閑話 食事処「馬の骨」にて 二
花の季節。
暖かい日差しが店を温める。
オストアロゴが食事処「馬の骨」の二階から静かな一軒家へ引っ越して、ひと月程が経った。
彼の母親は、あれだけ騒いだにも関わらず、その後も何事も無かったかのように、気が向いたらひょっこり一人で店へやって来る。そして、相変わらず金を払わずに飯を食べて帰って行く。
時々、彼女を迎えに来た馬車から使用人が出て来て金を払ったり、使いの者がまとめて代金を払いに訪れたりする。
それで周囲は、オストアロゴにはどこぞの裕福な後見人がいて、いつも派手ななりをしている母親が、そこで囲われているのだと考えた。大体、合っている。
ただ、その後見人はお貴族様に関係のある偉い人だという噂と、隠居した金持ちの色ボケ爺だという噂の二種類があって、まさかそれが先代の御領主様だとは誰も思っていない。彼も殊更に出自を吹聴するつもりは無いから、そのままだ。
時々彼の店へ食事しに来てくれていたエクディキシ商店の若奥様は、まだ喪中で姿を見せない。
が、彼が家賃を納めにカシィコン支店へ行くと、支店長が「お困りのことはありませんか」と、気にかけてくれるようになった。
そんな、晴れたある日。
ちょうど客の波が引いた時間、子連れの女性が店に来た。
いつも通り接客係のイニアが「いらっしゃいませ」と声を出す。
雰囲気のある美人だった。小柄だが出るところは出ていて、動きが軽やかで若々しい。結い上げた艶やかな黒髪、柔らかな緑色の瞳。彼女は、春らしい生成りのチュニックの上から淡緑色の肩掛けを羽織り、三才くらいの子供を抱いていた。
まだ小さな子供は、着ている服と同じ薄青い頭巾の端から、淡い金髪をのぞかせていて、子猫のような若葉色の瞳で室内を見回している。可愛い女の子だ。平民がおしゃれ着で出てきた感じだ。
「お忙しいところ失礼致します。お店のご主人はどちらに?」
女性が首を傾げて聞いた。視線は厨房の方向だ。
イニアが振り返り声を投げかける。「オストアロゴさぁん、お客さんでぇす」
彼が厨房から「はい、どちら様で?」と顔を出すと、客は目を見張った。
「まあ、良い香りですこと」
厨房では、異国風調味塩を使い鶏の香草焼きを焼いている最中で、その香ばしい匂いが満ちていた。最近人気の料理で、次の客の波に備え、多めに用意しているところだ。
「そりゃどうも」
オストアロゴが軽く頭を下げると、子供がぽたっとヨダレを垂らし、小さな手で拭いた。
女性が子供を抱いたまま、膝をちょんと折って挨拶する。
「こんにちは。私、ロフィーダと申します。今度から、親子でこちらの二階に住むことになりましたので、今日はご挨拶に伺いましたの。この子はアピリー。よろしくお願い致します」
「よろちくお願いちましゅ」
子供も舌足らずの挨拶をした。そうして親子は愛想良くにっこりと笑んだ。
「俺はここの主人で、オストアロゴです。あー、エクディキシ商店の方で?」
彼が聞くと、黒髪の女性はふるふると首を振った。
「いいえ。男爵夫人のご厚意で部屋をお借りしましたの。しばらくご厄介になりますわ」
「んんっ、おなか空いた」
子供は自由だ。オストアロゴをひたと見つめて駄々をこねた。
母親がよしよし、と頭を撫でる。
「折角だもの、何か食べて行こうかしら?」
子供が彼の方を指さして「あれ、いいにおい」と言う。
「駄目よ、アピリーは違うものにしましょうね」
「むぅ……あい」
渋々子供がこっくりする。お子様に異国風調味塩は辛過ぎだろう、と思っていたオストアロゴは、ほっとした。
親子は窓際の席を選び、春野菜のスープとパンを頼んで、楽しげに外の景色を眺めていた。
料理しに戻ったオストアロゴは、野菜を刻みながら、「そうか、これから二階に人が入るのか……」とつぶやいた。
大通りに面した良い場所だ。確かに空き部屋はもったいない。
すすす、とイニアが厨房に近寄る。
「あの子供、めっちゃくちゃ可愛いくないですか。ここの二階に入るって本当ですか?」
「うん、粗相の無いようにしねえとな。隣領のルフェイ男爵夫人の知り合いだってよ。貴族じゃあなさそうだが、物腰がな。ありゃあ、良いとこのご婦人だろ」
オストアロゴが小声で釘を刺すと、厨房の者達は身構えた。脳天気にイニアが言う。
「親子ですよねぇ、似てないなぁ。旦那さん、いないのかな?」
「余計な詮索すんなよ。誰だって色々あるかも知れねえだろう」
たしなめると、「はぁい」と彼女は肩をすくめた。
イニアが客席へ料理を運んでいくと、店の戸が開いて、赤茶色の髪の若い男が入って来た。
すかさず彼女は「いらっしゃいませ」と声を飛ばす。
男はイニアへ片手を上げるだけの反応をして、真っ直ぐ窓際の席まで行き、声をかけた。
「ああ、やっぱり。ロフィーダじゃありませんか。お久しぶりです。外から見て驚きました。奇遇ですね。……おや、これはこれは。初めまして。私のことはオラニオと呼んで下さい」
オラニオは小さな子供の手を両手で包み、にっこりした。子供も人見知りせず、にこにこしている。
「あぴりーは、あぴりすてぃぷろせふぃ」
子供のごにょごにょした喃語じみた言葉に、オラニオが真面目な顔でうなずく。
「アピリーさんですね」
「まあ、オラニオ。本当に久しぶりですわ。元気そうね。エレガーティス領の皆も元気かしら?」
男は朗らかに笑って「はい」と答え、隣のテーブルから椅子を勝手に引っ張ってきて席を作り、仲間に加わった。
野菜スープとパンをテーブルへ置き、物怖じしないイニアが、「ご注文は?」と男に聞く。
「カシィコンに来たらワインですよ。乾杯に付き合って下さいませんか、ロフィーダ。……赤葡萄の酒杯を二つお願いします」
と、黒髪の女性に片目を瞑って見せ、オラニオが注文する。ロフィーダがうなずく。
「良くってよ。それじゃあ、何か料理を追加しましょう。……すみません、おつまみのチーズはあるかしら?」
「はい。塩酢漬けの野菜と盛り合わせになっちゃいますけど、いいですか?」
「ええ、それで」
にっこり微笑む美人へ、イニアは「かしこまりました」と仕事用の笑みを返した。
胸の内では、この色男、見たことある。オストアロゴさんのお母さんと呑んでた。新顔の美人さんと知り合いかぁ。子供も可愛いし、このテーブル眼福だ。などと考えている。
イニアがテーブルに背を向けて歩き出すと、背後でお喋りが始まった。
「あのお二方は、もうお発ちになったのですか?」
「ええ、つい先日見送りました。もうすぐ夏至が来ますでしょう? 私は次世代の邪魔にならないよう、この子と館を出ましたの。貴方はお仕事でこちらへ? 館の宴には?」
「両方ですよ」
イニアは、盆にオストアロゴから受け取った酒杯と皿を乗せて、再び眼福客のテーブルへ向かった。
厨房から出ると、いつの間にかオストアロゴの母親、エラスティが店内に居た。
彼女は今日も派手派手しかった。赤いチュニックドレスと赤地に白い花柄の付け袖を合わせ、豊かな胸がはみ出さないよう、白い飾り紐が頑張って襟元を締めていた。
またいつものように、ふらっと勝手に入って来たのだろう。
だが、彼女は良く座る奥のテーブル席へは行かず、何故か親子連れと男のテーブルの前で、腰へ手を当て威圧的に立っていた。
「あっ、いらっしゃいませ?」
戸惑いがちにイニアが言うのと、エラスティが喋り出すのとが重なった。
「ちょっと、子供がいるなんて知らなかったわ。 騙したの?」
苛ついているのが丸分かりの、刺々しい声音だ。
だが男は意に介さず、のんびりした口調で挨拶した。
「おや、エラスティさん。こんにちは。騙す? 何のことですか?」
オストアロゴの母親は舌打ちし、親子連れの女の方へ噛み付いた。
「あんた、誰? オラニオさんの何?」
「あの? オラニオの知り合いというか、遠い親戚なんですの。ロフィーダと申します。子供は私の子ですわ。オラニオのではありません。その、貴女はどちら様ですの?」
困った様子で小首を傾げるロフィーダを、オストアロゴの母親が上から下まで舐めるように見て、フンと鼻を鳴らした。黒髪美人のどこにも欠点が見い出せなかったようだ。
「私はこの店の主人の母親よ。オラニオさんとはお友達。すっごく親しくしているの!」
謎の対抗心だ。胸を張って主張した。
「まあ。私達、この店の二階に住むことになりましたの。よろしくお願いしますわ」
ほんのり笑みを乗せて、母親が挨拶した。
盆を運ぶイニアは、面白いことになってると思いながら、わざと明るく「お待たせしましたぁ」と言った。
とたんに皆が静かになった。
イニアがテーブルへつまみの料理と酒杯を並べる。皿を置く音と、しばしの沈黙。
それから盆を脇に挟み、椅子を引きずって来てテーブルの横に据えた。はいどうぞ。舞台の準備はばっちりだ。
「ご注文は?」とエラスティに聞く。
エラスティはドカッと優雅さのかけらも無い座り方で、その椅子へ腰を下ろした。
「お酒ちょうだい。美味しいやつ。高くても何でもいいから」
わあ、修羅場始まるかな?
内心小躍りしながら、イニアは「かしこまりました」と唱えて素早く酒を取りに行く。
急いでお高い方の赤葡萄酒と酒杯を取ってくると、今度は子供がきらきらした目でエラスティを見上げ、手を伸ばしていた。
「このひと、好き。いいにおい!」
「駄目よ。オラニオの大事なお友達よ。ごめんなさい、この子まだ見境が無くて」
子供の手へ匙を握らせ、ロフィーダが謝った。スープを与えるその隣で、オラニオがとろける微笑みを浮かべ、子供に聞く。
「アピリーにも分かるのですか? 素敵な人でしょう?」
子供は、早速忙しそうにスープをすくって口に運ぶ。その合間に、片言で同意した。
「うんっ。あたちも、(パク)……素敵、……(モグモグ)……て、(ゴクン)おもう!」
「あらあら。誰も取らないわよ。飲み込んでからお話しなさいな」
母親がやんわり注意すると、速度が落ちた。「んっ」と返事する。
小さい子は分かりやすく目立つ物が好きだもんね、とイニアは苦笑する。でもそのオバサン、目に痛い色だよ。趣味悪くない?
唇をぺろりと舐めて、子供が満面の笑みを彼女へ向けた。
単純なエラスティは頬を染めた。
「なっ、何よ。そんな子供なんかに、なんか……。やだ、可愛い子ねぇ……」
陥落した。簡単だった。
このオバサン、もしかして面白いんじゃない?
イニアは酒を運ぶ澄ました顔の下で、よし見物しよう、と思った。
「お待たせしました、赤葡萄酒です」
わざと場の空気を読まず、酒杯と酒をテーブルの真ん中に置く。
そして少し離れた所へ立って、こっそり観察の構えになった。
早速、オラニオがいそいそと酒の栓を抜きにかかる。
「私が開けてあげますよ。まずは乾杯しませんか。はい、杯をどうぞエラスティさん。さあ、注ぎますよ。貴女もお付き合い下さい。実は嬉しい事がありましてね」
オラニオがエラスティの手に酒杯を強引に持たせ、トクトクと音を立て酒を注ぐ。高い酒がこぼれるのを恐れたエラスティが、急に大人しくなった。
その様子に、ロフィーダは口元を押さえるようにして笑う。
「ふ、ふふ。オラニオは相変わらず楽しい方ですわね。こちら、驚いていらっしゃるじゃない」
「おっと、そうですか? すみません、浮かれてしまって。さぁ、乾杯!」
オラニオは陽気に音頭を取って自分の酒杯を持ち上げた。ロフィーダもそれに合わせて葡萄酒を口にする。
流れで一緒に一口飲んだエラスティは、毒気を抜かれ、若干拗ねたような上目遣いで促した。
「美味し……まあいいわ。ちょっと、オラニオさんの嬉しい事って、何なの?」
水を向けられ、オラニオが嬉しそうに報告した。
「それがですね、あちらで素晴らしい人を得まして、ついに婚約したんですよ。どうか祝って下さい」
エラスティがぴしりと固まったように動かなくなる。彼を凝視したまま、瞬きを忘れたようだ。
それを尻目に、手放しでロフィーダが祝福した。
「まぁ、こんな短期間で? おめでとうございます。どんな方? どうやって射止めたんですの?」
離れて眺めていたイニアが、ニヤリとした。はいオバサン残念でした。負けでーす。
驚く大年増女などお構いなしに、オラニオが顛末を話し出した。
「実はですね。最初、彼女は可哀想にお金に困っていて、店で働きたいと言ってきたんです。それが出会いでした。
聞けば、読み書きが出来ると言うので、うちで採用するかどうか面接を、となったんですが、直前になって彼女が、家の都合ですぐ大金が必要になり、もう身売りするしかないのでこの話は無かった事に、と言うのです。
それで、雇用の話は消えたんですが、儚げな美しい女性が辛そうにするものですから、つい私も、前の死んだ婚約者を思い出してしまって。それで、もし私と婚約するなら、必要なだけ結納金を出してあげますよと、そう言いましたら、ですね……」
くすくすとロフィーダが笑って肩を震わせた。
「まあオラニオ、悪い方ね。それじゃあその人、貴方に身売りしたのと同じじゃありませんか」
こっそりイニアが心の内で同意する。
その攻め方、金持ちのエロ爺が、貧乏な若い女の耳元で財布をじゃらじゃら鳴らして捕まえるヤツとそっくりじゃんか。
オラニオは大真面目な顔で、指を順に三本立てながら言った。
「いえいえ、彼女は喜んでいましたよ。一つ目は貧しい実家から出られる、二つ目は必要な大金が手に入る、三つ目はもう身売りしなくて良い。望みを叶えてくれた、と言いました」
「あら、そうなの。それで婚約したんですのね。うふっ、なんてこと。ほほ、ほほほほ!」
ロフィーダが笑いの発作を起こして、ますます肩を震わせた。
子供のアピリーが首をこてんと傾げた。
「しょれ、素敵だった? いいにおい、しゅる?」
「勿論です。彼女が喜ぶ姿は、まるで白い柑橘花のようでした。大変素敵な人ですよ」
「わぁ、凄い」
小さな手の平をぱちぱち叩いた。大変愛らしい。
イニアは目を細めた。
その話、お涙頂戴の同情詐欺じゃないよね? 本当に婚約者さんが助かったっていうなら大恩人だわ。めでたしめでたし。
「ちょっと、オラニオさん。それって、彼女さんの気持ちはどうなのかしら。ちゃんと好き合って一緒になるのと、違うんじゃない?」
それまで固まっていたエラスティが、やっと動いて彼を批判した。
遠くからイニアがそれに突っ込んだ。
おっと嫉妬? でもあんたがそれ言う? あんたも金持ち爺の財布にぶら下がってるんでしょ。それで色々不満だから、綺麗な男に気を取られたり、飛び出してオストアロゴさんの所へ来たりするんでしょ。違うの? 色ボケ爺に飼われてるくせに、愛、ねえ。
「これは面白いことを仰る。世の全ての人間が相思相愛で結婚をしているとは限りませんよ。ご存じでしょう?」
にこやかにオラニオが当てこすった。さっとエラスティの顔色が赤くなる。
笑いの治まったロフィーダが、辛辣に評した。
「ふふ。そうですわね。人間は、柵が多いもの。だからこそ恋愛が輝いて見えるんですわ。……正気に返ってしまうまで、ですけど」
匙をくわえた子供が、大人達を妙に冷静な目で見ている。
どん、とエラスティがテーブルの端を叩く。
「酷いわ。そんなことない。愛が一番大事なのよ。自分を愛して大事にしてくれる人が傍に居るってことが、幸せなんじゃないの!」
でも、愛人のオバサンは奥さんじゃないもんね、とイニアは内心で吐き捨てた。
結婚って、愛があるかどうかより生活出来るかどうかが大事。そりゃあ夫婦円満アッツアツ! だったら楽しいかもね。けど一番は、家継いで子供育てて祖父母の面倒見て、一緒に生きて問題無いか、だよ。私はそう思うけどなあ?
厚化粧をした派手目の中年女性が放った言葉を、割と現実主義なイニアはばっさり切り捨てた。
「価値観はそれぞれ、ですわね。結婚してから愛が芽生える夫婦もございますわ。婚約した相手を互いが大事に出来ていれば、問題ありませんわね」
「そうですとも。彼女は私の、婚姻の契約相手です。少なくとも私は誠実に努めますよ」
イニアがふうん、と男を見直した。
お金持ってて誠実で美男。それ、本当だったら婚約者の彼女、人生ほぼ勝ったよね。おめでとう。やっぱり男は甲斐性だよねぇ。
笑みを浮かべ、ロフィーダが子供に言い聞かせる。
「アピリーも大きくなったら、約束した相手にそうするのですよ。万が一、どちらかが裏切ったら、どちらにも相応の悲しみが訪れます。女神様も誠実であれ、と教えていますでしょう?」
小さなアピリーは「あいっ」とうなずいた。
果たして子供に分かるのか怪しいが、可愛いから何でもいいよ、とイニアの頬が緩む。
しかしエラスティは力説した。
「違うわ。愛し合ってる二人が夫婦になるのが良いのよ。家の事情に縛られるなんて、不幸で可哀想よ。あの人はいつも嘆き悲しんでたわ。奥様なんか少しも愛してないんだって、私を妻にしたかったって!」
どん、と彼女の拳でテーブルが音を立てる。
はあ、そんなの浮気者の常套句じゃん、とイニアが内心で貶す。頭の中、ドロドロの蜂蜜でも詰まってんの?
ロフィーダは、酒杯をテーブルへ置いて代わりにパンを取り、ちらりとエラスティへ視線を向けた。
「一つ良いかしら。貴女のあの方が奥様と婚約したのは、貴女と出会う前ではありませんの? 先に貴女と結婚の約束をしていたなら、奥様との結婚は貴女に対する裏切り。逆でしたら、貴女と関係を持ったのは奥様に対する裏切り、ではございませんか? 奥様と離縁が出来ないなら、他の女に手を出すべきでは無いと思いませんの?」
全くの正論。イニアが深く賛同していると、オラニオが庇った。
「そう虐めないでやって下さい。エラスティさんは、その時付き合っていた恋人を信じただけです。子供が出来た後で、恋人が妻子持ちだと知ったんです。そうでしたね?」
眉を逆立てて、赤い顔のままうなずくエラスティ。
うっわぁ。何でその男、一発殴ってやらなかったの。最低なクソ野郎だよ。
イニアが勝手に苛立っていると、ロフィーダは、アピリーのスープが残った皿へ千切ったパンを入れてやりながら、淡々と言った。
「まあ。それは迂闊でしたわね。でしたらその方、先に既婚者であると明かしてから、納得ずくで付き合ってくれと頼むべきではありませんか。貴女もそんな人間、見限ればよろしかったのに」
エラスティは唇を噛んでロフィーダを睨んだ。拳がぷるぷるしている。すると、またオラニオが口を出した。
「あの方は、エラスティさんのお腹に愛の証が宿った、君のことは絶対に捨てない、と言ったんでしたよね? エラスティさんも、嬉しい、いつか一緒に暮らしましょう、と言った。そうでしたよね?」
「……そうよ、私達は二人の愛を大事にしたの。真の愛なの!」
それ本気にしたんだ。へぇ。丸め込まれて、そのままずるずる愛人やってんの? それじゃあ、オバサンの相手って色ボケ爺じゃなかったんだ。雰囲気的に身分違いのヤツかな。お貴族様が相手だとしたら、一番危険なやつだ。やだなぁ。ないわぁ。
イニアの持つ認識は更新されたが、好感度は更に下がった。
「その真の愛のお陰で、男爵夫人がご苦労なさったんでしたわね」
平坦な言い方で、ロフィーダが告げる。
エラスティは眉をしかめた。
「は? 男爵夫人? 知らないわよ」
女の子が匙を忙がしく動かして、皿と口を往復させながらも、目だけで母親を見る。まるで何かを問いかけているようだ。
母親は、フッと熱の無い笑みを浮かべた。
「そうね、アピリー。私もこれは選ばないわ」
子供はこっくりし、男の方を見る。彼も口角を上げて言った。
「私は、別のを選びましたので」
何か分からないが、三人はそれで通じたようだった。




