魔族の商人 二
エクディキシ商店のカシィコン領支店は、お義父様のトロッフィ商店がその根底にある。
元々平民向けの店だったことから、塩関連商品の他にも地元産の食品や雑貨が並べてあり、小規模販売のルフェイ領本店とは品揃えが変わっている。かつてトロッフィ商店が取引していた仕入れ先を、今も大切にしているのだ。
それをオラニオは興味深げに確認していく。
「あちらでもここと同じように、塩関連以外の商品を置きますか?」
「そうですね。お客様の要望があれば、その都度出来るだけ応えて変えていく方針です。それに、折角だから他領にも店がある強みも生かしていきたいわ。エレガーティス領なら、そうね……。試しにカシィコン産ワインの上物を持って行ってみましょう。侯爵様がお好きなようでしたから、召し上がるかも知れません。あとは、入浴剤が人気のようですし、ついでに買ってもらえそうな女性向けの小物はどうかしら?」
「かしこまりました。そのように致しましょう」
店内を一通りオラニオに見せて回った後、エレガーティス領へカシィコン領産のワインを運ぶことになった。
支店長にどんなのが良いか、と意見を聞いたら、明日入荷する新酒の良品があるという。
ではそれを、ということになり、その夜オラニオは宿を取って一泊し、品物の到着を待って持って行くことになった。
支店を出ると、既に天気が崩れていて、雨と雪の間の霙が降っていた。でも、ちょっと待てば止むかもと思う降り方だ。
それで私は雨よけも兼ねて、いつものようにオストアルゴの店で食事していくことにした。
オラニオも土地に詳しくないので、一緒に食事処へ連れて行ってもらえないかと言う。じゃあ皆で、と護衛と侍女も連れ、オストアルゴの店「馬の骨」へ向かうことになった。
「馬の骨」に、客人を連れて来たのは初めてだ。少しどきどきしながら店の扉を開けた。
店は暖かく、ほどほどに空いていて、肉料理の香ばしい匂いがした。
例によって、来店した私を目敏く見つけたオストアルゴが、接客係を差し置いて厨房からひょいと笑顔で出て来た。
「おう、久しぶり。いらっしゃいませ! っと……お連れ様ですか? いつもの席じゃなくて奥の広いテーブルにしますか?」
すぐ彼は、オラニオがいるのに気が付いて、おやという顔になった。
「ええ、そうね。広い方でお願いします」
「はいよ。どうぞ座ってて下さい。今、注文を取りに行きますんで」
ぺこりと会釈して、オストアルゴはまた厨房へ戻っていった。
大抵は日当たりの良い、厨房から遠くない小さなテーブルに案内されるが、今日は奥にある広いテーブルの方へ座った。普段、気を遣って別テーブルにつく護衛と侍女も一緒だ。
私の横でオラニオが大きく息をつく。
「ああ、今の人は驚くほど良い匂いがしましたね」
「やはりそう感じるのですね。でも、彼には手出ししないで欲しいのですが」
オラニオは面白そうに私を見た。私は護衛と侍女をちらりと見てから、声を落として言った。
「彼は私の友人で、この店の主人です。ここの建物と裏の屋敷は私の持ち物で、彼に場所を貸しています」
「そうなのですか。なかなか良い場所に物件をお持ちなのですね」
「それと、彼はカシィコン伯爵様の異母兄弟です。今は縁を切って市井に降りていますが、狙うのはあまり得策ではありません」
オラニオはふうむ、と唸って護衛と侍女に目をやった。護衛も侍女も、うなずいて情報が本当であると示す。
「分かりました。そのように牽制しなくとも大丈夫ですよ。貴女の獲物なのですね」
「獲物だなんて」
(うん、あの個体はティシアの気に入り)
身の内側で、フォスアンティピナが余計なつぶやきを漏らす。
にこにことオラニオが言った。
「ご安心を。手出ししませんとも」
ふと、護衛が店の入り口へ目を走らせて、口元に指を立てる。皆が口を閉じると、扉が開いた。
「こんにちは」
軽く挨拶しながら中年の女性が入って来た。
態度からして平民だと思うが、着ている服が垢抜けている。ふわふわした毛皮の外套を脱いだ中から現れたのは、濃青のチュニックで、赤薔薇模様の刺繍が綺麗な袖を付けたものだった。
高そうな毛皮の外套もそうだが、王都で流行りの付け袖や、濃い色染めや細かい刺繍は、お忍びの貴族か王都の富裕層の格好っぽい華やかさだ。
けれど、貴族の奥様にしては所作が雑な感じがして、どこか不自然だった。
すると、接客係が厨房へ声をかけた。
「オストアルゴさん、お母さんが来ましたよ」
オストアルゴのお母さん?
「おう。……お袋? 今忙しいから、後でって言ってくれ」
顔も出さずに声を投げかけるオストアルゴ。それが聞こえたようで、女性は接客係に向かって軽く言う。
「分かったわ。適当に待ってる」
彼女は私達のテーブル横を通り、まるで指定席のようにすっと最奥のテーブルへ行った。
同時にふわりと漂う、蜂蜜酒のごとき、酔いを誘うような甘く豊かな香り。
(わあ、すごく美味しそうな匂い!)
興奮した感じのフォスアンティピナに、思わず小声で言っていた。
「駄目、前伯爵の愛人よ」
ハッとして口を押さえたが、テーブルの皆が私を見ていた。
「……若奥様?」
護衛がうかがうように聞き返す。
「いえ、あ、あの方……オストアルゴのお母様なのね? 前のご領主様と一緒に隠居しているはずではなかったかしら?」
誤魔化すように質問した。侍女がうなずく。
「はい。私もそのように覚えております。
前伯爵は隠居の上、蟄居の身です。ですが……あの愛人は、屋敷から追い出されたとは聞きましたが、特に制約が有るとは聞いておりません。前伯爵に付き添っているという話でしたけれど、そもそも奪う身分も財産も無いですから、身一つで放り出されたぐらいでしょう」
「うーむ、出て行くよう言われただけなら、何処へ行こうと勝手か……。しかし、まさか今になって鉢合わせするとは」
侍女も護衛も渋い顔をした。オラニオは黙って彼女を観察している。
オストアルゴの母親は、ほんのり笑顔を浮かべて、厨房の方を眺めていた。
息子と似た目鼻立ち。美人の部類だろう。しかしどこか気怠そうな雰囲気があり、そこが息子と違う。ふんわり結い上げた茶色の髪に茶色い目。ちょっと胸元が豊満で、年の割に色っぽい体つき。
「あの女性に、何か問題があるので?」
横目であちらを見ながら、オラニオが小声で聞いてくる。私も小声で答えた。
「あの女性というより、前伯爵のほうですが。私の契約に関係があるのです。……ここで、隠居中の前伯爵の愛人を見るとは思いませんでした」
「ほう、それはそれは」
ひそひそ話していると、厨房からオストアルゴが、自ら注文を取りに姿を見せた。
忙しいと言っておきながら、大家の私に対する破格の待遇は変えないようだ。
「お待たせしました。何にしますか? 今日は良い塩漬け肉があるんで、香草と一緒に焼いたのがおすすめだけど」
それは美味しそう。オラニオに首を傾げて身振りで問うと、「お任せします」と言う。
「じゃあ、それを。他におすすめがあったら、適当に持ってきてもらえるかしら? 飲み物は、とりあえず赤葡萄のワインを一瓶と人数分の酒杯をお願い」
「はいよ。とっておきのを出すよ」
朗らかに返答して、オストアルゴが引っ込んで行こうとした。
その途中で、オストアルゴの母親が片手を軽く上げて呼び止めた。
「私にも、何か美味しそうな物をちょうだい。あ、お代はあの人がまとめて支払ってくれると思うわ」
「お。……何だよ、なんか俺に用があって来たんじゃねえのか? 飯を食いに来たのか?」
小さな笑顔を見せる母親に、一瞬驚いたようだが、慣れた様子でオストアルゴが聞く。
わずかにこちらを気にした素振りで、視界を遮るようにテーブル横へ立った。
母親の様子からして、彼女が店に来るのは良くあることのようだ。
息子の店へ食事に来たのだろうか。そのこと自体は、普通ならおかしなことではないが……。
まさか、私の顔を知らないとは思うが、ここの大家がルフェイ男爵夫人だと知っていても来ているのだろうか。
年若い料理人が、大通りの良い場所に店を持つことの凄さを、飲み屋で働いていた女性が分からないとは思えない。大家が誰なのか気にするはず。
あ、ひょっとして、オストアルゴが心配させまいと伏せているのだろうか。それはありそうだ。
自分を妻の座につけるため、恋人が冤罪で陥れた家の子が、ここの家主。
知っていたら、余程図太い神経でなければ絶対に来店しないと思う。
「たまたま霙になっちゃって。近所まで来てたの。少し雨宿りさせてちょうだい。外はすっごく寒いのよ。あの人の用事もまだ終わらないみたいだから、それが終わるまででいいわ。ここで待ってるって言ってきちゃったの」
楽しげに話す母親。オストアルゴは気持ち声を小さめにして言った。
「えぇ? ここって言ったのかよ。あいつが迎えに来る前に、店出てくれよ。色々面倒だから、親父の入店お断りって言ったろ。だいたい、クソ親父の用事って何だよ?」
「もう。そう悪く言っちゃ可哀想よ。あなたを心配していたわよ。……用事って、お買い物よ。新しい盤上遊戯がこの近くの店に置いてあるって聞いたの。そしたら、是非見たいって言うから、こっそり抜け出して来たのよ。それでね、実物を見たら見たで、お試しの一戦を店先で始めてしまって。まだちょっと、勝負がつくまで時間がかかると思うわ」
「は、暇人か。とんだ迷惑客だな」
「お店の人は、客寄せになるって嬉しそうだったわ。降ってくるまではね。でも、そうよ。暇なのよ。仕事も無いし退屈しているみたいなの」
オストアルゴは小さく舌打ちし、じろりと彼女の装いを見て言った。
「お袋、もっと普通の格好しろよ。それ、町中じゃ目立つだろ」
「だって、あの人が似合うって、わざわざ買ってくれたんだもの。着ないわけにいかないわ。お金なら大丈夫よ。新伯爵の坊ちゃんが生活費用をくれたから。この刺繍、綺麗でしょう?」
「いや、派手すぎだって。全く、クソ親父の言うこと何でもほいほい聞いてんじゃねえよ。少しは説得して大人しく家に居させろっての。買い物なら店側に来てもらえば良いだろ。あいつが抜け出して出歩いてんの、頑固ジジイに見つかったらヤバいんじゃねえのか? お袋も文句言われるぜ」
「そんなこと言ったって、あの人すごく退屈してるのよ。可哀想じゃない。ちょっと気晴らしよ。仕方ないわ」
困ったように笑う彼女に、オストアルゴは諦めてか、肩をすくませる。
彼は母親に背を向けながら「今、用意するから待ってろ」と言って歩き去った。
彼の母親のことを、惚れた弱みと貴族の権力のせいで、前領主に逆らえなかった可哀想な女性だと思っていたが、どうも単純にそういうことでもなさそうだ、と感じた。
オストアルゴの母親は、前伯爵に付き添うついでに、しっかりと貴族のおこぼれを享受し、満ち足りた良い生活をしているように見える。服とか食事とか、何の遠慮もなく当たり前のように、代金を恋人に支払わせている。
そういえば、以前は塩入り入浴剤も気に入っていたのだった。贅沢好みなのかも。
家を出たオストアルゴの方が、まだましだったようだ。彼は身の程を知っていた。
じっと見ていたオラニオが、面白そうに言った。
「ずいぶん可愛らしい人ですね」
「えっ」
耳を疑った。あの人のどこに可愛い要素が?
「愛する人が勧めた物は、何でも受け入れるんでしょうね。服も生活も、立場も。与える側から見れば、いつも笑顔で受け入れてくれて、逆らわない。雨の日に余所で待ってろと言われても、遊んでる間ずっと放置されても、少しも怒らない。大変楽な相手で手放しがたく、可愛いでしょうね」
……そういう視点から考えたことは無かった。
言われてみれば、何をしても許容してくれる女性は、便利で可愛いのかも……?
護衛が納得した顔になる。
「なるほど。あの女が、前領主の世迷い言を断らず従ったせいで、前領主は図に乗って突き進んだと言う訳か。その結果がこの状況と。人を駄目にする女だな」
前伯爵の状況……。早い引退、悪評、隠居生活。
だが、領主である息子が養ってくれて、他にも私財か資金でもあるのか、遊ぶ余裕があり生活に困っていない。愛人も同居させている。
侍女がため息をついた。
「あの手の人間、たまにいますわ。相手の言いなりになっていれば楽なんでしょう。都合が悪くなったら他人のせいにしやすいですし。自分が失敗したときは仕方ないですませて、反省などしなさそうですわね。とても良い香りですが、私なら『揺りかご』に選びません」
「俺もだな。たぶん契約で願う事も、小さくてつまらん内容か、夢物語みたいに無謀なヤツだ」
「せいぜい『贄』か餌ですわね」
「いや、餌一択だろう。対価の働きをしたいとは思わん」
容赦の無い護衛と侍女。魔族の会話に口を挟めずにいると、オラニオが参加した。
「私は好きですよ。ああいう人間は根がそれなりに利己的なので、相手に流されているようでいて、しっかり保身に努めますから。甘えたり強請ったりするのも、きっと上手なんでしょう。子供を育てた実績があるんですよね? でしたら大丈夫です。幼体も生き残りやすいと思います」
とても褒めてるようには聞こえないが、褒めているらしい。護衛が鼻を鳴らす。
「ふむ……。無理に流れに逆らわず、人を利用するくらいの力があるということか。で、あれば悪く無いかもな。外側は良いのだし」
「ですが、生き残りやすいかどうかは不明ですわ。私は気にくわないわ。ただ楽な方へ流されているだけではないと言い切れませんもの。悲劇の主人公気取りで、結局破滅へ向かう者もいますでしょ?」
侍女は否定的だ。オラニオが苦笑する。私の中でフォスアンティピナが、興味深そうにしながら話を聞いているようだ。皆、人間の考察に忙しい。
「……匂いだけで『揺りかご』に選んだりしないのですね」
私がそっと言うと、侍女はうなずいた。
「そうですわ。最も、匂いが良いということは、良質な獲物である証拠です。また、外側が良いほうがいいのは、見目が良いと獲物の方から近づいて来るので、狩りをしやすいからです。そして大切なのが、生きる意欲と誠実さ。自ら命を捨てたり、契約を裏切る者はいらないのです」
オラニオが私を見て首を傾げた。
「あれは、店主様の獲物ではありませんよね?」
「え、ええ……」
「あれを保護しておく必要は、ありますか?」
(ティシア、あの個体、危険? それとも大切?)
オラニオの問いに続いて、フォスアンティピナも聞いてくる。
伯爵家を追いやられた前領主の、ただの平民の愛人に、どんな脅威があるのかと問われれば、ほぼ無いに等しい。大事にしたい理由も、無い。
正直、彼女が生きていようが死んでいようが、私には直接関係が無い。ただ、仇の恋人で、友人の母親なだけ。
……魔族の繁栄を邪魔してはならない。
少し逡巡した末、黙って微かに首を振ると、彼は嬉しそうに笑んだ。
「良かった。あれを選ぶかどうかまだ分かりませんが、良質な獲物として、目をかけておきたいと思います」
(分かった。あの個体は、オラニオトクスの獲物予定)
私の中でフォスアンティピナが了承した。
それから私達は、今日のお勧め料理をお腹に入れながら、ぽつぽつ仕事の話をした。
エレガーティス領支店の開店日を、物の行き来がしやすくなる春先と決めた。初日は、店主である私も立ち会うことにして、食事をしながら、それに関する詳細をオラニオと詰めていった。
皿を運んできた時に、私達が商いの相談をしていると分かったオストアルゴは、その後、邪魔することなく、給仕を接客係に任せたようだ。
話がまとまり、皆の食事がだいたい落ち着いた頃、オラニオがすっと立ち上がった。
片手に赤葡萄のワインの瓶を持っている。中身は半分以上減っているが、まだ多少余った液体が揺れていた。
「ちょっとご挨拶してきます。皆さんはどうぞそのまま」
そして、オストアルゴの母親のテーブルへ向かった。
突然現れた綺麗な顔の男に、彼女は食事の手を止めた。テーブルには食べかけの、香草と焼いた肉の皿と千切った麺麭、杯があった。
怪訝な顔でオラニオを見上げる。
「失礼、お美しいご婦人。突然お声がけして申し訳ありません。少々お願いがありまして。ご婦人はお酒を嗜まれるご様子。実は、私達のテーブルで少しワインが余ってしまいまして。ちょっと良い品ですから、残すのは勿体ない。それでもし、ご婦人が大丈夫なようでしたら、私の代わりに飲んでいただけないかと思い。どうでしょうか?」
にっこり。人好きのするいい顔で瓶をテーブルへ置いた。彼女は面食らった様子だったが、瓶を見て驚いた。
「えっ、まあ。こんな良いお酒を……?」
「余り物ですみませんが、お願いしても良いでしょうか?」
「あらあら、まあまあ! そんな、いいんですか?」
「良かった。貴女のようなお美しい方に飲んでもらえるなら、ワインも嬉しいでしょう」
「やだ、そう言われても、何も出ないわよ。でも、いいの? 本当にもらいますよ?」
「はい、もちろん。こちらとしても、美人に一杯ご馳走したと思えば、無駄になりません。そうそう、少々強いので飲み過ぎませんよう。酔った貴女も艶やかそうで、見てみたい気がしますね。しかしながら、どんな美酒も貴女の麗しさ以上に人を酔わせることは出来ないでしょうが。……ふふふ」
オラニオの口から、息をするような自然さで、歯が浮くような甘い褒め言葉がつるつると出て来る。
駄目押しの色香溢れる微笑みを、惜しげも無く彼は披露した。
彼女はぼうっと美貌の魔族に見蕩れてしまっていた。
見事な手腕が怖すぎる。
「ま、まぁ……そんな、ご冗談を」
「おや、本心ですよ。ところで美しい方、お名前をうかがっても良いですか? 私はオラニオ。旅の商人をしております」
「あ、……エラスティです」
「良くこの店へいらっしゃるのですかエラスティさん? 私は初めて入りました。……そうですか、いらっしゃる。では、また来たときにお会い出来たら、お声がけさせて下さい、美しいエラスティさん。旅の楽しみがひとつ増えました。ワインを手伝っていただいて、ありがとうございます」
名前を聞き出すまでの早いこと。ぐいぐい距離を詰めて愛想良く笑みを振りまき、夢見心地な様子の彼女をこっくりとうなずかせた。
(警戒の匂い無くなった。ちょっとだけ、雌が雄を気に入った時の匂い。あの個体、嬉しがってる)
まるで手品のようだ。フォスアンティピナが感心している。
ひらひらと手を振ってオラニオがテーブルを離れると、エラスティはぽうっと頬を赤くしながら手を振り返していた。
「失礼しました、戻りました」
何事もなかったように、オラニオは席に戻ってきた。凝視する私へクスリと笑い「ハーブ茶を頼みますか?」とたずねた。
滋養液入りのハーブ茶で、フォスアンティピナは静かになった。
しばらくして、店の外で馬車が止まったような気配があった。その後、気がつけば前伯爵の愛人の姿は無くなっていた。
店を出る時に見送りしてくれたオストアルゴは、少し疲れたような、でもほっとしたような顔をしていた。
外へ出るともう霙は止んでいたが、前の通りは濡れていた。地面には馬車の轍の跡と、馬車に乗り込んだらしき女性の靴跡が残っていた。
足跡を眺めつつオラニオが微笑んでいた。




