苦虫(11)
僕と彼女は、軽斜な坂道を歩いている。
小学校は丘の上にあって、ほぼ毎日この坂道を登って登校していた筈なのだけれど……こんなに辛いとは思わなかった。
「こんなに大変だったかな……よく毎日、登ってたな……」
僕がそう言うと彼女は少し笑った。
「そうね、小さい時はもっと楽だったかも」
「走って登った記憶があるもんな……信じられない」
「走ったら?」
彼女が、からかい言った事は分かるけど、僕は面白半分に走ってみせた。
「ちょっと待っ……」
声が途切れたのを聴いて振り向くと、彼女は蹲まり膝を手で押さえていた。
「大丈夫ですか?」
駆け寄って彼女を見ると膝の辺り、白いワンピースの裾近くに小さな赤が滲んでいた。 彼女は俯いていた顔を上げて、微笑みながら僕を見る。
「転んじゃった……」
「立てますか?」
「へいき、へいき、このくらい」
彼女は膝を手で払い、歩き出す。
この時、僕はまた千里を思い出した。同じ様な事があった……たしか……。
「どうしたの?」
彼女が振り返り、僕に声を掛けた。
「いや、なんでも……」
地面を見ると紫の花びらが一枚落ちていた。その花びらは風に吹かれ、まるで蝶が地べたを這う様にして、僕から遠退き坂を上がってゆく。
僕は彼女を追い掛けた。
◆
小学校を目の当たりにした僕は、懐かしいというよりは、ああ、こんな感じだったかなと思う。
二階建ての木造校舎は案の定、大分傷んでいるように見える。
体育館などは無く、校舎前が体育の授業で使われるグラウンドだった。雨の日は教室で別の授業……大輔が一番、文句を言っていた……。
「開かない」
そう言って、彼女は校舎の入口で佇んでいる。僕は彼女に向かって言った。
「窓とか開かないかな?」
僕は教室の窓を引いてみたが、鍵が掛かっていて動かなかった。
「開かない。そっちは?」
「……開いた」
隣の窓を調べていた彼女は、僕に拍子抜けした様な顔を見せる。彼女の方に近寄ってみると、確かに窓は開いていた。
「これ持ってて」
僕に花を手渡すと、彼女は窓から入り込もうとする。
「大丈夫ですか?……」
「大丈夫。痛っ……」
窓の中に転げ落ちた彼女を、僕は直ぐに窓を覗き込んで見た。彼女は床に手を付き倒れていたが、振り向むいた彼女は僕に笑顔をつくった。
「また転んじゃった」
「何ともないですか?」
「ええ、大丈夫」
彼女は立ち上がり僕に手を差し伸べた。花を手渡すと、彼女はそれでも手を差し伸べている。
「ん?……」
どうやら彼女は僕に手を貸してくれているらしい。けれど、僕は彼女の手を無視して窓枠に手を掛けた。
「いいですよ、べつに……」
僕は降りる際に、彼女の顔をチラッと見た。彼女は、ただ僕を見ている。光が遮られているからか、彼女の表情が少し冷たく思えた。
教室に入ると古い木の匂い、それから湿気臭さが漂ってくる。
どれくらい使われずにいたのだろう。黒板、先生の机、時計……針は止まっていた。生徒の机は丁寧に右の方へ積まれていて、その隙間から小さな黒板、木枠の物入れが見える。掃除用具のロッカーも静かに立っていた。
僕は足下を見て、靴を床の上で滑らせる。足跡が残る程、積もった埃……大分経っているに違いない。
窓から射す日の光で、目の前に埃が舞上がる。……彼女の姿が教室から消えていた。
「斎藤さん?……」
教室から廊下へ出て見たが、彼女の姿は無い。廊下は教室とは違って仄暗かったが、床のずっと延びた先に光が射し込んでいた。
廊下を歩いて行くと隣の教室が硝子越しに見えた。同じ様に机などは隅に置かれ、床がただ広がっている。
右の壁に何も書かれてはいない提示版があって、その先の角から二階への階段が見えた。
一階には一、二、三年の教室。二階には四、五、六と教室があった。生徒数は多くはないから二組が普通だったけど、その年によっては一組だけの学級もあった。
四年二組……。
ミシミシと音を立てる階段を上がり、二階の教室を見渡したが彼女の姿は見えなかった。
僕は四年二組の教室の前で立ち止まる。
札が無ければ、それと気付かない、同じ様な教室……。
僕は教室に入って、中央に立った。何故だか窓が一つ開いていて風が入り込んでくる。生暖かい風が肌に触れて……僕は揺れていた。
「……さん」
名前を呼ぶ声に振り向く。彼女はそこにいた……紫の花を手にして。
僕の視界は急にボヤけて、暗くなる。気が付くと床に手をつき倒れていた。
「大丈夫!?」
「……ええ…ちょっと目眩がしただけです」
「……座る?」
「……少し…すいません」
僕は彼女が持って来てくれた椅子に座る。凄く小さくて低い椅子だった。足を伸ばして瞼を閉じると、風の音が小さく耳に届いてくる。
まだ、きっと春なんだ……。
僕は外の景色を見た。その中に彼女の後ろ姿が入り込む。彼女は開いている窓から外を眺めていた。弱い日の光に照らされた後ろ姿は、何か彼女だけが本物の様に感じてしまう。
使われずに時の止まった教室の中。
外の風景は記憶から知らずの内に変わり離れていく。
彼女は……どちらでもない。
「貴女が千里にみえる」
「え?」
「貴女が千里に思えて……僕は……苦しい」
「……」
「俺の話を聞いてもらえませんか?」
「……話?」
「貴女に聞いて欲しい」
「……はい」




