、ありがとうございました」
「……」
「どういたしまして」という返事は無かった。
山崎は福永に丁寧にお辞儀をすると、「失礼します」と言い残し、教授室を出て行った。
福永は何とも言えない気持ちになりながらも、来週までに仕上げなければならない論文に取り掛かる他なかった。