愛され過ぎた女5
決行の時間まで仮眠を取ろうとベッドに入ったが、結局綾乃は一睡もできなかった。
とは言っても他にすることもないので、スマホをいじったり、本を読んだりしているうちに、時刻は午前四時半を指していた。本当はもっと早い時間に実行するつもりだったが、なかなか決心が固まらず、この時間にまでなってしまったのだった。
やっとのことで決心がついた綾乃は、ベッドから降り、音を立てないようゆっくりと寝室を出た。
電気のついていない廊下は真っ暗だった。綾乃は足元に注意しつつ、向かいにある徹の寝室のドアを慎重に開け、中に足を踏み入れた。
徹の部屋は物が少なく綺麗に片付いていた。ただ、言い方を変えれば殺風景と言うこともできた。よく考えたら、徹の部屋に入るのは久しぶりだった。徹と距離を置くようになってから、徹の部屋に入ることも無くなったのだった。
ここでも足音を立てないよう、綾乃はゆっくりと部屋の隅にあるベッドの方へと歩き出した。そこでは、徹が仰向けになって眠っていた。その両耳にはイヤホンが刺さっており、イヤホンはスマホに繋がっていた。何か音楽でも聴きながら寝ていたのかと思ったが、特に気にすることもなく、邪魔になりそうなので綾乃は慎重に徹の耳からイヤホンを取り外した。
そして、ベッドの横に位置するクローゼットを開け、その中からベルトを一本取り出し、それを慎重に、かつ素早く徹の首に一回転して巻きつけ、その両端を握った。その状態で徹の体の上に馬乗りになった。ただ、体の上に直接乗ると徹が起きてしまいそうなので、体には触れないように膝立ちになった。
目の前で徹がすやすやと眠っている。当然のことだが、この後自分に何が起きるのか、全く想定していなさそうな穏やかな寝顔だった。
ベルトを持つ手に力が入る。手汗もかなりかいていた。肝心なところで汗で滑ってベルトから手が離れては取り返しがつかない。綾乃は一度ベルトから手を離し、自分の服で手の汗を拭った。
改めてベルトに手を戻した綾乃は、一つ息を吐き出し、ベルトを握り直すと、目を瞑り、そして、一気にベルトを力一杯横に引っ張った。綾乃の両手には、確かに徹の首が絞まっている手応えがあった。目を瞑っているので顔は見えないが、「あ……あ……」という徹の絞り出すような声が聞こえた。
このまま何も考えずベルトを引き続けていれば、やがて徹は息絶える。そんな希望にも似た感情が綾乃の中に生まれたとき、綾乃は思わず閉じていた目を開いてしまった。
すると、綾乃の眼前にあったのは、いつもの優しい笑顔とはかけ離れた、徹の苦しむ顔だった。目は限界まで見開き、口からは唾液が溢れ、舌が飛び出していた。それは、まさに目の前に迫った死を何とか逃れ、生にしがみつこうとする人間の究極とも言える姿だった。綾乃の手は一瞬恐怖で力が抜けたが、すぐに力を入れ直し、再び徹の首を絞めた。徹は苦しさから逃れようと手でベルトを引っ掻いたり、体を揺らしたりしたが、綾乃は必死で徹の体に食らいつき、離れようとはしなかった。そのときの自分の顔を想像すると、綾乃は自分で自分が怖くなった。人を殺めることに関して、自分はこんなにも必死になれるのかと、綾乃は自分でも知らなかった自分の一面に少なからず驚いた。
どれくらいの時間が経っただろうか。体感としては何十分も経っているように感じたが、おそらく実際は二、三分程度だろう。初めは抵抗していた徹も、やがて目を見開いたまま動かなくなった。だが、綾乃はベルトを絞める力を緩めなかった。人間を絞殺する際、動かなくなったところですぐに力を緩めてしまうと、蘇生してしまう可能性があるのだ。確実に人間をを絞め殺すには、動かなくなった後も、更に数分絞め続ける必要がある。このときのために、綾乃は徹を確実に殺す方法を事前にネットなどで調べていた。
再び目を瞑った綾乃は、既に動かなくなった徹の体の上で、必死にベルトを握り続けた。
そのまま五分ほどが経ち、綾乃はやっとベルトから手を離した。十分近くも力一杯手を握っていたこともあり、力を抜いた瞬間、両手の筋肉が軽い痙攣を起こし、しばらくまともに手を動かせなかった。しかし、綾乃の計画はまだ終わりではない。この後、最後の仕上げが残っていたのだった。
両手の痺れが取れて来たことを確認すると、綾乃は徹の足を持ち、徹の体をベットから降ろした。徹は人より若干痩せ型ではあったが、女性一人の力で動かすのはなかなか骨が折れた。それに、絶命したことによる筋肉の弛緩によって、徹の体は生きていたときより重く、動かしにくくなっていた。
額から流れ出る汗が床に落ちないよう気をつけながら、何とか綾乃は徹の遺体をベットから降ろし、頭をベッド側に、足を部屋の出入口側に向けることができた。そして今度は、さっきまで徹の首に巻き付けていたベルトを手に取り、それを再び徹の首へと巻き付け、その両端をベッドを支える柱の一つに結び付けた。何度か引っ張ってベルトが取れないことを確認した綾乃は、次に徹の足元に移動し、徹の足を持ち上げ、出入口側に引っ張った。そして、ベルトが徹の首にしっかり引っかかっていることを確認した。
これにて、綾乃の犯行は完了した。後は自分の寝室に戻り、再び眠るだけでいい。そして、起きたら寝室で主人が首を吊っていたと警察に通報すればいい。自分は、夫を突然亡くした悲劇の妻を演じていればいいのだ。
まだ手に染み付いていた汗を服で拭った綾乃は、再度徹の遺体を見下ろすと、寝室を出ようと後ろを振り向いた。
そのときだった。突然、「ブーブー」という、バイブレーションのような音が聞こえて来た。完全に気を抜いていた綾乃は、その音に心臓が止まるかと思うほど驚いた。誰かが自分の犯行に気付き、警報のようなものを鳴らしたのかとさえ思ったが、そんなことはあり得ないと、何とかすぐに冷静になった。
まだ鳴り続けているその音は、徹のベッドの方から聞こえた。恐る恐る近づいてみると、音の正体は、さっきまで徹が耳に刺していたイヤホンに繋がったスマホだった。その画面には、「目覚まし」という文字と共に、「5:30」という現在の時刻が表示されていた。
「びっくりさせないでよ」
誰に言う訳でもなく、綾乃は空中に向かって独り言を呟いた。
ここでスマホのアラームを止める訳にもいかないので、綾乃はそのままスマホを放置し、今度こそ徹の寝室を出て行った。
自分の寝室に戻った綾乃は、すぐベッドの中に入った。もしかしたら興奮して眠れないかもしれないかと思ったが、昨日の夜から一睡もしていなかったこともあったからか、目を閉じるとすぐに睡魔が襲って来た。
目が覚めたら、警察に電話をしよう。そう思いながら、綾乃は眠りの中へと体を委ねた。