閑話 食事処「馬の骨」にて 一
今回はオストアロゴです
オストアロゴが知らないうちに、隣のルフェイ領で先代の男爵夫人が亡くなっていた。
春先になって、彼がエクディキシ商店のカシィコン支店へ顔を出したとき、初めて知った事だった。
その日オストアロゴは、いつもより少し早めに自分の店、食事処「馬の骨」を閉め、エクディキシ商店へ出向いていた。
エクディキシ商店は、大通りの端にありながら、なかなかの人気を誇る店で、彼も良く利用する。とにかく旬の食材など品揃えが良い。
店主は隣のルフェイ領の男爵夫人ティピナ様で、この店は支店だ。エレガーティス領にも支店がある。本店はルフェイ領で、そっちは調味塩や高級入浴剤を作っているらしい。そして男爵夫人の若奥様は、彼の店と住まいの大家でもある。
エクディキシ商店の支店長は、中肉中背の目立たない地味な男だが、店主のルフェイ男爵夫人から店を任されているくらいには仕事の出来る男だ。
その支店長に、
「最近顔を見ていないが、店主の若奥様はどうしてるんだ?」なんて軽くオストアロゴが聞いたところ、
「店主様は、先代の男爵夫人が亡くなって喪中だから、しばらくこっちへ来られなくなったと言ってましたよ」と答えが返ってきたのだ。
次いで、事務的に
「うちの店主様は気さくだけど、あれでもお貴族様ですから。多分長い喪中になると思いますんで、伝言とか試作品とかの諸々は、こちらへ家賃とまとめて持って来て下さい。代理で受け付けるよう言われてますので」と告げられた。
……彼が何故わざわざエクディキシ商店までやって来たのかと言うと、大分前に男爵夫人より試作品の調味塩を預かったからだった。
昨年の秋、彼が新しく接客係で雇った女の子イニアが、たまたま食事に来た若奥様の料理を運んだとき頼まれたらしい。
「なんか、エクディキシ商店のティピナって人からです。試作品なんで、試した結果を教えて欲しいって言ってました」
と品物を手渡された時には、店主の若奥様は既に帰った後だった。
その日は忙しかったが、オストアロゴは若奥様が来店していることに気付いていた。いつものようにおまけの一皿も付けてやった。
でもあの時は、会いたい気持ちはあったが、何だか顔を見られなくて、忙しさにかまけ厨房から出なかった。
それで帰った後で、やっぱり会っときゃ良かった、なんて思う程度には、想っていたわけだ。
余所の家の新婚の嫁さんだってのに。しかも子持ちでお貴族様。そして店舗の大家でもある。……いいや、やっぱり会わなくて良かった。
胸の内はともかく、彼はきちんと男爵夫人と適度な距離を保っていた。
それというのも、オストアロゴには親という悪い見本が近くにあったからこそ。
だから、いくら慕わしいと思っても、浮気の片棒を担ぐなど絶対にやめろ、と彼の理性が待ったをかける。
好きだけで一緒になっても、そう簡単に幸せになれる訳じゃない。むしろ周囲に迷惑をかける。
それを無理矢理やろうとした父親はクソだと思っている。母親のことは馬鹿な女なんだなと諦めた。
クソな父親こと元カシィコン伯爵プロカッロとは、庶子の彼がカシィコン伯爵家を出てからもたまに顔を合わせた。
彼は親に何の用も無いが、父親の方は彼を気にかけているようで、外へ出ると偶然を装って向こうからやって来たりする。しかし、店には来ないよう言ってあるので、彼の仕事場には顔を出さない。
彼が運良く店を持って、念願の独り立ちを果たした直後、「親父は入店禁止だ」と言ったら酷く憤慨していたが、大家が誰か知ったらぴたりと黙った。一応、全く何も見えてない訳じゃないらしい。
けれど時々、人を使って彼の監視をしていたようだ。ある時、些細なことで客と揉めた翌日、その客が顔を腫らして謝りに来て、
「お前に貴族の後見人がいるとは知らなかった、どうか家族は許してくれ」と震えながら言った。
驚いて逆に謝った。クソ親父は軽く怒鳴り込んで罵倒しておいた。
母親のエラスティは、彼が大通りの良い場所に店を持ったことを喜んだが、「家を出る。店には来るなよ」と言ったら泣き出した。
身勝手で流されやすい母親だが、ひとり息子のオストアロゴにだけは執着した。
貴族のお家事情とか、伯爵家を出る理由を言って聞かせたけれど、説明途中でまた泣いた。あれは多分聞いてないし、分かってないし、興奮したせいで内容を半分以上忘れている。
涙を流しながら、「分かったわよ、好きなとこへ勝手に行けば良いわ! でも誰にも知られなけりゃ、こっそり私と会ったって良いでしょう!?」とか叫んでいた。
以来、一人でふらっと店へやって来て、何かつまんだら帰って行く。だが、自分で代金を払わないし、帰りは父親が寄越した迎えの馬車に乗って帰る。こっそりはどこへ行った。
やっぱり分かってない、と彼はため息をついた。
その母親は、前回若奥様が来た日、店が混み合う前に若い男とやって来て、彼の店で食事をした。
相手の男は愛想の良い赤毛の美男子で、彼の母親は年甲斐も無く頬を赤らめ、男のやたら綺麗な顔面をずうっとデレデレニヤニヤしながら見ていた。元々、面食いなのだ。彼の父親も顔だけは良かった。
オストアロゴは母親と一緒に座ったその男を見たことがあった。
前にも若奥様と店に来た奴だ。その時は若奥様と仕事の話をしていたから、仕事仲間だと思っていた。いつ知り合ったのやら母親とも親しそうだ。母親もあんなにはしゃいで、クソ親父が怒り出さなきゃ良いが、と彼が少しばかり案じていたら、案の定、父親と母親は大喧嘩したらしい。
翌日、他の男に見とれたせいで言い合いになり、父親の前伯爵が隠居していた屋敷から勢いで飛び出してしまった。
そのまま食事処「馬の骨」に駆け込んで来て、
「もうあんな人の所へ帰らないから、ちょっと泊めてちょうだい」と泣きついた。でかい鞄を引きずって、夜逃げか家出の格好だった。
クソ親父と別れるのは賛成だが、化粧崩れした泣き顔にどん引きした。
彼が借りている部屋は店舗の二階だから、当然若奥様の持ち物だ。
仕方なく連れて帰ると、母親は広くて綺麗な内部を喜んで、勝手に奥まで行こうとした。
「そっちは駄目だ、一部屋だけ借りてるんだ」と止めたら、
「なんで? 誰も使ってないっぽいのに。ちょっと横になるぐらい、黙ってたら分からないわよ?」と不満そうな顔をした。
何日か彼の部屋に泊めるくらいなら構わないだろうが、他の空いている部屋が使いたかったら、当然、大家の男爵夫人から許可が必要だ。なあなあですむ平民の家ではない。
駄目なもんは駄目なので、強引に自分の部屋へ押し込んだ。
……まあ数日なら、彼は母親と一緒でも我慢が出来た。母子二人で暮らしていた昔のことを懐かしく思い出し、昔に戻っただけと思ったくらいだ。
しかし、ひと月も経たない内に嫌になった。
母親は、ほんの数年父親と暮らしただけで、すっかり怠け者の贅沢好きになっていた。
鞄の中は派手な服や装飾品ばかりで、生活に必要な実用品は一切入って無かった。
なのに彼女は、色々足りないと勝手に高い化粧品なんかを買ってきて、金は彼に払わせようとした。叱り飛ばして返品させた。
母親は自分で働く気が無いようで、毎日彼の店へタダ飯を食べに来て、彼の部屋へ戻って仕事が終わるのを待っている。すっかり世話になるつもりなのだ。
時々彼の部屋の掃除や洗濯をして少しばかりの金を探し出し、勝手に買い物をした。息子の金は自分の金だと思っている節がある。
彼は部屋に金を置くのをやめ、店に隠した。
更に、母親は父親と離れて寂しいのか、恋人でもないのにやたらオストアロゴにべたべたしてきた。彼を未だに身体の大きな子供だと思っているのだ。
「昔みたいに、また私の坊やの髪を梳いてあげたいわ」と身支度中に頭を撫でられた時は、背筋がぞわぞわした。
やめろよ、いくつだと思ってんだ。俺は成人してるし独り立ちしたんだぞ。
年頃の若い男が、依存する気満々の母親と二人、狭い部屋で暮らす窮屈さ。自由気儘な一人暮らしに慣れた所だったから尚更だ。
彼は音を上げた。無理。
母親と同居するようになって、オストアロゴは一日の仕事が終わる頃になると、気が塞いでくるようになった。
帰って、母親に余計な世話を焼かれるのが嫌だ。
閉店後も遅くまで店に残って雑用をした。しなくてもいい掃除とか、長期保存用の仕込み確認とか、もらった試作品の調味塩で新しい料理を考えたりとか、思いつくことを色々やった。
少しでも長く居残りたい、帰りたくない。
しばらくすると、店の皆は彼が一人で頑張っているのを気にかけるようになり、徐々に居残りに付き合うようになった。
善意の居残りに、ただ働きさせるのも悪いかと思って、彼は賃金とは別に少し金を出した。
そのうち、一番若い女の子のイニアが積極的に手伝って、遅くまで残るようになった。お手当て目当てらしい。
若い女性を遅くまで働かせるのは危ないので、イニアが残ると彼は適当に切り上げる。すると、かえって彼女が張り切って居残るようになり、他の店員達は苦笑して、また普段通りに帰宅する元の生活に戻った。
閉店後の店に、オストアロゴと若いイニアが居残る日が続いた。
母親は初め、部屋で息子の帰りを大人しく待っていたが、日が経つにつれて、「私を放って仕事ばっかり」とブツブツ不満をこぼすようになった。
転がり込んだのは彼女の方だ。
流石に彼もムッとしたが、冬が迫っているこの時期、今すぐ出ていけ、とは言いにくいだけの情が、オストアロゴにも残っていた。
また、伯爵家の見張りが報告して、母親が彼の所に居ると知っているだろうから、もしかして父親が懐柔しに来るかも知れないし、母親が自分から父親のところへ帰ると言い出すかも知れない、そうも思った。
とりあえず春まで様子を見る。
春になったら、せめてもう一部屋借りられないか男爵夫人に聞く。駄目なら別の物件を探す。母親を養うのは仕方が無い。家賃はなんとか捻出する。とにかく自室が欲しい。同じ部屋でべったり一緒は無理。
オストアロゴはそう決めた。
けれど迎えは来ず、帰りもしないまま冬を越した。
そんな訳で、春先まで我慢した彼は、エクディキシ商店へ来たのだった……。
オストアロゴは支店長の前に立ち、新しい調味塩の感想は良いとして、自分の極めて私的な事情を差し障りない範囲でぼかしながら説明する、と考えただけで面倒臭くなって諦めた。別に、言わなくても良いだろ。
代わりに「じゃあ、今から若奥様へ手紙を書くから、渡して欲しいです」と言うと、ならば机のあるところで、と応接室を借してくれた。
留守中、母親がまた勝手に彼の物をあさったりしてないかと思うと、早く帰りたくて気が急いた。
彼に付き添ってくれた支店長に、紙と筆記用具を借りて机に向かう。
手早く手紙を書こうと思い、「母親と住みたいので、出来ればもう一部屋借りたいです」と要点だけ簡潔に書き、ふう、と息をついた、
それから、室内を見渡した。
金がかかっている部屋。それが彼の一番最初に出てきた感想だった。
ここに置いてあるのは、明らかに金持ち向けの品物ばかりだった。上品な室内装飾。よく見れば机も椅子も磨き込まれた高級品。泥棒がいたら目を輝かせること間違いなしの、鍵付き戸棚の食器類。さり気なく置かれた趣味の良い長椅子。その上のひざ掛け毛布も、見たことが無いくらいフンワリしていた。
やべえ、伯爵家の入っちゃならねえ収集品を飾る部屋か、偉い人が泊まる貴賓室みてえだ、と彼は思った。
それはすなわち、平民育ちの自分と似つかわしくないもの、ということだった。
彼は勢い良くばっと机から離れ、今しがた触っていたところが汚れてやしないかと、つい確かめてしまった。
彼の知っているルフェイ男爵夫人は、貴族特有の驕りなど感じない、可愛らしい女性だ。
平民の生まれと言うが、彼と違って下町言葉なんか使わない。どこか裕福な育ちらしいお嬢様感があって、その無垢さが妙に惹きつけられる。それでいて、商人らしい親しみやすい雰囲気を作り出すのに成功していた。何より、文句なしの美人さんだ。そう、思っていた。
……その人が、ここの主人だ。
なんだよ、とオストアロゴは思った。
ちゃんとお貴族様じゃねえか。
特別裕福な特権階級。普通に見えるだけで、その実、俺が関わり合いになりたくねえ奴らと同じ。
違う世界に住んでる。
数年前に会ったルフェイ男爵は、まだ子息でしかなかったが、めちゃくちゃ綺麗な顔をした若様だった。噂じゃ大変な愛妻家だそうだ。
あの顔なら、彼女と並ぶとさぞかしお似合いだろう。
……心得違いだ、最初から。大体、人妻じゃねえか。俺も、馬鹿だなあ。
彼はぎゅっと唇を噛み、手紙を丸めて紐で縛った。支店長へ渡し丁寧に頭を深く下げ、よろしくお願いしますと頼んだ。
彼は応接室を出るついでに、
「試作品が余ってたら欲しいです、気に入ったんで」と言ってみた。
支店長は試作品の調味塩を三つ、気前良く彼に渡した。
手紙の返事は、数日するとエクディキシ商店から伝言の形で返って来た。
家賃を納めに来た彼に、支店長が
「他の部屋を貸すことは出来ません。別の物件をこちらで探しましょうか? ただし、ルフェイ領ならいくらでも融通が利きますが、カシィコン領内だと時間がかかります。だそうです」と、気の毒そうに言った。
そりゃそうだ、男爵夫人の若奥様からすれば他領の物件だし、もしかしたら自分で探す方が早いかも知れない、とオストアロゴは思った。
クソ親父に頼んだら確実だが、恩に着せられるのも嫌だ。
彼が渋い顔で思案していると、支店長は可哀想に思ったのか
「私も心当たりを当たってみましょうか?」と、声をかけてくれた。いい人だ。
オストアロゴは支店長の両手をがっしり握ってぶんぶん振った。
「お願いします」
「オストアロゴさん、最近、暖かくなりましたね。 煮込み料理より焼き物料理の方が売れる気がしますよ?」
いつものように居残ったイニアが、テーブルを拭きながら言った。オストアロゴはかまど周りを掃除しながら、うん、とうなずいた。
「そろそろ別の料理も出すか」
「あっ、肉が良いですよ! 濃いめ味で、がっつりの、焼いたやつ! あー、美味しそー」
「なんだ、自分が食いたいだけかよ」
「いいじゃないですか。賄いでお肉があるとやる気出ますもん」
慣れてきたのか、イニアは最近素が出てきた。彼が笑うと彼女は口を尖らせた。
と、閉店中の戸を叩く音がした。
雑巾を持ったまま、イニアがそっと戸を開けると、エクディキシ商店の支店長が立っていた。
「失礼致します。こちらは、オストアロゴさんのお店で間違いございませんか? ご本人はいらっしゃいますか?」
「あ、はい。ちょっと待って下さい」
イニアがオストアロゴを振り返る。彼は汚れた手を前掛けの端で拭いながら出た。
「お待たせしました。あ、支店長さん、どうも」
「突然すみません。店主のティピナ様のお使いで参りました。お探しの件ですが、三つ候補が見つかりました。早いほうが良いかと思いまして、急ぎ伺いましたが、もうお部屋は見つかりましたか?」
「まだです。ありがとうございます」
支店長は小さな書き付けを取り出し、彼へ手渡した。
「こちら簡単な地図です。最初の一件だけ賃貸ですが、あと二つは一戸建ての売り物件で、どちらも空き家なのでいつ見に行っても大丈夫です」
「ありがとうございます。今度見てきます」
「えー、お店、引っ越しするんですかぁ?」
すっとんきょうな声をイニアが上げた。
「違う、住む所を探してるんだ」
オストアロゴが打ち消すと、支店長はちらっとイニアを見て、耳打ちしてきた。
「もしや、可愛い恋人と住むんですか?」
「は? いやいや、恋人いないんで違います」
「なんだ、違うんですか」
イニアがぽふ、と手と雑巾を合わせた。
「分かった、お母さんのためでしょう?」
「あー、まあ。そうだな」
何故分かったんだろう、とオストアロゴがうなずく。
やっぱりね、と彼女は言った。
「だと思いました。言っちゃ悪いけど、あの人、いつも派手な格好してるし、しょっちゅうタダでご飯食べに来るし、遅くまでオストアロゴさんが働いて養ってるの、大変そうだなーって思ってました。早く出て行ってくれると良いですね!」
ぐ、と詰まってオストアロゴが視線を逸らす。
イニアに悪気は無い。彼を心配しているだけのことだ。あまりにも率直すぎだけど。
「いや、一緒に引っ越そうかと思ってた」
「えっ、そうなんですか? あれ、オストアロゴさんの家、遠かったんですか?」
「いや……ここの二階。二人だと狭いんで」
「ここ? はあ、近すぎ! えー、便利なのに?」
イニアが呆れた声になる。
支店長がずいっと前に出た。
「お母さんとですか。じゃあ、いっそのこと一軒家が良いんじゃありませんか? 将来嫁さんが来たら、狭いとまた引っ越しになりますよ。実は最後の物件、私の伝手で持ってきた話なんですが、これが大変お得でして。ここから近い上に、かなり新しめの建物で……」
商売人の顔だった。
結局、オストアロゴは支店長がぐいぐい勧めた一軒家を買うことにした。店からまあまあ近いが、大通りから外れた静かな区画にあるこぢんまりとした家だ。台所が広く取ってあるのが決め手になった。少人数で住むなら十分な広さだ。
だが、資金が足りないので即買いとはいかなかった。売り主が数ヶ月くらいなら待っても良いと言うので、それまで金を貯めて引っ越したい。
ところが肝心の母親が難色を示した。
曰く、家が小さ過ぎ、周りが地味、寂しくて何も楽しめる物が無い、町の中じゃないとつまらない、狭くても今居るとこで良い、だそうだ。
そういや、昔、母子で世話になってた居酒屋も賑やかな所だった。寂しがり屋だもんな、と彼はため息を吐いた。
が、折れる気は無い。
「じゃあ、悪いけど俺が出ていく」
すると母親は慌てだした。
「待って、なんで? 母さんを置いていくの?」
と涙ぐんだ。少し罪悪感がわいたが、彼は突き放した。
「これ以上物が置けないし、俺がもう無理だ」
すると母親は頬を赤くして怒り、突然部屋を飛び出した。慌てて追いかけると、わざわざ店の真ん前まで行き、わあっと声を上げて泣いた。
「ちょ、やめろよ、こんなとこで泣くなよ」
宥めると、ますます激しく泣いた。
道行く人がジロジロ見る。嫌がらせだ。
「酷いわ、なんて子なの! 母さんを捨てるのね!」
「おい、人聞きの悪いこと言うなよ!」
しばらく揉めていると、馬車が店の前に来て停まった。
馬車の扉が開き、中から聞き覚えのある彼の嫌いな低い声がした。
「息子と暮らすのは楽しかったか? 気はすんだか、エラスティ。私の所に戻るか?」
彼の父親だった。まるで泣くのを待ち構えていたかのようだ。母親を見張っていたのかも知れない。
母親は大きくうなずいた。
「そうするわ」
そしてさっさと乗り込み、父親に抱きついた。
「ああ、プロカッロ。会いたかったわ。聞いて? オストアロゴったら酷いのよ!」
「聞いてやるとも。泣き言も言い訳も後でじっくりとな。オストアロゴよ、エラスティが世話になった。委細は後日だ。これは連れて行く」
一方的に言い置いて、ぱたんと馬車の扉が閉まる。
「なんっ、待てよ親父」
目の前で、あれよあれよと事態が急変していく。御者台の男が可哀想なものを見る目で彼に黙礼した。
馬車が母親を乗せて走り去るのを、彼は茫然と見送った。気付けば、彼は一人店の前で立ち尽くしていた。
オストアロゴは悪態を吐いた。
「クソが! なんなんだよ! だから嫌なんだよ! 散々振り回しやがって!」
彼は後日、母親の荷物を取りに来た使用人に、「母親の面倒はもう見ない」と言ってやった。
使用人は慇懃に「かしこまりました」と無表情で応え、「主から、迷惑料だそうです」と金の入った袋を手渡した。
ずしりと重かった。突き返そうかと思ったが、やめた。
……彼はその金で、予定通り住まいを変えた。




