愛され過ぎた女13
二日ぶりに帰ってきた自宅は、実に静かで殺風景だった。元々物も少なく、寂しい家ではあったが、住む人間が一人減るだけでこうも静かになるものかと、綾乃は思った。
リビングでは警察の人間たちがひっきりなしに行き来していたから、てっきり散らかっているのではないかと覚悟していたが、そんなことは全くなく、むしろ警察が来る前より綺麗になっているような気がした。きっときちんと掃除をして帰ってくれたのだろう。
リビングだけではなく、犯行現場になった徹の部屋も、見違えるほど綺麗になっていた。初めてこの部屋に来た人間なら、まさかここで殺人が行われたとは想像もしないだろう。ただ、どちらにしてもこの家はもう売りに出そうと思っていた。この家には嫌な思い出が多すぎる。
テレビを見る気にもならなかった綾乃は、何となくリビングの窓から外を眺めた。家の前の道路には、下校中の小学生たちが楽しそうに昨日観たアニメの話をしていた。結局、徹との間に子供は授からなかった。徹は結婚する前から子供が欲しいと言っていたが、綾乃は特段そうは思わなかった。昔から、子供嫌いという訳ではないが、他人の子供を可愛いと思ったことが無かったのだった。情が薄いと言われればそれまでだが、そういうこともあり、綾乃は自分に子供ができても、母親として愛情を注いで育てられる自身が無かった。
少し小腹が空いたので、冷蔵庫に何か入っていただろうかと窓の側を離れようとしたときだった。「ピンポーン」と、インターホンの鳴る音が聞こえた。備え付けの防犯システムで玄関前の様子を映すカメラを見てみると、その画面には見覚えのある黒いスーツの男が立っていた。
「はい」
「あ、どうも。一昨日お話を伺った山崎です。覚えておられますか?」
「ああ……」
思い出した。ホテル近くの喫茶店で事情聴取のようなことをした刑事だ。確か、自分の妹を連れて来た変人だった。何か確認事項でもあるのかと思った綾乃は、玄関の鍵を開け、山崎をリビングに通した。その手には何やら紙袋を提げていた。
「この間はどうもありがとうございました」
「いえ。何のお役にも立てなかったと思いますけど」
「そんなことはありません。大変参考になりました」
山崎という刑事は、持っていた紙袋をテーブルの上に置きながら言った。
「あの、その袋は?」
気になって仕方がなかった綾乃は、堪らず尋ねた。
「あ、これですか? これに関しては後でお話しします。その前に、奥様にちょっとお話ししておきたいことがございまして」
「はあ。何でしょう?」
「他でもない徹さんについてのことです」
山崎の言葉に、綾乃は思わず息を飲んだ。
「……彼のことで何か?」
「はい。実は、旦那さんの徹さんですが、いろいろと捜査した結果、どうやら自殺ではないという結論に至りまして」
「え……?」
綾乃は一瞬言葉に詰まったが、すぐに山崎に質問を投げかけた。
「自殺じゃないって、彼は首を吊ってたんですよ? あの状況で自殺以外の何が考えられるっていうんです?」
綾乃の声は少し上ずっていた。焦ってはいけない。今は落ち着いて山崎の言葉を待つべきだ。
「徹さんは、自殺ではなく、殺されたんです」
「……殺されたって……」
「では誰が殺害したのか。もちろんお分かりですね?」
「……」
「徹さんの部屋に何者かが侵入した形跡が全く無い以上、考えられる容疑者は一人しかいません。ずっと徹さんと同じ家にいた、奥様。あなたです」
「……」
綾乃は今にも大声を上げて否定したかったが、ここで必死になっては逆に怪しまれると思い、平静を装って返答した。
「すいません。ちょっと混乱してしまって。何て言えばいいのか分からなくなっちゃった。……私が、彼を殺したっておっしゃったんですか?」
「はい、そうです」
「すいません。まさかそんなことを言われるとは思わなくて……。どうして私が犯人なんですか?」
「その理由についてですが、先程も申し上げたように、今回の事件は、徹さんが自殺ではないと分かった時点で、あなたが殺したとしか考えられないんです。そして、徹さんが自殺ではない決定的な物証が見つかりました」
「……」
「それが、これです」
そう言って、山崎は自分が持ってきた紙袋の中から、手のひらに乗るぐらいの大きさの箱を二つ取り出した。
「それは?」
しかし、綾乃の問いかけには答えず、山崎は箱を一つずつ開けた。中から出てきたのは、それぞれ青と赤の茶碗だった。
「これ、何かお分かりになりますか?」
「……お茶碗のように見えますけど」
「その通りです。そして、今日が何の日か、覚えておられますか?」
「今日?」
綾乃は三十秒ほど考えてみたが、全く思い浮かばなかった。それを察したのだろう。山崎は自ら種明かしをした。
「正解は、あなたと徹さんの結婚記念日です」
「……あ……」
言われてみればそうだった。徹との関係が希薄になってから、結婚記念日のことなどすっかり意識しなくなっていた。
「お忘れになっていたんですか? ご夫婦にとっては大事な日だと思うのですが」
「いえ……。ちょっとど忘れしてただけです。ちゃんと覚えてます」
「そうですか」
ここで、綾乃はあることに気付いた。
「あ……じゃあもしかしてその茶碗ってーー」
「はい。これは、徹さんが今日、あなた方ご夫婦のためにサプライズで用意していた夫婦茶碗なんです」
「……」
「お分かりですか? 徹さんが今日のこの日をどれだけ心待ちにしていたか。そんな方が、その大事な日の二日前に自殺すると思いますか?」
「……」
綾乃は何と反論しようか考えていた。しかし、山崎はその答えを待たずに話を続けた。
「これで認めて頂けますか? 徹さんを殺害したのは自分だとーー」
「ちょっと待ってください」
「……はい」
「いくら何でも暴論すぎませんか? 言いたいことは分かりますけど、夫婦茶碗を予約してたぐらいで自殺じゃない証拠になんてならないと思います。結婚記念日の直前に死にたくなったのかもしれない。自ら命を絶とうなんて、いつどこで思い立つか分からないじゃないですか」
「……確かにそうかもしれません」
「ほらーー」
「しかし、徹さんの首に巻き付いていたベルトに、あなたの指紋がベットリ付いていたんです」
「え?」
「徹さんの部屋にある物からは、あなたの指紋が一切出てきませんでした。しかし、徹さんが自殺に使ったベルトだけは、あなたの指紋だらけだったんです。これは一体何故ですか?」
綾乃は焦った。まさか徹の部屋から自分の指紋が出て来ないなど、考えもしなかった。
綾乃は、必死に言い訳を考え、何とか言葉を捻り出した。
「それは……借りたんです」
「借りた?」
「はい。私、この前自分のベルトが壊れちゃって。でもその日に友達と食事に行く予定があったので、急遽彼のを借りたんです。いけませんか?」
「では、徹さんの部屋にあなたの指紋が全く無かったのは何故です? いくら自分の部屋じゃないからって、全く出ないというのは少しおかしいと思うのですが」
「別にいいでしょう? 私たち夫婦は、お互いに干渉しないことをルールにしてたんです。掃除も洗濯も、自分のことは自分でやる。そういう夫婦の関係があったっていいじゃないですか」
「しかし、徹さんのベルトには干渉した」
「……揚げ足を取らないで!」
綾乃は思わず声を荒げていた。
「……ごめんなさい。大きな声を出して。……私は殺してません」
「いいえ。あなたが殺したんです」
「……!」
綾乃はまたも声を荒げそうになったが、何とか抑え込んだ。
「だから私はーー」
「これだけの証拠があってまだシラを切るおつもりですか?」
「証拠ってーー」
「あなたの敗因は、徹さんのことを何も知らなかったことです。いや、知ろうともしなかったと言うべきでしょうか。徹さんの性格と、ご自分たちの結婚記念日を把握していれば、徹さんが何かプレゼントを用意しているかもしれないということぐらい容易に想像できたはずです。それをあなたは怠った。今なら、あなたよりも私の方が徹さんのことを知っている自信さえあります」
「何を勝手な……。前にも言いましたけど、私は彼が死んだとき、自分の部屋で寝てたんです! それか真実です!」
「うーん……」
山崎は少し考えをまとめているようだった。そして考えがまとまったのか、綾乃の目を見て話し始めた。
「このままでは水掛け論になりかねませんね。では、こうしませんか? 今から、あなたに徹にさんに関する問題を三問出します。それにあなたが全て答えられたら、あなたの主張が正しいとしましょう。その代わり、一問でも間違えたら、我々は二度と、あなたに近付きません。あなたと私の勝負というわけです」
「そんな……信じられません。そんなこと」
「私、これでも警察の中ではそこそこの地位と信用を頂いてまして。私が『高柳綾乃は無実だ』と言えば、あなたを無理に調べようという者はいないでしょう。私は絶対に嘘は言いません。どうですか? 悪くない提案だと思うのですが」
「……」
綾乃は迷った。この提案に乗るべきだろうか。この山崎という刑事が何か企んでいることは確かだ。しかし、もしこれを拒否すれば、この男はどこまででも自分を追ってくるだろう。それは自分の精神衛生的にも、世間体のことを考えてもよろしくない。それなら、ここでこの男の策略を上回り、言葉通り二度と近付かせない方が有効なのではないか。ここまで言うのだから、この男も自ら言い出した約束を破ったりはしないだろう。綾乃は決意して答えた。
「分かりました。ただし、条件があります」
「何でしょう?」
「まず、約束は必ず守ること。そして、山崎さんが出す問題は、突拍子もないものは出さないこと。一緒に暮らしていた夫婦なら知っていて当然というものだけにしてください。この二つを遵守して頂けるなら、あなたの話に乗ります」
「分かりました。安心してください。元よりそのつもりです。では、早速一問目から。徹さんの生年月日は?」
「一九八九年三月三十一日です」
綾乃は即答した。
「正解です」
山崎は笑顔で言った。この笑顔に綾野は少し苛立った。
「では第二問。徹さんの好きな食べ物と嫌いな食べ物は?」
「好きなのは納豆。嫌いなのはトマト。ていうか、これは私が一昨日話しましたよね?」
「ああ、そうでしたね。これはもったいないことをしました」
しかし、山崎は全く惜しいことをしたと思っているような様子はなかった。むしろ余裕さえ感じさせていた。綾乃は気味が悪かった。
「これで二問。あと一問正解すれば私の勝ちです。もちろん、変な問題なら私は答えませんよ」
「承知しています。では三問目。徹さんは、毎朝何時に起きていたでしょうか?」
綾乃はこの問題に鼻で笑った。
「そんなの簡単です。五時半です」
綾乃は自信満々に答えた。しかし、山崎は何も言わなかった。
「山崎さん?」
「……今何と?」
「え?」
「今、何とお答えに?」
「だから、五時半です」
「五時半とおっしゃったんですか?」
「ええ」
「本当に?」
「はい」
「間違いなく?」
「そう言いました! 変な時間稼ぎはやめてください。正解ですよね? これで私の勝ちです。約束通り、もう私にはーー」
「いえ。これではっきりしました。徹さんを殺したのはあなたです」
「はい?」
「あなたは今、自白されたんです。徹さんを殺害したのはご自分だと」
「何を言ってるんですか? ふざけるのもいい加減にーー」
「どうして徹さんが起きる時間は五時半だと?」
「……え?」
「どうして五時半だと思われたんですか?」
「それは、毎朝その時間に目覚ましが鳴ってるからーー」
「いいえ。そんなはずはありません」
「……どういうこと?」
「確かに徹さんのスマホは五時半に目覚ましがセットされていました。私も昨日、偶然ではありますが確認しました。しかしですね、徹さんは毎日定時通り九時に出社していたんですが、この家から徹さんの会社まで、どんなにゆっくり向かっても一時間あれば着きます。そして、朝食や歯磨き、洗顔などに一時間かかると仮定すると、合計で二時間前、つまり七時に起きれば、充分時間には間に合います。五時半では早すぎるんです」
「……」
綾乃は黙って聞いている。
「そこで私は、今朝根元さんにお話を伺って来ました。すると、先週根元さんが徹さんと一緒に地方に出張に行った際、七時に徹さんのスマホのアラームが鳴ったそうです。そのときに『毎朝この時間に起きてるんだ』と、徹さんは根元さんに確かにおっしゃったそうです」
「……」
「では、何故毎朝七時に起きている人が、一昨日だけは五時半に起きようとしていたのか。その答えは、台所にありました」
「台所?」
「はい。あなたはご存知だったかどうか分かりませんが、一昨日我々がこの家に着いたとき、台所に弁当の下準備がされていたんです」
「弁当……」
「これが徹さんが早起きした理由です。弁当を作るのに一時間から一時間半かかると想定すれば、時間の辻褄がちょうど合います。最初は、徹さんはご自分が昼食に食べる為に作ったんだと思ってました。しかしそれは違う。あれは、綾乃さん。あなたの為に作られたものです」
「どうして分かるんですか?」
「弁当の具にトマトが入ってました。徹さんはトマトを食べられません。あなたの為に好物を入れたとしか考えられません」
「……なるほど。でも、それが何だって言うんですか? その弁当で、何で私が殺したってことが証明できるんですか?」
「いいですか? 普段は七時に起きていたということは、徹さんは毎日あなたの弁当を作っていた訳ではない。一昨日だけ特別に作ろうとしたんです。理由は分かりませんが、大方、あなたが旅行に行くとでも言ったんじゃないでしょうか。つまりですね、徹さんが起きる時間を五時半に設定したのは一昨日の一日だけ。ということは、徹さんの起きる時間を五時半だと答えることができるのは、一昨日の早朝、すなわち徹さんが亡くなった時間に、徹さんと同じ部屋にいて、アラームの音を聞いた人間だけなんです」
「……」
「ご自分の部屋でお休みだったはずのあなたが、そんな時間に徹さんの部屋で何をされてたんですか?」
「……違う。私はずっと自分の部屋にいました」
「では今のをどう説明するんですか?」
「……聞こえたんです」
「聞こえた?」
「そう! 聞こえたんです! アラームの音が! 私の部屋まで! 大きい音だったから、私もそれで目が覚めて。そのときに時計を見たら五時半だっから、それで勘違いしちゃったんです!」
「アラームの音が聞こえた? それは有り得ません」
「どうしてですか!?」
「だって徹さんは、スマホにイヤホンを刺してたんですから」
「え……?」
「今あなたがおっしゃったように、アラームの音であなたが起きてしまわないよう、徹さんはスマホにイヤホンを刺して眠っていたんです。あなたもご覧になったんではないですか?」
そのとき綾乃は、徹の枕元に置いてあったスマホと、それに刺されていたイヤホンのことを思い出した。あのときは、そんなもの気にも留めなかった。まさかそんな意味があったなど、考えもしなかった。
綾乃は大きくため息をつき、ソファに座り込んだ。
「……残念です」
綾乃は絞り出すように言った。
「私も残念です。非常に」
山崎は苦い顔をしていた。
「最後はあの人の優しさに足をすくわれるなんてね……」
「……一つ、お聞きしてもよろしいですか?」
「何ですか?」
「一つだけどうしても分からなかったんですが、どうして殺したんですか? いくら夫婦仲が上手くいってなかったからって、殺すことはないと思うのですが」
「殺した動機ですか。多分、理解できないと思いますよ」
「是非お聞きしたいです」
「……あの人、私を一度も叱ったことがないんです」
「……」
「出会ってから六年間、一度もです。私が何をしてもあの人は怒らなかった。結婚指輪を無くしても、他の男の人と二人で旅行に行くって言っても、あの人は笑って『仕方ないね』って許してくれる。最初は優しい人だと思ってたけど、あるときから、それがだんだん怖くなってきて……」
「……」
「子供やペットでさえ悪いことをしたら叱られるのに、あの人はそれさえもしない。私はあの人にとってペット以下なのかなって考えたら、どんどんあの人に私という人間の全てが支配されてるような気がしてきて……。別れればいいって思うかもしれませんけど、私にとっては、あの人がこの世に生きてることがもう恐怖だったんです。どんなに遠くにいても、あの人がどこかにいるって考えるだけで、震えが止まらないんです。……だから、殺しました」
「……そうですか」
「でもね、殺してみて分かったけど、私があの人の呪縛から解放されることは、一生無いみたい」
「……?」
「あの人ね、私が首を絞めた瞬間に目を覚ましたんです。目をカッと見開いて、私の顔を真っ直ぐに見てきた。でも、あの人は抵抗しなかった。だって考えてみてください。いくら寝込みを襲ったからって、女一人の力で大の男を抑えられる訳ない。あの人は、私を見た瞬間、殺されるのを受け入れたんです。どうして自分が殺されるのかも分からないまま……」
「……」
「あの人の目はこう言ってました。『君に殺されるなら構わない』って。それを考えると、これまでにないくらいあの人が怖くなりました。きっと、私は一生あの人への恐怖に支配されて生きていくんだと思います」
「……」
山崎が言葉に迷っていると、綾乃が立ち上がった。
「さあ、もうこの話は終わりましょう。あ、あと、その茶碗、いらないので捨てといてもらえますか?」
「え……」
「私とあの人を繋ぐものは、全部無くしたいので」
それだけ言い残すと、綾乃は部屋を出て行った。山崎は紙袋を持ち、綾乃の後に続いて部屋を出た。来たときより、袋が重くなったように感じた。