表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔族の揺りかご  作者: 広峰
一章 契約者期間
7/26

婚姻式前の出来事


 春の午後の森は、大変気持ちが良かった。沢山の花が咲き、日射しは暖かく、木陰は涼しく爽やかで、歩いていて心地良い。


 館の森のすぐそばに小川が流れていて、小川から森の全てまでが館の敷地なのだそうだ。

 また、館から近くの町に続く道が引いてあるので、人家から離れたひっそりとした場所でありながら、特に生活の不便は無いのだとか。静かで優雅な暮らしらしい。

 本邸よりもひとまわり小さめの建物だが、敷地自体は広く、あちこちに細道で繋いだ離れや小屋があるそうだ。絶対にこちらの別邸の方が贅沢な住まいだ。


 森の館と離れを繋ぐ細い小径(こみち)を歩きながら、クリスは私に語りかけてきた。


「死にかけた君を助け、君の養父母の冤罪を晴らす。そしてその墓を作る。……君の願いは、君の努力でそんなに難しい願いにならなかったね。ほぼ叶ったと思うけど、満足してるかい、契約者殿」


 吹き渡るそよ風を額に感じながら、私は木々の葉が揺れるのを見上げた。

 願ったことは叶った。満足したかと問われれば正直微妙なところだが、やれる範囲で達成したと思う。とはいえ。


「……大体は」

「困ったね、その顔は足りないか。それじゃあ、対価をもらいにくいな」


 そう言うが、あまり困っているようには聞こえない声だった。

 歩みを私に合わせ、ゆっくりした足取りで、クリスは小径の柔らかい下草を踏む。

 少し考えて、言ってみた。


「……ちょっとだけ、中途半端な気がしないでもないの。でもこれ以上は、私には無理でしょう? 伯爵様も会長も五体満足だけどちゃんと引退したわ。お養父様とお養母様が、これで仇を取ったと思ってくれれば良いけど」

「おやおや。もっと私を頼りたまえ。君は努力家で良い契約者だし、可愛いティーを助けるのは嫌じゃないのだから。手を貸すよ」


 目を合わせると、私達は互いに小さく笑んだ。


「ありがとう。やっぱりこれで十分よ」

「遠慮しないでいいのに。……まあ、どちらでもいいか」


 相変わらず、中性的な面立ちの美貌と、不思議な魅力に満ちたクリスは、全身が芸術品のように美しい。木漏れ日の中、さらりと流れる黒髪、きらめく緑色の瞳、すらりと優美な四肢。だが決して弱々しくはない。

 他の魔族の皆も整った容姿だが、これほど綺麗な人は他にいないな、と改めて思った。


 名目上とはいえ、この美しい生き物と私は結婚するのか。しかし、少しも恋愛感情がわいてこない。

 彼に対して抱くのは、死にかけたところを助けてもらったこと、後ろ盾になってくれたこと、願いを叶える手助けをしてくれたことへの、感謝の念ばかりだ。


「私、結婚したら、何をすればいいのかしら。卵を守るだけ? あの、店はやめた方が良いの?」

「やめないで続けて良いよ。結婚しても君の肩書きが少し変わるだけさ。生活や生き方を変える必要は無い。ずっと好きなようにしててかまわないんだ」

「本当に? 貴族の社交とか……」

「ここは田舎だから、そんなに気にしなくて大丈夫。王都へ行くのは四年に一度。それだって、挨拶したら帰るだけだ。平民の君が男爵家に入る為の教育は、もう終わっているしね。この先ずっと、私のモノで居てもらうのだから、他のことは自由だよ」


 足を止めて、クリスは私の顎に指をかけ持ち上げた。そのまま私は彼を見上げる姿勢になる。


「自由って……」

「そのままの意味、自由さ。君の身体と命の他は。商売も、恋愛も、どんな下らない道楽でも、何でも自由。ただし一族が存続し続けられるような範囲で、だけどね」


 そうして、クリスは私の額に口付けた。指を外し、優しげに頬を緩める。


 彼は私を大事にしてくれるが、こんなことをされても、歌や物語で良く聞くような恋情の熱を、彼から少しも感じない。中性的な印象のせいだろうか。

 私を見る目は、被保護者、あるいは小動物を愛でるような、弱き者を守るような、そういう視線だ。


 そして私の方も、これだけ美しく優しい彼なのに、何故か恋愛感情が生まれない。

 あまり男性を感じないからか。決して彼を嫌いじゃないのだけれど。魔族だと知っているので、無意識で対象外にしているのだろうか。


「……もし、私が契約違反をしたら、どうなるの?」


 勿論、彼がしてくれた諸々の恩義に報いるため、契約を守るつもりだが、ふと、聞いてみたくなった。


「そうだな……。私から逃げて隠れたり、自害しようとしたり、故意に危険な行為をしたら、多分私は、君を閉じ込めてしまうよ」


 緑色の宝石のような目が、私を捕らえる。


「屋敷の一室で一歩も外に出ず、ずっと子守をしてもらうか、朝日に目覚めること無く、眠ったまま一生を終えるか、のどちらかだろうね。

 故意で無く健康を損ねた場合は、契約違反じゃないよ。もっとも、怪我など傷がついても私が治療してあげるし、常に健康体でいられるよう気を付けているから、あまり病気にもならないだろうが……。もし魔族を裏切ったら」


 悲しそうに目蓋を伏せ、ごく静かにクリスは告げた。


「ティー、どうか私に、大事な君を壊させないで」

「……わかったわ」


 こくりとうなずく私の背筋あたりで、気のせいかひんやりとしたものを感じた。






 日が落ちた後、ルルディア様の館で夕食がふるまわれた。


 この館でも、エクディキシ商店の調味塩は重宝されているようで、小さな容器に詰めて食卓上に置いてあった。各自が好きなだけ取って使えるようにしているようだ。なんだか嬉しくなる。

 壁際に執事らしくリカルドさんが控えていて、穏やかな目で見守っていた。


 料理は美味しかった。しかし、ルルディア様は小食なようで、クリスもそんなに食べない方だ。普通に食べているのは私ぐらいだった。

 三人が取り分けてもらった後の大皿には、沢山の料理が余っていた。


 食事中は、領地内の他愛のない出来事や、特に当たり障りのない世間話しかしなかった。

 だが、最後にハーブの茶が運ばれてくると、次第に親子に見えない親子は、私の理解できない会話を交わすようになった。


「それにしても、クリオスアエラスは随分と食べ物を受けつけなくなったのね。満ちたのかしら?」


 微かな驚きを込めてルルディア様が言う。

クリスはルルディア様に、ゆるく首を振ってみせた。


「いや、体を維持する程度には食べているよ。後は狩ってこないと、ね」

「ああ、そういうこと。獲物は決まっているの?」

「うん、つい先程決めたよ」


 私は出されたお茶を一口いただいた。甘苦い不思議な癖のあるお茶。この味は知っている。いつも眠る前に侍女の魔族が淹れてくれる、あのお茶に近い味……。同じ葉なのだろうか。ただ、いつもより少し濃い味がした。これはこれで美味しい。


 ……気が付けば、私はぼんやりと液体の表面を見つめていた。二人の話が耳に入っても頭に残らず、素通りしていく。


 困ったことに眠気が襲ってきたのだ。自分では分からなかったが、思ったよりも緊張して疲れていたのだろうか。動きが止まり、うっかりぼうっとしてしまう。


「この後、オミヒリルルディオンは新しい『揺りかご』を探さないの?」

「ええ。充分よ。これでもうやめにするの。後のことはあなたに任せるし、楽しくお休みするわ。……私よりクリオスアエラスの方が、これから複数『揺りかご』候補が必要になるでしょう?」

「しばらくは大丈夫。私が選んだ『揺りかご』は、きっとどんな卵とでも相性が良いよ。別の候補は焦って探さなくてもいい。屋敷の皆がこの子を気に入っているほどなんだ」

「あら珍しいこと。皆が気に入るなんて素晴らしいわね。確かに私も気に入ったわ。本当に良い香り」


 ……駄目だ、眠くてたまらない。私の目が勝手に閉じようとする。


「それに、私の『揺りかご』は最近とても良い個体を引き寄せたんだ。無理に探さなくても、これから勝手に寄ってくるようになる」

「まあ、すごいわ。優秀なのね」


 茶器が小さな音を立てて、テーブルの上に着地した。行儀が悪いと思っていても、体がひどくだるい。


「おやおや。もしかして、ティーのお茶の濃度が高かったんじゃないか? 眠ってしまいそうだよ」

「嫌だわ。うっかりこちらの『揺りかご』と同じ濃さにしてしまったのね。用途も体の大きさも違うのだから、加減しないと……」


 話し声がとても遠くに聞こえて、私は意識を手放してしまった。






 私はどうやら丸一日以上、寝て過ごしたらしい。

 目が覚めた時、見知らぬ部屋で大いに焦ったが、来て三日目だと言われて更にあわてた。

 私が起きるのを待っていたために、予定より長居したそうで、あわただしく帰ることになってしまった。


「ごめんなさい。こちらの料理担当が、あなたの滋養茶の濃さを間違えたようなの。もうしばらく、ぼうっとするかも知れないけど、じきに戻ると思うわ」


 ルルディア様が申し訳なさそうに謝った。私はいいえと首を振って、謝罪した。


「こちらこそ、すっかり寝入ってしまって、すみませんでした」

「そんなの気にしないで。ただ、その、滋養茶の効き目がすごいかも知れないの。元気になるのは良いけれど、もっと育ってしまって、背丈とか手足が急に伸びてしまったら、せっかくあつらえた式の衣装が合わなくなってしまうわ」

「あ、そうなのですか。……お直し大変かしら」


 滋養茶。あのハーブのお茶に、そんな劇的な効果があるとは。道理で、寝る前にお茶を飲むと翌朝の調子が良いような気がしたのか。


「大丈夫だよ。そうなったら、余計に皆が張り切るだけさ。大人びたティーの婚礼衣装姿も、きっと美しいだろうよ」


 笑いながらクリスがぽんぽんと私の頭を撫でた。

 いつも通り大甘なクリスだったが、流石に顔が赤らんだ気がする。


「まあまあ、うふふ。関係が良好なようで安心したわ。当日を楽しみにしているわね」


 帰りの馬車窓から振り返ると、ルルディア様が品良く手を振っていた。その斜め後ろには、来たときと同じように執事のリカルドさんが立っていて、会釈するのが見えた。


 馬車に揺られている途中で、遅まきながら、あ、クリスの兄弟の子供に会いそびれてしまった、と思ったのだった。






 ルルディア様の所から帰ってくると、ルフェイ男爵家の本邸では、こまごまとした雑事が溜まっていた。

 私は結婚の準備と同時進行で、それらを片付けねばならなかった。


 ルフェイ家の屋敷とエクディキシ商店の店舗を行き来する合間に、思いのほか大量だったお披露目の招待状に署名したり、案の定、背が伸びてしまって丈も胸囲りも変わり、急ぎでお直しをしてもらうはめになったりと、そこそこ忙しくしていた。

 クリスはクリスで、他にも用があるらしく、数日間留守にしたりして忙しいようだった。


 それから、ちょこちょこ家の改装工事の具合を確認しに、護衛の魔族を連れてカシィコン領の元トロッフィ家へも行った。

 そして、オストアルゴの要望を聞き、店舗部分を彼が使いやすいよう内装を変えたり、厨房の設備を整えたりした。


 そろそろ工事の完了が近づいた頃、オストアルゴが困り顔で、相談したいことがある、と言ってきた。


 「先日、やっと伯爵家を出れたんだが、新しい住処が決まんなくてよ。ずっと宿屋にいるんだ」


 改装が完了するまでにと、彼は商店街に通えるような部屋を探していたのだが、まだ良い場所が見つからないそうだ。


「それはお困りですね」

「ああ。このままだと、店に泊まり込むことになりそうで、ちょっとな。念の為、住み込んでも大丈夫なのか、聞いとこうと思って」


 一階の一部は、かつて繁忙期に泊まり込みで作業をする店員用の部屋だった。だから一応、新しい寝台を設置すれば泊まれると思う。しかし、狭いし窓も小さく、ただ寝るだけの場所になるだろう。店主の部屋にするには少々お粗末かも知れない。


「ティピナ様、いっそのこと店舗部分だけでなく、二階の住居もお貸しになってはいかがですか」


 そう護衛の魔族が提案した。多分、護衛の魔族はオストアロゴを気に入っているので、私が彼ともっと親しくなれば良いと考えているのだろう。


 私は、少し眉間に皺が寄るのを感じながら、考えた。


 住居部分は、いつか私が使う可能性を考えて、元の雰囲気はそのままに、古い部分を補強するよう手を入れていた。もう修繕工事は終わっているし、家具さえ準備すれば使える状態だ。しかも私がすぐ住む予定は無い。ので、貸そうと思えばすぐ貸せる。


「うーん。……どうしようかしら」


 ちょっとだけ感傷的な理由で、あの住居部分を他人に貸そうとは思っていなかったが……。


「何も建物全部じゃなくとも良いでしょう。何処か一部屋だけならいかがですか? それに、人が住んでいた方が家は痛みにくいと言いますし」


 護衛の魔族がそう言って勧める。

 私はオストアルゴの困り顔を眺めながら考える。


 全く知らない人間に貸すのは嫌だが、相手は見知ったオストアルゴだ。度々顔を合わせたせいで、そう悪い仲でもない。彼は正直そうだし、人の好意を裏切るような真似はしないと思う。捕まえておく云々(うんぬん)はともかく、店子(たなこ)としては問題なさそうだ。


「……そうね、一部屋だけなら、まあいいかしら。でも、家賃はいただきますよ?」


 ゆっくりうなずくと、オストアルゴは頭を下げた。


「ああ。勿論だ。ありがたい。恩に着るよ」


 安心したらしく笑顔になった彼に、ふと私は思いついて、聞いた。


「この改装工事が終わったら、すぐに食堂を開くのでしょう? じゃあ夏至の頃は忙しいかしら?」

「さあ、どうだろうなぁ。客の入り次第だな。店を始めてすぐは、物珍しさで人が来るかも知れねぇが……その後は分からねぇ。夏至頃にはちょっと落ち着くかもな。上手いこと流行れば忙しいかも知れねえが」


 顎に手をやりながら、オストアルゴは言う。


 やはり、お披露目に彼を招待するのはやめておこう。カシィコン伯爵家のソストース様をお招きしているのだし、顔を合わせるのは面倒臭そうだ。それに、堅苦しい席は苦手だろう。


「人気のお店になると良いわね」

「ああ。そうなってやるさ」


 彼は明るい笑顔で答えた。


 工事は十日後には終わり、その二十日後に彼の新しい食堂が開店した。






 そうこうしている間に、婚姻式が間近に迫り、私は再びクリスと一緒に森の館を訪れた。


 事前準備があるというので、式に出席する招待客が来る前にと、私達は余裕を持って前の日に館へ入った。

 が、ルフェイ一族ではない私がするべき仕事は特に無いようだ。ルルディア様からゆっくりしててもいいのよ、と言われてしまった。


 一方クリスは、式場作りで何かと忙しい魔族達を手伝うという。私も、と名乗り出たが、力仕事になるからと、申し出を断られた。

 遠方から来る泊まり客のために、客室以外にも離れや小屋を提供するとのことで、あちこち家具の移動や物の出し入れをしたりするそうだ。余所で人手を募るより魔族の腕力で片付けるらしい。


 まだ少し時間があるようだし、周囲が忙しそうなので、邪魔しないよう、一人で暇に任せた散策をすることにした。

 以前にも増して建物を囲む木々が茂り、森の緑が濃く深くなっていた。周囲は美しい夏の初めの森だ。きっと楽しめるだろう。


 あちこちうろついても、敷地の中なら問題ないらしい。侍女も護衛も、私が呼ばない限り放っておいてくれるようだ。私は軽い足取りで外へ出た。

 前回うっかり眠ってしまったせいで、クリスと建物の周りを歩いただけだ。この館について、知らないことが沢山ある。


 館から続く小径をぶらぶら歩いていると、木々に隠れて小さな古い小屋を発見した。

 周囲に溶け込むように建っている。目立たず可愛らしい小ささだ。そちらへと続く獣道みたいな人の踏み跡が、薄く地面にある。


 こんな所に小屋があるとは、と興味を引かれて近寄ると、入り口の周囲や窓はきちんと掃除して綺麗に保ってあり、小屋の周囲の雑草なども刈り取った跡があった。

 手入れされていることから、今も使っているのだと思う。


 招待客に貸す小屋だろうかと、そっと窓から覗いてみたが、よく分からない。狭い小屋の中に人の気配は感じられなかった。


 私は入り口へ行ってみた。試しに扉を押すと鍵など掛かっておらず、微かに軋んだ音を立てて簡単に開いた。

 部屋の内部を見回して、あまりの殺風景さに、ただの作業用建物だな、と判断をつける。


 寝台はもちろんテーブルや椅子も無く、装飾は一切無い。燭台等の明かりや床の敷物も無かった。特に見るべき物も見当たらない。

 ただ、壁に寄せて膝丈位の高さの細長い黒っぽい箱が三つ置いてあった。箱の大きさはどれも同じで、幅は男性の肩幅より広いくらい、長さは寝台よりもやや短いくらい。全部に蓋がしてあって、まるで(ひつぎ)あるいは衣類か宝物の収納箱のようだった。


 気が抜けて、ふう、と私は息を吐いた。歩き回って少し疲れた。ちょっと座って休憩したい。


 そう思って、床に直置きしてある黒い箱の一つを選んで、上に手巾を広げようとした。が、思い直して、まず箱に座っても大丈夫か確かめようと、蓋を開けてみることにした。

 もしも壊したり蓋がへこんだりして、中の物が潰れたら大変だ。


 両手で押し上げた蓋は、蝶番が擦れる嫌な音がした。思ったより年代物か。

 蓋の内側は、光沢のある厚めの赤ワイン色の布張りで、箱の中全体も同じ布張りだった。

 その重厚で高級な内部にあるものを見て、息をのんだ。


 何か、人間のようなものが、横たわっていた。


 多分、人では無い。まるで高価な硝子の細工物のように、肌が半透明なのだ。底の赤い布がほんのり透けて見える。

 ぱっと見は男性のような姿だ。着衣は辛うじて薄い貫頭衣を身に着けているだけで、腕はむき出し、足も裸足であった。


 私は動揺して手を離してしまい、その拍子にパタンと音を立てて蓋が閉まった。

 今、見たものは、何だろう。


 一度大きく息をして、どきどきいう胸を押さえる。あれの肌はおかしい。もしや人形なのだろうか。


 もう一度、息を詰めて、そうっと蓋を開けてみた。


 やはり、男性のような半透明の何かが、そこにあった。生きているような気配は無く、精巧な作り物のように思える。


 いや、幻覚とか、幽霊や他の妙な何かかもしれない。もしや、触れたら消えるとか?


 こわごわと若干震える指先で、それの胸に乗る手の甲をちょんちょんと触ってみた。

 固い。乾燥した革のようだ。


 触ったことで、不思議な人型が確かにそこにあると認識し、混乱する私の頭が少し落ち着いて、観察する余裕が出た。


 人間なら、年の頃は中年かもう少し上くらい。白髪入りの長い黒髪を首元で一つにゆるくまとめ、広い肩の左上に乗せている。がっしりした両手は胸板の真ん中で重ねてあり、巻頭衣の裾から出た脚はすらりと長く見えた。それなりに鍛えたような大きさの体が、箱が窮屈に思えるほど、ぴったりすっぽりと収まっている。しかも美丈夫だ。驚くほど顔面が整っている。


 作り物だとしたら、大したものだ。完璧に本人を再現しているのだろう。微かに目尻や口元の皺まである。


 そのまましばし人型を眺めていたが、はたと気がついた。人型の目鼻立ちが、クリスにものすごく良く似ている。親子かごく近い親戚かというほどに。


 きっとこれは先代の男爵様だ。クリスの亡くなったお父上の姿だろう。……そう思った。

 うっかり座らなくて良かった。結婚相手の父親の上に座るなど、たとえ箱越しの人形相手であろうと恐ろしすぎる。


 しかし、何故このような不気味な物が有るのだろうか。まさかルルディア様の意向で作ったのだろうか。あの方にそんな奇妙なご趣味が?


 考えたところで分からない。私はそっと元のように蓋を閉めた。しばし心と記憶にも蓋をした。

 そして、何も見なかったかのように、静かに小屋を出た。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ