後編「一発逆転とまでならなくとも」
「滑稽でツマラナイな。実にクダラナイ衝動だ」
「っ! あんたは?」
「おや、名前でも知りたいのかな? では、この世界に合わせて、時任クロノスケとでも名乗っておこうか」
気配もさせずに背後に立たれたことで、僕の心臓は早鐘のように鳴った。
クロノスケと名乗ったその人物は、病人のように青白く痩せ型で、色の濃いサングラスと掛け、鼻先から首元までを黒い布で覆っているため、表情が読めず、声もくぐもっていた。
感染症が拡大する前に目撃していたら、きっと犯罪者か怪しい団体の教祖だと断定したことだろう。
「生きていれば良いことがあるとか、親を悲しませることになるとか、そういう説得なら間に合ってます」
「引き止めるとでも思ったかい? ハッハッハ。それこそ愚の骨頂だよ。ワタシは、キミにもっと面白いやり方を与えに来ただけだよ」
「……はい?」
相手のペースに乗せられ、内心で「しまった」と思ったが、とても引き返せなかった。
クロノスケから、自分は時を操る存在だと熱弁され、一度だけ過去の好きな時点に行けるという小さなボタン式のスイッチを手渡された。
うまく使えば自分の存在を消し去ることが出来ると言い残して階下へ行こうとしたので、僕は急いで追い駆けたが、外階段へ繋がる鉄扉を開けた向こうに、クロノスケの姿は無かった。
興を削がれた僕は、いかにも「押すと大変な事が起きます」と言わんばかりの真っ赤なボタンの存在を手の平に感じつつ、リュックを背負い直してアパートへと帰った。
当然のように母親の姿は無く、荷物を置いてルームウェアに着替えた僕は、台所の戸棚からカップ麺を取り出して電気ポットのお湯を注ぎ、三分待ってから平らげつつ、脳内でクロノスケの言葉を反芻していた。
面白そうだから押してしまえという悪魔と、取り返しが付かなくなるから押すなという天使が葛藤した末、母親の重荷を減らし、子供を出世の道具にしか思っていない父親に一矢報いるべく、人差し指に全神経を集中させてボタンを押した。
僕が向かったのは、十五年前に母親が僕を妊娠した日の夕方のオフィス街だ。
どうしてこの時点かといえば、この日に父親が家に帰るのを遅らせれば、僕が生まれることは無いと判断したからだ。
発想は単純であるが、問題は、若い頃の父親をどうやって家から遠ざけるかであろう。
この頃の父親は、外面の良さと恵まれた器用さで、近隣住民からも社内でも愛妻家として名が通っていた。
もちろん、その方が上司にウケが良いだろうという強かな計算を基に演じていただけだったのだろうと、その後の未来を知っている僕には容易に想像が付くのだけれど。
きっと、妻の手料理が待っているからという口実で、しなくても良い残業を断ったり、行きたくもない飲み会を欠席したりしていたに違いない。
そんなことを考えながら、ビルの向かいにあるファストフード店の窓際の席でコーラを飲みながら張り込んでいると、定時から程なくして社員専用口から出てくる父親の姿を発見した。
父親の若い頃の写真は、小さい頃に過去の自慢エピソードと一緒に何度も見たことがあるし、母親が誕生日にプレゼントしたという青系のナロータイをしているから、まず本人に間違いない。
近付けば七三分けの髪からバニラの香りがするだろうとか何とか余計な考えを頭から振り払いつつ、見失わないように、気付かれないように尾行する。
慣れた様子で足取りも軽く月極駐車場へ入っていくのを確認してから、僕は出入り口付近で待機した。
程なくして、父親は車に乗らず、鞄だけ車に置いた状態で出入り口へと戻ってきた。
一見すると不可解な行動に思うかもしれないが、これも作戦のうちで、父親の乗用車のタイヤは、前もって四輪とも穴を開けてパンクさせてあるのだ。
父親はロードサービスを呼ぼうしたのだろう。
背広のポケットから二つ折りのガラパゴス携帯電話を出して開いた。
電話が繋がり、周囲への警戒心も無く喋り始めたところで、僕は作戦を決行した。
「この、××××野郎!」
放送禁止用語どころでない口汚い言葉で罵りつつ助走をつけ、中学に上がってから今までの鬱憤を晴らさんばかりの有りっ丈の力を左足に込め、父親の背後から腰骨へ向けてドロップキックを放った。
そして、地面に這い蹲りながらアーとかウーとか低い声で呻いている父親を放置し、アスファルトに投げ出された携帯電話を逆に折り曲げて破壊してから、その場を足早に立ち去った。
それから、どこをどう走ったかは興奮しすぎて覚えていないが、身を隠すように路地を曲がり、追手が来ないことを確かめてから地面にへたり込むと、またもやクロノスケが死角から姿を現し、拍手をしながら言った。
「コングラッチュレーションズ! 実に見事な復讐劇だったよ。さて、これでタイムパラドックスが生じたから、キミの肉体は消えてなくなる筈だ。ほら、もう魂だけになりつつある」
鶏ガラのように骨張った手で指差された先を見ると、足元から徐々に半透明になっていくのが視認でき、段々と身体の感覚も無くなっていくのが実感できた。
普通の人間なら恐怖を覚える場面だろうが、僕は不思議と安堵の気持ちでいっぱいになった。
「何か言っておきたい事はあるかい? 希望でも讒謗でも何でも構わないよ」
「もしも、この魂がヒトに転じるのなら、せめて苦労なく十人並みに生きられるヒトにして欲しい」
「フムフム。そういうことなら、そうなるように便宜を図ろうじゃないか。永い輪廻の旅になりそうだがね。さぁ、もう時間だ」
そう言って、クロノスケが指をパチンと弾いて鳴らすと、世界は色彩を失い、分解能が衰えてモノクロのマーブル模様のようになり、やがて全てが光に包まれ、僕という存在は完璧に無に帰した。