山水ラムネ
夏の日差しはひどく照りつけていて、地を茹であがらせるほどであった。男は額に大粒の汗を滲ませながら何も考えずに歩を進めていたが、ふと懐かしい匂いが鼻腔を突き抜けると足を止めた。一言、「これは懐かしい」とつぶやいた。
「いらっしゃい。あら、懐かしい顔ね」
出迎えてくれたのは人相のいい老婆だ。
「お久しぶり。一昨年ぶりだね」
昨年は諸事情で田舎に帰ってこれなかったこともあり、男は少々忘れられていないものかと心配していたが、そんなものは乾いた夏風とともに飛ばされていった。
昔――と言ってもかれこれ三十年も前になるが、男が五歳の時に七五三で千歳飴をもらった日から老婆はこの駄菓子屋を切り盛りしている。そんなこともあってか、男には妙な思い入れがあった。
辺りは風光明媚の名に恥じない淡緑色の山々と、爽やかな音を立てる麦畑が広がっており、少し行ったところにある風趣な山水も、心穏やかな気分にさせてくれる。都会暮らしの男にとっては、非常に貴重なやすらぎとなっていた。
「たまにしか会わなんだ。ちょいと面白いもんでも試していかんかね」
くしゃっと笑った老婆は男にキラリと白い歯を見せると、錆びついたステンレス製のバケツに手を突っ込んだ。この老婆は昔からもの珍しいものを子供だけに売ることから、当時、近所の間で人気を博していた。
「俺もう三十五だけどいいのかい」と男が訊くと、老婆は「ワシからすればまだまだ子供みたいなもんさ」と言い、男に差し出した。
「何だいこれは、普通のラムネのように見えるが」
老婆が男に渡したのは何の変哲もないただのラムネ瓶だった。ゆらゆらと揺らしたラムネ瓶の中で、一帯の景色に近しい紫翠のビー玉がコロコロと涼しげな音を立てた。
「ただのラムネに見えるだろう。この辺りの山水で作ったラムネだ。ただし、一口飲んでみればあら不思議。世にも奇妙な体験ができるさ」
「と、言うと?」
「ものはまず試さんと。ほれ、グイッといってみい」
囃し立てられた男は老婆に対して一瞬、失礼なことを考えたが、ラムネと一緒にそれを流し込んだ。
「……特に何もないが。さてはおばあちゃん騙したな」
ラムネを飲んでから一、二分が経ったが、変わったことは特に何も起きない。強いて言うならば、喉が音を上げるほどカラカラであったこともあり、炭酸の弾ける感覚が一段と激しかったことくらいだ。
「そんじゃ、もう一口飲んでみな。次は飛ぶさ」
疑いの眼差しを向けたまま、男はもう一度グイッと口に運んだ。
すると、今度は違った。口の中で炭酸の粒子が甘く弾けると、男の視界は乾いた風とともに揺らいだ――。
「うーん」と、ひと唸りした男は瞼を雑に擦った。するとどうだ、男は次の瞬間、ギョッとした表情を浮かべた。
「ど、どこだここは」
明らかにさっきまで見ていた景色とは真反対と言うべきか、辺りは殺風景極まりないビル群がそびえていた。
まるで夢を見ているようで、匂いは何も感じない。ただ、生気のない街並みがそこにはあった。
また次の瞬間。砂埃が男の瞼をかすめた時、舞台が変わった。
「えぇ。ここはいったい」
今度は木々が生い茂る一帯へと移り変わっていた。人間はおろか、生命が足を踏み入れる場もないような殺気がそこには渦巻いていた。
男はひたすら「ええ。ええ?」と、まるで獲物に捕らえられ宙に浮いた鯉のような顔をしていた。
しかしそこで三度暗転した。気づけばしてやったりの老婆がそこに立っていた。
「今、俺はどうしてたんだ」
「言ったろう。飛んだのさ。未来に」
「はぁ?」
この暑さのせいか、頭がやられたのかと男は思ったが、確実にそれは間違いではなかった。
「信じられないという顔をしているね。もう一口言ってごらん」
言われるがままにガッとラムネを口に含んだ男は、今度は普段の生活圏へと飛んだ。対した変化はないが、少し馴染みの人間の眉間にシワが顕になっていた。
しかしそれもまた一瞬で、ラムネの炭酸とともに弾け飛んだようだった。気づけばすぐに老婆と憎いほどの暑さが男を出迎えた。
「おばあちゃんよ、これはいったい何なんだ。俺は本当に未来を見ていたのか?」
少し声を漏らして笑った老婆は、「そうだよ」と言い、続ける。
「このラムネはね、正直な人間には未来を、嘘つきな人間には過去を見せるんだよ。『白昼夢』って言葉を聞いたことがあるだろう? それと同じようなもんさ」
昔からよく近所の子供をからかっていた記憶が男の脳裏をよぎった。まるでマジックのような、不思議な体験をさせ、嘘とも本当とも言えないようなタネ明かしをして賑わせていたなと思い出した。
「となると、俺は正直な人間ってことでいいのかな?」
「まあ、そうなるね。あんたを見ていたら、とても過去を見ているようには見えなかったよ」
カカカと笑った老婆は続けた。
「ちなみに、過去の記憶っていうのはそいつにとって恥ずかしい記憶が蘇る。たまに昔を思い出して悶えることがあるだろう。あれさ」
涼しい風鈴の音色が風情を感じさせ、男の顔を優しく撫でた。と、同時に、少し童心に帰った男は含みを持たせてこう言った。
「このラムネを飲めば、どんな未来も見えるってことでいいんだよな?」
「ああ、見えるとも。見たい未来を強く思い浮かべればなおさらね。ただし、炭酸の鮮度が肝心だ。早く飲まないと、ただのラムネになるよ」
再びカカっと笑って見せた老婆の言葉を聞き、男は期待を込めて残りのラムネを一気に口へ含んだ。
「直近の宝くじの当選番号を見せてくれ。宝くじ、宝くじ……」
男は強く強く念じた。そして画が浮かんだ。
見慣れた景色。自宅だ。目の前には真夏の気温でしおれた新聞が置かれていた。
「やった! これで俺も億万長者だ」
夢の第一歩と言わんばかりに男は勢いよく新聞紙を広げた。
しかし――。
「へ? うわぁ! な、なんだこれは」
新聞を埋め尽くしていたのは、男が思い出したくない過去の黒歴史に関する記事がびっしりと詰まっていた。それも一枚をのぞいてカラー写真つきだ。
男は悲鳴を上げると、面白おかしく笑うしわくちゃな顔が立っていた。
「カカカ! 言い忘れたがね、いくら正直者と言えど、卑しいことを強く祈ったら過去の記憶が現れるんだよ」
その言葉を聞いた男は頰を赤らめ、「そういうことは早く言ってよ」と、声を細めた。
しかし老婆の笑いは止まらない。
「あんた、一つだけ白黒の写真が見えたんじゃないかい? どんな写真だった」
「たしかにあったけど……。たしか、ズボンが破れていてそれを隠していたような」
「そうかい。そんじゃ、下見てみい」
「へ?」と情けない声を漏らした男は、下と言われ自分の下半身を見るなり、「うわぁ!」と、目を見開いた。
茹で蛸のように耳まで真っ赤にする男をよそ目に、老婆は蒸し暑さを消し飛ばすごとく大笑いを響かせた。
烈々とした空の下、真風が風鈴を撫でるように揺らした。
(終)
ここまで読んでいただきありがとうございました。
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作者:蕎麦うどん