2000mの高揚と3000mの屈辱と200mの絶望を
『オンユアマークス』
『セット』
『パン!』
横一列に並んだ選手たちが、一斉に、5000m先の栄光に向かって走り出した。
選手たちが走り始めた瞬間、会場は声援で溢れかえり、この強風のレースの中でも、選手たちの背中を押した。
このレース、男子5000m決勝に出場する選手は、計28名。
その中の一人である俺は、今、崖っぷちに立たされている。
1ヶ月先の駅伝に向けて、ここで結果を出せなければ、もう、出走できない可能性があった。
俺の通う高校は、決して駅伝強豪校というわけではなかった。
だが、去年、俺が入学するのと同時に、県内でも名の知れた選手が、数名入学する。
そして、今年も、追い打ちをかけるように、3人、県トップレベルの選手たちが、入学した。
考えてもいなかったのだ。
この学校で、駅伝に出走できないなどとは。
もう、確実に駅伝に出走するであろうメンバーは六名。
あと駅伝に出れるのは、一人だけ。
その一枠を争い、俺は必死に研鑽を積んだ。
──────
今回のレースプランは、ネガティブスプリットと呼ばれるものだ。
初めは少し控えめで走り、後半に向けて、ペースアップする作戦。
持久戦が得意な俺が、よく用いる走り方だ。
スタートすると、県トップの選手たちが、一気に前へ躍り出た。
今大会は、高校の新人戦だ。
高校生、それも1、2年だけが参加可能な大会。
他の大会と比べると、比較的レベルは低い。
地区大会出場のため、初めはかなりスローペースで入るのが例年決まっている。
だが、今回は違うかった。
一人の選手が飛び出るのと同時に、複数名の選手がそれに反応し、縦長の集団を形成した。
まだ、300m。
ここの集団に付いていくのは悪手だろう。
そう思い、後方の集団と合流し、その中でレースを進めた。
初めの一周400m。
タイムは74秒。
俺の狙う16分15秒という記録に対して、このペースは速すぎる。
だが、もう後ろには下がらない。
恐らく2周目には、俺の望むペースまでダウンするはずだからだ。
そこから現在の状況を冷静に分析する。
前の集団は12人程度。
だが、このコンディションだ。
朝早く、風は強く、日差しが強く、湿気ている。
絶対に落ちてくる。
そして2周目。
俺の予想通り、ペースは一気にダウン。
1周78秒まで落ちた。
このくらいのペースで押せれば、自己ベストは固い。
残り4200m。
まだまだ余裕がある。
今回はいける。
それを確信した。
そうして迎えた3周目。
ランニングウォッチを確認すると、そのペースは1周82秒まで落ちていた。
まずい。
先頭で引っ張っている選手がきつくなってきたのであろう。
恐らく、この集団にいても、もうペースが上がることはない。
そう思い2レーンにズレて、集団を抜け出そうとしたその瞬間、後方から、薄紫色のユニフォームの選手が、俺より先に集団から抜け出した。
(よし……!)
この機を逃すわけにはいかない。
俺はその後ろにピッタリくっついて、第2集団を抜け出し、第1集団を追う形になった。
そうして4周目。
一周77秒。
……っく。
急にペースアップしたとはいえ、少しきつい。
設定ペースとは1秒しか変わらないわけだが、これが積み重なると少しきつい。
ここで初めて、息が上がる。
できる限り乱雑に息を吐き出さないように心がけ、深く息を吐き出した。
まだ……まだいける。
だが、残り3600mもあるのに対し、少しこの息の上がり方は怖い。
この薄紫が、少しペースを下げることを祈るしかない。
──が、実際は、まさにその反対。
少し俺の息が上がっているのを知ってか、少しアクセルを踏む。
唐突なスピードアップに、俺は対応できず、数m差が広がった。
(まずい……)
この差があると、この強風をもろに受けることになる。
それだけは避けなければならない。
急いで足の回転、ストライドを広げ差を詰める。
数mの差はそれですぐに縮まり、またその背後にピタリと付く。
だが、その数m、数秒間。
それが確実に、俺の足、呼吸、精神をじわじわと追い詰めた。
そして、5周目、2000m。
気が乱れ、一周のペースを確認し損ねる。
確認しなくても大体はわかる。
確実なオーバーペース。
残り3000mもあるというのに。
5000mという競技は、3000mからが本番だとよく言われる。
言い換えれば、2000m地点は、まだ始まってすらいない。
過去3度、この競技に出場したことがあるが、この時点でここまで余裕度がないのは初めてだ。
見誤った。
だが、もう引けない。
このまま走り切るしかない。
もう一度、集中を入れ直す。
だがしかし、気合でどうにかなるほど、陸上競技は甘くない。
2300m地点。
また、薄紫との差が広がる。
それは数mから、みるみる内に、10m、15m、最終的には30m先くらいまで広がった。
俺は、もうすでに、アクセルを踏み直せなかった。
足がみるみる鉛をぶら下げたように重くなる。
肺が無数の糸で締め付けられるように悲鳴を上げる。
横腹に、ナイフを突きつけられるような痛みが続く。
レースは後、半分あるというのに。
必死に、何かを引きちぎるように腕を振る。
だが、正面から吹く強風が、俺の意地すら妨げる。
だが、俺は負けるわけにはいかないんだ。
ここで負ければ、俺が中3のころからやってきたこの3年間。
この味わってきた地獄が、すべて無駄になる。
(それだけは……それだけは嫌だ)
もう一度、強く足を踏み出す。
だが、その瞬間、俺の隣から、一人、後方集団から抜け出してきた選手が横を通り過ぎた。
「あ……」
その瞬間、俺の中で、何かが切れた。
足が一気に動かなくなる。
呼吸はさらにきつくなる。
横腹からは、さらに深くから痛みが、ジンッ、ジンッと続き、俺にトドメを刺した。
周りからは、まだ歓声が飛び交っている。
その中心で、明らかにペースダウンし、無様な姿を晒す俺。
恐らく、観客は先頭集団しか目にない。
だが、その視線が、すべて、俺に向けられていると錯覚するほど、俺はトラック上で孤独で、惨めで、あまりにも遅かった。
もう、これが何周目なのかわからない。
後ろから、みるみる俺に迫る足音が大きくなってくる。
そして、6人程度の集団が、俺の横を一気に通り過ぎる。
俺はそれの後方に付くことすら出来ず、トラック上に一人、取り残される。
時計を確認すると、今は3700m地点だった。
(もう、棄権しよう)
そう思い、足を止めそうになる。
だが、棄権した後の自分を想像し、足を止めることを止めた。
ここで棄権すれば、試合に送り出してくれた先生、親、練習仲間、そして何より、ここまで頑張ってきた俺に顔向けできない。
棄権することのほうが、俺には怖かった。
どれだけ苦しくても、どれだけ遅くても、走り続けた。
そして、もう少し進んで、俺と同じユニフォームを着た奴が、俺の横を走り抜ける。
周回差だ。
同チームの選手が先頭を引っ張る集団が、俺を抜き去っていく。
もう俺は、何のために、今苦しんでいるのかわからなくなった。
ただ、早くこの苦しみから解放されるため、もがき苦しむように腕を振った。
だが、どんどん後ろから、俺を抜き去り、出場していた半数程度の選手が、俺に周回差をつけた。
もう、俺の気持ちは完全に切れていた。
俺を突き刺し続ける日差しと視線の痛みも、もう感じない。
足に付けられた鉛と、横腹に突き刺されたナイフの痛みだけを感じながら、走り続けた。
「ハァ、ハア…………あ゛あ゛あ゛!」
うめき声に近い悲鳴を上げながら、走る。
もう、時計を確認する余裕すらない。
そしてとうとう、俺にもラスト一周の鐘が鳴る。
だが、ラストスパートをかける体力も気持ちも、どこにも残っていなかった。
ただ俺を蔑み見下す視線を一斉に浴びながら、走り続けた。
そして、ついにゴールに到達する。
電光掲示板に表示されたタイムは19分59秒。
史上最悪のタイム。
真剣に陸上競技に取り組む男子高校生にとって、正直このタイムは論外だ。
話にならない。
俺は、必死に身を捩り、トラックの端っこに身を寄せる。
そこで仰向けになりながら、雲一つない晴天を見上げ、思い出させられた。
俺は、まごうことなき弱者であった。
最近、調子が上がってきて思い上がっていた。
そんな俺に現実を突きつけられた。
このレースプランが間違いであったことは少なからず原因だ。
だが、残りのすべては俺の実力不足にある。
そんな絶望感を抱えたまま、荷物置き場へ向かう。
そこまでの200m。
監督になんて言われるか、仲間にどんな目で見られるか。
恐怖でしかなかった。
そして、荷物置き場に到着する。
そこではすでに、同じレースに出場し、俺の何分前にゴールしていた仲間が二人、すでに着替え始めていた。
そこまで、堪えていたものが、一気に俺の目から溢れ出した。
それは悔しさか、申し訳なさか、はたまたそれ以外かはわからない。
それを見て、その内の一人が俺の汗まみれの汚い背中にそっと手を当てる。
言葉はない。
掛ける言葉が見つからなかったのだろう。
その優しさのせいで、俺の目からはさらに大粒の涙がこぼれ落ちた。
この二人とは、一緒にいられなかった。
この二人と肩を並べて歩くなど、今の俺には出来なかった。
すぐにその場から離れ、陸上競技場を後にする。
陸上競技場周辺は大きな公園、庭園が広がっており、そこを無心で歩き続けた。
誰もいない、静かな場所。
今は誰とも話さず、ただここでいたかった。
歩きながら、レースを振り返ろうとするが、後半のことは、苦しかったこと以外記憶にない。
それでも、何かこの試合からもって帰らなければ、本当に何の意味も成さない、無駄なものになってしまう。
だが、どれだけ探しても、あるのは、後悔、絶望、悔しさだけ。
この悔しさを糧に、これから練習頑張ります。
なんて、腐るほど言ってきたし、腐るほど言われてきた。
もう、何度目だろう。
試合がぜんぜんうまくいかず、こうしてここを一人で歩くのは。
もう、負けたくない。
もう、こんな思いしたくない。
次は勝ってみたい。
次こそは……
だが、その『次』がいつまで経っても訪れない。
俺は、まだ一度も勝利の味を知らない。
まだ、一度も先頭でゴールしたことがない。
恐らく、凡人の俺が、一生味わうことのできない、極上の味。
考えれば考えるほど、理想の自分と、実際の自分との違いに、心が打ちひしがれる。
一人になって、また泣く。
これも、いつもと同じ。
「あああああああぁぁぁぁぁぁ」
驚き、木に止まっていた鳥が、一斉に飛び去った。
正真正銘、俺はここに一人。
「もう、やめたいよ……陸上……」
だが、今まで辞められなかったのだ。
ここまで出費してくれた親や、指導してくれた先生からの目が怖くて。
遅すぎて、その目からすら逃げれなかった。
そいつらは、結果だけで、俺の価値を決める。
俺が、影でどれだけ努力しているのかも知らずに。
別に、それを知ってほしいわけではない。
でも、確かに努力している事実があるからこそ、結果だけで見定められるこの競技は残酷だ。
実力、結果は、数字によって、無慈悲にも、正確に表される。
誤魔化しようのない、正真正銘の結果。
その数桁の数字に、自分の価値は決定され、俺の感情をあらゆる方向に行ったり来たりさせられる。
「はぁ」
溜まりに溜まったあらゆる感情を、孤独の中で、すべて吐き出す。
わかってるよ。これは言い訳だって。
負け犬の遠吠えだって。
わかってるから、こんな苦しんでるんだろうが!
もう、どうでもいい。
もう、結果なんてどうでもいい。
知らぬ間にずいぶん近づいた地面を数秒間見つめた後、また、競技場の方へ目をやった。
そして、気づかぬ間にみんなのいる観戦席へまた足を進める。
結局、逃げれない。
また、あの地獄へ引き戻される。
せめてもの抵抗として、競技場へ戻ったが、すぐにはみんなの下へは向かわなかった。
代わりに、みんなのいるところから少し離れた、陸上競技場の頂上から、歓喜の声が渦巻く競技場を俯瞰する。
そこから見る景色は、俺にとって、全く輝いていなかった。
その輝きは、俺にとって偽物でしか無い。
だが、先頭でゴールラインを突破し、両手を上げて喜ぶその選手の顔が、俺の頭を離れない。
なぜ、そんなにも喜べるのか。
なぜ、この競技で、そんな顔ができるのか。
いつかそこから引きずり下ろし、俺も味わいたいと思った。
俺がその場所に到達したとき、観客はどんな目で俺を見るのか知りたくなった。
そして、いつの間にか、また俺は走り出していた。
その輝く地獄へ向かって。




