相方に出来ること
あれ?あの少し丸めた背中は、それにあの帽子……間違いない。
「坂下」
疲れた表情の坂下が振り返った。
「あれ、大塚っち」
「今日は珍しく収録」
「へぇ」
「めっちゃ疲れてるな」
「収録押しちゃって、今やっと終わった」
「大変だったな。この後予定ないならメシ食いに行こうよ。車で来た?」
「ううん、タクシーで帰ろうかと思ってたけど」
「じゃあ、俺、車だから乗りなよ。家行こうよ。その帰りはタクシーでいいだろ?」
「うん」
二人はテレビ局を出た。
「それ、買ったの?」
坂下は大塚の着ているシャツを見た。
「うん」
「いいなぁ。俺、最近服買ってない」
「忙しくて?」
「このところ雨ばっかりだったじゃない。頭痛くて……」
「偏頭痛持ちは大変だな」
「大塚っちはいいなぁ」
どうりで疲れた顔をしていた訳だ。雨が続くと、坂下は頭痛に悩まされていた。
「梅雨とか最悪だもんな」
「最悪だよぉ」
若い頃もよく寝込んでいたっけ。
「じゃあ、また何も食ってないの?」
「マネージャーにお弁当持たされた。『ちゃんと食べてください』って」
坂下はビニール袋を見せた。
「マネージャーも大変だな」
「怒られてるの?」
「お前に倒れられちゃ困るんだろ」
大塚は坂下の背中を優しく叩いた。
コンビニで買い込んでから、大塚の家に向かう。
「何これ、汚い」
坂下は綺麗好きだ。ゴミが部屋の中にある事を嫌う。何も言わなくてもゴミ袋を持ってきて、あっという間にゴミを片付けた。
「ドラマの撮影で、放ったらかしにしてたからなぁ」
「もう……」
片付けを終えて手を洗い終えると、坂下はようやく大塚を見た。
「まさか、片付けさせる為に俺、誘ったの?」
大塚はニヤリと笑った。
「ちょっと、ひどいよぉ」
「冗談だって。そこまでお前を利用してないよ」
大塚は坂下をソファーに座らせた。
「まずメシ食おう」
コンビニで買ったものと、坂下の弁当をテーブルに広げると、二人でシェアして食べた。
「食べれるじゃん」
「お腹減ったもん。コンビニのハンバーグって、何でこんなに美味しいんだろう」
坂下は相変わらず子供のようにもぐもぐしている。大塚はそんな坂下をじっと見つめた。
「……俺さ、時々思うんだよな」
「んー?」
「お前が女だったら、結婚してるんだけどなって」
坂下は眉をひそめた。
「何それぇ」
「いや、俺はそっちじゃないから。性格の話」
「そうなの?」
「だって、圧倒的に気ぃ遣わなくていいし」
「うーん……一応、先輩なんだけどぉ……」
「圧倒的にとぼけてるし、かわいい」
「ちょっと、圧倒的にって、そんなにちゃんとしてない?俺」
さすがに坂下は不満げな表情になった。
「俺からすりゃ圧倒的だよ。とても同じ年月を生きてきたとは思えないね」
「そっ、そこまで言う?」
「でも、それがいいんだよ。お前みたいな性格の女、居ねぇかなぁ」
「探せば居るんじゃない?大塚っち、モテるでしょ」
「その言葉はお前に返すよ」
「モテないよぉ俺は」
大塚はため息をついた。昔から坂下がかっこいい、という噂は聞きまくっている。本人にその自覚がないのだ。
「だって、皆、彼女の方から別れていくんだよ?」
「それはお前が分かりにくいからだよ」
「じゃあ、どうしようもないじゃん」
坂下は悲しそうな表情でまたハンバーグを食べた。
「ってかさ、坂下って、嫌いな奴とか居るの?」
「え?」
「そういや、お前からあんまり悪口聞いた事ないわ」
「苦手な人は居るよ。でも、言わないようにしてる」
「何で?」
「言えば、こっちも嫌な気分になるじゃん。だったら黙ってた方がいいもん」
「お前のそういうとこも好きだよ」
そう、大塚にとって、坂下の嫌いなところはないのだ。だから、これまでもずっと一緒に居られたのだ。
「ちなみにさ」
「何?」
「倉田の嫌いなところってあるの?」
「兼人の?」
坂下はぼんやり上を見た。
「……無いね。浮かばない」
「へぇ、あんなにポンコツなのに」
「でも優しいし、あんまり怒らないし、こないだも海外ロケのお土産くれたし」
「へぇ」
「……聞いといて、興味なさそうにするのやめてよ」
「相思相愛じゃんと思ってさ」
「いや、兼人は俺の嫌いなところあるでしょ」
「あるか?何でも倉田に合わせてくれる相方だぞ」
「人間、腹で何考えてるかなんて分からないよ」
坂下に似合わない言葉だった。だが、人に裏切られてばかりいた坂下らしい言葉とも言えた。
「俺はお前の嫌いなところなんて無いから」
「俺も大塚っちの嫌いなところ、ないよぉ」
坂下は微笑んだ。
「優勝おめでとう」
「ありがとうございます」
乾杯すると、坂下は微笑んだ。遠山は深々と頭を下げた。
「坂下さんのおかげです」
「俺は何もしてないよぉ」
「いえ、トリオになったら売れるよって言ってくれたじゃないですか」
「遠山のネタがよかっただけだよぉ」
遠山は以前、カナディアンというコンビを組んでいたが、田原が加入してシトラスというトリオになった。そして、コントの日本一を決める大会で見事に優勝したのだ。事務所の芸人としてはフィヨルドが最終決戦まで進んだが、優勝は出来なかった。まさに事務所にとっては悲願だった。さんざん祝福されたが、遠山としては坂下とこうして二人きりで祝われるのが一番嬉しかった。
「遠山のネタならそりゃ、優勝出来るよ」
「フィヨルドのネタを見て勉強してきたからですよ」
「俺のネタなんて、参考にならないよぉ」
坂下はずっと微笑んでいる。フィヨルドが優勝を逃してから、坂下がスランプになったと噂に聞いていた。だが、今年も単独ライブをやる事は決まっている。久し振りに会った坂下は、いつもののんびりした先輩に戻っている。
「これからは事務所のトップとして頑張ってよぉ」
「いや、フィヨルドでしょ」
「もううちらはおじさんだもん」
坂下はビールを飲んだ。
「何言ってるんですか。これからも若手を引っ張っていってくださいよ」
「そういうのはモスグリーンがやるから」
「モスグリーンとフィヨルドですよ」
「兼人はいいかもしれないけど、俺はないなぁ」
坂下はまたビールを飲んだ。遠山はすぐに坂下の前を見た。箸は置いたままだ。後輩の間でも、思い悩むと坂下が食べない事は知れ渡っている。
「坂下さん、今日は俺に奢らせてください」
「優勝したのに、俺が奢るよぉ。それくらいのお金はあるんだから」
「正直、テレビになかなか慣れなくて」
遠山は酔っていた。
「遠山は頭いいし、トークも出来るから、大丈夫だよ」
「でも……」
「大丈夫。遠山なら出来るよ」
坂下はずっと遠山を励ました。これでフィヨルドの「二本目のネタを間違えた」イジりもなくなるだろう。これからは優勝したシトラスが引っ張っていけばいい。
「これからはシトラスの時代だよぉ」
「大袈裟ですよ」
「大丈夫だよ」
いつもそうだ。この人はいつも「大丈夫だ」と言ってくれる。コンビとしてなかなか売れなかった時も、田原が加入したいと言ってきた時も、どんな時も坂下は「大丈夫だ」と言ってくれた。それがどんなに嬉しく、心強かった事か。だから、コントの日本一を決める大会で決勝に進んだ時に、遠山は密かに思っていた。「坂下さんの敵を取る」と。そんな事を話せば坂下に怒られてしまうだろうが、遠山は強い心で挑んだのだ。取材では積極的に坂下に励まされた事を話した。事実だし、坂下の優しさをもっと知ってほしかったのだ。
「坂下さん、俺、坂下さんの後輩でよかったです」
「また、大袈裟だよぉ」
遠山は酔って忘れてしまったが、坂下は何も食べなかった。
今日は休みなので、坂下は朝からリビングのソファーに座って、ネタを考えていた。単独ライブまで半年以上もあるが、今からネタを考えておかなければ間に合わない。自分の限界が迫ってきている気がしていた。また、何も浮かばなくなるのではないか。それが怖くもあり、何処かで諦めてもいた。と、電話が来た。
「大塚っち、どうしたの?」
「今日は、休みだって聞いたから」
「相変わらずよく知ってるよねぇ」
「落ち着いて聞けよ」
「……うん」
「お前の前の相方、亡くなったそうだ」
「えっ?」
坂下は目の前が真っ暗になった。
「病気だったらしい。たまたま知り合いから聞いたんだ」
「…………」
「坂下、聞いてるか?」
「いつ?」
「もう葬儀とかは終わってるらしい」
「そうなんだ……」
あの頃の記憶が一気に蘇った。坂下は体が動かなくなっていた。
「よかったな」
「……えっ?」
「お前をさんざん苦しめた奴だ。もう、昔の事なんか思い出さなくていいんだ」
その瞬間、体が震えた。寒いからではなかった。
「……なんて事言うんだよ」
「坂下?」
「先輩が死んでよかったなんて、ひどい事言うなよ」
口調がいつもと違う。大塚はすぐに察した。坂下は怒っている。
「ごめん、悪かった」
「先輩、言ってくれたんだ。『お前が面白いと思ったから、相方に誘ったんだ』って」
「坂下……」
「先輩が亡くなって、いい訳ないだろ」
「ごめん、本当に悪かった」
坂下は答えなかった。大塚は自分の不用意な発言に後悔した。
「……ごめん。わざわざ教えてくれて、ありがとう」
坂下は電話を切った。
「先輩……」
坂下はソファーにうずくまって泣いた。あの人が誘わなければ、自分は芸人になっていなかった。確かにスベってばかりいたけど、たまにウケると褒めてくれた。そして、必ず焼きプリンをごちそうしてくれた。
「お前、甘いの好きだろ」
坂下にとって、あの焼きプリンの思い出は決して忘れる事は出来ない。芸人としてネタを披露して、客が笑う。あの快感を教えてくれたのは、先輩だった。それは、自分にだけ見せてくれた彼の優しさだったのだ。
マネージャーは坂下を見つめた。ぼんやりした表情で、手と口だけを動かして弁当を食べている。食べなければ怒られると思ったのだろう。これほど嫌そうに食べる人の顔を見たのは、初めてだ。
「あの、坂下さん。もしよければ、お弁当、持って帰ってもいいですよ?」
坂下はまるで機械のように黙々と食べている。
「坂下さん」
坂下はようやく気がついて、マネージャーを見た。
「大丈夫ですか?」
「うん」
また坂下は弁当を食べ始めた。明らかに様子はおかしいが、坂下は誰にも話さない。今日はピンの仕事なので、倉田にも話せず、マネージャーはどうする事も出来なかった。
「今日のゲストは、フィヨルドの坂下くんでーす」
「よろしくお願いしまーす」
「声がちいせぇなぁ」
早速、イジられる。坂下は悲しそうな表情になった。
「僕、ゲストですよね」
「そうですよ。今日はね、後輩と仲良くなろうって企画なんだから」
「あの人の目がヤバいでしょ」
坂下は先輩芸人の笹川を指差した。最初から睨みつけている。
「笹川くんは、目つきが悪いだけだから」
「普段、あんな目つきしないじゃないですか。何で怒ってるんですかぁ」
「だから、もっと坂下くんの事を知ろうってわけ」
「僕に興味あります?皆さん」
「いいから黙ってろよ」
笹川は一歩前に出た。
「近付いてきてるし。もう、嫌だ」
坂下はますます悲しそうな表情になった。笹川の隣の先輩芸人が押さえた。
「まぁまぁ。坂下くんはほら、倉田くんと違ってね、ちょっとやる気がないように見えるじゃない」
「見られます」
「頑張ってるの?」
「……一応」
「頑張れよ!一応じゃねぇよ、全力でやれよ!」
笹川はまた近付こうとする。
「この人、何なんすか。もうやだー」
坂下は本当に嫌そうに後退りした。
「まぁまぁ、笹川くん」
「落ち着けって、笹川」
先輩芸人たちはニヤニヤしながら止める。
「坂下もさ、ツッコまれるような事するから」
「……はぁ」
この番組では先輩芸人たちが後輩芸人を要はイジる。選ばれた後輩芸人はむしろ名誉な事だが、試練でもある。彼らのイジりにどう対処していくのか、芸人の実力が試されるのだ。フリップが出てきて、坂下の簡単な経歴が紹介された。
「結構、芸歴は長いんだね」
「はぁ、そうですね」
「ちょっと待って。笹川くんと三年くらいしか違わないじゃない」
「お前、無駄に長いんだな」
坂下はもう言い返さずに、顔をしかめて黙り込んだ。
「そんなんだから優勝出来ねぇんだよ」
「笹川、それは言い過ぎだろ」
「…………」
坂下は俯いてしまった。
「ちょっと、坂下くん、どうしたの?」
先輩芸人たちは慌てて坂下を取り囲んだ。坂下は答えない。
「笹川くん、今のは言い過ぎだって」
「坂下くん、本気で嫌になっちゃってるし」
「まだトラウマになってたんだな」
坂下は完全に落ち込んでいる。
「お前、これじゃパワハラになるだろ!」
笹川は思わず坂下に近付いた。
「バラエティだっての。なっ?」
皆で坂下を慰める。
「あんまりイジると本気で落ち込むから」
「かわいそうだよ」
「ごめんごめん。今日はそんな坂下の為にシュークリームを用意したから」
坂下は悲しそうな表情でシュークリームを見た。
「甘いの好きでしょ?坂下くん」
「……はい、好きです」
「これ、ほら、食べて。機嫌直して」
「坂下の為に用意したから」
坂下は先輩芸人たちを見てから、悲しそうな表情のまま、恐る恐る手に取った。
「じゃあ、いただきます」
坂下はぱくりと食べた。
「……からい!何これ、からっ!」
「あれ、間違えちゃった。からいのは、苦手だったっけ?」
「からっ、からい、からいのだめだってー」
坂下はジタバタと動いた。
「おっ、こんな坂下、初めて見た」
「一番大きな声も出して」
「今度から大きな声出させたい時はからいの食べさせればいいんだね」
「そんなのおかしいでしょー」
坂下は顔をしかめた。先輩芸人たちは笑っているが、水をくれない。
「っていうか、からいのに水くれないー、からいのにー」
「あっ、水ほしいですか?」
「からいから欲しいー」
「水、何処にやったかなぁ」
「いや、何で水ないんだよ。またパワハラだー、嫌だー、この番組、ほんとやだー」
坂下は遂にはテーブルに突っ伏した。先輩芸人たちは笑った。
「やだやだ言わないでよ。誰も出なくなっちゃうじゃない」
坂下は顔を上げた。
「出たくて出たんじゃないもん」
「えっ、そうなの?」
「でなきゃこんな番組出るかよ!」
先輩芸人たちは笑った。
「こんな番組って言うなよ」
「言うよ。もう、皆に嫌われてもいい。嫌だ。もう絶対出ない」
「怒っちゃった」
「お前、それ本気じゃないよな?」
笹川がまた坂下を睨みつけた。坂下は顔をしかめたまま、笹川を見つめた。
「……どっちがいいですか?」
「また来てくれるそうでーす」
「坂下くん、もう一個シュークリームあるから」
「やっぱりやだー」
収録を終えると、皆は優しく坂下を取り囲んだ。
「すみませんでした。大丈夫ですかね?」
「大丈夫だって。面白かったよ」
「お蔵入りになったらすみません」
「大丈夫だから」
坂下はすっかり落ち込んて、さんざん頭を下げた。皆はもちろん普段は優しい。
「笹川さん、すみませんでした」
「お前、イジられ慣れてないなぁ」
「すみません」
「でも、面白かったわ。お前、イジりがいのある奴だよ」
「それって、褒めてます?」
「褒めてる褒めてる」
笹川は優しく坂下の肩を叩いた。
「また出てね。お疲れ」
「お疲れ様でした」
皆がスタジオを出た後、スタッフにもさんざん謝って、楽屋に帰った。
「お疲れ様でした」
マネージャーは喜んでいたが、坂下はずっと落ち込んでいた。
倉田は街ロケの仕事で、とある商店街に居た。ドラマの宣伝の為にゲストとして来ている俳優と先輩芸人と四人で、さまざまなお店を見て歩いている。
「あっ、このケーキ美味しそう」
四人はケーキ屋さんの前で立ち止まった。おすすめというロールケーキを試食させてもらう。
「美味しい」
上品な甘さで、生地もふわふわだ。
「あの、これ、買っていっていいですか?」
「甘いのお好きなんですか?」
俳優が聞いた。
「いや、これ、坂下くんに買っていきます。坂下くん、甘いの好きなんで」
「倉田はそうなんですよ。坂下の事、好きだもんな?」
先輩芸人が倉田を見た。
「坂下くん、喜ぶんですよ」
倉田は笑った。
「仲いいんですねぇ」
俳優は感心した。
「フィヨルドは特別です」
本当に倉田は自腹でロールケーキを買った。この後、また収録で会うのでその時に食べよう。
「フィヨルドさんは昔から仲いいんですか?」
俳優は興味を持ったらしい。
「昔からですよ。なぁ?」
「そうですね。喧嘩した事もないですし」
「へぇ」
「坂下くんは、基本、僕に合わせてくれるんです。だから、感謝の気持も込めて、こういうの、あげてるんです」
「偉いですねぇ」
「坂下はその時、どういう反応なの?」
先輩芸人が聞いた。
「坂下くん、普通です」
「倉田の片思いかぁ」
「そうなんすよねぇ」
実際、ロールケーキを買ってきても坂下は「いいの?……ありがとう」とだけ言い、それでも子供のようにもぐもぐ食べていた。甘いものを食べている坂下の姿は、倉田には癒やしでもあった。はっきり言って、かわいいのだ。
フィヨルドの楽屋にノックして入ってきたのは大塚だった。
「あっ、大塚くん」
「お疲れさまです。坂下は?」
「もうすぐ来ると思いますけど」
マネージャーが答えた。
「じゃあ、ちょっと待っててもいいですか?」
「どうしたの、普段からよく会ってるでしょ」
「どうしても会って話さなきゃならないと思って」
と、ドアが開いた。
「おはようございます」
坂下は大塚を見た。
「あれ、大塚っち」
「どうしても会って謝りたくてさ」
「謝る?」
「あの時は悪かった。お前の事、傷つけた」
倉田とマネージャーは近付いて、二人を見つめた。
「……俺こそ、ごめん。ちょっとキツい言い方した」
「いや、悪いのは俺だ。お前の事、絶対に傷つけないって決めてたのに」
「大塚っちは優しいなぁ。いつもありがとう」
坂下は微笑んだ。大塚も安心したように笑った。
「また、電話するよ」
「うん、またね」
大塚は坂下の肩を優しく叩くと、楽屋を出ていった。
「うわっ」
坂下が大塚を見送ると、倉田とマネージャーが目の前に居た。
「坂下くん、大塚くんと喧嘩してたの?」
「……喧嘩って訳じゃないよ。ちょっとあっただけ」
「ちょっと、ですか?」
マネージャーは機械のように弁当を食べていた坂下の姿を思い浮かべていた。
「うん……」
二人は珍しく引き下がらない。坂下は被っていた帽子を取ると、髪をかき上げた。
「あの、荷物、置きたいんだけどぉ」
「言える範囲でいいですから、教えてもらえないですか?」
「…………」
こういう時、倉田とマネージャーは協力する。坂下はため息をついた。
「……収録後になら、話しても、いいけど……」
この日の仕事を終えると、珍しく三人で居酒屋に向かった。個室に入ると、何故か倉田とマネージャーは並んで座り、坂下を上座に座らせた。
「聞く気まんまんだなぁ」
坂下は被っていた帽子を更に浅く被った。今日は三人ともソフトドリンクを頼んだ。
「とりあえず、お疲れ様でした」
三人は乾杯した。坂下はジンジャーエールをちびちび飲んでいる。坂下は本心を語りたがらない。倉田とマネージャーは辛抱強く待った。
「そういえば、三人だけで居酒屋なんて初めて来たね」
「そうですね」
マネージャーは坂下を見た。坂下は目を伏せている。
「すみません、坂下さん。強制的に連れてきてしまって」
「いいよ。……一応、兼人にも言っといた方がいいかもしれないから」
倉田もマネージャーも坂下を見つめた。
「……大塚っちから、電話があって」
ようやく坂下は目を伏せながら話した。
「俺の前の相方だった先輩が、病気で亡くなったんだって」
「えっ」
倉田は坂下を見た。あの、さんざん坂下くんを怒っていたあの人が……。
「大塚っちの知り合いから聞いたんだって」
「そうだったんですか」
マネージャーも困惑している。坂下はまたジンジャーエールを飲んだ。
「……大塚っちが、『よかったな』って、言ったんだ」
坂下はジンジャーエールのコップを持ち続けている。
「『もう昔の事なんか思い出さなくていいんだ』って」
二人は顔を見合わせた。
「でも、俺にとっては、芸人に誘ってくれた大事な人だった。だから、思わず、カッとなった」
坂下がカッとなる事があるのか。二人はまた顔を見合わせた。
「皆に嫌われてたけど、ウケたら先輩、褒めてくれたんだ。それで焼きプリン奢ってくれた」
倉田は驚いた。そんな話は初めて聞いたし、何より、あの人にそんなイメージは全く湧かない。
「まだ高校生だったから、俺、嬉しくて。また頑張ろうって、一生懸命やった、つもりだった……」
だが、結果はうまくはいかなかった。坂下は一度、目を閉じた。
「先輩が居なければ、芸人になってなかった。そんな大事な人が亡くなって、いい訳がない……」
個室の中は、しんと静まり返った。
「坂下くん、ごめん」
倉田は頭を下げた。
「……何で兼人が謝るの」
「俺も、多分大塚くんみたいな事、言うと思うから」
坂下は倉田を一瞥したが、また目を伏せた。
「今でも覚えてる。あの人が坂下くん、何度も突き飛ばした事。一回、頭打って気失った事あったでしょ」
「そんな事あったんですか?」
「あったんだよ」
「そうだっけ……」
坂下はずっと目を伏せて、二人を見ていない。
「だから、俺、正直、今でもあの人の事は許せない」
坂下はため息をつくと、俯いた。
「坂下さん、すみませんでした」
「何でマネージャーも謝るの」
「私、何にも知らなくて……かえってつらい目にあわせてしまって」
「知りたかったんでしょ。もう、話したから」
倉田は坂下を見た。坂下は俯いたままだ。
「坂下くん」
「もう話したからいいじゃない」
このままでは、坂下がより倉田に心を閉ざしてしまう気がした。すぐ目の前に居るのに、どんどん坂下の姿が遠く感じる。
「待って、坂下くん」
倉田は坂下を見た。
「俺、坂下くんの味方だから。坂下くんは大塚くんばっかり頼りにしてるけど、俺だって、坂下くんの味方だし、それに、坂下くんの事、傷つけたりしないから」
坂下は倉田をぼんやりした目で一瞥し、また目を伏せた。
「兼人は好きなようにやればいいんだよ、これからも」
「違う」
倉田は坂下を見つめた。
「兼人のミスはコンビのミスだって、いつも言ってるじゃない。それなのに、坂下くんの事は放っておくなんて出来ない。いつだって俺に寄せてくれる坂下くんの心配するのは当然じゃない」
坂下はため息をつくと、突然、冷たい目で倉田を見た。
「坂下くん……」
「兼人は余計な事考えなくていいんだよ」
それは、明らかに倉田を寄せつけないような物言いだった。
「坂下くんの苦しみは、余計な事なの?」
「そうだよ」
坂下は被っていた帽子を深く被り直した。
「兼人は目の前の仕事を頑張ればいいんだよ」
「何だよそれ!坂下くんはどうでもいいみたいに!」
「倉田さん!」
マネージャーが慌てて止めた。坂下はずっと冷たい目で見ている。
「兼人は売れたがってたじゃん。そして今、まさにそうなってる。だから、突き進めばいい。どんどん先に進んでいけばいいんだよ」
「坂下くんは?二人でフィヨルドでしょ!」
「…………」
坂下は嫌そうにまたため息をついた。
「兼人、もうこういう話はやめよう」
「でも……」
「俺はこんな話、したくない」
坂下は立ち上がると、個室を出ていった。倉田は俯いた。
「倉田さん……」
倉田は何も言えなかった。悔しかった。どうしていつもこうなんだろう。坂下はどうして売れる売れないの話になると、逃げてしまうのか。本当に売れたくないのか。もしかして、もうテレビの仕事が嫌になった?坂下がどう思っているのか、分からない。
「俺、間違ってたのかな……」
「坂下さん、本当は話したくなかったんでしょうね。私たち、無理させました……」
マネージャーも俯いた。
「今日は『じゃない方芸人』の方々に集まってもらいましたー」
笹川の番組に、坂下が呼ばれた。コンビ格差に悩んでいる若手芸人がやはりコンビ格差のある先輩芸人からいろいろ聞こうじゃないか、という内容だ。
「気持ちよく出れないですねぇ」
「確かに、皆、地味だなぁ」
「まぁまぁ、仕方ないですよ」
「お前、ボケっとしてんじゃねぇぞ」
他にも芸人が居る中、早速、坂下はイジられた。
「もう、だから出たくなかったのに」
「じゃあ帰っていいんだぞ」
坂下は悲しそうな表情で、黙り込んだ。
「ちょっと、坂下さんだけいじめないでくださいよ」
「趣旨変わってきますから」
気を取り直して、先輩芸人たちはコンビ格差あるあるを話していく。
「お前、何もねぇのかよ」
笹川が黙っている坂下を見た。
「もう、皆、喋っちゃいました」
「手抜きしてんじゃねぇぞ」
笹川は坂下を睨みつけた。また坂下は悲しそうな表情になる。
「もう、やめてくださいよ」
先輩芸人たちは止める。
「でも、こっち側の人間、意外にネタを作ってる方だったりしません?」
若手芸人が言った。
「あぁ、そうかもしれない」
「坂下は違うもんな」
笹川が言った。
「いや、ネタは作ってますけど」
「声がちいせぇよ」
「この人、もうやだー」
坂下は顔をしかめた。
「坂下さんに厳しすぎませんか?」
「だって、こいつの話は参考にならねぇだろ」
「じゃあ呼ぶなよ」
坂下のツッコミに、笹川は舌打ちして,近付こうとする。
「ちょっと、ホンマにやめてくださいって」
先輩芸人たちは立ち上がった。
「あの、笹川さんとこんなやり取りして生き残る方法は無理っす」
「いや、これは俺らも無理だわ」
「それで、坂下はよく黙ってるな」
坂下は立たずに座っていた。
「もういいって」
「坂下、もう少し頑張ろう。皆も一旦座ろう」
それからもコンビ格差の話をする度に、笹川は坂下をイジった。
「どうだった?何か、参考になりましたか?」
「あんまり参考にはならなかったですよ。坂下さんが途中、飽きちゃってましたし」
「お前、先輩に適当にあしらってんじゃねぇぞ」
笹川はまた坂下を睨んだ。
「だって、もう、皆も飽きてきたでしょ?」
「そう、ですね」
「ほらー、もう出ないからこの番組」
「お前、それ、本気で言ってんのか?」
坂下は顔をしかめたまま、笹川を見つめた。
「……どっちがいいですか?」
「決まってるだろ。また出ろよ」
皆は笑った。
「良かった、仲直りした」
収録後、皆は大部屋の楽屋で着替えていた。
「坂下くん、ええなぁ。さんざんイジられて」
「後輩の邪魔しちゃいましたよね」
「そんな事ないよ」
「そうですかねぇ」
その後、皆で飲みに行く事になった。
皆が楽しそうに飲んでいる中、坂下はこれといって知り合いも居ないので、隅で一人ビールを飲んでいた。一杯飲んだら帰ろうと思っていた。
「ちょっと、帰ろうとしてるでしょ」
抜け目なく見つけたのは、導火線の蒔苗だ。
「あれぇ、バレた?」
「駄目ですよ。もうちょっと居てくださいよ」
「いいじゃん。もう、向こうで騒いでるし」
「俺だってあっちとは距離置きたいんですよ」
「あれ、蒔苗ってそういうタイプ?」
「まぁ、そうです。知ってます?坂下さんは防波堤って呼ばれてるんですよ」
「何それぇ」
「坂下さん、結構一人で居るじゃないですか。先輩たちもあんまり近付いてこないじゃないですか。だから我々みたいなタイプにとって、防波堤なんです」
「勝手にそんな事言われてたんだ」
「しかも坂下さん、そういうの、気にしないでしょ」
「それって、いい事なのかなぁ」
「助かるんですよ。だから居てくださいよ」
「そうなの?」
蒔苗の相手をしていると、酔ってくどくど愚痴を言い始めた。
「もう、大丈夫だよ。蒔苗は実力あるんだからぁ」
「坂下さん、社交辞令じゃないですよね」
「本当に思ってるよぉ。大丈夫だよ」
結局、最後まで打ち上げに参加する事になり、帰りはすっかり朝になっていた。皆は千鳥足で帰っていったが、坂下はそれほど酔わなかった。坂下は朝の綺麗な空気を吸い込んだ。
「坂下、起きろ」
坂下は前のコンビ時代、一人だけ未成年だったので、同期が飲みに行ってもソフトドリンクだけで付き合わされた。深夜になるといつも眠ってしまう。
「あっ、先輩……」
「帰るぞ」
「はい」
坂下は慌てて財布からソフトドリンク代を相方である先輩に渡した。
「明日までにネタ書いとくから、練習するぞ」
「はい」
「お疲れ」
「お疲れ様でした」
坂下はすっかり明るくなっているのを見て、朝の空気を吸い込んだ。そして走り出した。学校に遅れる。駅に寄って、顔と歯を磨いて、髪はボサボサのままで高校まで自転車で向かう。しんどかったが、楽しかった。夕べ話していた同期の話を思い出しながら、ネタを作れないかと考える。先輩にはネタなんかお前には無理だ、と言われているが、密かに考えるのが楽しかった。いつか先輩に見せて、面白いと言わせたかった。思えば、彼らは一度も坂下に酒も煙草も勧めなかった。二十歳になった時には、初めてのビールで乾杯してくれた。今では誰も事務所には居ないが、彼らはまだ子供だった坂下を守ってくれていたのだ。
「…………」
坂下はまるで遠い昔のようなあの頃を思い出して朝日を見つめていた。
「野島さん、俺はねぇ、もっと坂下くんと仲良くしたいんですよぉ」
「飲んでもないのに、酔った感じ出すなよ」
事務所の先輩芸人である野島は、呆れてため息をついた。倉田はずっとコーラを飲んでいる。
「まぁ、普通はそんなに相方同士で仲良くはないけどな」
「他のコンビなんてどうでもいいんですよ!俺は、坂下くんともっと仲良くしたいんです!」
「デカい声を出すなよ。個室だからって」
野島と倉田は居酒屋で、相変わらず酒なしの食事をしている。
「お前の悩みのタネは常に坂下なんだな」
「どうすれば坂下くん、俺の事を少しは信頼してくれるんですかねぇ」
「何でもかんでも相方の事、知ってるってのもあんまり居ないぞ」
「だから、他のコンビなんかどうでもいいんです!」
「分かったからデカい声を出すなよ」
「昔はよく話してくれたんですよ」
「そりゃ友達だったからだろ。相方になると、そうじゃなくなるもんだよ」
「それが嫌なんですよ。俺はずっと、あの頃のままで居たいのに」
「坂下に言えばいいじゃねぇか」
「嫌がりますもん」
「坂下の事を思うなら、嫌がる事はしない方がいいよな」
倉田は泣きそうになってコーラを飲んだ。
「坂下と仲いいのって、誰?」
「大塚くんです」
「あぁ、御殿の。後輩だろ?」
「年が一緒なんで、二人の時はタメ口なんですよ。しかも、めちゃくちゃ仲いいんです」
「へぇ。しかも大塚には心を許してるって訳か」
「そうなんですよ」
「でも、お前には心を許してないって?」
「見た事あります?あの、坂下くんの冷たい目。大塚くんと居る時はニコニコしてるのに」
倉田はコーラを飲んだ。
「兼人は余計な事考えなくていいんだよ」
今思い出しても、泣きそうになる。
「まぁ、でも、そりゃ仕方ないんじゃねえの?」
「何でですかぁ!」
「やっぱり坂下は以前、相方に逃げられてるだろ。どっかで倉田もいずれ……とか思ってんじゃないの?」
「俺は解散なんかしませんよ。坂下くんから逃げたりもしません」
「でもなぁ、分かんないぞ。俺だって誘った方が逃げていって、結局ピンでやってんだから」
「野島さんと一緒にしないでくださいよ」
「なにげに失礼な事言うな」
「俺は坂下くんが好きなんです。あの人のネタが好きなんです。ずっと坂下くんとコントやってたいんです」
「でも、当の坂下に伝わらなきゃ意味ないだろ」
「どうしたら分かってくれるんですか」
「さぁなぁ。大体、お前はそうやってすぐに吐き出すだろ。溜まっては吐き出す。だけど、坂下は溜まってても吐き出さない。溜まっていくだけ。お前とは根本的に違うんだよ」
「……坂下くんって、どうやって吐き出してるんだろ」
「やっぱり大塚に吐き出してるんじゃねぇの?」
「また大塚くん……」
「まぁ、倉田と大塚じゃ勝負にもならねぇよな」
「ひどい!」
「だからデカい声出すなっての」
「今日、ご一緒するのは、このお二人でーす」
「どうもー、フィヨルドでーす」
二人は頭を下げてやって来た。
「今回、特に坂下さんが甘党だとお聞きしたんですが」
女子アナが坂下を見る。
「そうですね。甘いもの好きです」
「ですので、今回はスイーツ巡りをしようと思います」
「嬉しいです」
二人は拍手した。
「でも、大丈夫ですか?おじさん二人でスイーツ巡りって」
「大丈夫です。お二人に癒やされるという声がありますから」
女子アナは微笑んだ。
「ところで倉田さんは、甘いものはどうですか?」
「僕は、普通です。でも、坂下くんに影響されたのか、結構食べれますね」
「そうですか。何でも、街ロケなんかで甘いものを坂下さんに買っていくそうですね」
「そうなんですよ。何かね、甘いもの見てると坂下くん思い出すんですよ」
倉田は坂下を見たが、坂下は一瞥しただけで答えなかった。
「いやぁ、仲良しですねぇ」
「ありがとうございます」
「では、早速、一軒目のお店なんですが、ちょっと歩きましょうか」
「はい」
三人は歩いていく。
「でも、坂下さん、スリムですよね」
「元々、少食なんです」
「テレビ局で用意してくれてるお弁当、あるじゃないですか。全部食べれませんからね」
倉田が言った。
「だから、昼と夕の二食分にしてます」
「かなり少食ですね」
三人は店の前で立ち止まった。
「一軒目は、こちらのお店です」
「何か、老舗って感じですねぇ」
「早速、入っていきましょう」
「どうもー」
三人は中へと入った。
「うわー、和菓子かわいい」
坂下はもうショーケースの和菓子に目を輝かせている。女子アナがこの店の説明をした。
「こちらの名物が、この豆大福です」
「あら、こちらの」
二人とも豆大福を見た。女子アナが説明する。
「すみません、僕、あんまり豆大福って食べないんですけど」
「こちらの豆大福はもう、絶品ですから」
「試食出来るんですか?」
倉田は店員に言った。
「どうぞ、お召し上がりください」
「やったー」
二人に豆大福が渡される。
「うわっ、持っただけでもちもちなのが分かる」
坂下は豆大福を持つと、カメラを見た。
「じゃあ、いただいていいですか?」
「どうぞ」
坂下は一口食べると、もぐもぐした。
「美味しい。上品な甘さで。この豆自体も凄く美味しいです」
倉田も一口食べた。
「あっ、ほんとだ。甘過ぎないです。これは、僕でも全然イケます」
坂下は黙々と食べ続ける。
「坂下くん、完食する」
坂下は食べ終えた。
「こんなに美味しいんですねぇ、豆大福って」
坂下は微笑んだ。癒やされるなぁ。倉田も思わず笑った。
「こちらのは特別ですから」
「ちょっと、買っていこうかなぁ」
「あっ、買っていきます?」
「いいですか?」
坂下は財布を持ってきた。
「僕の母親が、甘いもの好きなんですよ。それで僕も甘いもの好きになったんで、ちょっと、母親に送ろうかなぁ」
「お取り寄せもしてございます」
「じゃあ、いいですか?」
「坂下くん、親孝行したね」
坂下は本当に豆大福を母親に送る事にした。更に自分とマネージャーの分まで買っていった。
「坂下さんのお母様の影響で甘党になったんですね」
店を出ると、また三人は歩き出す。
「僕、父親が早くに病死して母子家庭だったんで、ほんとに甘やかされて育ったんですよ」
「仲いいんですよ、二人」
「倉田さんは会った事あるんですか?」
「単独ライブ見に来てます」
倉田が言った。
「そうなんですか」
「あのねぇ、坂下くんがこんなにのんびり屋さんなのはお母さんの影響だなと思いますよ」
「なるほど」
「母親はほとんど僕に怒った事ないんですよ。だから、芸人になる時も反対されなかったし」
「確か、高校生でデビューしたんですよね?」
「よく知ってますね。高校三年生でこの世界入ったんです」
「という事は、倉田さんの先輩になるんですか?」
「そうなんです。年は一緒なんですけどね」
「お二人はどうやって知り合ったんですか?」
「僕は今の事務所のスクールが出来たんで、入ったんです」
「僕はもうデビューしてたんですけど、ほぼ素人みたいなもので。で、事務所の方からスクールでちょっと基礎を学べと言われまして」
「リスキリングですわ」
倉田が坂下を指差した。女子アナは笑った。
「其処で出会ったんです」
「当時、年一緒なのに先輩って、坂下くんだけだったんです」
「僕と同期って、モスグリーンなんですけど」
「あっ、そうなんですね」
「でも二人は大学卒業後してきてるんで、やっぱり違いましたよ」
「今の方が仲いいね」
倉田は坂下を見た。
「そう、テレビ出るようになってから、より仲良くなりました」
「ちょうどよくモスグリーンさんのお話が出たと思うんですが、早田さんが、坂下さんと一緒にネタを考えていた時に、坂下さんが先に書き終わってミニパフェを食べていたって話を聞いたんですが」
「よく知ってますねぇ。その時、まだ僕、未成年だったんですよ。なのにずっと言ってるんですよ、その話」
「という事で、こちらのお店でパフェをいただきたいと思いまーす」
「和の次は洋ですね」
三人は店に入った。
「うわぁ、美味しそう」
席に着いて、坂下はメニューを見るとまた目を輝かせた。
「パフェ、お好きですか」
「ただ少食なんで、こんなには食べれないですね……」
「だからミニパフェなんですね」
「坂下くん、子供用のがあるよ」
倉田がメニューを指差した。
「本当は大人は駄目なんですが、今回は特別にですね、坂下さんの為に子供用でもいいそうです」
「嬉しい。じゃあこの、桃のやつがいいです」
「俺、このプリン・ア・ラ・モード、美味しそうだな」
倉田がメニューを見る。
「というか、そっちにもメニューあるじゃん」
倉田は坂下の持つメニューを見ている。
「一緒に見ようよ」
「本当に仲いいですねぇ」
女子アナは笑った。
「喧嘩とか、した事ないんですか?」
「いや、喧嘩にならないんですよ。坂下くんが怒らないんで。今も怒らないでしょ」
「一方的に倉田くんが怒ってる時はありますけど」
坂下はメニューをしまった。
「坂下さんが怒るところは、確かに今のところ想像出来ないんですけど」
「ほんとにこのままですよ。だから、逆にちょっと心配になるんです」
「心配?」
「僕はね、結構思った事を言ってしまうんですけど、坂下くんは一切言わないんで。ストレスとか、どうしてんのかなぁと思って」
倉田は坂下を見た。どさくさに紛れて、坂下から本心を聞き出そうとしていた。我ながらいい作戦を考え出したと思う。
「どうなんですか?ストレス発散法とかは」
女子アナも坂下を見た。
「……そのへんが僕は、変わってるのかもしれません。ぼんやりしてたらそのうち忘れていくんです」
「本当にぼんやりしてるんですね」
「何か、今の言い方、バカにしてません?」
女子アナは慌てて首を振った。
「いえいえ、羨ましいなと思って」
「いや、絶対思ってないでしょ」
「アホだなぁと思ってたんじゃないですか?」
倉田も女子アナを見て笑った。
「そんな事ないです。あっ、来ました」
坂下には桃のミニパフェ、倉田にはプリン・ア・ラ・モードが来た。
「見た目がかわいい」
坂下はまた目を輝かせた。
「写真撮りたいなぁ」
「良かったらどうぞ」
「いいですか?すみません」
坂下は携帯を持ってきて、写真を撮った。
「じゃあ、こっちも撮って」
倉田はプリン・ア・ラ・モードの前で顔を作った。坂下は仕方なく写真を撮る。
「送って」
「もう……」
女子アナは笑った。仲はいいが、明らかに倉田の片思いに近かった。
「では、いただきましょうか」
「じゃあ、坂下くんから」
「いいですか?じゃあ」
坂下は桃のミニパフェを一口食べた。
「美味しい。うわぁ、これ好きー」
坂下は本当に嬉しそうに笑った。
「じゃあ、僕も」
倉田もプリンを一口食べた。
「あっ、ちょっと固めで。美味しい。僕、どっちかというと固めが好きなんで、これ、好きです」
「お二人とも好きな味でしたね」
「本当に美味しいです」
此処でも、二人は見事に完食した。
「もう、お腹いっぱいですねぇ」
坂下は店を出ると、出てもいないお腹をさすった。
「僕はまだイケますけどね」
倉田は最近出てきたお腹をさすった。
「やっぱりフィヨルドといえば、あの大会の事が話題になりますけど」
「嫌な思い出ですけどね」
坂下は悲しそうな表情になった。
「でも、結果的にあの大会がきっかけで僕らの知名度が上がったんですよ」
「そうなんですよねぇ」
「聞いたんですけども、坂下さんがスランプになったそうで」
「えぇ、バレてるんですかぁ?」
坂下は驚いた。
「結構ね、色んな人に言われましたよ。坂下くん、大丈夫?って」
倉田が坂下を見た。
「そうなんですか。いやぁ、本当にあの時は、何か、大変でした。皆さんにも迷惑かけてしまって……」
「でも、今は抜けられたんですよね?」
「まぁ、何とか……」
坂下は悲しそうな表情になった。
「でも、あれから、またスランプになるんじゃないかって不安ではあります」
「それは、倉田さんはご存知でした?」
「坂下くんはそういう点では、すごいネガティブですね。だから、食欲なくして痩せちゃうんです」
「そうですね。すぐ食べられなくなっちゃうんです。こないだまで五キロくらい痩せちゃって」
「これ以上痩せたんですか?」
女子アナが驚いた。
「僕、本当にすぐ痩せちゃうんですよ」
「坂下さんって、太ったとかあるんですか?」
「どうかなぁ」
「ないよ。太った坂下くん見た事、ないもん」
倉田が言った。
「だから、スタイリストさんによく言われるんです。あんまり痩せないでくださいって」
「サイズ変わっちゃいますからね」
「羨ましい」
「羨ましい?」
二人は女子アナを見た。
「見た感じ、痩せてますけど」
「すぐ痩せちゃう体型って、羨ましいです」
「いや、良くないんですよ。体力ないんで」
「そう、坂下くん、頭痛持ちでもあるんで、よく体調も崩すし」
「だから倉田くんは健康体でいいなぁと思いますけどね」
「おかげさまで」
倉田はにっこり笑った。
「倉田さんといえば、ロケで体を張ってますもんね」
「昔から体力はあるんです。だから、正直、坂下くんの体力のなさにびっくりするというか」
「もう、年々、体力なくなっていってます」
「同い年とは思えないくらいですからね」
「では、ちょっとでも元気になってほしいと言う事で、こちらのパン屋さんに入ろうと思いまーす」
三人は店に入った。
「こちら、すごい種類のパンが売ってありますけど」
「迷いますねぇ」
「スイーツ系から、惣菜パンまで、もう大人気のパン屋さんなんです」
「何個か買って帰りたいですね」
「では、各自買いましょうか」
坂下はトレイとトングを持った。
「俺と一緒でいい?」
「えぇ、倉田くんもトレイ持ってよ」
「いいから」
倉田はまたどさくさに紛れて、坂下と近付く。結局、フィヨルドで同じトレイを使う事になった。
「いかがですか?」
「僕らはこちらのパンを買います」
坂下はスイーツ系のパンを、倉田は惣菜パンを買った。
「あと、サンドイッチを。これは夕食です」
「僕のは間食でーす」
二人は割り勘で自腹でパンを買った。
「いかがでしたか?今回のロケは」
「いやぁ、こんなに体張らないロケは久し振りです」
「僕は本当に美味しかったです。母親にも送れましたし」
「楽しかったね」
「なかなか男でスイーツ巡り出来ないので、今日は楽しかったです」
倉田はまたどさくさに紛れて、坂下にくっついた。
「最近倉田くんがこういう事してくるんですけど、意味は分かりません」
女子アナは笑った。
「本当に仲良しのフィヨルドさんでしたー」
「ありがとうございましたー」
「……オッケーでーす」
ロケバスに戻ると、坂下は倉田の分のパンを渡した。
「ありがとう」
ロケバスが走り出し、倉田は坂下の言葉を思い出していた。
「……そのへんが僕は、変わってるのかもしれません。ぼんやりしてたらそのうち忘れていくんです」
そのうち忘れていく。という事は、明確なストレス発散法を、坂下は持っていない。頭痛の原因も、もしかしたらそうしたストレスなのではないか。坂下は後ろの席に座っていて、見えない。いや、かなり体をひねってみれば見えるだろうが、そんな事をしたら坂下くんにドン引きされる。これ以上嫌われたくない。
「もう、お腹いっぱいですねぇ」
もしかしたら、寝ちゃうかもしれない。テレビ局まではまだ時間がかかる。倉田は少し時間を置いてから、そっと席を移動して坂下を見た。
「…………」
やっぱり、坂下は眠っていた。いつも腕を組んだ状態で眠る。倉田は同い年とは思えない、坂下の寝顔を写真に撮った。
「すごーい」
坂下はそのクオリティに驚いた。
「やっぱり若い人は凄いなぁ」
「大した事ないですよ」
今回、単独ライブでは映像を使ったネタをやりたいという事で、若い作家にその映像を作ってもらったのだ。この作家とは、「コントな夜」で知り合った。
「坂下さんの頼みなら、全然やりますよ」
快く映像を作ってきてくれた。
「想像以上で、逆にネタがつまんなく感じるかも」
「大丈夫ですよ」
「あとは兼人がどう動くかだなぁ」
坂下は被っていた帽子を更に浅く被った。
「でも、坂下さんがくれた脚本だと、絶対おもしろいですけどね」
「いや、兼人と稽古するとその脚本、変わったりするから」
「大体、そうだよね」
友人の作家が言った。彼はずっと、フィヨルドのネタ会議に参加してくれている。
「そうなんですか」
「あくまでも兼人がちゃんと出来るか、だからねぇ」
「倉田さん主体なんですね」
「うん」
「今回は君に見せる為に脚本作っただけで、普段は作らないから」
「そうなんですか?」
「兼人が台詞覚えられないから。大体こんな感じってだけ教えてる」
坂下はそんな会話をしながらもネタ帳に書き込んでいる。最近では整理する為にタブレットでも書き込む。作家も側には居るが、ほとんどが坂下がネタの骨格を作り上げてから報告してくる。よほど悩んでいる時は、相談してくるが、坂下は頭の中でひたすらネタを作り上げる。しかし、その姿はぼんやりしているようにしか見えない。若い作家も「コントな夜」で、そんな坂下を見ている。ぼんやりしているように見えて、ネタ会議では次々とアイデアを出していた。そのうえ、作家たちが雑談しているのも聞いていて、急に話に入ってきたりする。この人はネタを作る事に関しては、天才的なのかもしれない。しかし、ネタ会議が終わればのんびりした、少しとぼけた人になる。
「あれ、帽子どこだっけ?」
と、帽子を被っているのに探しているのには驚いた。
「とりあえず、三つ考えといたけど、どの展開がいいかなぁ」
いつの間にか三つも展開を考えている事に、若い作家は感心していた。
「おや」
打ち合わせを終えて帰ろうとすると、珍しく坂下は野島と会った。
「お疲れ様です。兼人がお世話になってるみたいで」
「単独ライブの打ち合わせ?」
「はい」
坂下は以前見た時よりもやつれていた。
「ってか、痩せたか?」
「えっ、そうですかぁ?」
坂下は被っていた帽子を更に浅く被ると、頬を撫でた。
「またスタイリストさんに怒られちゃうなぁ」
坂下は悲しそうな表情になった。
「大丈夫か?単独ライブまで、体、持つか?」
坂下はぼんやりした表情になって、首をひねった。
「いやぁ、まだそんなには疲れてなかったんで大丈夫だと思います」
「気付かないうちに痩せてくなんて、ヤバいだろ。やめろよ、ちゃんと食わないと体壊すぞ」
坂下はぼんやりしたまま、野島を見た。
「……俺、父親に似てるそうなんです」
「早くに亡くなってるんだっけ」
「はい。だから、俺は一つも覚えてないんですけど。だから時々思うんです。俺も父親みたいに早死にするかもなぁって」
「やめなって、そんな弱気な事言って。ちょっと疲れてるんだな」
「そうですかねぇ」
「倉田は?」
「ロケで居ません。今回、映像を使ったネタがあるんで、兼人は稽古だけやれるように、全部決めとかないといけなくて」
「ちょっと、お前の負担、大きくないか?」
「いいんですよ。兼人は忙しいですから」
「それでお前が倒れたりしたら、倉田、泣くぞ」
「ライブまで持てばいいんです」
野島は坂下の細い肩を優しく掴んだ。
「やめな。疲れたら休む。お前はそれでなくでも溜め込むってのに」
「すみません、でも大丈夫ですから」
坂下は突然、冷たい目で野島を見た。おぉ、これが倉田の言ってた冷たい目、か……。
「兼人には言わないでくださいよ。俺の事で迷惑かけたくないので」
「迷惑、か?」
「とにかく言わないでくださいよ。お疲れ様でした」
坂下は力なく頭を下げると、歩いていった。
「なるほどな。……なかなかの冷たい目だったわ」
野島はとぼとぼ歩いていく坂下の後ろ姿を見つめた。
倉田はテレビ局に入ると、大塚を見かけた。
「あれ、倉田さん。おはようございます」
倉田は思わず口を尖らせた。
「何です、その顔」
「俺には『倉田さん』で、坂下くんには『坂下』なんだ」
「坂下とは親友なんで」
「親友?」
倉田はまた口を尖らせた。
「ちょっと、もしかして嫉妬してるんですか?」
「別に」
「倉田さんは坂下の相方でしょ。俺に嫉妬なんておかしいですよ」
「別に、嫉妬してないし」
「坂下と喧嘩でもしたんですか?」
「坂下くんが俺に怒らないの知ってるくせに」
「じゃあ、倉田さんが勝手に怒ってるんですね」
「勝手に?何それ、俺が悪いの?」
「坂下は倉田さんに怒りませんよ、絶対に。それに、胸の内も絶対に話しません」
倉田は立ち止まると、大塚を見上げた。大塚の方が背が高いからだ。
「何で」
「あいつは相方に無理はさせません。倉田さんに苦しみを与えるくらいなら、自分が苦しみます」
「……何で分かるの?」
「分かりますよ。俺はあいつの親友ですから」
倉田は思わず大塚に近付いた。
「倉田さん、本当に坂下の事、理解しようとしました?」
「えっ?」
「倉田さんにも言い分はあるんでしょうが、坂下にだって言い分はあるんです。ただ、あいつは言いません。言わない事で、倉田さんとの仲を保とうとしてるんですよ」
「…………」
「あいつは、今でも前のコンビのトラウマを抱えてるんです。だから、倉田さんにひたすら気を遣ってるんですよ。ただ、あいつの気遣いは分かりにくいんです」
倉田は何も言い返せなかった。
「坂下の事、まだぼんやりしてるだけの甘党だと思ってるようじゃ、倉田さんは坂下の親友にはなれませんよ」
「…………」
「俺、こっちなんで失礼します」
大塚は立ち去った。坂下に言えば怒られるかもしれない。でも、倉田ばかり思い悩んでいると思われたくなかった。坂下は何も考えていないように思われているし、頑張っているようにも見られない。それが、大塚も悔しかった。
「俺、まだ芸人、やってていいんだよね……」
あの時の、坂下の姿は忘れられない。倉田にも、少しは思い知らせたくなってしまった。
倉田は楽屋に入った。坂下はまだ来ていない。
「坂下くん、まだ?」
「それが、ちょっと熱が出たらしくて、動けないらしいんです」
「えぇ?」
「なので、私、ちょっと見てきます。今、こっちにマネージャー呼んでますから」
「うん」
倉田はため息をついた。
「あいつは相方に無理はさせません。倉田さんに苦しみを与えるくらいなら、自分が苦しみます」
「兼人は売れたがってたじゃん。そして今、まさにそうなってる。だから、突き進めばいい。どんどん先に進んでいけばいいんだよ」
大塚の言葉と、坂下の言葉が倉田の頭の中で聞こえてくる。
「…………」
倉田は拳を作った。
坂下は目を覚ました。電話が鳴っていた。体に力が入らないが、マネージャーからかもしれない。坂下は力を振り絞って、電話に出た。
「……もしもし」
「坂下くん?俺、倉田」
「……兼人、どうしたの?何か、問題あった?」
「大丈夫。収録は一人でやったから」
「ごめん」
「明日は大丈夫そう?」
「でも、確か、明日は兼人一人の仕事だけだったと思うから……」
「ごめん」
「……何で兼人が謝るの」
「単独ライブの打ち合わせとか、だいぶ大変だったって聞いたから」
「……別に兼人が謝る事じゃないし」
だいぶ声が苦しそうだ。
「ごめん、もうしんどいよね。もう切るよ」
「ごめん。迷惑かけて、ごめん……」
倉田は電話を切った。だいぶつらそうだった。倉田はあの時を思い出した。
「お前が直接、坂下に言ってきた方がいいぞ。坂下、本気で辞める気だから」
スクールの講師だった谷地田に言われて、倉田は坂下のバイト先でバイトを終えるのを待った。坂下は当時、コンビニでバイトをしていた。のんびり屋さんだが、バイトはちゃんと出来ていた。
「あれぇ、兼人、どうしたの?」
バイトを終えた坂下がコンビニから出てくると、倉田は近付いた。
「ちょっと、近くまで来たから」
「ふぅん」
坂下は歩き出した。もちろん倉田も歩き出す。この頃、二人は友人だった。スクールで知り合ってから、ご飯を食べに行ったり、ずっと喋っていたり。先輩後輩ではあったが、同い年という事もあって、お互いタメ口で気を遣わずに一緒に居た。
「あっ、ご飯食べた?」
「まだ。お腹減ったけど、何か疲れたからどうしようかと思って」
「ラーメンでも行く?」
「重たいなぁ。そんなに食べられないよぉ」
「じゃあ、牛丼は?」
「うーん、重たいかなぁ」
「ミニ食べればいいじゃん」
「うん。そうしよっかぁ」
二人は牛丼屋で夕食を済ませ、坂下の部屋へ向かった。坂下の部屋は昔から綺麗だった。
「何かあって来たんでしょ?」
坂下は冷蔵庫から紅茶のペットボトルを出すと、コップに注いで倉田に出した。倉田はコーヒーが飲めないからだ。自分はコーヒーの缶を取り出して、飲んだ。
「うん」
「どうしたの?」
坂下は携帯を充電した。わざとテレビはつけず、倉田が話し始めるのを待ってくれていた。
「俺、解散する事になって」
「……えっ?」
坂下は倉田を見た。
「それって、どっちから言ってきたの」
「相方がピンでやりたいって」
坂下はため息をついた。
「どうするの、兼人もピンでやるの?」
「いや、俺、ネタなんて書けないよ」
「じゃあ、新しい相方見つけないとね」
「うん」
「スクールで今から組んでくれる人、居るかなぁ」
坂下はぼんやり上を見た。
「……もう、決めてる」
「えぇ、もう決めてるの?新しい相方」
「うん」
「じゃあ、よかったねぇ。兼人ならやれるよ」
「坂下くん、俺とコンビ組まない?」
坂下は途端に、眉をひそめた。
「……何で、俺なの」
「俺、坂下くんとコントやりたい」
坂下はため息をつくと、コーヒーを飲んだ。
「……他に、候補とか居なかったの」
「居ないよ。俺、ずっと坂下くんとやってみたいって思ってたんだ」
「…………」
「坂下くんこそ、芸人辞めちゃ駄目だ。あんなネタ書けて、大喜利も出来て……」
坂下はまたコーヒーを飲んだ。
「坂下くんが組まなきゃ、俺、辞める」
坂下はゆっくり倉田を見た。冷たい目だった。倉田は驚いた。これまで坂下はそんな目を見せなかったからだ。
「さっ、坂下くん……」
「本気で言ってるの」
「本気だよ。俺、坂下くんと組みたい」
坂下は苦しそうに眉をひそめると、目を伏せた。
「俺はそんなにいいネタも書けないし、ツッコミなんてやった事ないよ」
「だったら、俺がツッコミ……」
「兼人はボケだよ。決まってる」
坂下は俯いてしまった。怒っているのだろうか。倉田はどうしていいか分からず、二人は黙り込んだ。
「……この事、誰かに相談した?」
「谷地田さんに話したよ。それで、俺に直接言いに行けって言われて……」
「やっぱりそうかぁ」
坂下はコーヒー缶を強く握っていた。倉田はドキドキしていた。
「……兼人、どうしても俺と組みたいの?」
「組みたい」
「コントがいいの?」
「坂下くんとコントやりたい」
「……ネタ見せっていつだっけ?」
「来週」
坂下は俯いたままだ。
「いいよ。兼人がやりたいなら」
「ほんとに?ありがとう」
倉田はにっこり笑って坂下に近付いた。坂下は仕方なく笑った。
「よかった。これで俺たち、辞めなくてもいいんだよ。俺たち、芸人続けよう。頑張って売れよう」
「……うん」
坂下は悲しそうに目を伏せた。
そうだ。今思えば、あの時の坂下は悲しそうだった。辞める気だったのに、俺が芸人の道に引き戻してしまった。それなのに、頑張って売れようとすら言ったのだ。あの時、坂下くんは決めてしまったのだ。俺の為にネタを書こう、ツッコミをやろう、頑張って売れさせてやろう。自分の為ではなく、俺の為に。
「倉田さんにも言い分はあるんでしょうが、坂下にだって言い分はあるんです。ただ、あいつは言いません。言わない事で、倉田さんとの仲を保とうとしてるんですよ」
そうだ。その通りだ。坂下くんの言い分を、俺は一度も聞いた事がない。
「……そのへんが僕は、変わってるのかもしれません。ぼんやりしてたらそのうち忘れていくんです」
そんなの嘘だ。忘れようとして、ぼんやりしているんだ。坂下くんは、ずっと俺の為に生きてきたのだ。
「ごめん、坂下くん……」
倉田は泣き出した。
坂下は単独ライブの打ち合わせで、事務所に来ていた。
「顔色悪っ」
友人の作家が、坂下を見て言った。
「いいんだよぉ。熱は下がったし」
「いや、具合悪すぎだろ」
「もう、いいからやろ。まだ詰めてないところあるからぁ」
坂下はのそのそとネタ帳とタブレットを取り出した。
「ほんとに倒れないでよ」
「今日はこれだけだから、倒れても大丈夫」
「勘弁してよ」
「大丈夫だよぉ。ライブまでは必ずやり通す」
何気ない言葉に、坂下の覚悟が見えた。友人の作家は頷いた。
全てのネタの候補が出来上がった。
「もう、やめよ。ほんとに倒れられたら困るから」
「うん。さすがに、疲れた……」
坂下は暫く頬杖をついて、動けなかった。
「最近さぁ……」
坂下は疲れ切った表情で言った。
「昔の事、思い出すんだよねぇ」
「前のコンビの?」
「うん。あの頃は、楽しかったなぁって」
友人の作家は年上だが、倉田と同期でスクールに入っていた。しかし、坂下を見て芸人を辞めた。坂下とネタを作りたいと思ったからだ。そんな彼を、坂下も信頼していた。
「よく楽しかったなんて言えるね」
作家も、前の相方が坂下に暴力を振るっていた事は知っている。
「それは先輩が居なくなっちゃう少し前でしょ。もっと前は、優しかったんだよ」
「……倉田は、好きじゃないの?」
「まさか。でも、フィヨルド組んでからは、兼人の事を優先してきたから。前のコンビは、ちょっとは俺の事を優先してたんだ。ボケだったし」
「坂下も自分の事、考えたらいいじゃない」
「ううん。決めたんだ」
「決めた?」
「兼人に言われたんだ。『頑張って売れよう』って。先輩にも言われた事なかったんだよ。だから、覚悟決めたんだ、これでも」
坂下はため息をついた。
「何とか兼人はレギュラー決まったし、あの時の約束は果たせたと思うけど……」
坂下は立ち上がった。
「これ以上売れたいって言われたら、もう、俺には無理だなぁ」
作家も立ち上がった。
「フィヨルドなら、出来るよ」
「またまたぁ、無理だよぉ。……あれぇ、カバンどうしたっけ?」
「今日はリュックだし、背負ってるよ」
「やっぱり、来れないそうです」
マネージャーは顔面蒼白になっている。
「落ち着いて。しょうがないよ。うちらだけで二時間やるしかないよ」
坂下は途端に、鋭い目つきになった。横に居た倉田は、思わずかっこいい、と言いかけて口をつぐんだ。この日は地方でのお笑いライブで、もう一組来る予定が、新幹線が止まったらしく、来られなくなってしまったのだ。
「二時間かぁ……」
ほとんど単独ライブ状態だ。坂下はすでにどのネタをやろうか、真剣な表情で考えている。倉田はひたすらそんな坂下を見守るしかなかった。出番まで、もう十分を切っている。
「兼人、前のネタやるから、練習はいいよね?」
「うん。タイトル言ってくれたら」
「……分かった」
「フィヨルドさん、大丈夫ですか?」
主催者が慌ててやって来た。
「一時間半でも大丈夫ですから」
「何とか、やってみます」
「ありがとうございます」
電話がかかってきて主催者が立ち去ると、坂下は一つ、息を吸い込んだ。
「……行こうか」
先に舞台に出ていくのは、いつも倉田だ。坂下は倉田の背中を追いかけた。
見事にフィヨルドはフリートークとネタとで、二時間のライブをやり遂げた。
「ありがとうございましたー」
割れんばかりの拍手を背に、二人はステージを降りた。
「ありがとうございました。本当に助かりました」
「いや、何とかやれました」
その後、フィヨルドのマネージャーにようやくもう一組が来たと電話があった。明日もライブはあるので、そちらは二組でやれそうだ。
「いやぁ、しびれましたぁ」
倉田は興奮して、コーラを飲んでいる。一方の坂下は、明日もあるので珍しくウーロン茶を静かに飲んでいた。
「いや、本当に坂下くんのおかげですよぉ」
倉田はすっかり上機嫌だ。主催者がお礼にと焼き肉をごちそうしてくれて、坂下は黙々と焼き肉を食べている。
「ありがとうございました」
打ち上げを終えて、フィヨルドとマネージャーはこの日泊まるホテルへとタクシーで向かった。
「……坂下くん、大丈夫?」
倉田はずっと車窓を見ている坂下を見た。
「うん」
マネージャーも気にはなっていたが、坂下は口を開こうとはしなかった。
ホテルに着くと、倉田は隣の部屋に入っていく坂下の姿を見つめた。
「……何?」
坂下は視線に気付いたのか、倉田を見た。
「いや、お疲れ」
「お疲れ」
坂下は部屋へと入った。
部屋に入ると、坂下はベッドに腰掛けた。上着を脱ぐとぽすんと横になって、目を閉じた。体も頭もフル回転した。自分たちの単独ライブならば、事前に全て準備してあるが、今日はまさにあの瞬間で決めてやらなければならなかった。しかも、珍しくかなりウケた。まるで、あの大会の一本目のネタを披露した時のようだった。ただ、あの時と違うのは、しんどかったが楽しかったという事だ。
「…………」
兼人とコントをしていると、楽しい。フリートークも楽しかった。思えば、若い頃はよく坂下の部屋で何気ない雑談で盛り上がっていた。そうだ、兼人と居ると楽しいのだ。兼人が相方だったから、今まで頑張れたし、今日だって頑張れた。そんな当たり前の事が、今になって思い知らされた。でも、これでこれから行われる単独ライブの新ネタがウケるのか、心配にもなってきた。
……まぁ、いいか。俺の考えられる限り、最高のネタを作ったつもりだ。これで駄目なら、それまでだ。
「見てください。初日のライブ、ネットニュースになってますよ」
二日間のライブを終えて翌朝、マネージャーが駅に向かう途中、興奮した様子で言った。
「えぇと、『フィヨルド、急遽、二時間ライブやり遂げる』。いやぁ、参ったなぁ」
倉田も文面を見てニコニコしている。坂下はそんな事より眠くて、口を手で隠して欠伸をしている。
「そうだ。坂下くん、これ」
倉田はさっきまで朝食を買いに寄っていたコンビニの袋から、オムレットを出した。
「……何?」
「初日、ごくろうさまでした。坂下くんだから、二時間出来たんだよ」
坂下はオムレットを見た。
「お前、甘いの好きだろ」
先輩もウケると褒めてくれた。そして、必ず焼きプリンをごちそうしてくれた。
「ほら、坂下くん、こないだこのオムレット美味しいって言ってたから。もう、飽きちゃった?」
坂下はオムレットを受け取った。
「ありがとう」
坂下は微笑んだ。倉田はその何倍も笑った。横で見ていたマネージャーは、思わず泣きそうになった。