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プロローグ

 相馬そうま 誠司せいじは、今日もまた深夜のオフィスにいた。机上のパソコン画面には、就業時間どころか日付すら忘れさせるほどの膨大な業務指示が並び、蛍光灯の冷たい光に照らされながら、ひたすらタイピングを続けている。

 「すみません、これ、今夜中に仕上げるんですよね?」

 斜め後ろから声をかけたのは、同じ部署の後輩・小林だ。彼もまた寝不足を隠せない顔つきで、赤い目をこすりながらモニターを睨んでいる。

 「いや、今夜中っていうか、明朝の始業前には全てのデータを提出して、部長からOKをもらわなきゃダメだろ。昨日の時点でそう言われてたじゃん」

 あまりに当然のように言う相馬の声には、諦念や疲労が混じっていた。これが初めての無茶な要求ではない。むしろ、このブラック企業では“締め切りは突然やってくる”というのが常識で、毎回ギリギリの時間まで働かされるのが日常と化しているのだ。

 小林は「はぁ……」と溜め息をついてから、どこかに希望が落ちていないかとでも言うように天井を見上げる。だが天井にあるのは蛍光灯だけで、過酷な現実を救ってくれる神など見当たらない。

 「先輩、もう朝の五時なんですよ。寝る時間、ないですよね……」

 彼のつぶやきに、相馬は「ああ、そうだな」と短く返事をするしかなかった。細胞が悲鳴をあげるような倦怠感はとっくにピークを越え、心身は限界を迎えつつある。こんな働き方を何度繰り返してきたのか、もう数えるのも嫌になる。自席には栄養ドリンクの空き瓶が転がり、引き出しには非常食のカップ麺が詰まっている。いつでも“戦闘”が続行できるように備えを怠らないのが、この会社の暗黙の掟だ。

 会社を辞めたい――そう思うことは何度もあった。だが、上司からのパワハラや脅し文句、そしてどこかで刷り込まれた「今辞めたらどこも雇ってくれない」という恐怖が、相馬を縛り付けていた。

 「……よし、あとはグラフをもう一つ作り直せば……」

 彼は自分に言い聞かせるように、わずかな前進を確認しながらキーボードを叩く。グラフを二つ追加してデザインを整え、さらに上司の好む無意味な装飾を足して、ようやく企画書の体裁が整う。そんな無駄な作業でも、やらなければ評価を落とされ、出世も何もあったものではない。それどころか、怒鳴られたり人格を否定されたりする恐れだってあるのだ。

 いつしか朝の七時を迎え、事務所の窓の外が薄明るくなってきた頃、相馬はようやく資料を提出し終えてデスクに突っ伏した。身体中がきしみ、休む間もなく次の業務が待っていることを考えると、頭痛がさらに増していく。

 「相馬、あと五分で朝礼だからな。準備しろよ」

 憎たらしいほど元気な声で声をかけてきたのは部長だった。相馬はぎこちなく体を起こし、「はい、すぐに行きます」と呟く。言葉にまったく力がこもらない。

 結局、そのまま定時も何もあったものではなく、次の案件の会議が始まり、打ち合わせが終われば今度はクライアントに送るプレゼン資料の修正依頼が押し寄せる。休み時間という概念はどこへ行ったのか、長時間労働が当たり前の空気が社内に充満している。

 相馬が席についたのは夜の十時を回った頃だった。すでに外は真っ暗で、いつから会社を出ていないのかさえわからなくなる。

 「ああ、もう帰りたい。むしろ倒れたい」

 さすがに限界を覚えた相馬は、意を決して部長に「今日は帰ります」と声をかける。すると部長はジロリと冷たい目で睨み、

 「帰るだと? 明日の昼までにまとめておくように言った書類はどうするんだ? お前がやらないと誰がやるんだよ」

 と、まるで使い捨ての駒にでもするかのような言い草だ。相馬の目の下のクマを見ても、彼が今にも倒れそうなほど疲弊しているのは一目瞭然。それでも容赦なく業務を押し付けるのがこの会社の常である。

 だが、相馬ももう限界だ。これ以上ここに居座れば、本当に命の危険すらある。

 「すみません、どうしても体調が悪いので……今日は……」

 部長は「勝手にしろ」と吐き捨てた。怒りと呆れを含んだ視線にさらされながらも、相馬はやっとの思いで席を立ち、スーツの上着を羽織る。会社を出たのは日付が変わってしばらく経った頃。

 夜の街は普段より静かに感じられる。ビルの谷間を吹き抜ける冷たい風が、熱を持った彼の頬を叩いていく。そんな刺激ですら、少し心地いいと感じてしまうほど、心が疲れ切っていた。

 「このままじゃ、いつか本当に死ぬな……」

 なんとも暗い未来予想図が頭をよぎる。仕事をしてもしても評価はされず、終わりの見えない業務は山積みで、睡眠時間も奪われ続ける。夢も希望もないこの状況を、いったい誰が救ってくれるのだろう――。

 ふと、視線の先に奇妙な光が見えた。街灯の下あたりに、何かサークルのような模様がぼんやりと浮かんでいる。立体的に揺らめいているようにも見えるその光に、相馬は吸い寄せられるように近寄った。

 「……なんだ、これ?」

 薄暗い路地に敷かれたアスファルトの上に、大きな円形の印が白いチョークのようなもので描かれており、その周囲を怪しく紫色の光が踊っている。まるで異世界ファンタジーに出てきそうな召喚陣のようだった。

 現実感がない光景に、相馬は頭を振りながら「疲れて幻覚でも見てるのか」と疑う。けれど、一歩一歩近づくごとにその光はより鮮明になり、足元へと迫ってきた。

 「あ……」

 一瞬、背後から冷たい風が吹き、相馬はよろけてしまう。すると、思いがけずその円陣の中心部分に片足が乗った。

 それだけだった。だが、次の瞬間、彼の体はまばゆい光に包まれる。まるで強烈なフラッシュを浴びたかのように視界が白く染まり、意識が遠のいていく。あまりの眩しさに目を閉じると、耳元で不思議なざわめきがした。

 ――ようこそ、新たなる魔王様。

 頭の中に直接響くような感覚で、何者かの声がそう告げる。その響きは心地よいとも恐ろしいともつかず、ただ確かに相馬の五感を揺さぶる。

 「ま、魔王……? はぁ、何言ってんだよ……」

 呟こうとした言葉は空しくかき消され、相馬は意識を手放した。ブラック企業からの逃避願望が高じて本当に倒れてしまったのか、それとも何かの冗談なのか。何もかもがわからないまま、彼は宙を舞うような浮遊感のなかへと沈んでいく。


 気がつくと、耳慣れない歓声が聞こえていた。目を開けると、そこは見たこともない巨大な石の広間だった。天井は高く、漆黒のレンガが積み上げられた壁面には奇妙な装飾が施されている。火がともる燭台やステンドグラスのような窓が、一目で“異世界”とわかるような雰囲気を醸し出していた。

 相馬は頭を押さえながら周囲を見回す。すると、黒いローブをまとった集団が何十人もひざまずき、彼に向かって祈りを捧げているではないか。

 「ついに……ついに我らの祈りが届いたのだ……!」

 「新たなる魔王様、我らが待ち望んでおりました!」

 魔王――先ほど頭の中で聞こえた言葉が脳裏に甦る。冗談ではなく、本気で自分が「魔王」として召喚されたということなのだろうか。

 「いやいや、ちょっと待ってください。僕はただのサラリーマンで――」

 戸惑う相馬に対し、ローブの中央に立つ人物がすっと近寄ってきた。年配の男性のようだが、尖った耳と長い爪を持ち、その表情には歓喜と畏怖が入り混じっている。

 「この大陸を統べる魔王の座は、代々最強の存在によって引き継がれてきました。ですが、先代魔王が崩御してから百年。誰もその力を受け継げず、我らはずっと後継者を探していたのです……。その結果、あの召喚陣によって、別世界からあなたをお呼びしたのですよ。相馬 誠司様」

 「は、はぁ……。いや、まったく意味がわかんないんですけど……」

 混乱に拍車がかかる。ブラック企業に疲れすぎて見ているただの夢かもしれない。しかし、そう言い聞かせるには周囲の熱気と異様な匂い、そして石床の冷たさがあまりにもリアルだ。

 「魔王様、どうかこの荒廃した暗黒大陸を導いてくださいませ! 絶対なる権能をもって、世界を統べるお力を示していただきたいのです!」

 一斉に声を揃えるローブたちに目を向けると、どれもこれも人間離れした姿形をしている。コウモリの翼を持つ者、爬虫類のような鱗のある者、髪が蛇のようにうねる者……。いわゆる“魔物”の類なのだろう。

 相馬は本能的に後ずさりしたくなったが、妙に自分の身体が軽いことに気づいた。疲労困憊のはずが、まるで活力がみなぎっているようだ。そして、頭の片隅に浮かぶ「魔王になったら、どうなるんだろう?」という疑問――あるいは不安とも好奇心ともつかない感情が芽生える。

 “魔王”といえば、力と恐怖で世界を支配する立場にあるのだろうか。ブラック企業の上司や社長のように部下をこき使い、自分だけが楽をする、そんなイメージが真っ先に浮かぶ。相馬は思わず顔をしかめる。

 「……やめてくれよ。俺、そんな支配とかしたくないんだよ。もう、コリゴリなんだよ……」

 小さく吐き出した言葉は、召喚陣を用いて彼を呼んだ魔族たちの耳には届かなかったのか、それとも意図的に無視されたのか。皆、まるで邪神を拝むカルト教団のように手を合わせ、「魔王様!」と熱烈に呼びかけ続ける。

 相馬はそのあまりの熱意に、頭を抱えたくなる衝動をこらえながら、周囲を改めて見渡した。先ほどの年配の魔族が近寄り、恭しく頭を下げる。

 「これより、あなた様を正式に“魔王”としてお迎えする儀式を執り行います。どうかその尊きご決断を……」

 「決断も何も、俺が魔王やるとか、そんな話聞いてないから……!」

 しかし、事情を説明しようとする魔族たちに囲まれ、相馬は押し流されるように広間の奥へと移動するはめになる。

 そこには黒紫の玉座が鎮座しており、邪悪なオーラを放っているように見えた。周囲の魔族たちは「どうぞお座りください」と促してくる。仕方なく相馬が腰を下ろすと、玉座が不気味な軋みを立てながら、かすかに震え始めた。

 すると、彼の中で何かが目覚めたような感覚が走る。腹の奥底から熱がこみ上げ、頭の芯まで貫いていく。感覚としては、まるで別の存在が自分に宿ったような――そう、かつて感じたことのない“力”の気配だ。

 「うわっ……なんだ、これ……?」

 相馬は思わず声を漏らす。周囲の魔族たちは歓喜のあまり、さらに盛大に叫び声を上げている。

 「魔王様が、我らの世界に正式に降臨された!」

 「この力こそ、先代魔王が後継者に与えんとしていた絶対の権能……!」

 絶対の権能――そう言われても何のことやら。相馬は混乱を抱えたまま、玉座から立ち上がると、玉座もまた静かに震えを止めた。

 「ちょ、ちょっと待って。俺、ただのサラリーマンなんだよ。魔王だとか、そんな……」

 あまりに出来すぎた話である。冗談半分に「どこかにホワイト企業はないのか」と思ったことが、こんな形で現実離れした展開を呼んだのか。

 黒いローブたちを率いていた年配の魔族が、一歩進み出て訴える。

 「魔王様、どうか我らにご命令を! この暗黒大陸を治めるのはもちろん、世界全土へ威光を放ち、魔族の繁栄を取り戻してくださるよう……!」

 その言葉に、相馬の脳裏に過ったのは、これまで味わってきた“支配”される側の苦しみだ。パワハラ、長時間労働、無茶な要求。それらは、まさに恐怖政治や絶対的権力が招く弊害ではなかったのか。

 「俺……支配なんてまっぴらごめんなんだが……」

 そう呟いてみても、周りの魔族たちは相馬を崇拝する視線を向けるばかり。もしかすると、彼らは本当に“強大な支配者”を求めているのかもしれない。だが、相馬にはどうしても「自分がブラック企業の上司と同じようなことをする」イメージしか湧かない。

 (もう嫌だよ、そんなの。俺は……)

 苦い記憶がこみ上げる。自分を虫けらのように扱ってきた上司の顔、深夜まで働かされてなお冷遇されてきた日々。そんな地獄を、今度は自分が他人に押し付ける側になるなんて、まるで悪夢だ。

 そして彼の中で、奇妙な思考が芽生える。――もし、魔王ならば、何をやっても許されるとしたら。もし“絶対命令”という力を持つのだとしたら、それを“自分が受けてきた苦しみ”を払拭するために使えないだろうか。つまり、長時間労働やパワハラなどの不条理をなくし、“働きやすい環境”を作る命令を下すことはできないのか。

 (魔族たちが期待しているのは、強圧的な支配なのかもしれない。でも、俺は……そんなのごめんだ。もし本当に権力を持つなら、ブラック企業体質とは正反対の世界を作ってやる……!)

 そこまで考えて、相馬ははっと我に返った。自分はいったい何を言っているのだろう。この世界に来たばかりで、右も左もわからないのに、そんなこと実現できるのか――。

 だが、ローブの魔族たちはやたらと興奮状態だ。先ほど「儀式」がどうとか言っていたが、どうやらこの状況は避けられない流れのようである。

 「魔王様。あなた様の“権能”――支配権限ルーラーズ・コマンドをどうか発揮してくださいませ。ご意志のままに、この大陸を護り、時に従え、時に力で制圧するのです!」

 「それ、簡単に使ったら、周囲はどうなるんだ……?」

 相馬はおそるおそる尋ねる。すると魔族たちはうれしそうに口々に答えた。

 「相手が誰であろうと、魔王様の命令には逆らえません。それが、先代魔王が築き上げた絶対的力――支配権限です。全ては魔王様の思うがままに!」

 その響きはまさに“ブラック企業の上司が欲しかった絶対権力”のように思える。しかし、相馬は過去を思い出して歯を食いしばった。

 「(ふざけるな……今度は俺があんな真似、するわけないだろ……!)」

 自分をこき使ってきた会社、容赦なく人を搾り取るシステム。もし、この支配権限という力を使って同じことをやってしまえば、全く救われないではないか。

 とはいえ、異世界に来たばかりで逆らったらどうなるかもわからない。ここで魔族たちを敵に回したら即座に殺される可能性だってある。

 ――苦悩と不安、そして微かな希望。

 相馬は玉座の脇に立ち尽くしながら、目の前で跪く魔族の群れを見やった。どの顔も期待に満ちているが、その期待が自分の求める“労働環境の改善”と結びつくかどうかは不透明だ。

 「……わかった。とりあえず、話だけは聞かせてくれ。俺にも状況を把握する時間をくれないか?」

 そう告げると、魔族たちは「もちろんです、魔王様!」と答え、また一斉に頭を下げる。まるでカルト宗教の信者に囲まれたような光景だが、拒否反応ばかり示していても先へ進まない。

 (ならば……せめて、俺のやり方で、この世界の“支配”とやらを変えてみるか。ブラック企業とは違う、ホワイトな王国を作るってのも面白いかもしれない。いや、できるかどうかはわからないけど……。)

 相馬の胸に、ほんの少しだけ決意の灯がともる。これまでは自分が過酷な労働に追い込まれるばかりだったが、もし魔王として環境を改革できるなら――自分と同じように苦しむ者たちを救うことができるかもしれない。

 従来の常識に囚われず、“絶対命令”を逆手に取って、みんなに優しい世界を築く。それが可能なのかどうか、今はまだわからない。だが、ブラック企業で磨かれた相馬の忍耐力と知恵が、ここで無駄にならないと信じたい。

 そうして、偶然にしてはあまりに突飛な“魔王召喚の事故”は、彼の人生を大きく変える第一歩となった。上司と社長に押し付けられた仕事から逃れたい一心で、半ば倒れるように会社を出てきた相馬が、まさか異世界で“新たな魔王”として祭り上げられようとは――誰が想像できただろう。

 そして、この出会いが、彼やこの世界にどんな変化をもたらすのか。相馬 誠司が抱える疲弊と希望、その二つを糧に、これからの物語が激しく、そしてコミカルに動き出すのである。


 こうして、ブラック企業に苦しめられたサラリーマンは、暗黒大陸の魔王となる道を歩み始めた。果たして、それは破滅の始まりか、それとも新しい世界秩序の幕開けか――。


(プロローグ・了)

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