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トイレの……

作者: 下総みずき

 私、政令指定都市のH市にて主婦業と文筆業をしておりました。

 主婦業といっても、小さな家で子供はおりませんでしたので特に忙しいこともありません。主人も仕事が順調で、金銭に困るようなこともありませんでした。


 まあ、なんとはなしに暮らしておりますと、時間がすぎるのは早いもので、そんな暮らしが15年続きました。さすがに同じ様な年月が流れますと、いくら幸せでも多少は飽きがくるもののようでございます。


 私は座り仕事が多いこともありまして、運動不足が懸念されました。そこで一念発起、一日一万歩を目標にウォーキングをすることにいたしました。はじめの頃は、足が上がらないことに驚きました。それでも二週間ほどいたしますと、汗ばむ顔に吹く風も心地よく、いくら歩いても疲れないのではと思うくらい、調子良く歩いておりました。

 iPodに好きな曲を詰め込んで、テンポが合うとさらに楽しめました。


 主人には『どうせ三日坊主だろう』と、からかわれたりいたしましたので、負けず嫌いにも助けられ、ついには半年も休みなく続けられました。



 とここまでは、前置きでございます。長いこと過去のお話に付き合っていただいて、申し訳ありません。そろそろ本題に入るといたしましょう。


 前述のウォーキングを始めてから2ヶ月後のことでございました。

 ウォーキングのコースの途中に、大きな橋がありました。そのすぐそばに家電量販店があって、トイレがありましたので、時折使用させていただいておりました。

 もちろんお店できちんと買い物をするようにしておりましたよ。タダで使うなんていたしません。そんな事をしたらなにを言われるか……


 そこは、家電の店ですから、トイレ内の電気はセンサーでつくようになっておりました。人が入るとパッとつくんです。用がなければ消えます。節電対策にもなりますね。感心いたしました。

 中は改装されたばかりで、綺麗なものでした。狭めの洋式個室が二つ、男子用小便器、もちろんセンサー化された手洗いが二つ。


 さて、何度か使用しました時でした、トイレの電気はついており、二つある個室のうち手前側は使用中のようでしたので、奥の方に入りました。iPodにつながったイヤホンは耳に入ったままで、音楽を流していました。

用を足している途中で、隣の個室から、女性の喘ぎ声が聞こえてきたのです。まだ開店したての店のトイレの個室で、そんな声が聞こえてくるとは思いませんでしたので、驚いてしまって、どうすることもできずにただ急いで用を済ませ、手を洗って外に出ました。


 どうって……それは嫌な気分でしたよ。気分良くウォーキングしていたのに、そんな声を聞かされて。

 トイレから出たら、入れ違いに入ろうとしている方(幸せそうなご家族のお母さまでした)がいて、言おうかと思いましたが、言えませんでした。


 今考えると、音楽を消すとかして確認すれば良かったのですね。もう今となっては、ですが。

そして道を折り返して行きました。嫌な気分でしたが、歩いているうちに、あれは実際は喘ぎ声なんかじゃなくて、空調とか、トイレのきしみとかの音がイヤホンから聞こえた音楽と混ざってそういう風に聞こえたんだと、思うことにしました。

こんなにいい天気なのに、落ち込むのはもったいないと考えたのを覚えています。


それきりしばらくは、そのトイレを使おうとは思わずに、歩くコースを変えて三週間ほどすぎました。


 その頃、主人が不倫をしたことがわかって、わたくしは、どうしたらいいのか悩んでおりました。子供はいないし、もう騒ぎ立てるほどの愛情があるのかと問われると、そうでもないような気がして。

 ただ主人に対して「気持ちが悪い」という風にしか思えずにただ涙を流すのみでした。

 かといって別れるほど大事おおごとだろうか。堂々巡りを繰り返し歩くうちに、尿意を感じました。


 一番近いのは例の家電量販店のトイレです。どうしようか……一瞬迷いはしましたが、そんなに立て続けに変なことが起こるはずはないだろう、と自分に言い聞かせ、そちらに足を向けました。

トイレ付近には、作業着を着た男女が数人、工事の準備のようなことをしています。人がいるという事で多少安心感を得て、トイレに入りました。もちろんiPodは止めました。

 すると電気はついており、手前の個室はまた使用中でした。選択肢は一つです。奥の個室で用を足すしかありません。


 座って用を足し始めると、途端に隣の個室から、「カラカラカラ……」とトイレットペーパーを引き出す音が聞こえて来ました。

 いったん音が途絶えてそのあとは普通水を流す音が聞こえる、のではないでしょうか。その日聞こえて来たのは「カラカラカラ……」またトイレットペーパーを引き出す音でした。

 音は止まってまたカラカラと私が用を足している間繰り返されました。ところが用を終えた瞬間音はぱたっと止み、聞こえるのは私が流した水の音のみになりました。

 明らかに誰かが手前の個室にいて、音をさせているはずです。電気もついていたのだから確実です。個室には鍵がかかっていると思っていたけど……

 もしかして、盗撮などしてる人がいるのかもしれない。なんらかの音を消すためにカラカラ言わせてたのかも……そう思う事にして、足早にトイレをあとにしたのでした。


 外に出ると先ほどまでいた、作業着の男女はいなくなっていました。

 あとから思う事は勇ましい事ばかりで、その場でできる事はなにもありません。開けてみれば良かったじゃないの?とかノックしたら?とか。実際やりますか?

 できないでしょ?


 さて、時間はすぎ、主人の不倫に関しては取り立てて騒ぎもしないけれど、暗に知ってますよとほのめかしそれ以上は無視をして以外に調子良く過ごしておりました。

 ただ、やはりストレスを感じていたのか、お腹の調子が悪かったのです。元々主人にはルールがたくさんありまして、守れないとなにかしら仕置きがありました。まあ、何をしても気に食わないようではありましたが。そんな精神的なストレスからか体調がすぐれぬ日もありました。

 汚い話で恐縮ですが、自宅で何度かトイレに行き、もうこれ以上何も出すものはないというところで、短くてもいいから気分をよくするためにウォーキングにでかけました。運動するのは気分が良くなるものですよ。ほどほどならばですけど。


 もちろん、あなたの予想通りです。お腹が痛くなったんです。家電量販店の近くでね。

 いやでも、入る以外どうする事もできません。歩けないほどの痛みでしたから。トイレの近くには誰もいませんでした。


 iPodを止めて中にはいると電気がついています。ドクンと大きく心臓が打ちました。

 中に音はなく、店の前の大通りを車が走る音が聞こえるのみです。

 足を踏み出すとキュッとスニーカーが床をこする音がしました。

 手前の個室の前で立ち止まり首を巡らせ鍵を確認すると、空いてるという青い色。思わず後ろを確認し、手前の個室のドアにそっと手を伸ばしました。

 半ば固定されているだろうと力を込めましたが、疑いとは裏腹にドアはなんの抵抗もなくスッと開きました。

 緊張で少し息が上がっていました。目はどこを見るでもなく、個室全体を焦点を合わさないように見ました。

 そこは、きれいに掃除された変わったところのない明るい空間で、私はホッと胸をなでおろしました。私自身なぜか恐怖を感じているのが気に食わなかったのです。


 私はその個室に足を踏み入れ、用を足そうと、ベルトを外しジーンズのボタンを外しジッパーを下ろす、そして下着を下ろしかけた時、ガタンと大きな音がしました。振り返ると私の後ろに大きな影ができていました。(上、上……)頭の中で声が聞こえました。上を向こうとしたその途端にめまいがして私は意識を失いました。


 私は徐々に意識を取り戻しました。誰かが外からトイレに入って来たのです。隣の個室のドアがパタンと閉まりました。私は下着で足を固定されて、便座に腰掛け気を失っていました。足が痺れて動かすことができません。

 目を薄く開けると私の視界は、大きく見開かれた真っ赤な目でみたされ、その時頭の中で声がしました。

「大丈夫、気持ち良くなるよ」

 同時に私の体に起こった変化は……それまでは感じた事のない快感が頭の天辺から足の先まで爆発するように、一瞬で絶頂に達したのです。


「ああっ……はっ、く……んんっ」


暴力的なそれに全身を強張らせてから、その痺れる体を開放しました。そしてその直後、また気を失いました。


 次に目を覚ました時、あたりは真っ暗でした。一体どこにいるのか、見えないまま混乱して体を起こそうとすると、ギシギシと骨が軋み、関節が固まったように動きません。時間をかけて少しずつ動かしていくとようやく体を起こす事ができました。呼吸も意識しないと忘れてしまうようでした。

 頭の中にはやはり声が聞こえます。

「大丈夫?驚いたよ、失神しちゃうなんてそんなに僕が良かった?」

「だれ?!」

「しいー、声は出さなくてもいいんだよ」

 その言葉のあと何かに口を塞がれました。

「考えるだけで僕にはわかるから」

 私は今の状況を懸命に思い出そうとしました。


 ここはトイレだ。ウォーキングの途中でお腹が痛くなって、入ったら気を失ったんだ。誰かがいる、聞き覚えのあるあの声。ここからでなくちゃ。

「そんな、逃げないでよ。こんなに好きなのに」

(あんただれ?!もうやめて)

「気持ち良かったでしょ?僕は君の気持ちは手に取るようにわかるから。もう一回とかいやだけど」

(わかるはずない!あたしの気持ちはあたしのモノ……)

「わかってないのはあんたでしょ。何がしたいの?結局最後は僕が言ったようになるんだよ、いや……するんだよ」

(ちがう!ちがう!)

「あんたの考えなんてくだらないから。僕が教えた通りにしてればいいんだよ。毎晩教育してあげたじゃない」

(あなた……)

「あんまり教えた通りだから、つまんなくて他の女達に手を出したけど、やっぱりバカなやつがまし」

 男の笑い声が響く。

 あがく私に反応したのか、その時電気がついて、暗闇に慣らされた私が見たのはトイレの壁と、視界の下端に私の口を塞ぐ真っ赤に染まる手。

「静かにしてな、バカ女が入ってくるから。頭悪いから、俺が裏切ったって歩きながら泣いてるから、遅いんだよ。裏切ったじゃねえよ。死ね。前に言っただろ。ああ、あほだから覚えられねえか。もう一回教えてやるよ。俺を探るような事すんな。俺は格好いいからモテモテなんだよ。外に女いないわけないじゃん。おわかり?」

 塞がれた口からは声がでない。ただ、呆然とした目から涙が後から後から流れてくる。

(本当にバカだ、あたし)

「やっとわかったか、15年もかかりやがって。ばか女が。ああ、教えといてやるよ、お前とガキ作る気もさらさらないから。もうお前デキネエダロ。腐ってそうだよな。あと、二度と泣くなって言ったろ。また、殴られたいんだな?」

『キュッ』スニーカーの足音が聞こえた。頭に浮かぶのは、疲れた顔をした中年の女。目には隈とあざを隠すためのサングラス。スニーカーの音は隣の個室に入った。知らせなきゃ。

 目玉だけを動かして見回すと、理解した。ぴりりと痺れた手をゆっくり伸ばしトイレットペーパーの端を人差し指と中指でやっと掴むと重力に任せてペーパーを引きずり出す。「カラカラカラ……」勢いよく ペーパーが床に落ちていく、動きが止まると繰り返す。

 その間も涙は止まらない。隣の『誰か』は出て行った。

「怯えてんな。ははは……」

(……そうよ、あなたと同じ。いつも怯えてたの。私はあなたに怯え、あなたは全ての人に怯えてた」

「なんだと……バカな事しか言えないならその口とじとけ」

(私もバカだけど、あなたもね。似たもの夫婦よ)

「なに、俺を怒らせたいのか」

(でた、『怒らせたいのか』 そんな訳ないのよ。わからないの?)

「頭わりいんだから俺に偉そうな事を言うな!」

(理解できないって事でしょ?いつもそう。少し難しい単語を聞くと怒り出すから、話しづらくて。なにも言わないんじゃなくて、あなたとは話したくなかったの。答えは一つ、アナタガタダシイ。でもやっとわかった)

「アイシテル……」


(もうサヨナラ。私、自分で幸せになる)


 私の両手は、血まみれだ。意識が、遠のく。


……オマエモツレテイク……


サイレンの音が鳴り響く。

「奥さん、どうしました?」

「くそっ、どこから出てんだ」

「意識レベルⅢ-200IR、早く運ぼう」

「傷が見つからない!」

「もういい、あとは中で輸血だ」


 目を開けると真っ白い天井が見えた。

(体、動かない……)

 かろうじて動くのは目玉のみで、あまり開かないまぶたから必死で周りを探る。

 白い天井と、薄い水色のカーテン。点滴、私の鼓動と同じくピッピッという音。

 遠のく、意識……


「マダネテンノカヨ」

 はっ、と眠りの淵から引きずり起こされる。

 早い鼓動、早い呼吸。

 頭がぼおっとする。

 涙が溢れる。

「石田さん?石田さん?」間の抜けた看護師の声がする。

 あたりを見回しても、主人の姿はない。

「嫌な夢でもみました?」

「しゅ……主人、来て、ますか……?」

 確認せずにはいられない。

「いいえ。あの、今、先生呼んできますから」

 必死に堪えても涙が止まらない。耳のあたりに垂れる涙がくすぐったいが、拭う手が震えるのみで動かない。


「本当、役に立たねえ」

「まだ寝てる」

「生かされてる意味を考えろ」

「泣けば済むと思うな」

「怠け者」

「まだ出来ないのか」

「飯はまだか」

「ハゲ」

「死ね」

「あたまわりい」

「なんでだ、なんでだ、なんでだ……」

 

投げつけられた言葉の数々が浮かんでは消える。

 風邪で寝込んだ時も、潰瘍で高熱がでた時も、椎茸にあたった時も、義母の葬式も、新婚旅行の時も、結婚式の日も。

 感情があった時もなくなってからも。

 怖い……怖い……

「石田さん、目覚めましたか?」

 白髪の医師が私の顔を覗き込んだ。

「落ち着いて。ここは病院。安心して。はい、ちょっと冷たいよ」

 胸に冷たいものが当たる。身体が跳ねる。

 医師が看護師に何か指示を出している。

 ひとしきり泣くとまた眠気がした。

 目を閉じる……


 バンッ

 体がビクッとして目が覚める。一瞬前には明るかった部屋が真っ暗で驚く。

 すでに聞きなれた、衝撃の音。

 体はガチガチで、歯を食いしばったせいか顎がいたい。

 苦しい。ピーピーうるさい。

「石田さん、どうしました」

 看護師が入ってきた。

「主人が……酔ってて……隠れなくちゃ」

 涙が溢れる。

 看護師は笑顔を作る。

「大丈夫よ、ここまでは来ないから。安心して眠って。大丈夫、大丈夫」

と言いながら、子供あやすように胸のあたりをポンポンと叩いてくれる。

 鼓動はだんだん落ち着き、また眠る、眠る……


「この一月ほぼ眠っています」

談話室に入った看護師が言った。

「それじゃ事情聴取は……」

「当分無理だと思います」

担当医師が断固とした口調で言う。

「夫がまだ生きていると思ってます。精神が不安定で、身体症状も多々出ていますので、聞いたところで答えは得られないでしょう。治るまでには、二年以上。それからもフラッシュバックなどで悩まされるでしょうし。記憶もほぼ戻らないと思います。それに、思い出したとしても、心神喪失で無罪放免です。それは私が請け合います」

「一つ質問してもいいですか?」

「短くね」

医師は腕時計をチラと見た。

「石田さん、トイレの個室で座った状態で、電気店の店員に発見されました。血まみれで、足下には血溜まりが。鑑識でその血は、自殺したご主人のものと判明しました。個室内を隈なく探しても、血がついていたのは奥さんと便器と床だけ。壁にもドアノブにもトイレ内のどこにもルミノール反応はないんです。その点、医師の見解をお聞きしたいのですが?」

「袋にいれて来たなら可能ですね」

「でも袋などもなにもないのです。救急隊員にも聞いたのですが彼女の顔に手のあとがあったとか。まるで……」

「口を塞ぐようにですか?」

刑事が頷く。

「私は聞いただけなんで……見た時には拭かれてましたし」

「そうですか……また、様子を見にきます」

 刑事は一礼すると、病院をあとにした。

 忙しい医師は刑事を見送り、首を振るとカルテを手に歩み去った。


(大丈夫、あたしは強い、自分で幸せを手に……した?)


…………クックックッ…………


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