愛され過ぎた女3
「ただいま」
徹の言葉に、綾乃は何も答えなかった。
「すぐにご飯作るよ。今日は綾乃の好きなオムレツにしたよ」
笑ってそう言う徹の言葉を無視し。綾乃はリビングのソファに座って、テレビを見ながらスマホをいじっていた。
徹は少し苦笑いを見せつつ、スーツから部屋着に着替えると、台所に立って早速夕飯を作り始めた。料理が完成するまでの間、家の中に聞こえる音は、野菜や肉を切るときのサクサクという音や、卵を焼くジリジリという音、そしてテレビの中で話す芸能人たちの声だけだった。夫婦の会話は一切ない。しかし、これは全く珍しいことではなかった。むしろ、二人にとってはこれが日常だった。綾乃から徹に話しかけることはまず無く、徹から話しかけても綾乃は「うん」「そう」などのごく簡単な相槌しか打たなかったのだ。徹は、この状況の異常さには気付きつつも、どうすれば元の綾乃に戻ってくれるのかわからなかった。
やがて、二人分のオムレツが完成した。徹はそれを皿に盛ると、リビングのテーブルの上へ運んだ。
「できたよ」
「……うん」
それだけ言って、綾乃はソファから立ち上がり、テーブルの方へ向かい、椅子に腰を下ろした。
「いただきます」
徹は行儀よく両手を合わせ、食料への感謝の言葉を言ってからオムレツにフォークを入れた。綾乃はそれを待たず、何も言わずに先に食べ始めた。
ここでもやはり二人の間に会話はなく、フォークと皿がぶつかったときのカンカンという音だけが、高柳家のリビングに響いていた。
「美味しい?」
沈黙に耐え切れなくなったのか、徹が話しかけた。だが、綾乃は伏し目がちに「ええ」と答えるだけで、それ以上会話が続くことはなかった。
「そうか。……よかった」
徹は無理に笑って見せたが、綾乃がその表情を目視することはなかった。
再び徹がオムレツにフォークを刺したとき、徹はふと、綾乃の手元に目線をやった。そしてすぐに綾乃に尋ねた。
「あれ? 指輪は?」
綾乃の左手の薬指には、いつも嵌めていた指輪が無かった。
綾乃は自分の薬指をちらっと見ると、「ああ、無くしちゃった」と、あっさり答えた。
徹の顔は、一瞬硬直したものの、次の瞬間には解れ、「そっか。しょうがないね。また新しいのを買おうか」と笑って言った。
再び二人の間に沈黙が流れる。
次に口を開いたのは、綾乃からだった。
「明日ねーー」
珍しく綾乃の方から話しかけられたので、徹は少し驚き、「どうしたの?」と尋ねた。
「明日から、三日ぐらい旅行に行く予定だから」
「え、そうなの? ……急だね。……どこに行くの?」
「箱根でゆっくり温泉にでも入って来ようと思ってる」
「へえ。いいなあ。友達と行くの?」
「うん。高校のときの友達と。二人で」
「そうなんだ……」
「……その友達ね……」
「?」
「……男の人なの」
徹は言葉に詰まった。何と言えばいいのか考えているようだった。そして、絞り出すようにして口を開いた。
「……へ、へえ。そうなんだ。あ、じゃあ俺、お弁当作るよ。家を出るのは午前中?じゃあ朝早めに起きてーー」
「ごちそうさま」
徹の言葉を遮って、綾乃はフォークを皿に置き、リビングを出て行った。
オムレツは、まだ半分以上残っていた。
リビングから出た綾乃は、自分の部屋から着替えを取り出し、そのまま浴室へ向かった。
服を脱ぎ、浴室に入ると、先に頭と体を洗い、その後湯船に浸かった。無論、この湯船も、徹が仕事から帰って来た後に洗い、お湯を張ったものだ。しかし、一番風呂に浸かるのはいつも綾乃だった。徹は、いつも夕飯の片付けを終えた後に入る。
湯船に浸かった綾乃は、そのまま鼻から上の部分だけを出してお湯の中に潜った。
鼻息で風呂のお湯をぶくぶくと鳴らしながら、綾乃はさっきまでの食卓での会話を頭の中で反芻していた。
指輪を無くしたと告げたときの徹の返答、徹の知らない男と二人で泊まりの旅行に行くと言ったときの徹の表情。それら一挙手一投足を、綾乃は興味のない振りをしながら逐一観察していた。徹は、綾乃が何を言おうと、結局最後に帰着するのはいつものあの笑顔なのだった。
綾乃は、その笑顔を頭の中から弾き飛ばすように、湯船のお湯を勢いよく掬い飛ばした。浴室の壁や鏡に水滴が飛び散る。
そして、何かを決意したような表情になった綾乃は、勢いよく湯船から上がり、浴室を出た。
その体はいつもより火照っていた。