第一章:魔王就任と“働き方改革”の始動
辺りを見回しても、どこを見ても黒々とした大地が広がっている。まるで夜の闇が永遠に続いているかのような空気の中、相馬 誠司は呆然と立ちすくんでいた。自分が今いる場所は、どうやら“暗黒大陸”と呼ばれる地域らしい。地平線に目を凝らせば、遠くの方に小さな村らしきものがあるが、土の色は灰色や黒に近く、草木も枯れ木のような姿ばかり。空気が湿っているのか、鼻先には仄かな硫黄のような匂いが混じっている。
「ここが……魔王の住処か」
そう呟いた視線の先、突き抜けるように高くそびえるのが、いわゆる“魔王城”だった。黒い石造りの外壁に、無数の尖塔、そして中央には巨大な塔が一本そびえており、その先端には不気味な魔力を宿した宝珠のようなものが浮かんでいる。どこを切り取っても「いかにも悪の本拠地です」と言わんばかりの外観なのだが、当の相馬は、そこで暮らすことになるのかと思うと気が重い。
「魔王様、お気に召しませんか?」
後ろから声をかけてきたのは、先程“儀式”とやらを執り行っていた年配の魔族――名前はまだ聞いていないが、仮に執事のような役割なのだろうか。彼はいかにも畏まった態度で相馬に近づき、やや心配そうに表情を曇らせた。
「いや……すごい城だけどさ、どこからどう見ても“悪の要塞”だよな。俺がここに住むってこと? なんか、もっとこう……明るい雰囲気にはできないのか?」
相馬は正直な感想を述べる。内心では、ダークファンタジーの世界に迷い込んだかのような壮観には圧倒されているが、ブラック企業でさんざん追い詰められた経験からすれば、こんな重苦しい空気の中で暮らすなんて気が滅入りそうだった。
「魔王城は代々、この暗黒大陸の中心に立ち、魔族の威厳と力を象徴してきたもの。その見た目こそが敵対勢力への威圧となり、我らを守る盾ともなるのです。先代魔王様は、さらに上階を増築されて、より強固な要塞へと――」
「いやいや、そこまでは詳しく聞いてないし……」
相馬は思わず頭を抱えそうになる。どうやらここでは「魔王は恐れられてナンボ」という価値観が当たり前らしい。もちろん、魔族自身も「魔王がいるからこそ安定が保たれる」という感覚なのだろうが、相馬にとってはピンとこない。
「まあいいや、とりあえず中を案内してもらえる? 俺も全然勝手がわからなくてさ」
ひとまず落ち着きたいという気持ちを前面に出し、相馬は城の正面ゲートへと足を進めた。門番のような魔族が慌てて扉を押し開けると、内部には広い中庭が広がり、その奥にまた大きな門がある。外観から想像していた通り、複雑な構造だ。ここを防衛拠点として活用するのならば、敵が侵入してきてもそう簡単には奥へはたどり着けないだろう。
だが、相馬の目には、そんな防衛機能よりも「やたらと階段が多いな」「移動が面倒そうだな」という実用的(?)な問題点が先に映ってしまう。城の造りを見上げれば、塔と渡り廊下が何層にも連なり、端から端まで歩くだけで疲労困憊になりそうだった。
「ここで毎日生活するってなると、かなり歩くことになるんじゃ……。エレベーターとかエスカレーターとか、そういうのはないのか? って、あるわけないか。異世界だもんな」
ぼやく相馬をよそに、周囲の魔族たちは「魔王様……その“エスカレーター”とは、いったい何でございますか?」と不思議そうな顔をしている。この世界では文明レベルがどの程度かもわからないが、少なくとも動力機械などはなさそうだ。
そうこうしているうちに、中庭を抜け、二重目の門をくぐって広間へ入る。そこはまさしく“王の間”と呼ぶにふさわしい豪奢な造りで、天井が高く、漆黒のシャンデリアや巨大な石像が配置されていた。壁には何らかの紋章や魔物の絵が飾られ、重厚感をさらに強調している。
集まっていた多数の魔族たちが、相馬の姿を見るやいなや、一斉に跪いて恭しく頭を下げた。
「魔王様……! どうか、この大陸を支配し、我らに新たな時代をもたらしてくださいまし……!」
彼らの熱狂は、相馬からすれば明らかに行き過ぎている。まるでアイドルのライブ会場に押し寄せるファンのような熱量――いや、もっと“信仰”に近いかもしれない。
「みんな、立ってくれ。そんなに頭を下げられても困る……」
相馬は恐縮しながら声をかける。しかし、魔族たちは逆に「恐れ多い」とか「この場に立つことすら畏れ多く感じます」などと返して、ますます下を向いてしまう。
(これが“支配される”側の気持ちなのか……。俺も会社で散々、上司にこんなふうに頭を下げ続けていたな)
心に過ったのは、ブラック企業での日々だ。あのときは“頭を下げる”というよりは“叱責を耐える”という姿勢だったかもしれないが、少なくとも一方的に相手が上で、自分が下という構図は同じだった。
相馬は胸の内にじわりと湧く嫌悪感を押し殺すと、先程感じた“絶対命令”の力――支配権限について、改めて考えを巡らせた。彼は玉座のそばに立ち、そこへ案内してくれた年配の魔族に問いかける。
「さっき言ってた、この“支配権限”ってのは、具体的にはどう使うんだ? 俺が何か言えば、魔族は必ず従わなきゃいけない、ってことか?」
「はい、まさにその通りでございます。魔王様の言葉は絶対であり、拒否することはかないません。ただし、あまりにも理不尽で不可能な命令については、その権能の範囲を超える場合もございますが……それでも多くの事柄は叶えられるはず。これは先代魔王様が築いた最強の魔力の結晶とも言うべき力で……」
年配の魔族が説明を続けるのを聞きながら、相馬はうっすらと額に汗がにじんだ。なにしろ「絶対」という言葉は、彼にとって忌まわしい記憶を呼び起こす。ブラック企業の上司や社長が「やれ」と言えば、どんな無理難題でも徹夜でこなさなければならない。拒否権などなかった。
――だが、今回は自分が“上司”の立場だ。ならば、今度こそ“良い方向”へと権力を使うことができるのではないか。
先程、プロローグの終わりにも考えたように、相馬はこの力を“働き方改革”のために使えないかと模索していた。理不尽な命令ばかりするのが嫌なら、自分が逆に“理にかなった命令”を下し、魔族も自分自身も苦しまない仕組みを築けばいいのではないか――そんな淡い期待だ。
「じゃあ……試しに何か命令してみるか」
相馬は玉座に腰掛けるのも躊躇するので、背もたれに軽く手を添えながら、広間に集まる魔族たちを見回した。皆、期待に満ちた目を向けている。
「……お前たち、まずは顔を上げてくれ。そんなに頭を下げ続けてたら、首を痛めるだろ」
そう言った瞬間、不思議な圧力のようなものが広間全体に走った。まるで空気が震えるような感覚。それはほんの一瞬だったが、魔族たちはハッとしたように顔を上げ、やや緊張した面持ちで相馬の言葉を待つ。
(これが支配権限の発動なのか? 今のは大したこと言ってないけど、まあ確かに絶対命令が働いたのかもしれない)
相馬は少し居心地の悪さを覚えつつも、「なるほど、こういうものか」と理解を深めた。ならばこの力で、“徹夜禁止”とか“休日制度”とか作れないだろうか。いや、現実味があるかは分からないが、やってみる価値はあるだろう。
「みんな、あー、ちょっと聞いてくれ。俺は今、ここで魔王になったばかりで、何が何だか分からない。だけど一つだけ言えるのは、俺は“支配”って言葉があまり好きじゃないんだ。過去の経験上、押さえつけられるのも押さえつけるのも、ろくなことがないと知ってるから」
そう切り出すと、魔族たちは「そんな……魔王様が支配を嫌うなど……」とざわめき始めた。何せ、彼らはずっと“圧倒的な力でまとめ上げる”魔王を望んできたのだ。それがいきなり「支配は好きじゃない」と言われれば驚くのも無理はない。
相馬は手を軽く振ってその動揺を制し、さらに言葉を続けた。
「でもな、せっかく魔王になったんだ。ならば、俺なりのやり方でみんなが幸せに暮らせる世界にしたい。例えば……そう、働きすぎで体を壊すことがないような仕組みとか。ちゃんと休めるようにするとか」
広間は再び騒然となった。魔族の中には「働きすぎ……?」と首をかしげる者もいれば、「休むなんて甘えだ!」と憤慨する者もいるらしい。魔族社会では、強い者がひたすら戦いと労働に明け暮れ、弱い者はさらに苦しい環境を受け入れざるを得ないという構図があるのかもしれない。
「ちょ、ちょっと待ってください、魔王様。私どもは、魔王様にこそ圧倒的な支配力を発揮していただきたく――」
と、年配の魔族が遠慮がちに意見を述べかけたが、相馬はそこで思い切って“ルーラーズ・コマンド”の一端を行使することを決めた。
「俺の命令はこうだ――“週休二日制”を導入する。つまり、一週間に二日間は必ず休みを取ること。もう一つ、“残業禁止”。夜になったらしっかり寝る。むやみに夜通し働くのはやめろ。以上だ」
ドン、と重い衝撃が広間を包み込む。今度は先ほどより強くはっきりと、相馬自身にも“支配権限”が発動したことがわかった。魔族たちの顔色がみるみる変わり、身体に力が入らなくなったように膝をつきそうになる者もいる。
しかし、次の瞬間、館内は大パニックに陥った。「そんな無茶な!」「休みなんて取ったら、魔王城を維持する仕事が回らないではありませんか!」「働かせてもらえないなんて!」と、悲鳴や困惑の叫びがあちこちで響く。
「おいおい、なんでそんなに嫌そうなんだよ……」
まるで自分が“働きたい意欲”を奪うひどい魔王だと思われているかのように、相馬は戸惑う。ブラック企業では「休みを取らせてもらえないから辛い」というのが当たり前だったが、ここでは“働きたがる”魔族が多いらしい。
「魔王様、我々は魔族。弱肉強食の世界で生き残るには、戦闘訓練や城の維持管理、警備など、休む暇なく励まなければなりません。そうでないと、他の勢力に侵略される恐れもありますし、何より弱い姿を晒してしまう……!」
「いや、それはわかるけど、休息は大事だろ? 疲れたらパフォーマンスが落ちるし、事故や怪我が増える。最悪、命だって危ないんじゃ……」
“安全管理”という概念がどこまで通じるのかわからないが、少なくとも相馬が地球で学んだ知識や常識によれば、まともに休みも取らずに働いていればどこかで限界が来る。戦闘職にとっても大事なのは“体調管理”だろうし、休養を取ることで逆に生産性が上がるのだ――と説明しても、魔族たちにはピンとこないようだ。
そうして議論(というより、魔族の悲鳴に近い言葉)を聞き続けるうちに、相馬の頭痛は強まる一方だった。
(俺が考えていた“働き方改革”は、こっちの世界では受け入れられないのか? でも、せめて休日くらいは設定したい。残業禁止も守ってほしい。何とか上手くやっていく方法はないのか……)
思案に暮れる相馬を見かねて、年配の魔族が「よろしければ、魔王様のお考えを詳しくお伺いしたいです。皆にも説明していただければ、また違った見方ができるかもしれません」と言ってきた。
「わかった。大広間で話すには人数が多すぎるし、とりあえず側近っぽい奴らを集めてくれ。そいつらに俺の方針を伝えて、それを各部署に周知徹底するって形にしよう」
こうして、相馬は魔王としての初仕事――「内政改革」の第一歩を踏み出すことになった。
黒いローブを身にまとった幹部らしき魔族たちがずらりと並び、長いテーブルを囲む光景は、まるで企業の緊急会議のようでもある。魔王城といえど、これだけの人数をまとめるには組織形態がある程度整っているらしく、それぞれ“軍事担当”“経理担当”“外交担当”といった役職に分かれているようだ。
「では、魔王様。お話を伺わせていただきます」
最初に口を開いたのは、細身で眼鏡をかけた魔族の女性。おそらく経理や書類管理的な仕事をしているのだろう。彼女は好奇心と警戒心が入り混じった目つきで相馬を見つめている。
「うん……じゃあ率直に言うと、俺は“週休二日制”と“残業禁止”を徹底していきたい。理由はさっきも言ったけど、体力の温存と効率アップ。それと、俺がいた元の世界じゃ、過労死とかいう悲劇も起きてて、働きすぎは何もいいことがないと思ってるから」
相馬が言い切ると、会議室(と呼んでいいのかわからないが)は妙な沈黙に包まれる。幹部らは顔を見合わせ、どう反応していいのか分からない様子だ。
やがて、軍事担当と思しき頑健な体格の魔族が渋い声で口を開いた。
「しかし、魔王様。確かに疲労は溜まり過ぎない方がいいのでしょうが、実際問題として、警備や訓練は毎日欠かせません。休みを設けると、その分だけ人手が足りなくなるのではありませんか? 特に、近隣の魔物や他国の侵入に備えるには、慢性的に兵力が必要で……」
「そこは交代制で回せばいいだろ。例えば、一週間を七日と仮定して、全員が一斉に休むわけじゃなく、部署ごとに輪番で休みを取れば業務に支障は出ないはずだ。ちゃんとシフトを組めばどうにでもなる」
「し、シフト……?」
「要は、何人かずつが休む日を決めるってこと。全部署が同じ日には休みにしない。でも、あくまで各自が週に二日は休めるように調整するんだよ」
相馬はホワイトボードでもあれば図示したかったが、そんな文明はなさそうなので言葉で説明する。幹部らは苦戦しつつも、なんとか理解したらしく、経理担当の女性はメモを取り始めた。
「なるほど……そういう割り振りにすれば、城の機能が止まることはないかもしれませんね。でも、兵士の数が少ない部署はどうしても休みを回すのが厳しいかも……」
「人手が足りない部署には、別部署や非戦闘員を一定期間だけ融通するとか。要は助け合いだよ。お前ら、部署間の連携とかやってないのか?」
相馬が少し呆れた口調で尋ねると、幹部たちの表情は複雑になった。どうやら、今まで魔族は“力が全て”という風潮が強く、部署間の壁も厚いらしい。戦闘組織は戦闘に専念し、内政組織は畑仕事なり城のメンテナンスなり、各自が好き勝手に動いていたのだという。
「そうか……それじゃあ、まずは部署間の協力体制を作る必要があるな。人員配置を見直して、夜間警備や訓練が行き届くように調整して――」
まるで企業コンサルタントのように話し始める相馬に、幹部たちは驚きを隠せない様子だった。そもそも“魔王”といえば恐怖で統率し、逆らう者は罰する存在というイメージが強い。ところが、今目の前にいる魔王は、極力みんなが無理しなくても回せる体制づくりを提案しているのだから、頭が混乱するのも無理はない。
「魔王様、失礼ながらお尋ねしますが、なぜそこまで“働き方”にこだわられるのでしょうか? 我々の伝統に反すると分かっていても、あえて改革を望まれるのは……?」
経理担当の女性が勇気を振り絞って質問した。相馬は少し考えてから、正直に答える。
「俺は、もともと“支配される側”だったんだ。自分の意思も無視されて、ただただ働かされるだけの毎日で、心も体も壊れそうだった。そういう思いは、俺だけで十分だと思ってる。だから、もし俺に権力があるなら、それを使って誰も苦しまずに済む仕組みを作りたいんだよ」
一瞬の沈黙。だが、幹部たちの表情には、先ほどまでの困惑だけでなく、ある種の共感や驚きが混じるようになる。
「なるほど……魔王様がそういうお考えならば、我々も協力を惜しむわけにはまいりません。ただ、具体策の立案には時間を要するでしょうし、現場との折衝も……」
「それはわかってるよ。急に全部を変えようとしてもうまくいかない。まずは試験運用でいいから、何人かずつ休暇を取る日を作ってみよう。成果が出れば、みんな理解してくれるかもしれないだろ?」
相馬はそう言って幹部たちに目を向けると、数人はまだ渋い表情ながらも、反対意見を口にしない。これはかなりの進歩かもしれない――そう感じたところで、扉の外から来訪を知らせる声が響いた。
「魔王様! 商人を名乗る男が、謁見を求めて参上しております!」
商人? 相馬は首を傾げる。こんな暗黒大陸の真ん中に、どんな商売人が来るというのだろう。幹部の一人が言うには、「魔王城には時折、人間の商人や他の種族が独自のルートで訪れて、武器や物資を売りつけに来ることがある」とのことだが、最近は先代魔王の死後、混乱が続き、まともに取引をする余裕はなかったらしい。
「いい機会かもな。ま、会ってみよう」
会議を一時中断して大広間に戻ると、そこにはスーツ――ではないが、妙に整った服装に身を包んだ男が立っていた。背筋が伸び、どこか“仕事のできる雰囲気”を漂わせている。
「初めまして、矢崎と申します。私は元々、別の世界で商社マンとして働いていたのですが、ひょんなことからこの異世界に来ましてね。それ以来、各地を回っていろんな取引をしているんです」
矢崎と名乗る男は、どことなく相馬が勤めていた会社の同僚や取引先を彷彿とさせるような雰囲気をまとっていた。きっと“あちら側の世界”でも有能なビジネスパーソンだったのだろう。
「別の世界って、俺と同じような境遇なのか……。それで、うちの城に何の用だ? 今のところ、武器や物資を買う余裕はあんまりないんだけど」
相馬がそう言うと、矢崎はにこりと笑う。
「いえいえ、私が欲しいのは取引だけではありません。噂を聞いたんですよ。“新たな魔王が就任し、何やら面白い改革を始めるらしい”と。私も、元の世界では取引戦略や経済の立案を得意としていたので、もしお力になれればと思いまして」
「経済、立案……!?」
相馬は驚きとともに胸が高鳴るのを感じた。この暗黒大陸で、そんなスキルを持つ人物がいるとは思わなかった。自分が考える働き方改革は、軍事や内政だけでなく、経済の基盤も整えないと成り立たない。そこを支援してくれる人材が現れたのだとしたら、願ってもないことだ。
「マジか。……実は、俺、今“週休二日制”とか“残業禁止”とか言い始めたばかりで、ほぼ手探りの状態なんだ。もしお前さんの知識や経験が役に立つなら、大歓迎だよ」
矢崎は「そうでしょう、そうでしょう」と自信満々に頷く。
「この世界で私が見てきた限り、魔族の経済ってのは、戦力と恫喝に頼った略奪経済に近いところがあります。けれど、たとえば穏やかな交易路を開けば、周辺地域との安定した物流が生まれて、そこに新しい仕事や財が生まれます。そういうのを仕組みとして整えていくのが、商社マンの腕の見せ所ですよ」
その言葉に相馬は思わず感動してしまった。ブラック企業で培った経験とはまた別の角度で、矢崎はビジネス理論を駆使できるらしい。兵を率いて略奪するよりも、継続的な貿易で双方が利益を得る――そんな文明的な方法がこの世界で通用するならば、働き方改革にも追い風になるかもしれない。
「いいねえ! よし、早速だけど、うちの幹部たちと一緒に、魔王城の資金繰りや物資調達について相談してくれないか? 俺も参加したいけど、何から手を付けていいか分からなくてさ」
「お安いご用です。……ただ、もしかすると、“それじゃ魔王らしさが足りない”なんて声も出るかもしれませんね。魔族たちは、圧倒的な力による支配を望んでいる部分があるでしょうから」
矢崎の言葉に、相馬は苦笑する。実際、さきほど幹部会議で話した通り、多くの魔族は「魔王とはこうあるべき」と固く思い込んでいる。だが、相馬は自分のやり方を曲げる気はなかった。ブラック企業体質を撲滅するためには、多少の反発は覚悟のうえだ。
「……それで俺が嫌われるなら仕方ない。とにかく、今は変えるべきところを変えないと、この城も大陸も立ち行かなくなるかもしれないだろ? そうなる前に手を打たないとな」
相馬が静かに決意を込めた声でそう言うと、矢崎は頷いて笑顔を見せた。
「いやあ、面白い魔王様だ。どうなるか楽しみですね」
こうして、相馬は“絶対命令”という恐ろしい権能を活かしながらも、その使い方を“支配”ではなく“改善”や“改革”へ向けることを本格的にスタートさせた。『週休二日制』『残業禁止』という制度は、まだ始まったばかりで魔族たちの戸惑いも大きい。しかし、最初は拒否していた連中も、いざ休んでみれば意外と「体が軽くなる」「けがが減った」とメリットを感じるようになるかもしれない。
もちろん、そう簡単にはいかないだろう。そこには既得権益を守ろうとする者や、力任せの戦闘を好む者、あるいは外部からの侵略を狙う勢力など、さまざまな障害が待ち受けているに違いない。
だが、相馬にはもう後戻りする場所がない。ブラック企業から逃れるようにして流れ着いた異世界で、彼は“魔王”という大役を得た。そして今こそ、自分がかつて味わった苦しみを誰にもさせたくないという思いを実現するチャンスだ。
「さあ、覚悟しろよ。今まで散々苦しめられてきた分、俺はこの世界をホワイトにしてやるんだからな……!」
玉座の前に立ち、相馬はそうつぶやく。
その姿を見つめる魔族たちの表情は、やはり困惑と期待が入り混じったもの。しかし、不思議なことに、彼らの中には少しずつ「魔王様が考える“働き方改革”って、案外面白いんじゃないか?」と感じ始める者も出てきた。
それから数日、矢崎を交えた会議や部署ごとの打ち合わせが精力的に行われた。屋外の訓練場では、ローテーションを組んで兵士たちが交代制で訓練をする仕組みが試され、夜間は確実に休息できるよう警備体制を見直した。経理や内政担当も、資金繰りや食糧管理に余裕を持たせるために部署間の連携を図っている。
当然、完全にスムーズとはいかない。幹部連中の中には「こんなもの、本当に意味があるのか?」と疑問を抱き、渋々従っている者もいる。だが“絶対命令”という強制力のおかげで、とりあえずは実施段階に持ち込むことができた。
相馬は城内を回りながら、休憩所を増やしたり夜間照明を少し控えめにしたりと、地味な改善に取り組む。ブラック企業では得られなかった“周囲を変える力”が、今の彼には確かに存在する。
そうした中で、当の魔王である相馬自身も、実は「どこまで自分が頑張るべきか」を試行錯誤していた。何しろ、彼が寝ている間も魔族たちが働こうとするので、休む暇がないという本末転倒な状態になりかけたからだ。
「おいおい……俺が寝てる間に働かれたら意味ないだろ。部下に示しがつかないじゃん。頼むから、もう夜は寝てくれよ……」
魔族の一人からは、「魔王様が自ら率先して働かないと、やはり威厳が……」と遠慮がちに言われた。そうかと思えば、別の魔族は「魔王様こそ休日をしっかり取り、お身体をお大事にしてくださいませ!」と真逆のことを言ってくる。
(なるほど、ホワイト企業を目指すにしても、トップの働き方をどう見せるかは重要なんだな)
相馬は思わず元の世界の管理職たちを思い出し、多少なりとも同情の念が湧いた。とはいえ、ブラック企業の上層部は部下を消耗品のように扱ってきたわけで、一方で自分はそうなりたくない。うまく線引きをしながら、お互いに納得できる環境を作る――それが当面の課題となりそうだ。
「まあ、そう簡単に答えは出ないか。ひとまずはこのままやってみよう」
新魔王・相馬がそんな苦笑を浮かべているころ、一方で魔王城の外では、奇妙な噂が少しずつ広まり始めていた。
“新たな魔王は恐怖支配ではなく、何か訳のわからない“働き方改革”なるもので城を支配しているらしい”
“週休二日制や残業禁止とやらを強制して、魔族を逆に困惑させている”
“今なら魔王城は手薄かもしれない。改革なんて脆いものだ。攻め込むなら今がチャンス……”
噂を流しているのは、魔族内部の反対派か、あるいは人間界や他の種族が偵察を重ねているのかもしれない。いずれにせよ、相馬の改革路線を面白く思わない勢力が存在するのは確実だ。
矢崎はそれを察知するかのように、相馬へさりげなく耳打ちする。
「魔王様、そろそろ外部からの干渉にも気を配る必要がありそうですよ。内政改革だけでなく、いざという時の防衛や外交をどうするか、考えたほうがいいかもしれません」
「わかってる。だけど、俺は力任せで相手を従わせる方法は取りたくない。だからこそ、外交や交易ルートを確立して、お互いに利害が一致すればいいんだが……」
相馬の思い描くビジョンは明確だが、実行するには多くの準備や調整が必要だ。ブラック企業と違って、ここでは誰もが仕事に飢えているわけではないし、力の使い所を誤れば、たちまち血生臭い争いに発展しかねない。
“支配権限”という強大な力を手にしているが、相馬は決してそれを濫用したくはない。むしろ、その力をなるべく穏やかな方法で行使し、魔族と自分自身の両方が笑顔でいられる社会を築く――それが彼の目指す道だ。
“ハードルは高いかもしれない。でも、過去の俺よりはマシだ。あの地獄みたいな職場で、毎日死にそうになりながらパワハラに耐えていた頃よりは、ずっと希望がある”
玉座の間で思いを巡らせる相馬の顔には、確かな決意の色が宿っていた。改めて城の中を見渡すと、疲れ切った表情を見せる魔族は少なく、むしろ何か新しい風が吹いたような活気を感じる者もいる。
(よし、まずはこの城を“ホワイト化”してみせる。それから外の世界を少しずつ巻き込んでいこう。やることは山ほどあるが、ブラック企業でやってきた理不尽よりは、はるかにやりがいがあるはずだ)
こうして、新魔王となった相馬 誠司の“働き方改革”は、まだ小さな一歩を踏み出したばかり。試験運用とはいえ、週休二日制や残業禁止という概念は、魔族たちには衝撃的であり、一部では反発も根強い。
だが、矢崎という“商人”のアドバイスを得つつ、幹部会議で経済や組織運営のノウハウを共有しながら、彼らは徐々に前に進もうとしていた。よその国や外敵の動きは気になるが、まずは城内の足元を固めるのが先決だ。
さらなるドタバタ、あるいは想定外の騒動が待ち構えているに違いない。相馬はそれら全てを覚悟しつつ、自らの手で“魔王城改革”を主導していく。
「……ブラック企業の上司や社長に比べれば、魔族のトップのほうがまだマシかもしれねえな。俺の思う理想を、ここで試してやるさ」
すべての始まりは、奇妙な魔術陣を踏んだあの夜。過労死寸前だったサラリーマンが、暗黒大陸の頂点――魔王の座に就いたことで、世界は少しずつ変わり始めていた。ここが“悪の巣窟”から“ホワイトな職場”へと化す日が来るなんて、きっと誰も想像していなかっただろう。
しかし、新魔王は決して従来の支配像に固執しない。目指すのは、すべての者が満足できる環境と、自分自身が笑って過ごせる余裕――それこそ、ブラック企業で得られなかった“自由”なのだから。
(第一章・了)