婚姻式前の出来事
春の午後の森は、大変気持ちが良かった。沢山の花が咲き、日射しは暖かく、木陰は涼しく爽やかで、歩いていて心地良い。
館の森のすぐそばに小川が流れていて、小川から森の全てまでが館の敷地なのだそうだ。
また、館から近くの町に続く道が引いてあるので、人家から離れたひっそりとした場所でありながら、特に生活の不便は無いのだとか。静かで優雅な暮らしらしい。
本邸よりもひとまわり小さめの建物だが、敷地自体は広く、あちこちに細道で繋いだ離れや小屋があるそうだ。絶対にこちらの別邸の方が贅沢な住まいだ。
森の館と離れを繋ぐ細い小径を歩きながら、クリスは私に語りかけてきた。
「死にかけた君を助け、君の養父母の冤罪を晴らす。そしてその墓を作る。……君の願いは、君の努力でそんなに難しい願いにならなかったね。ほぼ叶ったと思うけど、満足してるかい、契約者殿」
吹き渡るそよ風を額に感じながら、私は木々の葉が揺れるのを見上げた。
願ったことは叶った。満足したかと問われれば正直微妙なところだが、やれる範囲で達成したと思う。とはいえ。
「……大体は」
「困ったね、その顔は足りないか。それじゃあ、対価をもらいにくいな」
そう言うが、あまり困っているようには聞こえない声だった。
歩みを私に合わせ、ゆっくりした足取りで、クリスは小径の柔らかい下草を踏む。
少し考えて、言ってみた。
「……ちょっとだけ、中途半端な気がしないでもないの。でもこれ以上は、私には無理でしょう? 伯爵様も会長も五体満足だけどちゃんと引退したわ。お養父様とお養母様が、これで仇を取ったと思ってくれれば良いけど」
「おやおや。もっと私を頼りたまえ。君は努力家で良い契約者だし、可愛いティーを助けるのは嫌じゃないのだから。手を貸すよ」
目を合わせると、私達は互いに小さく笑んだ。
「ありがとう。やっぱりこれで十分よ」
「遠慮しないでいいのに。……まあ、どちらでもいいか」
相変わらず、中性的な面立ちの美貌と、不思議な魅力に満ちたクリスは、全身が芸術品のように美しい。木漏れ日の中、さらりと流れる黒髪、きらめく緑色の瞳、すらりと優美な四肢。だが決して弱々しくはない。
他の魔族の皆も整った容姿だが、これほど綺麗な人は他にいないな、と改めて思った。
名目上とはいえ、この美しい生き物と私は結婚するのか。しかし、少しも恋愛感情がわいてこない。
彼に対して抱くのは、死にかけたところを助けてもらったこと、後ろ盾になってくれたこと、願いを叶える手助けをしてくれたことへの、感謝の念ばかりだ。
「私、結婚したら、何をすればいいのかしら。卵を守るだけ? あの、店はやめた方が良いの?」
「やめないで続けて良いよ。結婚しても君の肩書きが少し変わるだけさ。生活や生き方を変える必要は無い。ずっと好きなようにしててかまわないんだ」
「本当に? 貴族の社交とか……」
「ここは田舎だから、そんなに気にしなくて大丈夫。王都へ行くのは四年に一度。それだって、挨拶したら帰るだけだ。平民の君が男爵家に入る為の教育は、もう終わっているしね。この先ずっと、私のモノで居てもらうのだから、他のことは自由だよ」
足を止めて、クリスは私の顎に指をかけ持ち上げた。そのまま私は彼を見上げる姿勢になる。
「自由って……」
「そのままの意味、自由さ。君の身体と命の他は。商売も、恋愛も、どんな下らない道楽でも、何でも自由。ただし一族が存続し続けられるような範囲で、だけどね」
そうして、クリスは私の額に口付けた。指を外し、優しげに頬を緩める。
彼は私を大事にしてくれるが、こんなことをされても、歌や物語で良く聞くような恋情の熱を、彼から少しも感じない。中性的な印象のせいだろうか。
私を見る目は、被保護者、あるいは小動物を愛でるような、弱き者を守るような、そういう視線だ。
そして私の方も、これだけ美しく優しい彼なのに、何故か恋愛感情が生まれない。
あまり男性を感じないからか。決して彼を嫌いじゃないのだけれど。魔族だと知っているので、無意識で対象外にしているのだろうか。
「……もし、私が契約違反をしたら、どうなるの?」
勿論、彼がしてくれた諸々の恩義に報いるため、契約を守るつもりだが、ふと、聞いてみたくなった。
「そうだな……。私から逃げて隠れたり、自害しようとしたり、故意に危険な行為をしたら、多分私は、君を閉じ込めてしまうよ」
緑色の宝石のような目が、私を捕らえる。
「屋敷の一室で一歩も外に出ず、ずっと子守をしてもらうか、朝日に目覚めること無く、眠ったまま一生を終えるか、のどちらかだろうね。
故意で無く健康を損ねた場合は、契約違反じゃないよ。もっとも、怪我など傷がついても私が治療してあげるし、常に健康体でいられるよう気を付けているから、あまり病気にもならないだろうが……。もし魔族を裏切ったら」
悲しそうに目蓋を伏せ、ごく静かにクリスは告げた。
「ティー、どうか私に、大事な君を壊させないで」
「……わかったわ」
こくりとうなずく私の背筋あたりで、気のせいかひんやりとしたものを感じた。
日が落ちた後、ルルディア様の館で夕食がふるまわれた。
この館でも、エクディキシ商店の調味塩は重宝されているようで、小さな容器に詰めて食卓上に置いてあった。各自が好きなだけ取って使えるようにしているようだ。なんだか嬉しくなる。
壁際に執事らしくリカルドさんが控えていて、穏やかな目で見守っていた。
料理は美味しかった。しかし、ルルディア様は小食なようで、クリスもそんなに食べない方だ。普通に食べているのは私ぐらいだった。
三人が取り分けてもらった後の大皿には、沢山の料理が余っていた。
食事中は、領地内の他愛のない出来事や、特に当たり障りのない世間話しかしなかった。
だが、最後にハーブの茶が運ばれてくると、次第に親子に見えない親子は、私の理解できない会話を交わすようになった。
「それにしても、クリオスアエラスは随分と食べ物を受けつけなくなったのね。満ちたのかしら?」
微かな驚きを込めてルルディア様が言う。
クリスはルルディア様に、ゆるく首を振ってみせた。
「いや、体を維持する程度には食べているよ。後は狩ってこないと、ね」
「ああ、そういうこと。獲物は決まっているの?」
「うん、つい先程決めたよ」
私は出されたお茶を一口いただいた。甘苦い不思議な癖のあるお茶。この味は知っている。いつも眠る前に侍女の魔族が淹れてくれる、あのお茶に近い味……。同じ葉なのだろうか。ただ、いつもより少し濃い味がした。これはこれで美味しい。
……気が付けば、私はぼんやりと液体の表面を見つめていた。二人の話が耳に入っても頭に残らず、素通りしていく。
困ったことに眠気が襲ってきたのだ。自分では分からなかったが、思ったよりも緊張して疲れていたのだろうか。動きが止まり、うっかりぼうっとしてしまう。
「この後、オミヒリルルディオンは新しい『揺りかご』を探さないの?」
「ええ。充分よ。これでもうやめにするの。後のことはあなたに任せるし、楽しくお休みするわ。……私よりクリオスアエラスの方が、これから複数『揺りかご』候補が必要になるでしょう?」
「しばらくは大丈夫。私が選んだ『揺りかご』は、きっとどんな卵とでも相性が良いよ。別の候補は焦って探さなくてもいい。屋敷の皆がこの子を気に入っているほどなんだ」
「あら珍しいこと。皆が気に入るなんて素晴らしいわね。確かに私も気に入ったわ。本当に良い香り」
……駄目だ、眠くてたまらない。私の目が勝手に閉じようとする。
「それに、私の『揺りかご』は最近とても良い個体を引き寄せたんだ。無理に探さなくても、これから勝手に寄ってくるようになる」
「まあ、すごいわ。優秀なのね」
茶器が小さな音を立てて、テーブルの上に着地した。行儀が悪いと思っていても、体がひどくだるい。
「おやおや。もしかして、ティーのお茶の濃度が高かったんじゃないか? 眠ってしまいそうだよ」
「嫌だわ。うっかりこちらの『揺りかご』と同じ濃さにしてしまったのね。用途も体の大きさも違うのだから、加減しないと……」
話し声がとても遠くに聞こえて、私は意識を手放してしまった。
私はどうやら丸一日以上、寝て過ごしたらしい。
目が覚めた時、見知らぬ部屋で大いに焦ったが、来て三日目だと言われて更にあわてた。
私が起きるのを待っていたために、予定より長居したそうで、あわただしく帰ることになってしまった。
「ごめんなさい。こちらの料理担当が、あなたの滋養茶の濃さを間違えたようなの。もうしばらく、ぼうっとするかも知れないけど、じきに戻ると思うわ」
ルルディア様が申し訳なさそうに謝った。私はいいえと首を振って、謝罪した。
「こちらこそ、すっかり寝入ってしまって、すみませんでした」
「そんなの気にしないで。ただ、その、滋養茶の効き目がすごいかも知れないの。元気になるのは良いけれど、もっと育ってしまって、背丈とか手足が急に伸びてしまったら、せっかくあつらえた式の衣装が合わなくなってしまうわ」
「あ、そうなのですか。……お直し大変かしら」
滋養茶。あのハーブのお茶に、そんな劇的な効果があるとは。道理で、寝る前にお茶を飲むと翌朝の調子が良いような気がしたのか。
「大丈夫だよ。そうなったら、余計に皆が張り切るだけさ。大人びたティーの婚礼衣装姿も、きっと美しいだろうよ」
笑いながらクリスがぽんぽんと私の頭を撫でた。
いつも通り大甘なクリスだったが、流石に顔が赤らんだ気がする。
「まあまあ、うふふ。関係が良好なようで安心したわ。当日を楽しみにしているわね」
帰りの馬車窓から振り返ると、ルルディア様が品良く手を振っていた。その斜め後ろには、来たときと同じように執事のリカルドさんが立っていて、会釈するのが見えた。
馬車に揺られている途中で、遅まきながら、あ、クリスの兄弟の子供に会いそびれてしまった、と思ったのだった。
ルルディア様の所から帰ってくると、ルフェイ男爵家の本邸では、こまごまとした雑事が溜まっていた。
私は結婚の準備と同時進行で、それらを片付けねばならなかった。
ルフェイ家の屋敷とエクディキシ商店の店舗を行き来する合間に、思いのほか大量だったお披露目の招待状に署名したり、案の定、背が伸びてしまって丈も胸囲りも変わり、急ぎでお直しをしてもらうはめになったりと、そこそこ忙しくしていた。
クリスはクリスで、他にも用があるらしく、数日間留守にしたりして忙しいようだった。
それから、ちょこちょこ家の改装工事の具合を確認しに、護衛の魔族を連れてカシィコン領の元トロッフィ家へも行った。
そして、オストアルゴの要望を聞き、店舗部分を彼が使いやすいよう内装を変えたり、厨房の設備を整えたりした。
そろそろ工事の完了が近づいた頃、オストアルゴが困り顔で、相談したいことがある、と言ってきた。
「先日、やっと伯爵家を出れたんだが、新しい住処が決まんなくてよ。ずっと宿屋にいるんだ」
改装が完了するまでにと、彼は商店街に通えるような部屋を探していたのだが、まだ良い場所が見つからないそうだ。
「それはお困りですね」
「ああ。このままだと、店に泊まり込むことになりそうで、ちょっとな。念の為、住み込んでも大丈夫なのか、聞いとこうと思って」
一階の一部は、かつて繁忙期に泊まり込みで作業をする店員用の部屋だった。だから一応、新しい寝台を設置すれば泊まれると思う。しかし、狭いし窓も小さく、ただ寝るだけの場所になるだろう。店主の部屋にするには少々お粗末かも知れない。
「ティピナ様、いっそのこと店舗部分だけでなく、二階の住居もお貸しになってはいかがですか」
そう護衛の魔族が提案した。多分、護衛の魔族はオストアロゴを気に入っているので、私が彼ともっと親しくなれば良いと考えているのだろう。
私は、少し眉間に皺が寄るのを感じながら、考えた。
住居部分は、いつか私が使う可能性を考えて、元の雰囲気はそのままに、古い部分を補強するよう手を入れていた。もう修繕工事は終わっているし、家具さえ準備すれば使える状態だ。しかも私がすぐ住む予定は無い。ので、貸そうと思えばすぐ貸せる。
「うーん。……どうしようかしら」
ちょっとだけ感傷的な理由で、あの住居部分を他人に貸そうとは思っていなかったが……。
「何も建物全部じゃなくとも良いでしょう。何処か一部屋だけならいかがですか? それに、人が住んでいた方が家は痛みにくいと言いますし」
護衛の魔族がそう言って勧める。
私はオストアルゴの困り顔を眺めながら考える。
全く知らない人間に貸すのは嫌だが、相手は見知ったオストアルゴだ。度々顔を合わせたせいで、そう悪い仲でもない。彼は正直そうだし、人の好意を裏切るような真似はしないと思う。捕まえておく云々はともかく、店子としては問題なさそうだ。
「……そうね、一部屋だけなら、まあいいかしら。でも、家賃はいただきますよ?」
ゆっくりうなずくと、オストアルゴは頭を下げた。
「ああ。勿論だ。ありがたい。恩に着るよ」
安心したらしく笑顔になった彼に、ふと私は思いついて、聞いた。
「この改装工事が終わったら、すぐに食堂を開くのでしょう? じゃあ夏至の頃は忙しいかしら?」
「さあ、どうだろうなぁ。客の入り次第だな。店を始めてすぐは、物珍しさで人が来るかも知れねぇが……その後は分からねぇ。夏至頃にはちょっと落ち着くかもな。上手いこと流行れば忙しいかも知れねえが」
顎に手をやりながら、オストアルゴは言う。
やはり、お披露目に彼を招待するのはやめておこう。カシィコン伯爵家のソストース様をお招きしているのだし、顔を合わせるのは面倒臭そうだ。それに、堅苦しい席は苦手だろう。
「人気のお店になると良いわね」
「ああ。そうなってやるさ」
彼は明るい笑顔で答えた。
工事は十日後には終わり、その二十日後に彼の新しい食堂が開店した。
そうこうしている間に、婚姻式が間近に迫り、私は再びクリスと一緒に森の館を訪れた。
事前準備があるというので、式に出席する招待客が来る前にと、私達は余裕を持って前の日に館へ入った。
が、ルフェイ一族ではない私がするべき仕事は特に無いようだ。ルルディア様からゆっくりしててもいいのよ、と言われてしまった。
一方クリスは、式場作りで何かと忙しい魔族達を手伝うという。私も、と名乗り出たが、力仕事になるからと、申し出を断られた。
遠方から来る泊まり客のために、客室以外にも離れや小屋を提供するとのことで、あちこち家具の移動や物の出し入れをしたりするそうだ。余所で人手を募るより魔族の腕力で片付けるらしい。
まだ少し時間があるようだし、周囲が忙しそうなので、邪魔しないよう、一人で暇に任せた散策をすることにした。
以前にも増して建物を囲む木々が茂り、森の緑が濃く深くなっていた。周囲は美しい夏の初めの森だ。きっと楽しめるだろう。
あちこちうろついても、敷地の中なら問題ないらしい。侍女も護衛も、私が呼ばない限り放っておいてくれるようだ。私は軽い足取りで外へ出た。
前回うっかり眠ってしまったせいで、クリスと建物の周りを歩いただけだ。この館について、知らないことが沢山ある。
館から続く小径をぶらぶら歩いていると、木々に隠れて小さな古い小屋を発見した。
周囲に溶け込むように建っている。目立たず可愛らしい小ささだ。そちらへと続く獣道みたいな人の踏み跡が、薄く地面にある。
こんな所に小屋があるとは、と興味を引かれて近寄ると、入り口の周囲や窓はきちんと掃除して綺麗に保ってあり、小屋の周囲の雑草なども刈り取った跡があった。
手入れされていることから、今も使っているのだと思う。
招待客に貸す小屋だろうかと、そっと窓から覗いてみたが、よく分からない。狭い小屋の中に人の気配は感じられなかった。
私は入り口へ行ってみた。試しに扉を押すと鍵など掛かっておらず、微かに軋んだ音を立てて簡単に開いた。
部屋の内部を見回して、あまりの殺風景さに、ただの作業用建物だな、と判断をつける。
寝台はもちろんテーブルや椅子も無く、装飾は一切無い。燭台等の明かりや床の敷物も無かった。特に見るべき物も見当たらない。
ただ、壁に寄せて膝丈位の高さの細長い黒っぽい箱が三つ置いてあった。箱の大きさはどれも同じで、幅は男性の肩幅より広いくらい、長さは寝台よりもやや短いくらい。全部に蓋がしてあって、まるで棺あるいは衣類か宝物の収納箱のようだった。
気が抜けて、ふう、と私は息を吐いた。歩き回って少し疲れた。ちょっと座って休憩したい。
そう思って、床に直置きしてある黒い箱の一つを選んで、上に手巾を広げようとした。が、思い直して、まず箱に座っても大丈夫か確かめようと、蓋を開けてみることにした。
もしも壊したり蓋がへこんだりして、中の物が潰れたら大変だ。
両手で押し上げた蓋は、蝶番が擦れる嫌な音がした。思ったより年代物か。
蓋の内側は、光沢のある厚めの赤ワイン色の布張りで、箱の中全体も同じ布張りだった。
その重厚で高級な内部にあるものを見て、息をのんだ。
何か、人間のようなものが、横たわっていた。
多分、人では無い。まるで高価な硝子の細工物のように、肌が半透明なのだ。底の赤い布がほんのり透けて見える。
ぱっと見は男性のような姿だ。着衣は辛うじて薄い貫頭衣を身に着けているだけで、腕はむき出し、足も裸足であった。
私は動揺して手を離してしまい、その拍子にパタンと音を立てて蓋が閉まった。
今、見たものは、何だろう。
一度大きく息をして、どきどきいう胸を押さえる。あれの肌はおかしい。もしや人形なのだろうか。
もう一度、息を詰めて、そうっと蓋を開けてみた。
やはり、男性のような半透明の何かが、そこにあった。生きているような気配は無く、精巧な作り物のように思える。
いや、幻覚とか、幽霊や他の妙な何かかもしれない。もしや、触れたら消えるとか?
こわごわと若干震える指先で、それの胸に乗る手の甲をちょんちょんと触ってみた。
固い。乾燥した革のようだ。
触ったことで、不思議な人型が確かにそこにあると認識し、混乱する私の頭が少し落ち着いて、観察する余裕が出た。
人間なら、年の頃は中年かもう少し上くらい。白髪入りの長い黒髪を首元で一つにゆるくまとめ、広い肩の左上に乗せている。がっしりした両手は胸板の真ん中で重ねてあり、巻頭衣の裾から出た脚はすらりと長く見えた。それなりに鍛えたような大きさの体が、箱が窮屈に思えるほど、ぴったりすっぽりと収まっている。しかも美丈夫だ。驚くほど顔面が整っている。
作り物だとしたら、大したものだ。完璧に本人を再現しているのだろう。微かに目尻や口元の皺まである。
そのまましばし人型を眺めていたが、はたと気がついた。人型の目鼻立ちが、クリスにものすごく良く似ている。親子かごく近い親戚かというほどに。
きっとこれは先代の男爵様だ。クリスの亡くなったお父上の姿だろう。……そう思った。
うっかり座らなくて良かった。結婚相手の父親の上に座るなど、たとえ箱越しの人形相手であろうと恐ろしすぎる。
しかし、何故このような不気味な物が有るのだろうか。まさかルルディア様の意向で作ったのだろうか。あの方にそんな奇妙なご趣味が?
考えたところで分からない。私はそっと元のように蓋を閉めた。しばし心と記憶にも蓋をした。
そして、何も見なかったかのように、静かに小屋を出た。