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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

十秒後呪いが解けた王城は阿鼻叫喚になった

作者: 真昼

 







 君を失ったその瞬間に、私は私を呪ったのです。








  ◇






 優しい夢を見た。

 三年過ごした学び舎で、君と笑い合っている。

 誰もが帰った夕暮れ時、窓から差す陽が、色の薄い君の瞳を琥珀に染めていた。


 机に突っ伏していた俺に、随分長く眠られていましたね、お疲れですか? と君は聞く。頷くのは何となく気恥ずかしく、けれど決して馬鹿にされないと分かっているから肯定を返す。

 そこだけ夜を映したような■髪を揺らして、君は笑う。透き通った綺麗な笑みだ。この笑顔が好きで、ずっと笑って欲しくて、その為に沢山勉強した。君に恥じる所のない王に、君の夫になりたかった。

 身動きしたら、肩に重みがある事に気づく。俺より幾分小さな制服のジャケット、そう言えば君は長袖のブラウスの上に何も着ていない。


 貸してくれたのだろう。礼を言って返すと、何も無かったように彼女はそれを羽織った。さっきまで俺が使っていた服を、君が纏っている。

 表情には出さないで、早くなる心臓を必死に落ち着かせる。決して君には言えない発想だ。

 仕方ないだろう、十年も好きなんだから!

 婚約者なのに、あと少しで結婚出来るのに、俺は君の手すら握った事はない。


 舞踏会でさえーーーあれ? どうして俺は、君と手を繋いだ事が無いのだろう。

 いや、違う。握って、細く白い指にキスした事があった。昔の、本当に昔の話だ。君が婚約者になった事が幸せで、大好きで、ずっと一緒にいたくてプロポーズの真似事をした。君は驚いて、でも穏やかに笑ってくれて、そのまま手を取ってくるくると踊った、ような、気がする。


 どうして、忘れていたのだろう。


 目の前にいる君を見る。あの頃の面影を残して、ずっと美しくなった姿。

 君の優しい所が好きだった。歳の変わらない俺を二人の時は気遣って甘やかしてくれて、■にも優しかった。

 君の強さが好きだった。国王も俺も畏れる事はなく、誰より真っ直ぐに人を見る正しさが好きだった。

 君の優しさが、強さが、正直さが、愛情深さが、弱さが、甘い物が好きな所が、パイを焼くのが上手い所が、風に揺れる柔らかな髪が、あまり変わらない表情が、薄い唇が、細い首が、白い肌が、しなやかな足が、君を構築する全てが好きだった。


 勿論器用な指も、と目線を下げて、心臓が嫌な音を立てる。

 傷だらけの君の手には、爪が1枚も無かった。

 椅子を蹴飛ばすように立ち上がって、血が固まったそれを掴んだ。どうして

ーーーどうして、気づかなかったのだろう。


 大丈夫ですよ、と君は答えた。昔と何も変わらない笑みで。

 大丈夫と、君は何度も言ってくれた。厳しい王太子の教育に泣いている時、亡くなった母上を思い出した時、父に冷たく接された時。


 大丈夫、大丈夫。私が傍に居ますから。あなたはあなたが思うより、ずっと沢山愛されています。何があってもあなたは、1人ではありませんからね。

 だから大丈夫、大丈夫。

 そう言って頭を撫でて、そっと抱きしめてくれた。


ーーーどうして。


 すぐに俺の掌に治癒陣を描いて、彼女の手をそっと包む。もっと治癒術を学んでおけば良かった。即席の陣では大した効果は見込めない。


 それでもありったけの魔力を注ぎ込み、祈るように目を閉じる。魔術の基は祈りだ。願いが強ければ、世界はそれに応えてくれる。

 どうか、どうかーーー。


 目を開ける。彼女の手は、ほんの少しも治っていなかった。

 どうして王家の人間の魔力を持ってしても、止血一つ出来ないのか。


 愕然とする俺に、彼女は大丈夫ともう一度繰り返した。


 大丈夫、大丈夫。これで良いんです。私はあなたが■を選んでくれた事が、心の底から嬉しい。だからこれは、私が持つべきものなんです。

 私が、持っていきます。


 淡く澄んだ、昔と変わらないーーー昔?

 いつから、俺は


 陽が沈む。闇が覆う。繋いだ指が離される。

 叫ぼうとしてーーー何を? それ、は、決して忘れては、いけないものだったのに。


 ルアン。

 おれは、きみが





  ◇






 憎悪厭忌、嫌悪に嫌厭。


 この世の全ての憎しみが、一人の女に向けられていた。

 俺の卒業を祝う王城の式典に集った貴族達。その全員から隠しもしない侮蔑の声が、波打つように漏れる。

 クラベールに生まれた癖に魔力も持たない無能女、分不相応にも王妃の座を望んだ反逆者。ある者は嘲笑を、ある者は蔑視を込めて。

 型落ちしたドレスを身に纏い、所々引き千切られた黒髪は、組み伏せられた事で床に広がっている。感情の読めない薄灰色の瞳が、瞬きもせず俺を見ていた。

 ずっとこの眼が嫌いだった。映す光によって色を変える、何処までも澄んだ■■■眼が。


「ルアン・クラベール公爵令嬢、貴様には失望した。今迄の悪行の数々、挙げ句の果て嫉妬に駆られてレイリアに嫌がらせをするとはもう見過ごせん。……貴様との婚約、此処で破棄させて貰う!」


 一瞬の静けさと、その後広がる騒めき。次の王妃は誰かや公爵家の処遇が議論されるが、無様な女を慮る声はない。当然だ、この女はそれだけの事をしたのだから。


 ルアン・クラベール。たった今、俺の婚約者でなくなった女の名前だ。貴族しか魔術を使えないこの国で、高名な魔術師を数多く輩出し続けたクラベール家の娘。その癖にこいつは、簡単な魔術一つ使えなかった。


 初めて会った時からいけすかない女だった。笑う顔も語る言葉も、全てが気に障った。貴族として有って当然の魔力は無く、次期王妃としての教養も碌にない。


 この女には王妃の資質も能力もない。俺の後ろで顔を蒼褪めさせているレイリアの方が余程慈愛と思慮深さに溢れ、良き方向に国を率いる事が出来るだろう。

 レイリア・バングニー。辺境の男爵家の養女で身分こそ低いが、その聡明さや魔力量には目を見張る物がある。波打つ艶やかな金糸に宝石より燦めくサファイアの瞳、愛くるしい顔立ちを引き立てる桃色の唇。


 彼女を一目見た瞬間に恋に落ち、時間を重ねる程好きになった。身も心も美しい彼女に恋をする男は多かったが、その中でも俺が一番親しい自覚はある。告白こそしていないが、いつの日か応えてくれると信じたい。

 その為にも、今目の前で腕を捻り上げられている女を王妃の座から排除しなくては。


「何か言ったらどうだ? それとも悔しさで声も出ないか、無様だな。貴族の矜持すらない、薄汚れた溝鼠が」


 靴先で女の顎を無理やり引き上げれば、温度のない瞳が俺を見る。虫唾が走る。この女の、何もかもが。

 そのまま蹴りあげようとした瞬間、やめて下さいと震える声と共に腕に重みが掛かった。縋る手の持ち主はレイリアで、サファイアには涙が溜まっている。


「何かの間違いです、こんな……。ルアン様がわたしに嫌がらせなんてした事は、一度だってありません!」


 愛らしい顔は苦しげに歪み、抑えきれなかったのか一粒の涙が零れた。


 その肩に触れるのは絹の手袋。怜悧な顔をした美丈夫が、宥めるように笑みを浮かべる。


「庇おうと言うのですか? 全く貴女は優しい人だ。しかしこの女の犯した所業は明らかで、言い逃れ出来る物ではありませんよ。この女は世界の誰よりも罪深い。さぁ、こちらに。目が汚れます」


「そんな……そんなの! 待って!」


 震える肩を抱くように男の手が伸びる。馴れ馴れしく近付くなと舌打ちするが、聞こえない振りをして腰を引き寄せていた。公爵家の生まれで宰相となる男、親しい間柄である事は確かだが、次期国王への敬意を感じられない。それでも女の元に行こうとするレイリアを、慕う男や友人を名乗る女達が引き留める。汚い物を見せたくないのだろう、その気持ちは俺にも分かる。


 不意に爪先に重みを感じて見下ろすと、あの女が顎を引いていた。視線の先には囲まれるレイリア。この女の全てが腹立たしいが、レイリアを見る眼が一番気に喰わない。目玉を抉り取りたい程だ。

 組み伏せる男も同様の不愉快を感じたのか、掛ける力を強める。騎士団長の息子と脆弱な女、力の差は歴然で相当な痛みが掛かっているだろうに、視線が揺らぐ事すらない。

 手を振って騎士団長の息子を退かせ、襟首を掴んで立ち上がらせる。それでもまだ薄灰の瞳はレイリアから外されない。苛ついて掴んだ首を爪で抉れば、掛けられたワインで汚れたドレスの裾が揺れた。家柄に相応しい財力を持つクラベール家でもこいつに掛ける金はなく、俺もハンカチ一枚贈った事はない。舞踏会でも何処かのゴミ捨て場で拾ったようなドレスで出席していたので、誰もこの女を着飾ろうと思わず、実際その価値もないのだろう。


 視界の端で顔を赤くしているクラベール公爵に目を向ければ、その瞳は憎悪に染まっていた。殺意は婚約破棄を申し立てた俺ではなく、現在進行形で首を掴まれている娘に。隣の夫人も似た色を目に宿している。

 女は射殺さんばかりの視線に気付いているだろうに、全く意に介さない。跪いて許しを乞うようなら、まだ溜飲が下がるものを。


「無様な顔だな、吐き気がする。クラベール公爵、この女は許されざる罪を犯した。責任はどう取るつもりだ?」


「こんな者を娘と思った事も有りません、殿下。何も持たせず、勘当と致しましょう。国にこやつを憎まない者はおりません。処刑や他国に放すより、余程痛めつける事が出来るでしょう」


 一家の恥がと、クラベール次期公爵である女の兄が吐き捨てた。多少ざわめいた周囲は、しかし妥当だとの結論に収束していく。殺すより長く苦しませろ、それが相応しい罰だと。

 決まりだな。薄い腹を蹴り飛ばす。無様に床に叩きつけられた女は、何の表情も見せない。


「消え失せろ、ルアン・クラベール。何処へでも行って、惨めに死ね」


 どうせその身体には、幾多の呪詛が巣食っている。女を憎んだ者たちが編み上げた、骨を溶かし肉を腐らせる呪いが。魔力さえあれば容易く跳ね返せるだろうに、無能だから死ぬのだ。


 卑劣な女に掛ける慈悲は無く、四方から敵意を含んだ視線が刺さる。それら全てを一身に受ける女はようやく俺を見てーーー口元を綻ばせた。

 上等な役者のように立ち上がり、ほんの少し首を傾ける。黒い髪が音もなく揺れ、瞳が細められた。

 状況を忘れる程、柔らかい声だった。


「何もかも、あなたの望み通りに。……あなたが愛する全て、あなたを愛する全ての幸福を祈っています」


 女は微笑っていた。嬉しそうに、楽しそうに。

 荒れた唇で緩く弧を描き、瞳に喜びを乗せて。ずっと欲しかった玩具を貰えた子供のように、はにかみを堪えきれない様に。

 ドレスの裾が靡いた。迷わず出口に向かう女を、誰一人何も言えず見ていた。待ってと悲鳴にも似た声。レイリアが女に手を伸ばして、宰相の息子に止められていた。

 女は一瞬足を止めて、けれど振り返らなかった。

 心臓が焼け付く感覚と、途轍も無い不快感。視界にあいつが居るからだと結論づけて目を閉じる。


 瞼の裏で■が泣き叫んでいる、その声に蓋をして。





 ◇




 やっと、やっとこの日を迎える事が出来た。


 灰色の空だった。

 門出を祝うように、渡り鳥が何処かで鳴いている。

 潰された足を動かし、感覚のない腕を揺らす。

 もう誰も呼ばない名前を舌先で転がして、私は久しぶりに、心の底から笑った。






  ∮






 ノエル・クラベールは、私の妹だった。

 世界で一番可愛い子だった。二つ年下で、果物たっぷりのパイが好きで、お化けを怖がる女の子。

 彼女の為にお菓子を焼いた。端の焦げたパイだって、おねーちゃんが作ってくれたから世界一美味しい! と笑ってくれた。

 風が窓を叩く音におねーちゃんお化けがいる! と怯えて私のベッドに潜り込み、頭を撫でてくれないと眠れないとぐずるような、甘えたな子だった。

 私より頭一つ身長が低いから、内緒話をする時背伸びする癖があった。

 猫が好きで、野良猫を追いかけてふらふらと外に出ようとするから、何度も慌てて引き留めた。


 家族も使用人も皆大切だったけれど、一番は君だった。いつも何処でも一緒にいて、好きな物も嫌いな事も、誰よりお互いが知っていた。


 あの子が誇れる姉であろうと思えば苦手な分野の勉強も頑張れたし、魔術の素質が有るからと施された理不尽な特訓も耐えられた。

 おねーちゃんすごいねと、あの子が笑ったから。新しく得た知識を披露すれば瞳を輝かせてくれて、覚えたての魔術で光の小鳥を作れば手を叩いて喜んでくれたから。

 彼女の為に努力した。彼女に喜んでほしい、私の為に努力した。


 八歳になった時、同年代の中で誰より優秀だから王太子の婚約者に内定したと告げられた。冬の日の事だった。


 初めて顔を合わせた少年はおどおどしていて、警戒心の強い瞳が、初めての人には人見知りする妹と少し似ていた。金髪も空色の目もあの子に似て、彼の方がノエルの兄姉と言われれば納得されるかもしれない。婚約者となった彼が少し羨ましくて、それでも妹に似た彼に好感を抱いた。

 忙しい勉強の合間、色々な所に彼を連れ出した。ノエルにも会わせて、王子様におねーちゃんが取られた! わたしも婚約者になっておねーちゃんと一緒にいる! と言われたりもした。

 両親と兄も、私と婚約者の関係を温かく見守ってくれていた。 幸福だった。この日々が続くと疑っていなかった。


 その傲慢こそが、私の罪だった。


 十歳の誕生日、別荘に行こうと父が言った。昔から使っている国の外れにある屋敷で、ノエルは管理をしている老夫婦によく懐いて、じいやばあやと呼んでいた。

 ノエルと二人で馬車に乗る。公爵夫妻と兄君は公務があるので後で合流されますと騎士に言われ、ありがとうと伝える。二人っきりだね! と妹は抱きついてきて、すぐに来るよと笑って返した。

 万が一事故に遭っても家族全員が死なないように、別々に移動するのはよくある事だった。


 迎えてくれた老夫婦は待っていましたと笑って、焼きたてのスコーンやクッキーを出してくれた。

 探検しよ! と言われて、妹と屋敷中のドアを開けて回る。

 隅々まで漁ると、奥の部屋に布に隠して、見た事のない長持があった。大人一人が入りそうな大きさで、とても小さな空気穴が幾つか付いている。蓋が開く所、鍵穴があるべき位置には魔術陣が有った。魔術具だ。

 これは何? と聞いた私達に、見つかってしまいましたか、全くやんちゃなお嬢様達ですこと、と老女が笑いながら答える。ルアン様の十歳のお誕生日プレゼントです。サプライズで公爵様は隠されたのですから、渡されたら驚いてあげてくださいね、ばあやからのお願いです。


 父からのプレゼント、描かれた魔術陣。これが魔術具だとこの子も分かったのだろう。いいわ、でも使い方を教えて! と私の代わりに元気に答える。

 魔術を物に付与した魔術具は、今では作り方が失われ、とんでもない高値で取引される。けれど面白い物である事は変わりがなく、好奇心旺盛な子だから、楽しそうな玩具に見えたに違いない。

 こうなったノエルは誰にも止められない。可愛いなぁと思いながら、苦笑いするばあやの説明を聞いた。


 予想通り長持は魔術具で、物を入れて魔力を込めると、対応する魔術陣の鍵が無い限り絶対に開かないのだという。さらに一度閉じるとその場から動かなくなり、大事な物の盗難防止に役に立つ。とんでもなく高価で絶対に盗めない金庫と言った所だろうか。

 鍵は父上がお持ちですよと言われ、妹は唇を尖らせる。折角遊ぼうと思ったのに! というので、残念だね、と笑いながら返した。

 蓋は空いているから魔力を流して閉じる事は出来るが、そうしたら父に箱を見つけたとバレてしまう。気付かないふりをすると彼女に約束したから、この箱を玩具にするのは難しい。


 妹は更に、どうせなら可愛いお洋服とか入れておねーちゃんにプレゼントすれば良いのに! と柔らかな頬を膨らませた。無骨な箱を私に贈る辺りが魔術大好きで研究馬鹿な父らしく、けれど子供に与えるには高価すぎるこれをわざわざ手に入れてくれた事が、本当に嬉しかった。

 何を入れようか、と手触りの良い髪を撫でながら考える。大切な物、妹から貰った花の栞、この子が好きな絵本。婚約者と踊った時のドレスも良いかもしれない。


 そういえばルアン様、ノエル様。以前いらっしゃった時に読まれていた御本があるでしょう? あれから新作が出たんですよ、とばあやが笑う。家に置かれている本は母の趣味が多かったから、少年向けのスリリングで少し危険な冒険物は、ここでしか読めなかった。

 やったぁ、おねえちゃん一緒に読もう! と嬉しそうに笑って、妹が私の手を引く。待ってと答えながら、絡めた指は離さず窓から差す日を浴びながら、ぎぃぎぃと音のなる廊下を走る。

 お嬢様がた、走ってはいけませんぞ! とじいやが見咎めて怒るが、彼の口元も楽しそうに緩んでいる。 きゃらきゃらと笑い合いながら、何の憂いもなく走る。


 幸福な時間だった。


 妹と、ノエル・クラベールと居られた、最後の時間だった。



 お互いの好きな登場人物の声を真似て小説の読み合いごっこをして、疲れたらソファでうたた寝して、起きたら温かいブランケットが掛けられていて。夕暮れを過ぎた頃、家族が来るのは明日になると連絡が入った。

 伝達魔法によると仕事が立て込んで、今向かっている最中らしい。

 ばびゅーんってこっちに来れる魔術があれば良いのにね、とノエルが言う。魔術には限度があり、それを越えるには対価を払う必要がある。人程の大きさを遠くに、生かして形そのままに送るのは国中の魔術師が集まってやっとだろう。

 まあいっか、折角怒られないんだから夜更かししよー、おねーちゃんと王子様のお話し聞かせて! と、妹は枕をぽすぽす叩く。ご飯を食べてお風呂に入ったらねと返して、じいやとばあやが待っているであろうダイニングに向かう。筈、だった。



 バリ、と、ガラスが割れるような、紙が破れるような、嫌な音。


 世界が壊れる、音がした。



 怯えて肩を竦ませる妹を抱きしめて、音を出しちゃ駄目だよ、と唇に指を立てる。こくこくと頷いた頭を撫でて、靴を脱いで、この子の靴も脱がせてから部屋を出た。

 さっきの音、あれは屋敷に張り巡らせていた結界魔術だ。歓迎しない訪問があった時、非常事態を外に伝える筈の。発動する時はあんな音では無かった、壊されたのかーーー誰に?


 何も分からなかった。唯、繋いだ手を震わせる妹だけは、どうしても守りたかった。


 壊された魔術陣は助けを呼ぶ事が出来るのか、呼べた所でいつ救援が来るのか。最寄りの街までの距離や自警団の規模、身を隠せる森の位置を必死に考えながら、階段を降りようとした時。

 吹き抜けの玄関から老人の声がした。


「お嬢様! きてはなりません、にげてーーー」


 だん、と、何かを床に、突き刺した音。


 考えるよりはやく、いもうとのめをふさいだ。

 それはじいやのくびに、けんがつきたてられた、おとだったから。



 昔じいやはーーーヨーゼフ・ベインという名前の彼は、クラベール公爵家の執事だったらしい。

 花を愛し、クラベール家の庭師全員と仲が良かった。特に同じ故郷だった庭師の親方と気が合って、二十六の時に親方の娘を紹介された。それが私達がばあやと呼ぶ、ハンナとの出会いだった。

 三人の子供を儲け、六十一の時に腰の痛みから公爵家を離れた。これから妻と田舎でゆっくりしたいと言うので、父が別荘の管理という名目でこの屋敷を与えた。庭の広い邸宅を二人はとても気に入って、大恩あるからと私達が来た時は本当に歓迎してくれた。

 ヨーゼフは料理が好きで、ハンナは庭をいじる事が好きだった。たまに息子や孫が顔を見せて、二人はそれを心待ちにしていた。酒棚の一番良い場所には、孫が二十歳になった時に乾杯する為生まれ年のワインが置いてあった。



 全部、全部終わった後に聞いた話だ。



 じいやを刺したのは、殺したのは、私達を此処に連れてきた騎士だった。まだ気付いていない。パニックを、悲鳴を堪えて階段を戻った。玄関にいたのは一人では無かったから。

 十人以上の男達が、卑しい笑みを浮かべながらじいやを嘲笑っていた。


 昔、魔術師は高く取引されたらしい。銃の方が手軽で強くても、理屈の無い力を人は恐れ敬った。高貴な身分で、思想を染めやすい子供だとより価値は高くなる。

 だから貴族の子供は、本当に良く人攫いに狙われた。殆どは失敗し、下手人は殺された。犯人は貧しい外国の犯罪者が多かった。失敗の果てに待つのが死だとしても、野垂れ死ぬよりマシだったのだろう。

 数代前の王がこの状況を憂い、ある帝国を滅ぼした。魔術師のいない貧しい国で、自分に無いものを他人が持つ事が許せない帝は、高額で魔術師を買い集めていた。

 帝を殺し磔にして、それで一つの時代は終わった筈だった。世界中の人身売買の組織を粛清して、血の雨を降らせて。


 証拠がある訳ではない。けれど男達が探しているのが私達だと確信した。金か、恨みかは分からない。クラベールは世界屈指の魔術師を輩出している家で、私はこの国の王妃候補だ。心当たりは沢山あった。

 階段はもう使えない。窓から飛び降りようか、魔法を使って衝撃を殺して、でもその後何処に身を隠す? 震えるこの子をどうすれば守れるだろう、この子だけはーーー

 息が荒くなる。奥歯が震える。怖い。だれか、たすけてほしい。


 瞳を閉じる。

 あった。たった一つ、この子を確実に守れる方法が。


 涙が溢れた。緊張からか、恐怖からか。見せたくないと思った。だからのこの子の目は、掌で覆ったままにした。

 おいで、と呟く。大丈夫、大丈夫だよ、ノエル。君が大事だよ、君が誰より大事。

 だから大丈夫だよ、ノエル。君は、大丈夫だからね。


 囁いて、手を引いた。

 最愛の妹を、奥の長持のあった部屋に連れて行く。蓋を閉じて魔力を込める。それだけで良い。私はどうなったって良い。涙は袖に隠して、未だ震えるこの子に笑いかける。



ーーー大丈夫、大丈夫。大好きだよ、ノエル。



 それが、いけなかったのだろうか。

 目を見開いた妹は、おねーちゃん、と一言呟いて。覚悟を決めたように、唇を噛んだ。


 どん、と胸を押されたのはーーー私だった。

 小柄でか弱くて、ジャムの瓶も開けられないこの子とは信じられない位強い力だった。無様に倒れ込んだ隙に、足も収められる。


 蓋、が、迫って。

 おねーちゃんと、もう一度あの子は呟いた。 叫んでいた。静かにしないととか、そんな事はもう、考えられなかった。

 ノエル、ノエル、やめて。お願いだから、それだけはやめて。


 私の懇願に、悲鳴に、あの子は笑った。


 大好き! といつものように笑って、光が閉ざされる。風が吹くような、魔術が鳴る音。長持が封印された音だった。


 暴れた。叫んだ。何も聞こえなかった。ありとあらゆる魔術を試した。爪が剥がれても蓋を、その隙間を引っ掻いた。

 蹴って、殴って、暴れて、痛くて、怖くて、泣き叫んだ。ただ君の名前を呼んだ。それしか知らないように、壊れた玩具のように。君を守りたかった。


 どうして。


 どうして。





 蓋が開いた。ノエルが心配だった。兄は青白い顔をしていて、父の手は震えていた。

 母は泣きながら私を抱きしめて、貴女だけでも無事で良かった、と言った。




 あの子は、どこにもいなかった。






 すぐに国を挙げて、妹の捜索が始まった。

 誘拐犯を手引きした騎士は、その後すぐに捕まった。公爵家に古くから仕える騎士一家の次男で、足取りを追うのは簡単だったらしい。

 ずっと実家が憎かったと、男は言った。騎士になれと殴られて育てられた。褒められた事は一度も無い。裏切る事で父に消えない汚名を刻み、家族も俺の努力を当然と考える公爵家も滅茶苦茶にしたかった。

 そんな事で、妹は奪われたのか。初めて人に憎悪を抱いた。指先から切り刻んで殺したかった。

 犯人の家族は全てを捨てた。風の噂で、男の父親は首を吊って死んだと聞いた。


 どうでも良かった。あの子はまだ見つからない。


 婚約者は毎日家を訪れて、時折私を抱きしめた。

 家族は常に誰かが側にいて、泣きながら少しでも何か食べてと口元に匙を運んだ。

 ヨーゼフとハンナの子や孫は、ひたすら頭を下げる私にどうか自分を責めないで、あなたは何も悪くないと繰り返した。

 誘拐犯達は大体が捕まって、何人かは死体で見つかった。あの子はまだ見つからない。


 手引きした騎士は一番苦しい毒を賜った。この国では高貴な身分の処刑に毒が使われるが、この毒だけは別だった。最も罪の重い罪人に与えられ、苦しみの余り舌を噛みちぎって死のうとするから、猿轡をする必要があるという。

 三日三晩叫び暴れて泣き喚いて、腹を掻きむしって吐いた血を喉に詰まらせて死んだらしい。



 あの子はまだ見つからない。

 あの子はまだ見つからない。



 幾分か経って、婚約解消の話が出た。使い物にならない私では当然で、今まで言われなかったのは王太子が拒絶しているからだと聞かされた。

 彼の事は好きだった。けれどそれすら、どうでも良かった。君がいない国に意味はーーー


 がつり、と窓に頭を打ちつけた。


 不意に思い出した。あの子を失う前、珍しく婚約者と机を並べて、王家の教師から講義を受けた。

 若い頃から教科書に載らない歴史を伝える事で、国を統べる自覚を持たせる物だった。血塗られた戦争の歴史や魔術に関わる後ろ暗い部分を教え、綺麗事だけでは生き残れない現実を見せる。


 全ての人間は、魔力を持つ者と持たない者に分けられる。魔力持ちが陣を触媒、或いは座標として発現させた力が魔術だ。この陣は魔術陣と呼ばれ、かつては力の発動や探究のために沢山残酷な事が行われた。

 魔力の有無で戦争が起こったりもして、二度と同じ過ちを繰り返さない為に、余りに邪悪な魔術は封印された。多くの人を不幸にするそれらは、呪術と呼ばれる。

 気位の高そうな教師は、眼鏡を上げながらこう言っていた。


「……封印された呪術は数多くあります。人を死に至らしめる呪い、万人を操る力、他人の運命を操作するものまで。しかし大きな力の反動は凄まじく、多くの犠牲をーーー」


 他人の運命を、操作する力。


 渇いた唇を開いた。切れて、血の味がした。

 次の日、訪れた王太子に笑いかけて頭を撫でて、涙を浮かべて喜ぶ彼に隈があるから眠って欲しいと囁いた。睡眠の時間を私に会うために削っていたから、落ちるのはすぐだった。針で指先を刺して、小瓶にほんの少しだけ血を貰う。ベッドの上で彼を見下ろす私は、世界で一番悍ましい化物に成り果てていた。


 王家の封印は、血によって解ける。禁じられた書庫を進む為、王子である彼の血を触媒に誤魔化し、纏い、欺き、化けた。辿り着いた最奥の本棚には、一冊の本しかなかった。呼ばれていると思った。招かれている、この本に。これが望む地獄に。

 それでも、黒い装丁を手に取った。



 ノエル。



 古語で綴られたそれには、望む呪術が載っていた。

 広い場所が必要だったから、家の地下を使った。沢山の血が必要とあったから、自分の血を抜いた。失血死寸前まで抜いて、魔術で血を作る組織を活性化して血を作って、また抜いた。他に必要な素材は、父の、家の物を盗んだ。


 運命を操作する呪術。これがあれば、君に幸せな運命を用意できるだろうか。笑っていてほしい。辛い事が起きないで欲しい。けれどもし、もう既に君が命を落としていたなら


ーーー私も、同じ所に連れて行って欲しい。


 不可能だと自嘲した。あの子と罪深い私の行先が、同じ筈がない。それでも、どうしても、もう一度君に会いたかった。

 ふわふわの髪を撫でて、細い身体を抱きしめたかった。もう、それしかなかった。



 満月の夜、床に陣を描いて、余りに長い呪文を唱える。

 手順通りに足を進め、角を砕き、花を燃やす。血の匂いと香草の焦げた匂いがする地下室で、新しく手首を切った。


ーーーゲルガ・アヴァド・アヴァドラ。


 不思議と声は震えなかった。魔術陣と呼ぶには余りに禍々しいそれに、ゆっくりと闇が満ちる。


ーーーコア・エビレーヴ・サラーヴェ。


 何かを呼んでいる。………何かに、呼ばれている。

 挑むように跪く、望むように縋り付く。願いというにはあまりに惨烈なそれは、確かに一つの祈りだった。両手を組み、叫ぶ。


ーーー我はシクザールの眼を摘むもの、ギグルゼール・カゥザ・ラ!



 君は、君だけはどうか。本当に幸せになってね。



 ばきん、と指に凄まじい痛みが走る。生え変わりつつあった爪が、弾け飛ぶ音だった。

 激痛。

 頭が割れる、平衡感覚が失われ倒れこむ、咄嗟に舌を噛み切らないよう手を口に押し込んだ。

 血と吐瀉物の味、身体中が痙攣し、神経を千切られる魚のように跳ねる。

 脳に火かき棒を突っ込まれ掻き回されるような、皮全て剥がされ肉を踏み荒らされるような、全身に穴を開けられ骨を抜かれるような絶望。鼓膜はとうに破け、何が私で何が違うのか分からない。


 それでも。それでも、意識だけは飛ばさなかった。柔らかい瞳を、寒い日に林檎をくれた掌を、眠る間際の金色の睫毛を、ひたすらに祈っていた。


 ノエル。


 ノエル。



 指が痛かった。半ばまで噛みちぎったから、骨が見えていた。立てなかった。這いずった。

 念のために用意しておいた治癒陣を指に発動させた。何も起こらなかった。

 ノエルはどうなっただろう、と考えた。私は、ちゃんと出来たのだろうか。

 ずっと、何も起こらなかったらどうしようと考えていた。魔力を失う事が出来たのだから、その分の何かはある筈だった。どれほど時間が過ぎたか分からない。冷たい床に蹲って、獣のように丸くなって体を休めた。

 立てるようになったので、地下室から出た。外は明るかった。三日が経っていた。




 母は私を一目見て、強く頬を打った。

 あんたのせいよ、あんたがノエルを守らなかったからノエルが攫われたの、あんたが死ねば良かったのに!

 そう言って、ペーパーナイフで私の顔を切りつけた。死ね、殺してやると叫びながら。


 そうして私は、やっと、本当の対価を知った。



 世界は変わっていた。私は魔力と、全てを失っていた。

 父は肩に万年筆を突き刺し、兄に熱いお茶を頭から掛けられた。王子に自室を滅茶苦茶にされた。侍女長は、執事は、メイドのリサとネリーとマレイは、庭師のジェイは、家庭教師は、料理長は、乳母は、友人達は、少し前まで気遣って優しい言葉を掛けてくれた彼らは、一人残らず私を嫌った。


 ノエルはまだ、何処にも居なかった。



 呆然とした頭で、それでも納得した。

 これは、あの子の運命を曲げる対価だ。

 呪術は結局魔術で、魔術の基は祈りだ。願いが強ければ、世界はそれに応えてくれる。けれど魔術には限度があり、越えるには対価を払う必要がある。

 足りないのだ。私の魔力全て程度では、痛み如きでは。あの子の幸いには到底足りない。その分私が差し出したのは、他人からの好意とか幸福とか、そういう温かいものだった。一緒に居た頃感じていた、あの子が受けて当然だったもの。

 頬が、肩が痛む。こんなに痛いのに、君は今もっと辛い目に遭っているのだろうか。誰よりも幸せになるべきだったのに。誰よりも、幸せになって欲しかったのに。


 動く手で顔を覆う。爪を失った指が肌に食い込む。………僅かな感触で、自分が笑っていると気づいた。

 なんてーーーなんて都合の良い呪術だろう!

 対価が私以外なら、きっと躊躇していた。犠牲にする誰かは誰かの愛する人だと、見知らぬ誰かに同じ喪失を与える事を恐れていた。

 私の対価が君ならば、私の幸福全て、君の幸いになればいい。感情もそれ以外も好きなだけ持っていけ、腕も足も、目玉だってくれてやる。あの子を見つけるまで決して死ぬ気は無いけれど、私は自分の喪失すら恐れなくていい。誰にも愛されないなら、私が死んでも誰一人悲しまない。


 呪術書は焼き捨てた。もう得られる知識は無く、誰かの手に渡る事も好ましくなかった。

 意外にも、解消寸前だった婚約は継続された。呪術に意思があってより多くの幸福と憎悪を集めようとしているのか、あの子を探す権力の為に私が縋ったからか。もう私に笑いかけなくなった婚約者の、失われた最後の情だったのかもしれない。家に居ることも、財産を食い潰す事も許された。

 けれど決して王妃にはなれないだろう。誰も、私すら望んでいないのだから。構わない。君だけあれば、未来はいらない。




 幾つか検証して、分かった事があった。かつて好かれていた人程、いま私を嫌っている事。新しく出逢った人にも呪術は有効で、彼らの善性と矛盾しない為に、私への仕打ちの認識は改竄される事。私の怪我は気付かれず、行動は悪いように捉えられる事。


 最初に試したのは孤児だった。

 治安の悪い地域で死にかけの少年を拾い、食事と温かい部屋を与えた。妹にしていたように頭を撫で、優しい言葉を掛けた。熱を出せば寝ずに看病して、傷には治癒術の代わりに薬を塗って。

 あの日以来食事は無かったから、辛うじて残った宝石や服を街で売ってお金にした。かなり安く買い叩かれたし、家族や使用人に気付かれる度鞭で打たれたけれど、当面の資金になった。


 時間ばかり余っていたから、つきっきりで傍に居た。目を覚ました少年は私を睨んで、話せるようになると暴言を放った。それでも笑いかけた、気遣った。歩けない内は車椅子を押して、折れた腕の代わりに剥いた果物を口元に運んだ。かつてあの子に向けた感情を真似て、あの子にしたように優しくした。

 憐れみも愛情もなかった。そんな物はもう、何処にも残っていなかった。


 関わる程、彼は私を憎んだ。彼は私に施しのつもりか調子に乗るなと叫ぶのに、両親や兄を助けて下さった公爵家の方と考えていた。家族に好意が向けられるのが予想外で、そうあって欲しい相手は彼らではないから少しだけ愉快だった。家の使用人達も私に構われる少年を可哀想に思って、より一層私を嫌った。


 私とそう歳の変わらない彼は、元気になると家の使用人として働く事になった。

 彼が手を離れた後は、救貧院や孤児院の支援を始めた。多くを支援する程のお金はなかったから、学を与えた。生きていく為に知識を身に付けたい、その為なら誰でも利用してやると考える人や子供は割といて、最初は彼らに文字や計算を教えた。公爵家や次期王妃として商会や職人組合に伝手はあったから、新しい仕事先を斡旋したりもした。彼ら自身で教え合う仕組みを作って、団体という形にまとめて、国に普及させた。才能と能力はあるがお金のない研究者に、投資を行う富裕層を紹介したりもした。彼らの発明は多くの人を豊かにし、沢山の命を助けた。私の功績は一つもないけれど、彼らに憎まれるようにはなった。

 彼らの成果を借りて事業を幾つか作った頃には数少ない私物は、あの子に貰った物や思い出の品は全て壊されていた。それどころか、家の人間は誰も、あの子の話をしなくなっていた。

 最初に気付いた時はパニックになって、怯えながら使用人に聞いてまわった。けれど誰も、公爵家の娘が奪われた事を問題にしない。家族でさえあの子について必死に言い募って、やっと思い出してすぐにどうでもいいと切り捨てていた。


 家系図にも誘拐直後の新聞にもあの子の名前はあるのに、誰もそれを認識しない。認識しても関心を持てない。原因は一つしか考えられなかった。


 これは僥倖と奇禍、どちらだろう。

 誰もが君を忘れる事が、探されない事が君の本当の幸福に繋がるのだろうか。クラベールは、私の妹だった事は、君の幸いには邪魔だった?

 それとも君はもう失われていて、帳尻合わせのように記憶からも居なくなっているのか。私は、私だけは、好きなドレスの色も、オーブンの前で跳ねる足も、喧嘩した日の涙も覚えているのに。


 母は芸術が好きで、家には家族の絵が多くあった。高名無名問わず、集合絵も笑顔も真顔も大人だけも子供だけも描いてもらう為に、毎月画家を呼んでいた。

 あの子が忘れられて、遂にあの子が描かれた絵が仕舞われるようになった。両親と兄は三人寄り添った大きな絵を画家に依頼して、屋敷の一番良い所にそれを飾った。以前そこに飾られていたのは、家族五人のものだった。

 母はビロードの椅子に座っていて、その背に父が寄り添っていた。父の右側に兄が、母の左には妹とその肩を抱く私が描かれていた。届いた後美化されすぎだよと兄は母を揶揄って、実物の方がずっと美しいよと父が言うまで、母は臍を曲げていた。またおねーちゃんと一緒に描いて欲しい! と妹に甘えられたから、また今度ねと答えながら、次のドレスは何にしようと考えた。


 新しい絵画の中の家族は穏やかに笑っていて、元からそうだったかのように完成されていた。かつての絵は何処に行ったのか雨の中探して、ゴミ捨て場で見つけたのは日が暮れる頃だった。幼い私の顔は潰されて、キャンバスは泥だらけになっていた。立ち尽くす私に声を掛けたのはかつて拾った少年で、新しい絵の素晴らしさ、私がどれだけ醜く人を不愉快にするか、敬愛する公爵家に下賤な女が名を連ねている事がどれだけ身の程知らずで恥ずべきか語った後、残飯をぶちまけた。


 ゴミを全身に浴びながら、浮かんだのは安堵だった。妹がいる絵を捨てたのが何も知らない彼だった事、かつて妹を愛した誰かではない事に、心の底から安心していた。

 笑って、君がそう思ってくれる事が、誰かを大切と思えるようになった事が嬉しいと伝えた。多分、本心だった。


 その日のうちにあの子と描かれた絵画の、私の顔を全て削った。私物が捨てるか壊されたように、居るだけであの子を写した物が減ってしまう事を恐れた。顔も姿も一つだって忘れていないけれど、既に人々の記憶に無いと思えば、もう何も失いたくは、失って欲しくはない。


 ずっと一緒にいたから、私達が一人の絵は殆ど無かった。どちらかだけの予定なのに、おねーちゃんと描かれる! と抱きついて手を引かれて、仕方ないなと言いつつも同じソファに並んで座った。あの子は長い間じっとしているのが苦手で、すぐ話しかけたり、私の膝でうたた寝をしていた。だから笑顔や微睡む顔が多かった。

 懐かしくて、けれどもう涙は出なかった。


 歪になった絵画達は、屋根裏の押入れに運ばれた。自分の部屋はなくなっていたから、毎晩埃っぽい扉の前で膝を抱えて眠った。あの子の絵に触れる所を見られて、嫌がらせの為にキャンバスを壊されたく無かったから一度も部屋には入らなかった。私の描かれた絵は家族に気味悪がられたから、大体が燃やされた。十五歳になり貴族の学園に入る頃には、一枚も残っていなかった。




 久しぶりに顔を合わせた王子は、学友達と私の腕を折った。攻撃術の練習中で、的を探していた。監督の教師にそんな所にいるなんて邪魔でしょうと叱責され、王子を慕う少女達に嘲笑された。

 寮の個室に戻って、紫色の虫の内臓の味がするポーションを飲んだ。労役を科された囚人に処方される、安価で魔力無しでも良く効く治療薬だ。普通の薬では治せない傷も凄く早く治す代わりに、服用者の寿命を削る。危険な現場で身体を壊した囚人をすぐに働かせる為の、余りに残酷だからと使われなくなっている薬だった。

 飲み始めてから四年以上になるが、無ければとっくの昔に死んでいた。傷痕だらけの腕が腐らなかったのも、火傷まみれの背中が化膿しなかったのもこれのお陰だった。


 数瞬、意識が途切れて膝をつく。指を首に当てると、震えていてもわかる程脈は不安定だった。最近、こうなる事が増えた。限界が近づいている。残された時間は多くない。


 もっと、もっと早く人脈を広げよう。国外への伝手を使って、国も武力も利用して。

 誰も覚えていない、認識もできない少女を探す事がどれだけ難しいのか、よく分かっていた。ほぼ不可能だということも。

 それでも諦めきれなかった。妄執に近かった。睡眠も食事も、生きる為の時間を限界まで削って足掻いた。利害も憎悪も懇願も利用した。何をしようが嫌悪されるだけだから、他人にどう思われようがどうでも良かった。君を一眼見れれば、それで良かった。


 日が登り、季節が変わる。ゆっくりと心拍は遅くなる。嗅覚はもう無く、数秒目や耳が使えなくなる。早く、早くしないと、この心臓が止まる前に、君に。



 君だけが。




 その瞬間は、余りに簡単に訪れた。




 三年に進級してすぐ、学園の図書室に君がいた。

 夕暮れ時で、君の艶やかな金髪が橙に柔らかく染まっていた。呼吸が止まった。心臓もきっと止まっていて、息を呑む事すら出来なかった。

 突拍子のない夢かと思った。朝起きたら当然のように君がいて、家族がいて、笑い合う夢は何度も見ていたから。けれど君は幻の君より綺麗で、君らしく笑っていた。


 華奢で小柄で、けれどずっと大きくなった身体。学園の制服に身を包んで、白魚のような指は本の背表紙をなぞっていた。滑らかな肌のどこにも怪我はなくて、桃色の唇は楽しそうに緩んでいた。髪型は変わり面影を残すだけの容姿、それでも宝石より蒼く瞬く瞳は記憶と何一つ変わらなくて。

 見た瞬間に、本当に君だと分かった。口を開く余裕は無かった。震える事しか、瞬きも出来なかった。


 君は小さく頷いた後、一冊の本を手に取った。流行している恋愛小説の最新刊で、ありふれたラブストーリーだった。傍に居れた頃、最初の一巻だけ読んでいた。貴族の学園で出会った王子と身分の低い少女の恋は母好みで、余り興味を持たなかった私と違って、君は学園の制服が可愛い! わたしも学園に入りたい! と盛り上がっていた。二巻が楽しみだねと頭を撫でて、けれどその日は来なかった。


 あれから七年が経っていた。シリーズについては、三部に突入している事しか知らなかった。

 君は続きを知っているのか、読める環境にいたのだろうか。痛い思いは、辛い思いはしなかった? 狂喜と困惑で心臓が早鐘を打つ、夢のような現実が、笑う君がそこにいた。


 歓喜に震える恐慌状態の頭とは裏腹に、足は、口は少しも動かなかった。ようやく指先をほんの少し動かせた時、君は、不意に私を見た。


「あっ……ごめんなさい! これ、読みますか?」


 大きな目をさっきより少し見開いて、鈴のなるような愛らしい声。おねーちゃんと、何度も名前を呼んでくれたそれは記憶のままで。私が本を見ていると思ったのか、読みたがっていると思っているのか。この世の何より美しい蒼玉に、私を映した。


 その瞳に、懐古や情はなかった。


 彼女は、私を覚えていなかった。


「………………大丈夫。それが、好きなの?」


 ぎりぎりで絞り出せたのは、それだけだった。


「はい! 父が作者の方と友人で……あ、義理の父なんですけど。本が出来るとサイン付きで贈ってくれるんですけど、ずっと大好きでいつも読んでました! ここにもあるんだって思うと懐かしくなっちゃって。同じのが私の寮の部屋にもあるので、良ければ本当にどうぞ!」


 そういって彼女は、笑顔で本を差し出した。


 貴族の指だった。真っ直ぐで、まめも、ささくれ一つない。粉をはたいたように白くて、花染めしたのか爪はうっすら桃色だった。誰かに、大事にされ続けた指だった。柔らかく波打つ腰までの金髪も、皺一つない制服の真紅のネクタイも、何もかも良く似合っていた。


「……下級生?」


「今年入学しました! 先輩ですよね? 宜しくお願いします! 私はーーー」


「………あ! ねぇ、ちょっと!!」


 後ろから見知らぬ少女の声。振り返ると、真新しい制服に同じく真紅のネクタイをした下級生が、警戒するように睨んでいた。

 少女は何も言わず、あの子の手を引いた。知り合いなのだろう、狼狽えても抵抗はせずに華奢な背は離れていく。やばいらしいよあの先輩、と隠す気のない囁き。君が遠ざかっていく。


 足音が聞こえなくなってから、呼吸一つの後耐えきれずに崩れ落ちた。戦慄く腕で、震える身体を抱きしめる。


 生きていた、生きていた生きていた生きている! 君がいた、生きていた、笑っていた!


 頬が引き攣れ、変な嗚咽が漏れた。可笑しくなる呼吸を蹲って堪える。視界が眩み、世界が歪む。昨日も飲んだ薬のせいか、打ち鳴らすように頭が響く。構わなかった。


 良かった、本当に良かった。君が生きていて、私を忘れていて、本当に嬉しい。


 朦朧とする意識の中、それだけを思った。


 世界がノエル・クラベールを忘れた時、最高も最悪も想定した。彼女が拐われた場所から解放されて幸福に暮らしているなら、どうして家に戻らないかも当然考えた。彼女はクラベールを、家族を愛していた。行き先で実家以上の何かを見つけていたとしても、知らせ一つ無いとは思えなかった。 


 私以外が君を失ったように、君はかつてを、過去を忘れたのだろう。家族も私も忘れて、恋愛小説が好きな、美しい君になった。机の上の赤い背表紙の本に触れないように、酸素を求めて喉を掻く。


 君が生きていてくれて嬉しい。笑っていて嬉しい。どうかそのまま笑っていて欲しい。……私の事など、振り向かないで欲しい。


 喜びと、苦しくなる呼吸。暗転する意識に身を任せた。目を覚ました時、外は暗くなっていた。


 冷たい床に身体を押し当てて、これからどうしようかを考えた。君を失って空いた穴は塞がれて、けれどこの身体も心も、元の私には程遠い。

 這いずって窓を見る。反射したガラスには、醜い怪物が映っていた。傷だらけの亡霊のような女が。

 あの子の、ノエル・クラベールの姉はこんな外見ではなかった。絵画一枚残っていないから良く覚えていないけれど、瞳孔の開いた目も、ひび割れた唇もしていなかった。祈るように指を組み、揺れる頭を押し付ける。剥がされ焼かれた指先は、爪が生えなくなっていた。あの子の姉は柔らかな手で妹の頭を撫でていた。こんな手ではなかった。これではあの子に触れられない。触れたくない。


 雨が降り始めた。もう一度窓を見る。

 私はいつの間にか、あの子の姉ではなくなっていた。いつからだろう。呪術陣を組んだ時かもしれないし、その為に王子の指を針で刺した時かもしれない。あの子を守れなかった時、或いは一番最初からそうだった?


 それでも、君は生きている。

 ポケットを探り、いつもと違う透明の液体を、それが入った小瓶を胸元に押し付けた。


 あと少し、少しでいい。私はもう姉ではないけれど、君を知りたがる事を許して欲しい。

 邪魔はしないから、思い出して欲しいなんて絶対に願わないから。どうか、どうか何も知らずに笑っていて。

 強くなった雨が窓を打つ。反射する怪物の目尻に、雫の一つが落ちて垂れた。黒髪の化物は、悍ましく壮絶に笑っていた。



 ノエルは、私の妹は、八歳で連れ去られてすぐ、隣国のある組織のアジトに監禁された。捜査が懸命なうちは幽閉されて、落ち着いたら商品として出荷される予定だった。しかし、それより早く犯罪集団同士の抗争が起きた。妹を拐った方が負けて、彼女は新しい誘拐先で少しだけ良い待遇になった。そこもある時捜査の手が伸びて、商品達はばらばらに管理される事になった。

 移送される途中に土砂崩れがあって、彼女は川に落ち、奇跡的に麓の村に流れ着いた。そこで召使のように働かされていたが、ある老夫婦が旅行に訪れた際に、あかぎれだらけの手の少女を不憫に思い引き取った。

 子供のいない夫婦は祖父母のように彼女を可愛がり、彼女も彼等を義父、義母と慕った。二人はこの国の男爵領に住んでいて、ある時彼女が魔力を持っている事を思い出して魔術を使ったら、驚いて領主に報告した。

 男爵は彼女を養子にして、二人の娘と分け隔てなく育てた。そして十五になった君は、貴族の学園に入学した。


 今までが何だったのかと諦念を覚えるほど容易く、波瀾万丈な人生の欠片を知った。

 君の誘拐先が変わったのは私が呪術を使った次の日だったし、村に流れ着いたのは貧しい人々に学びを与える仕組みが普及し始めた時だった。老夫婦に拾われたのはある学者と貴族の融資が決まった日で、男爵家の養子になったのは、彼らの努力と協力により風土病の特効薬が開発された日だった。


 無駄ではなかった。私が捨てた全ては、君に役立った。作った慈善事業の事務所で集めた資料を広げ、目元を隠して天を仰ぐ。呪術の強制力を恐ろしく思うと共に、身の毛がよだつほどの歓喜。


 あれから何度か学園で君を見た。華やかな笑顔と可憐な愛らしさを持つ君は多くの人に好意を寄せられて、慕う男女にいつも囲まれていた。魔術の素質があって、二十位以内が張り出される順位表に名前があった。猫が好きで、校舎裏の野良猫に餌をあげていた。

 魔術以外の成績はどうなのか、変わらず果物を沢山使ったパイは好きか、茸が苦手で食べる時に目をつぶる癖は治ったのか、私は何も知らない。


 君を見つけても、呪術は有効だった。相変わらず私は蛇蝎の如く嫌われて、世界は何一つ変わらない。君は誰からも愛されて、この間は生徒会に入らないかと声が掛かったらしい。


 君自身の魅力も多分に有るが、呪術による好意の操作もあるのだろう。私に向けられた好意の数だけ、君は愛され優しくされる。

 対価を用いる魔術は契約の側面を持ち、組んだ時に解除の条件を付けるか目的が達成されるまで、術は終わらない。私はあの子の本当の幸福の為に呪術を使って、それ以外の解除方法を作らなかった。


 今笑っていられる君は、何を幸いだと思って、この広い世界で何を選ぶのだろう。

 確かめて、見届けたかった。そして、その時が来たら、私は。


 資料とは別の紙束を手に取り、最後の一つに印を押す。そろそろこの机の新しい、正しい主が来る筈だ。

 余命を悟ってから、外国の貧しい地域向けの新薬開発の事業の手をより広げた。風土に合う事を理由に住民を集めて薬草を栽培させ、効果を確かめるという名目で現地の貧民達をまとめて治す。結果をもとにより薬効のある薬草の組み合わせや品種を開発し、金を持つ層に売り捌く。更に、その知識を適正のある栽培する側の現地の民に与え、希望するなら薬を開発する側に回らせる。

 身内が入っているだけで薬を試す側の信頼が得られやすいし、いつか事業が彼らの手に渡った時に、ずっと存続させ易くなる。


 私に対してそうではないだけで、自国にも他国にも、要職につく善人は沢山いた。投資とか平和とか耳触りの良い単語は多く使ったが、私ではない口から命を助けられる計画だと伝えれば、協力を取り付ける事が出来た。


 この二年は人攫いが流行っている地域を優先して介入して、縄張りを荒らされたと言わんばかりに歯向かう連中を国を使って叩き潰した。協定や同盟を上手く組んで利用して、軍も騎士団も魔術師も動員しなければならない状況にした。所詮貧しい人々を標的にする外道ばかりだったから圧倒的な力の前では無力だったし、奴等がどんな目に遭おうと何も感じなかった。


 そんな事を事業を、計画を、国を変えて同時に進めて、それでもあの子の手掛かりすらない、そんな春に君は現れた。


 宙に放っていた意識を戻し、目の前を見る。

 権利の移譲に関わる許可証や権利書を並べ、各分野の責任者達に分配する旨を書いた紙を上に置く。彼等は優秀で、私が居なくても大丈夫な位まで事業は発展していた。そして、私を疎んでいる。


 机の上の十数枚の資料だけ持って部屋を、建物を出る。ーーーもう二度と来る事は無いだろう。

 君は居るから、彼等に私も、私に彼等も必要ない。最後の頁が風に揺れる。



 優しい義父母に与えられた、バングニー男爵家に引き取られた彼女の名前はレイリア。


 彼女は、かつてノエル・クラベールだったあの子は、レイリア・バングニーと呼ばれていた。






 ねえ見て、と少女達の賑やかな声。見下ろす先には東屋でお茶会をする生徒会の面々がいて、その中にはレイリアもいた。


 いいなぁ私も入りたい、私たちじゃ無理だよ、レイリアさん位可愛くて素敵じゃないと。そう語る少女達の目に負の感情はない。

 羨ましいね、憧れちゃうと囁きながら、彼女達は去っていく。

 誰も居なくなった教室から見下ろすと、生徒会に加入した君と、囲む青年達の姿があった。


 テーブルにはサンドイッチや焼き菓子がずらりと並べられて、季節の花が咲き誇っている。誰もがくるくると表情を変える君に笑いかけて、時折ジョークを言ったのか肩が震える。

 彼女の隣に座るのは金髪の王子で、愛おしげな笑みを向けていた。君も満更ではなさそうに、勧められた菓子を手に取る。


 昔は仲が悪かったのになぁと苦笑する。最後の一つのパイを争って、テーブルの下で熾烈な蹴り合いが起きていた。王子とか年下の少女とか関係なく大喧嘩して、負けた方が私に抱きつきべそをかいた。下手な嘘泣きが可愛くてまた作るからと抱きしめ返せば、何故か勝った方がショックを受けた顔をした。


 王子は、一応まだ私の婚約者の彼は、不意に咲き誇る花の一つを摘んで少女の頭に飾る。物語の王子と姫君のように完成された光景。かつて罵り合っていたとはとても思えない。


 三人で花畑に行った時、何かの拍子に二人は私の頭に飾る花冠の対決を始めた。威勢の割に作り方を知らないから大苦戦して、挙げ句の果て出来上がった冠の何処が千切れてる、此処が歪んでるとお互いの作品の酷評を始めた。掴み合いの取っ組み合いになる前に彼らの分の花冠を作って、私は二つの冠を頭に乗せた。

 膝と肩に重みを感じながら、大樹に寄りかかって微睡んだ。木漏れ日の中で幸福を知って、この日々がずっと続けば良いと願った。


 脳裏に浮かぶ、私の記憶にしかない過去に目を細めた。君たちは笑って、光の中で沢山の人に囲まれている。あの頃より美しく。


 人気者の君達は学園中で愛されて、何をしても噂になった。


 夏は学友達と建国祭を楽しんだ。公務の後お忍びで、君達は花火を見たらしい。

 秋は二人で湖畔に出掛けた。ボートを漕いで、群青のレースの髪飾りは贈り物だと同級の少女達が羨ましげにしていた。

 冬は生徒会の引き継ぎが忙しかった。生徒会室の暖炉の炎を見ながら、もうすぐ卒業する王子がこれからの話をしようとするのを雑談を振り続けて阻止してやったと、副会長は自慢げだった。


 君が好きだと言っていた恋物語は、最終巻を迎えた。美しく優しい少女は幸福そうに、王城で結婚式を挙げていた。


 冬までに、関わっていた全ての事業の引き継ぎを終えた。ペン一本残さないように持ち物は処分して、卒業して数日後制服を捨てた頃、王城から招待状が届いた。


 王子の卒業を祝う式典に招くそれは、暗に逃げるなと告げていた。心当たりは一つしかない。一着だけドレスを残しておいて良かった。君にもう一度だけ会えそうで嬉しい。そう思いながら、胸元の小瓶を握る。刻印入りの紙切れの日付は、君を失ってからこれまでで、一番素晴らしい日になるだろう。




  ∮




 ちゃんと伝えられただろうか。君の幸福を心から願っていると、笑えただろうか。滲む視界の中で、祈るように考える。この感情全て君に届けばいい。けれど、決して気付かずにいてほしい。


 八年で、世界の恐ろしさを、人の醜さを、願いの儚さを知った。辛かったし悲しかったけれど、かつての幸いの意味を、人の価値を、感情の尊さを学んだ。

 だから私は絶対に、一度だって不幸ではなかった。そう思えることが、そう思う私で在れたことが喜ばしい。

 城下に続く橋の中央で立ち止まって、誰より美しい瞳を思い出す。悲壮に歪ませてしまったことが申し訳なくて、けれど君はもう一人ではない。



 君を愛した全てを、君が愛した全てを愛している。



 雲の切れ間から陽が差した。夕焼けの琥珀が石畳を、遠くに見える街を、陵丘を、明るく照らす。

 君が生きる場所は、私が生きた世界は、こんなにも美しい。

 眩暈がして欄干に凭れる。息苦しさに咳をすれば、掌に血が付いていた。眼下の清流を、橙を反射する煌めきを見下ろしながら小瓶を取り出す。重罪人に使われる透明な毒。君を拐わせた騎士が賜った劇薬は、いつか王子に投げ渡された物だった。

 半端な毒はどれだけ耐性があるか分からないから、受け取った時から、その日が来たら頼ろうと決めていた。


 君が王子様と結ばれる前に、本当に幸せになるより早く。


 私の全て、消えない君への呪い(あい)になればいい。


 そうして、栓を外して。





  ◇





 どうして。


 どうして。




 皆笑っている。楽しそうに、嬉しそうに。

 豪華なシャンデリア、絶対に食べきれない沢山のご馳走。綺麗なドレスを着て、時間をかけてお化粧をして。誰かが大きく手を打つ。気を取り直して式典を続けましょうと仕切るように。

 演奏家が楽器を手に取って、皆パートナーと腕を絡めて。


 どうして笑っていられるんだろう。

 あの人に、あんなに酷いことをしておいて。


 ずっと、違和感があった。


 「レイリア? 大丈夫ですか?」

 

 優しい目をしてジェラルドが……生徒会の副会長が、頭に触れる。

 違う、と思う。違う。何が違うのかは分からないけれど、こんな感じじゃなかった。分からないのがもどかしくて、苦しい。ずっと水の中にいるみたいだ。


 一番最初の記憶を思い出す。わたしは暗くて冷たい川の中をもがいている。居ない誰かに手を伸ばして、助けてって言おうとして、また縋ろうとして……。また? 誰かって、誰だろう。頭がぐるぐるする。ずっと何かを、誰かを探しているのに、それが何なのか分からない。

 

「ちょっと休む? ショックだったでしょう、レイリアは優しいから」


 友達が心配そうに私を見る。家族がいて、友達もいて、皆が大切にしてくれる。心の底から愛されていると思う。なのにどうして、違和感を覚えてしまうのだろう。世界が回る。早くしないと、間に合わなくなる。何が?


 何も言えずに立ち尽くす。震える私に、金髪の彼は声をかけた。


「レイリア、きみに言いたい事があるんだ。俺は、ずっときみがーーー」


「どうして、ですか」


「うん?」


「どうして、あの人を傷つけたんですか。押さえつけて、蹴って……わたしは」


 あの人に会えるって言われて、ここに来たのに。

 握りしめたこぶしが痛い。彼は、生徒会長だったこの国の王子様は、一度瞬きをした。


「ああ、その事か。かつての婚約者だからな、破棄する場には君に同席して欲しかったんだ。その方が、俺の誠意も伝わるとーーー」


「なにが誠意ですか! あの人が何をしたっていうんですか、どうして!!!」


 叫んだ。一年しか関わってないけれど、彼はこんな人だっただろうか。真面目で、身分の低いわたしや特待生達にも親切で、好きな色や花を覚えていてくれた。今日のドレスだって彼が贈ってくれて、似合うよって笑いかけられて、会場までエスコートされた。



 婚約者の、あの人を差し置いて。



 ぞっとした。なんて事をして、どれだけ侮辱し傷つけただろう。ーーーどうして何も考えず、彼の手を取ってしまったのか。


 初めてあの人を見たとき、なんて寂しそうな人だろうと思った。涼やかな目元で、透明に笑う人。貴族と関わる機会が少なかったから、高貴な人は雰囲気も違うんだなあってドキドキした。

 また会いたくて何度も図書館に行ったけれど、貴女はどこにも居なくて。どうしても諦められなかったから友達に聞いて回って、この国の王妃様になる人だって知った。生徒会に誘われた時も会長は王子様だから、もしかすると近づけるかもと思って話を受けた。


 王子様はあの人と殆ど関わってなくて、それどころか嫌っているみたいだった。学校の他にやることがあるらしいから余り登校してなくて、少ない目撃情報から探す日々。友達や学校の人に引き留められたり見失ったり、何かに邪魔されてるか、避けられてるのかと思うほど会えなかった。顔を合わせる生徒会の皆の方がずっと仲良くなって、多分好意を寄せられてるなって分かるほど。


 建国祭の式典も、卒業式すら貴女はいなくて、やっと会えたと思ったのに。


 早くして、早くと泣き声が聞こえる。誰だろう。何処からだろう。


「……怒っているのか? レイリア。俺はきみの、君の笑顔が好きで、沢山笑って欲しくて、その為に」


 王子様の瞳が揺れた。そうだ、彼が羨ましくて大嫌いだった。彼も私を嫌っていて、■■■■■■の後ろに隠れて舌を出した私に、ぶりっことか、沢山文句を言った。


ーーーえ? 今のは? わたしは、何を?


 頭が痛い。ガンガンと鳴る。冷汗が流れる。考えなければ、忘れてしまえば楽になれるだろう。でも、そうしたらわたしは、一番大事な■を。

 

 思い出して、忘れないで、わたしはずっと、ずっとずっとずっと!!!!

 子供だ。小さな女の子の、泣き叫ぶ声だ。


 胸が苦しい。心臓が痛い。目の前の彼も似たような表情を浮かべていた。拙い言葉だった。彼自身が、誰かにそう言って欲しいように。



「大丈夫、大丈夫だよ、レイリア。俺が傍に居るから。だから、どうか……」





ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーあ。





 どうして。


 どうして、忘れていたのだろう。忘れていられたのだろう。

 

 寂しい時、悲しい時、大丈夫だよと頭を撫でてくれた、貴女を。



 わたしの、いちばんだいすきな、おねーちゃん。


 どうして、あなたは。




 走って、と、声がした。


 走って。行って、このままじゃ、間に合わなくなる。



 それは、わたしの声だった。



 誰かの引き留める声が聞こえた。高いヒールを脱ぎ捨てて、何もかも蹴り飛ばすように走り出す。


 スカートが邪魔だった。息が切れる。走るなんてはしたないって困ったように窘められて、思いっきり身体を動かしたのはいつぶりだろう。

 昔は全力で飛び付いたわたしを、笑いながら貴女が抱き止めてくれた。


 いくつもの扉を抜けて、駆け降りた階段で足を踏み外した。床に身体を打ち付けて、痛みではない理由で涙は溢れていた。

 昔は転んで泣いたわたしに、大丈夫だよって貴女が笑いかけてくれた。怪我を治してくれて、手を繋いで一緒に帰った。


 足首に違和感があって、それでも走り出す。王城を出てすぐの街に架かる橋にーーー貴女が、いた。

 真っ直ぐな黒髪。装飾の無いドレス。




 貴女は、こんなに、細かっただろうか。




 今にも折れそうな手足。傷痕だらけの肌。手に、服に付いているのは血だろうか。


 どうして、さっきまで。


 貴女はこっちを見ようとせずに、小瓶の栓を外す。薄く笑みさえ湛えて、満足そうに。


 だめ、と、声が。わたしが。



「おねーちゃん!!!!!!」



 その瞬間、わたしを見て。


 完璧な表情の、仮面が剥がれた。

 驚いて困った顔。寂しい迷子の子供みたいな。

 爪の無い指から小瓶が落ちた。硝子の割れる音。




 ごめんね。ただいま。




 そうして、わたしは。


 貴女を、思いっきり抱きしめた。










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