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2000mの高揚と3000mの屈辱と200mの絶望を

作者: Pe.com
掲載日:2026/09/13

『オンユアマークス』


『セット』


『パン!』


横一列に並んだ選手たちが、一斉に、5000m先の栄光に向かって走り出した。


選手たちが走り始めた瞬間、会場は声援で溢れかえり、この強風のレースの中でも、選手たちの背中を押した。


このレース、男子5000m決勝に出場する選手は、計28名。


その中の一人である俺は、今、崖っぷちに立たされている。


1ヶ月先の駅伝に向けて、ここで結果を出せなければ、もう、出走できない可能性があった。


俺の通う高校は、決して駅伝強豪校というわけではなかった。


だが、去年、俺が入学するのと同時に、県内でも名の知れた選手が、数名入学する。


そして、今年も、追い打ちをかけるように、3人、県トップレベルの選手たちが、入学した。


考えてもいなかったのだ。


この学校で、駅伝に出走できないなどとは。


もう、確実に駅伝に出走するであろうメンバーは六名。


あと駅伝に出れるのは、一人だけ。


その一枠を争い、俺は必死に研鑽を積んだ。


──────


今回のレースプランは、ネガティブスプリットと呼ばれるものだ。


初めは少し控えめで走り、後半に向けて、ペースアップする作戦。


持久戦が得意な俺が、よく用いる走り方だ。


スタートすると、県トップの選手たちが、一気に前へ躍り出た。


今大会は、高校の新人戦だ。


高校生、それも1、2年だけが参加可能な大会。


他の大会と比べると、比較的レベルは低い。


地区大会出場のため、初めはかなりスローペースで入るのが例年決まっている。


だが、今回は違うかった。


一人の選手が飛び出るのと同時に、複数名の選手がそれに反応し、縦長の集団を形成した。


まだ、300m。


ここの集団に付いていくのは悪手だろう。


そう思い、後方の集団と合流し、その中でレースを進めた。


初めの一周400m。


タイムは74秒。


俺の狙う16分15秒という記録に対して、このペースは速すぎる。


だが、もう後ろには下がらない。


恐らく2周目には、俺の望むペースまでダウンするはずだからだ。


そこから現在の状況を冷静に分析する。


前の集団は12人程度。


だが、このコンディションだ。


朝早く、風は強く、日差しが強く、湿気ている。


絶対に落ちてくる。


そして2周目。


俺の予想通り、ペースは一気にダウン。


1周78秒まで落ちた。


このくらいのペースで押せれば、自己ベストは固い。


残り4200m。


まだまだ余裕がある。


今回はいける。


それを確信した。


そうして迎えた3周目。


ランニングウォッチを確認すると、そのペースは1周82秒まで落ちていた。


まずい。


先頭で引っ張っている選手がきつくなってきたのであろう。


恐らく、この集団にいても、もうペースが上がることはない。


そう思い2レーンにズレて、集団を抜け出そうとしたその瞬間、後方から、薄紫色のユニフォームの選手が、俺より先に集団から抜け出した。


(よし……!)


この機を逃すわけにはいかない。


俺はその後ろにピッタリくっついて、第2集団を抜け出し、第1集団を追う形になった。


そうして4周目。


一周77秒。


……っく。


急にペースアップしたとはいえ、少しきつい。


設定ペースとは1秒しか変わらないわけだが、これが積み重なると少しきつい。


ここで初めて、息が上がる。


できる限り乱雑に息を吐き出さないように心がけ、深く息を吐き出した。


まだ……まだいける。


だが、残り3600mもあるのに対し、少しこの息の上がり方は怖い。


この薄紫が、少しペースを下げることを祈るしかない。


──が、実際は、まさにその反対。


少し俺の息が上がっているのを知ってか、少しアクセルを踏む。


唐突なスピードアップに、俺は対応できず、数m差が広がった。


(まずい……)


この差があると、この強風をもろに受けることになる。


それだけは避けなければならない。


急いで足の回転、ストライドを広げ差を詰める。


数mの差はそれですぐに縮まり、またその背後にピタリと付く。


だが、その数m、数秒間。


それが確実に、俺の足、呼吸、精神をじわじわと追い詰めた。


そして、5周目、2000m。


気が乱れ、一周のペースを確認し損ねる。


確認しなくても大体はわかる。


確実なオーバーペース。


残り3000mもあるというのに。


5000mという競技は、3000mからが本番だとよく言われる。


言い換えれば、2000m地点は、まだ始まってすらいない。


過去3度、この競技に出場したことがあるが、この時点でここまで余裕度がないのは初めてだ。


見誤った。


だが、もう引けない。


このまま走り切るしかない。


もう一度、集中を入れ直す。


だがしかし、気合でどうにかなるほど、陸上競技は甘くない。


2300m地点。


また、薄紫との差が広がる。


それは数mから、みるみる内に、10m、15m、最終的には30m先くらいまで広がった。


俺は、もうすでに、アクセルを踏み直せなかった。


足がみるみる鉛をぶら下げたように重くなる。


肺が無数の糸で締め付けられるように悲鳴を上げる。


横腹に、ナイフを突きつけられるような痛みが続く。


レースは後、半分あるというのに。


必死に、何かを引きちぎるように腕を振る。


だが、正面から吹く強風が、俺の意地すら妨げる。


だが、俺は負けるわけにはいかないんだ。


ここで負ければ、俺が中3のころからやってきたこの3年間。


この味わってきた地獄が、すべて無駄になる。


(それだけは……それだけは嫌だ)


もう一度、強く足を踏み出す。


だが、その瞬間、俺の隣から、一人、後方集団から抜け出してきた選手が横を通り過ぎた。


「あ……」


その瞬間、俺の中で、何かが切れた。


足が一気に動かなくなる。


呼吸はさらにきつくなる。


横腹からは、さらに深くから痛みが、ジンッ、ジンッと続き、俺にトドメを刺した。


周りからは、まだ歓声が飛び交っている。


その中心で、明らかにペースダウンし、無様な姿を晒す俺。


恐らく、観客は先頭集団しか目にない。


だが、その視線が、すべて、俺に向けられていると錯覚するほど、俺はトラック上で孤独で、惨めで、あまりにも遅かった。


もう、これが何周目なのかわからない。


後ろから、みるみる俺に迫る足音が大きくなってくる。


そして、6人程度の集団が、俺の横を一気に通り過ぎる。


俺はそれの後方に付くことすら出来ず、トラック上に一人、取り残される。


時計を確認すると、今は3700m地点だった。


(もう、棄権しよう)


そう思い、足を止めそうになる。


だが、棄権した後の自分を想像し、足を止めることを止めた。


ここで棄権すれば、試合に送り出してくれた先生、親、練習仲間、そして何より、ここまで頑張ってきた俺に顔向けできない。


棄権することのほうが、俺には怖かった。


どれだけ苦しくても、どれだけ遅くても、走り続けた。


そして、もう少し進んで、俺と同じユニフォームを着た奴が、俺の横を走り抜ける。


周回差だ。


同チームの選手が先頭を引っ張る集団が、俺を抜き去っていく。


もう俺は、何のために、今苦しんでいるのかわからなくなった。


ただ、早くこの苦しみから解放されるため、もがき苦しむように腕を振った。


だが、どんどん後ろから、俺を抜き去り、出場していた半数程度の選手が、俺に周回差をつけた。


もう、俺の気持ちは完全に切れていた。


俺を突き刺し続ける日差しと視線の痛みも、もう感じない。


足に付けられた鉛と、横腹に突き刺されたナイフの痛みだけを感じながら、走り続けた。


「ハァ、ハア…………あ゛あ゛あ゛!」


うめき声に近い悲鳴を上げながら、走る。


もう、時計を確認する余裕すらない。


そしてとうとう、俺にもラスト一周の鐘が鳴る。


だが、ラストスパートをかける体力も気持ちも、どこにも残っていなかった。


ただ俺を蔑み見下す視線を一斉に浴びながら、走り続けた。


そして、ついにゴールに到達する。


電光掲示板に表示されたタイムは19分59秒。


史上最悪のタイム。


真剣に陸上競技に取り組む男子高校生にとって、正直このタイムは論外だ。


話にならない。


俺は、必死に身を捩り、トラックの端っこに身を寄せる。


そこで仰向けになりながら、雲一つない晴天を見上げ、思い出させられた。


俺は、まごうことなき弱者であった。


最近、調子が上がってきて思い上がっていた。


そんな俺に現実を突きつけられた。


このレースプランが間違いであったことは少なからず原因だ。


だが、残りのすべては俺の実力不足にある。


そんな絶望感を抱えたまま、荷物置き場へ向かう。


そこまでの200m。


監督になんて言われるか、仲間にどんな目で見られるか。


恐怖でしかなかった。


そして、荷物置き場に到着する。


そこではすでに、同じレースに出場し、俺の何分前にゴールしていた仲間が二人、すでに着替え始めていた。


そこまで、堪えていたものが、一気に俺の目から溢れ出した。


それは悔しさか、申し訳なさか、はたまたそれ以外かはわからない。


それを見て、その内の一人が俺の汗まみれの汚い背中にそっと手を当てる。


言葉はない。


掛ける言葉が見つからなかったのだろう。


その優しさのせいで、俺の目からはさらに大粒の涙がこぼれ落ちた。


この二人とは、一緒にいられなかった。


この二人と肩を並べて歩くなど、今の俺には出来なかった。


すぐにその場から離れ、陸上競技場を後にする。


陸上競技場周辺は大きな公園、庭園が広がっており、そこを無心で歩き続けた。


誰もいない、静かな場所。


今は誰とも話さず、ただここでいたかった。


歩きながら、レースを振り返ろうとするが、後半のことは、苦しかったこと以外記憶にない。


それでも、何かこの試合からもって帰らなければ、本当に何の意味も成さない、無駄なものになってしまう。


だが、どれだけ探しても、あるのは、後悔、絶望、悔しさだけ。


この悔しさを糧に、これから練習頑張ります。


なんて、腐るほど言ってきたし、腐るほど言われてきた。


もう、何度目だろう。


試合がぜんぜんうまくいかず、こうしてここを一人で歩くのは。


もう、負けたくない。


もう、こんな思いしたくない。


次は勝ってみたい。


次こそは……


だが、その『次』がいつまで経っても訪れない。


俺は、まだ一度も勝利の味を知らない。


まだ、一度も先頭でゴールしたことがない。


恐らく、凡人の俺が、一生味わうことのできない、極上の味。


考えれば考えるほど、理想の自分と、実際の自分との違いに、心が打ちひしがれる。


一人になって、また泣く。


これも、いつもと同じ。


「あああああああぁぁぁぁぁぁ」


驚き、木に止まっていた鳥が、一斉に飛び去った。


正真正銘、俺はここに一人。


「もう、やめたいよ……陸上……」


だが、今まで辞められなかったのだ。


ここまで出費してくれた親や、指導してくれた先生からの目が怖くて。


遅すぎて、その目からすら逃げれなかった。


そいつらは、結果だけで、俺の価値を決める。


俺が、影でどれだけ努力しているのかも知らずに。


別に、それを知ってほしいわけではない。


でも、確かに努力している事実があるからこそ、結果だけで見定められるこの競技は残酷だ。


実力、結果は、数字によって、無慈悲にも、正確に表される。


誤魔化しようのない、正真正銘の結果。


その数桁の数字に、自分の価値は決定され、俺の感情をあらゆる方向に行ったり来たりさせられる。


「はぁ」


溜まりに溜まったあらゆる感情を、孤独の中で、すべて吐き出す。


わかってるよ。これは言い訳だって。


負け犬の遠吠えだって。


わかってるから、こんな苦しんでるんだろうが!


もう、どうでもいい。


もう、結果なんてどうでもいい。


知らぬ間にずいぶん近づいた地面を数秒間見つめた後、また、競技場の方へ目をやった。


そして、気づかぬ間にみんなのいる観戦席へまた足を進める。


結局、逃げれない。


また、あの地獄へ引き戻される。


せめてもの抵抗として、競技場へ戻ったが、すぐにはみんなの下へは向かわなかった。


代わりに、みんなのいるところから少し離れた、陸上競技場の頂上から、歓喜の声が渦巻く競技場を俯瞰する。


そこから見る景色は、俺にとって、全く輝いていなかった。


その輝きは、俺にとって偽物でしか無い。


だが、先頭でゴールラインを突破し、両手を上げて喜ぶその選手の顔が、俺の頭を離れない。


なぜ、そんなにも喜べるのか。


なぜ、この競技で、そんな顔ができるのか。


いつかそこから引きずり下ろし、俺も味わいたいと思った。


俺がその場所に到達したとき、観客はどんな目で俺を見るのか知りたくなった。


そして、いつの間にか、また俺は走り出していた。


その輝く地獄へ向かって。

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