愛され過ぎた女2
退勤時間の午後六時になり、徹は荷物を片付け始めた。
「お、もう帰るのか。お疲れ」
徹に声をかけたのは根元だった。
「お疲れ」
「相変わらず仕事が早いね。俺も見習いたいよ」
「からかうなよ」
事実、徹の仕事は早かった。その証拠に、徹はほぼ毎日定時には仕事を終え、退社していた。昨今の風潮ではきっちり定時に上がることは非難の対象になったりもするものだが、徹の場合は自分の仕事をきっちり仕上げているため、誰も文句を言う者はいなかった。
ただ、徹が毎日定時で退社するのにはもう一つ理由があった。自分と綾乃の夕飯を作らなければいけないのだ。その為に徹は、てきぱきと仕事をこなし、毎日同じ時間に帰宅する必要があった。たまにどうしても帰りが遅くなるときは、綾乃に外食で済ませるよう頼むこともあるが、それはあまり好ましいことではなかった。好ましくないというのは綾乃にとってではなく、徹にとってだった。というのも、毎日綾乃の為に食事を作るようになってから、徹は綾乃が自分の作ったものを食べてくれることに喜びを感じるようになったのだった。綾乃が自分以外の人間が作った食べ物で腹を満たすことは、徹に一種の苦痛のようなものを感じさせた。
徹は、それほどまでに綾乃を愛していた。
帰る支度を済ませた徹は、残っている社員たちに挨拶をしながら会社を後にした。
今夜の夕飯は、綾乃の好物であるオムレツにしよう。卵の買い置きが足りなかった気がするから、帰りにスーパーに寄って買って帰ろう。そんなことを考えながら、徹は帰りの電車に乗った。その表情は明るかった。
自宅の洗面所で、綾乃は鏡に映る自分の姿を見つめていた。
ほとんど家の外に出ない綾乃は、化粧をする機会も随分と減ってしまった。今も化粧は全くしていない状態だが、それでも綾乃は十分に美人だった。これできちんと化粧をしたときの美しさは、普段は異性に無頓着な徹が思わず一目惚れしたのも頷けるものだった。
だが、今鏡の中の自分を見つめる綾乃の顔は、美しさというよりも、むしろ恐怖を感じさせるほど冷徹だった。そこからは何も感情が読み取れず、白く透き通った肌が、今は不気味に感じられた。
しばらく鏡を見つめると、一つ息を吐き、何かを決意したような表情になると、綾乃は自分の左手の薬指にはめられている指輪を、ゆっくりと外した。
指輪を見つめながら、綾乃はこれを徹からプレゼントされたときのことを思い出していた。あれは確か、高級レストランにデートに行ったときに、徹からサプライズでプロポーズをされたときにもらったものだ。
それから今日までの徹との日々が、走馬灯のように綾乃の脳裏を駆け巡った。
次の瞬間、綾乃は指輪から手を離した。
綾乃の手から離れた指輪は、洗面台の上をからからと音を立てながら右往左往し、やがて中央の排水溝に繋がる穴へと落下した。
綾乃は、指輪が落ちた後の静かになったその真っ暗な穴を、じっと見つめていた。
ふと、壁にかかった時計に目をやると、時刻は午後七時を少し過ぎた頃だった。
「そろそろ帰ってくる頃だ」
そう思った綾乃は、何となく頭の中でカウントダウンをしてみた。
五、四、三、二、一……
ゼロのタイミングで、ガチャっという、玄関のドアが開く音がした。
綾乃は、さほど驚きはしなかった。徹は、大体毎日同じ時間に帰ってくる。そうでない日は必ず連絡を入れてくる。今日は何の連絡もなかったから、いつも通り午後七時過ぎに帰って来ることは分かっていた。
綾乃は一つため息を吐き、洗面所を出た。
綾乃の喉は、酷く渇いていた。