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ツガイが好みじゃないので困っています

掲載日:2026/07/03

 預言者は、静まり返った広間の中央で、ひときわ低く、重い声を響かせた。


「両国の命運は、この結びに懸かっている」


 その言葉を受けた瞬間、場にいた誰もが息を呑んだ。

 王と王妃は顔を見合わせ、廷臣たちは一様に頭を垂れた。祝福というにはあまりに緊張が濃く、歓喜というには責任が重すぎる。まるで吉兆の形をした宣告だった。


 ――というわけで、私、エレオノールはルメリア国に来ている。


 我ながら雑なまとめだとは思う。

 だが実際、そうとしか言いようがなかった。


 神より示された“ツガイ”。


 それが我が国とルメリアの間に生まれた以上、拒むという選択肢は、最初から存在しないに等しい。個人の感情より、両国の安寧が優先される。王族として育った以上、その程度のことは、幼い頃から骨の髄まで叩き込まれていた。


 私は、この運命を受け入れるつもりでいた。

 そのほうが父も母も喜ぶだろうし、国民も安心する。隣国との結びつきが強くなれば、国境地帯の不安も和らぐ。誰にとっても悪い話ではない。


 なにより、私は放っておかれれば、たぶん良い結婚はできない類の人間だった。


 昔から、見目が悪いとは言われなかった。

 整っている、冷ややかで美しい、近寄りがたい。そういう評価は、いくつも耳にした。


 だが、可愛いげがあると言われたことはない。

 愛されたという実感も、正直ほとんどない。


 私は静かな人間だ。

 ……いや、違う。本当に静かなのではなく、静かであるよう努めてきただけだ。

 余計な感情を見せず、余計な期待を抱かせず、余計な失望を招かぬように。そうしているうちに、今の私ができあがった。


 だからもし神が相手を定めるというのなら、せめて、同じように静かな人がよかった。


 ――たとえばアルトリウムの王子、アルベールのような。


 礼節を重んじ、言葉少なく、隙のない人。

 無理に愛想を作らずに済むような、静かな関係。

 そんなものがあるなら、悪くないと思っていた。


 ルメリア王宮の大広間は、予想していた以上に明るかった。

 高い窓から惜しげもなく陽光が差し込み、床の大理石には金の装飾がやわらかく反射している。威厳よりも華やぎを重んじる国柄なのかもしれない。私の国の宮廷より、空気が軽い。


 その軽さに、わずかに落ち着かない気分になった頃、扉が開いた。


 ルメリアの第一王子、ルカが姿を現す。


 目が合った。


 ふわりとした癖毛。

 柔らかな茶色の瞳。

 日差しの下で育ったような、屈託のない笑顔。


 ――なんだか、散歩中にリードが切れた大型犬みたいだなと、そのとき不敬にも思った。


 次の瞬間、ルカ王子は、はっきりと目を見開いた。


「うわっ、ちょっ、可愛っ……」


 広間の空気が止まった。


 王子の後ろに控えていた側近が、ほとんど反射的に一歩前へ出る。


「殿下……?」


 その一語には、驚愕と制止と諦めが、きれいに詰まっていた。


 私は一拍遅れて、口元だけをかすかに整えた。


「……ご挨拶、痛み入ります」


 何今の。


 私の胸中の問いなど知るはずもなく、ルカ王子はなおもこちらを見つめている。いや、見つめているというより、完全に固まっていた。


「え? ……え?」


 きょろ、と左右を見回す。

 まさか他に誰かいるとでも思ったのだろうか。


「いや、どストライクなんですけども……?」


 何だその確認は。


「ええと、ツガイってことで……いいんですよね? つまり結婚というか。末永く」


 いや雑だな。


 私は微笑を保ったまま、静かに答えた。


「……検討の余地がございます」


 本来なら、もっと外交的で曖昧な表現を重ねるべき場面だったのだろう。だが、あまりに勢いよく話を進められすぎて、むしろこの程度しか出てこなかった。


 するとルカ王子は、ぱっと顔を輝かせた。


「なるほど、じゃあ決まりで! 式は早いほうがいいですよね? 来月? いや再来週でもいけるか……」


 いや待て。


 思わず口をつきかけた言葉を、私は寸前で飲み込む。


「……一度、整理のお時間を頂戴できますか」


 控えめな表現ではあるが、十分に制止の意図は込めたつもりだ。

 さすがに、これで止まるだろう。


 ルカ王子は大きくうなずいた。なぜか、安堵したように。


「……よかった。嫌われてたらどうしようかと思った」


 ――完全に伝わっていない。


 しかもその笑顔は、まるで曇らない。

 失礼がないわけではない。洗練されてもいない。むしろかなり雑だ。なのに、不思議と不快感だけが残るわけでもなかった。


 王族として、こういう型破りな人物にはもっと警戒心を抱くべきなのだろう。

 実際、抱いている。抱いてはいるのだが。


 目の前の王子は、そんなこちらの慎重さなど露ほども気にせず、ひどく嬉しそうに言った。


「いや、ほんと可愛いですね……」


 側近が今度は深く目を閉じた。

 見ていて気の毒になるほど慣れた仕草だった。


 私はひとまず、淑やかに微笑んでおいた。


 内心では、ただ一つだけ、まとまりのない感想が渦を巻いていた。


 ――何だこれ。


 神が定めたツガイとは、もっとこう、厳かで、運命めいていて、少なくともこんな勢いで“末永く”を打診してくるものではないと思っていた。


 思っていたのだが。


 ……本当に、思っていたのと違いすぎて困る。




◇◇◇




 ルメリア王宮は、どうにも落ち着かない。


 明るすぎるのだ。

 差し込む陽光も、廊下を行き交う者たちの表情も、庭に咲く花々の色合いさえも、どこか遠慮がない。

 私の育った宮廷にも華やかさはあるが、あれはもっと制御された美しさだった。光は選ばれ、声は抑えられ、沈黙にすら秩序がある。


 ここには、生命力がありすぎる。


 そして何より、この宮には、ルカ王子がいる。


 それが一番、落ち着かない原因かもしれなかった。


 私は、ようやく一人になれる時間を見つけ、王宮の一角にある小さな図書室へ身を寄せていた。

 客人に解放されている書架は限られていたが、それでも十分だ。整然と並ぶ革表紙の背を眺めていると、ようやく呼吸が自分のものに戻ってくる気がする。


 選んだのは、一冊の幻想譚だった。

 古い神話を下敷きにした、異界遍歴の物語。少年が見知らぬ世界へ足を踏み入れ、喪失と変容を経て、やがて元の場所へ帰るまでを描いたものだ。


 幼い頃から、何度も似たような話を読んできた。

 現実とは別の場所へ迷い込み、そこで何かを失い、何かを得て、帰ってくる物語。


 ……疲れたときほど、こういうものに手が伸びる。


 椅子に腰を下ろし、静かな紙の音に意識を沈めかけた、そのときだった。


「何読んでるんですか?」


 真横から声が降ってきた。


 心臓が跳ねた。


 顔を上げると、いつの間に入り込んだのか、ルカ王子が本棚と机のあいだに立っていた。今日も柔らかな茶の髪は好き勝手に跳ね、こちらを見る瞳だけが妙にきらきらしている。


 私は一度本を閉じ、表紙を指先で整えてから答えた。


「幻想譚です」


「へえ」


 ルカ王子は興味深そうに身をかがめ、表紙を覗き込んだ。


「あー、転生するやつですかね!」


 私はしばらく、その言葉の意味を理解できなかった。


「……転生?」


「じゃあ追放系か」


「何の話をしているのですか」


 思わず即答してしまった。

 ルカ王子はきょとんとしたあと、なぜか嬉しそうに笑う。


「いや、反応早いなと思って」


 何だそれ。


 私は本を持ち直し、できるだけ会話を終わらせる方向へ軌道修正する。


「古代神話を下敷きにした、異界遍歴の物語です」


「なるほど、めちゃくちゃ面白そうですね」


 意外にも、返ってきた声は素直だった。

 私は少しだけ言葉を失う。


「……そうですか?」


「はい。エレオノールが読んでるなら、きっと」


 そこか。


 私は諦めて本を閉じた。

 もうここで読書を続けられる気はしない。


「続きはまた後ほどにいたします」


「邪魔しました?」


「今さらお尋ねになりますか」


「じゃあ邪魔したんだ」


 なぜ少し嬉しそうなのだ。




 翌日は、少しでも頭を冷やしたくて庭へ出た。


 ルメリア王宮の庭園はよく整えられているが、我が国のものとは趣が異なる。左右対称に切り詰められた美ではなく、花も木々も、自然のかたちを生かしたまま豊かに配置されていた。小道はゆるやかに曲がり、噴水の水音が遠く近くに重なる。

 歩くだけなら嫌いではない。


 むしろ、かなり好きだ。


 ただ一人であれば、の話だが。


「散歩ですかー!」


 遠くから、聞き覚えしかない声が飛んできた。


 私は足を止めた。

 止めざるを得なかった。


 石畳の小道の向こう、緑のアーチのあいだから、ルカ王子がこちらへ歩いてくる。いや、歩いてくるというより、何やら鼻歌まじりに近づいてくる。しかもなぜか、その周囲には小鳥が数羽まとわりついていた。


 ……何だあれ。


 近づいてくる。

 歌っている。

 鳥までいる。

 何か始まるのか。


 ミュージカルか。


「いい天気ですね!」


 ついに目の前まで来たルカ王子は、この日も晴れやかな笑顔だった。

 こちらはまだ心の準備ができていない。


「ええ、そうですわね」


「庭、綺麗でしょう? でも、エレオノールが歩いてると、なんか背景までちゃんとして見えるな」


「何を歌っていらしたのですか」


「え、気になりました? 嬉しいな。即興です」


 即興。


 私は空を見た。

 雲がひとつもない。

 どうしてこうも、世界がこの人に都合よく明るいのだろう。


「散歩、好きなんですか?」


 ルカ王子が尋ねる。


「嫌いではありません」


「よかった。一緒に歩いても?」


 もう歩いているではないか。

 隣にいるではないか。


「今さら許可をお求めになるのですね」


「礼儀は大事なので」


 その礼儀の順序がおかしいのだが。


 小道をしばらく並んで歩く。

 私は静けさを取り戻したいのに、隣の男がいるだけで空気が落ち着かない。

 それなのに、完全に不快とも言い切れないのが、一番厄介だった。




 夕刻、客間に小さな茶会の席が設けられた。


 形式張った晩餐ではなく、身内だけの気軽なもてなしだという。そう言われて運ばれてきた卓上には、小ぶりの焼き菓子や果実の蜜煮、砂糖を薄くまとわせた木の実に混じって、どこか素朴な形の菓子もいくつか見える。城のために整えられたものだけではないのかもしれなかった。


 ……甘いものは、昔から好きだ。


 だが、好きだからこそ控えるべきだとも思っている。

 そういうものだろう。王女たるもの、好むものに際限なく手を伸ばしてはならない。まして客先で、子供のように目を輝かせるなど論外だ。


 私は紅茶の香りに意識を向けるふりをして、菓子皿から視線を逸らした。


「甘いもの、好きなんですか?」


 またもや、気づかれていた。


 私は静かに顔を上げる。

 向かいにはルカ王子がいて、いかにも何気ない調子で尋ねてくる。


「いえ、そんなことは……」


「でも、さっきから一番見てますよ」


 見られていた。

 しかも、そんなところを。


 私は言葉を失い、代わりにティーカップを持ち上げた。

 落ち着け。動揺するほどのことではない。甘い菓子を少し気にしたくらいで、何がどうということもない。


 するとルカ王子は、いたって軽い口調で言った。


「いっぱい食べたらいいじゃないですか」


 私はカップを置いた。


「そのような——」


「好きなもの食べて、幸せそうにしてるの、可愛いですし」


 言葉が止まった。


 太るだとか、見苦しいだとか、節度がどうだとか。

 そういう話ではないらしい。


 ……いいのか、それで。


 私は菓子皿へ目を向けた。


 淡い蜂蜜色の小さな焼き菓子。花の形に焼かれ、縁だけが薄くきつね色づいている。飾り気はないが、どこか素朴で、陽だまりのような印象だった。


 ――こういうものは、あまり見たことがない。


「ひとつだけ、いただきます」


 言い訳のように告げてから、私はそれを口に運んだ。


 さくり、と軽い音がして、次いでやわらかな甘みが広がる。

 思わず、肩の力が少し抜けた。


「美味しいですか?」


 私は即答したくなかった。

 だが、沈黙しても無駄な気がした。


「……ええ」


「よかった。僕自身が甘いもの好きでね。城で出すものも、いろんな地方のものを集めてるんです。それ、南のほうでよく作られてる菓子なんですよ」


 なぜか、少しだけ誇らしげに言う。


 私はもう一度、菓子を見た。

 視線を戻しただけのつもりだったのに、ルカ王子はすぐに言った。


「もうひとつ、食べます?」


「食べません」


「今ちょっと迷いましたよね?」


「迷っておりません」


「可愛いなあ」


 私は思わず顔を上げた。


 何なのだ、本当に。


 この人の言う“可愛い”は、少なくとも私の知るそれとは違うらしい。

 着飾った姿でもなく、愛想よく微笑む所作でもなく、ただ本を読んでいるだけで、庭を歩いているだけで、甘いものを前に一瞬ためらうだけで、そう言うのだ。


 理解できない。


 ……理解できないのに。


 もうひとつ、菓子を取った。

 それを見て、ルカ王子は満足そうに笑う。


 私は紅茶に視線を落としたまま、思う。


 ――どうにも、調子が狂わされている気がする。


 この男のせいで。




◇◇◇




 ルメリア王宮の大広間は、いつもよりわずかに空気が張り詰めていた。


 形式ばった場ではない。

 だが、客人が客人である以上、自然と人の立ち居振る舞いは整う。


 アルトリウム王国第一王子、アルベール。


 その名を告げられたとき、私はほんのわずかに背筋を正した。それは習慣のようなものだ。同じ系統の空気を持つ者が来ると、人は無意識に姿勢を合わせる。


 扉が開く。


 先に動いたのは、隣にいたルカ王子だった。


「アルベール!」


 声が弾む。ためらいがない。そのままの勢いで歩み寄り、ほとんど反射のように腕を伸ばした。


 がし、と肩を抱く。

 その一瞬の早さに、私はわずかに目を見開いた。


 対するアルベールは、驚いた様子を見せることもなく、ただ静かに一歩、身体を引いた。


「……お久しぶりです、ルカ殿」


 声は落ち着いている。距離も、言葉も、すべてが整っている。


「お離しください」


 やんわりと、しかし明確に。

 ルカが笑って手を離した。


 アルベールは一歩引く。

 ほんの一瞬だけ、肩に残った感触を確かめるようにしてから。


 空気が、そこで一度、締まる。


 ――ああ、これだ。


 私は内心で小さく息をついた。


 これが正しい。

 これが、本来あるべき距離だ。


 相手の立場を踏まえ、礼を尽くし、踏み込みすぎない。不快を与えず、無礼にもならない、適切な間合い。それを、アルベールは寸分違わず保っている。


 私は一歩前へ出た。


「お初にお目にかかり、光栄に存じます。アルトリウム王国第一王子、アルベール殿」


 自然と、言葉が整う。


 アルベールは軽く頭を下げた。


「こちらこそ、お目にかかれて光栄です。エレオノール殿」


 声音も、所作も、非の打ち所がない。

 安心する。


 やはり、こういう会話が――


「ご滞在はいかがですか」


 アルベールが続ける。


「大変、快適に過ごしております」


 私は淀みなく答える。


「それは何よりです」


 短く、的確な応答。


 無駄がない。

 隙がない。

 間違いがない。


 完璧だ。


 ……で、それで終わりか?


 次の言葉が、出てこない。


 私は一瞬、呼吸を止めた。


 話題はある。いくらでもあるはずだ。各国の情勢、今回の神託、今後の関係性。だが、そのどれもが、“正しすぎる”。どれを出しても、同じように整って返ってくるのがわかる。


 それはつまり――


(……続かない)


 広がらない。

 深くもならない。


 綺麗に往復して、それで終わる。


「貴国の近況について、お伺いしてもよろしいでしょうか」


 口は、きちんと動く。


「安定を保っております。大きな変動はございません」


 返答も、完璧だ。


「それは安心いたしました」


 正しい。

 すべてが、正しい。


 ――なのに。


 胸の奥に、わずかな空白が生まれる。埋まらない。

 何かを待っているのに、その“何か”が来ない。


 そのときだった。


「なんの話してるんだ?」


 横から、軽い声が割り込んできた。


 ルカ王子だった。

 いつの間にかすぐそばまで来ていて、二人のあいだを覗き込むようにしている。


「真面目なやつ?」


 空気が、少しだけ崩れる。

 私は、ほんのわずかに息を吐いた。自分でも気づかないほど小さく。


(……助かった)


 思ってから、はっとする。


 何に対して、助かったのか。


 正しい会話からか。

 整いすぎた空気からか。


 あるいは。


 ――自分でも、まだ言葉にならない何かからか。


 ルカ王子はそんなこちらの内心など知らず、楽しそうにアルベールへ言う。


「相変わらずだな。もうちょっと力抜いていいだろ、ここ俺の国だぞ?」


 アルベールはわずかに目を細めた。


「……お気遣いなく。いまは一応、客分ですので」


 言いながら、ほんのわずかに視線を逸らす。だが、その一瞬だけ、声の端が緩んだように聞こえた。


 私は二人を見比べる。


 近づく者と、保つ者。


 どちらも、間違ってはいない。


 ……なのに、同じには感じられない。


 先ほどの会話がよぎる。

 整っていて、淀みなく、何ひとつ間違いはなかったはずなのに。


 ――続かなかった。


 あれは、相手のせいだったのか。


 それとも。


 私の側に、何かが欠けているのか。


 その答えを、私はまだ言葉にできなかった。




◇◇◇




 行事がすべて終わったあと、私は一人で回廊に立っていた。


 西へ傾いた陽が、白い石床を淡く染めている。昼間のざわめきはすでに遠のき、王宮はようやく、少しだけ静けさを取り戻していた。


 遠くで噴水の音がする。

 庭を渡る風はやわらかく、整えられた花々の香りを運んでくる。


 このくらいの時間の宮殿は嫌いではない。誰もがようやく役目から解放され、しかし完全には気を抜かず、それぞれの持ち場へ戻っていく、その途中の曖昧な静けさがある。


 私は欄干に手を添え、庭を見下ろした。


 ツガイとは、何なのだろうか。


 神が定めた結び。

 国と国を結ぶもの。

 あるいは、人と人のあいだに生まれる、何か。


 人との繋がりとは、何なのだろう。


 正しければ、それでよいのか。距離を守り、礼を尽くし、何一つ損なわずにいられれば、それで充分なのか。


 考えても、答えは出ない。


「おつかれさま!」


 背後から声が飛んできた。


 私は振り返る前に目を閉じた。


 軽い。


 考え込んでいるところに踏み込む足音まで軽い。


 振り返ると、案の定、ルカがいた。一日を終えたはずなのに、なぜかまだ元気そうな顔をしている。こちらを見つけるなり手を振るあたり、やはりどうかしている。


「ごきげんよう、殿下」


「そんなかしこまらなくていいのに」


 貴方は少しくらいかしこまれ、と思ったが、口には出さなかった。


 ルカは私の隣まで来ると、同じように欄干へ手を置いて庭を見下ろした。


「行事って疲れますね」


「……そうですわね」


「まあ、気楽にいきましょう」


 私は思わず横目で見た。


「気楽には、なかなかできません」


「そうですか?」


「私にはそうなんです」


 そう答えると、ルカは少しだけ笑う。


「大丈夫ですよ。ツガイの僕がついてるので」


 何が大丈夫なのだろう。

 この人の大丈夫ほど、あてにならないものもない気がする。


 思わず、言葉が漏れた。


「……不安しかないんだが」


 言ってしまってから、はっとする。


 声に出したつもりはなかった。少なくとも、あまり出すべきではない種類の本音だった。


 だが遅い。

 ルカは目を丸くしたあと、次の瞬間、ぱっと顔を輝かせた。


「あ、素が出ましたね」


 私は眉を寄せた。


「……これが、私の“素”ですか?」


「いいと思いますよ」


「よくありません」


「可愛いですけどね」


 なんなのだ、本当に。

 私は顔を背けようとして、やめた。


 不安だと口にした。

 それも王女らしからぬ言い方で。


 それを、この人は。


 ……本当に、それでいいのだろうか。


 わからない。

 わからないまま、ただ思う。


 ルカ王子は、うるさい。

 軽い。

 調子が狂う。


 ……好みではない。


 けれど。


 少なくとも、こうして隣に立たれても、もう最初ほど悪くはないらしい。


 私は前を向いたまま、ほんの少しだけ笑った。

 それをルカが見つけて、また何か言いかけたので、今度こそ私は先に言う。


「黙ってくださいませ、ルカ殿」


「はい。……でも笑った顔も可愛いですね」


 やはり黙らなかった。


 私は小さく息をつき、それでも、口元の力だけは戻らなかった。

読んでいただきありがとうございました。

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