第28話 あの日々をもう一度
◇
バイト先に到着すると、俺はいつも通り先輩バイト達に適当に挨拶をしながら休憩スペースへと入る。
中に入ると、休憩中の店長が座っていて、俺の姿を確認するや「……来た来た」と小声で言いながら立ち上がった。
何故だろう。嫌な予感しかしない。なんなら、前にも似たようなことがあった気がする。
俺は一応常識人として、挨拶だけはこなしておくことにした。
「店長、こんにちは」
「こんにちは、相川君。ちょうど良い所に――」
「それでは、着替えてきますね!」
「あ、相川君!?」
店長の言葉を遮るように言って、逃げるように更衣室に入ると、遅れて俺を呼ぶ声がしたがそんなことは知らない。
俺は仕切りのカーテンを閉めて、手慣れた手つきで悠々と着替える。
そして。
(……嫌だなぁ)
準備を終えて、俺はカーテンの前でそう心の中で呟いた。
逃げたところで結局逃げ場なんてないのだ。
「あ、ちょっと相川君。なんで逃げるんだい?」
カーテンをシャッと開けると、疑問の表情を浮かべる店長が俺を待っていた。
逃げたのに怒らないとは、よほど人間が出来た人なのか、それとも今から頼むつもりの事は機嫌をなるべく損ねないように配慮しなければならないほどの案件なのか。
俺は腹を括り。
「どうしました?」
「君に今日入ってくるアルバイトに仕事を教えて欲しいんだ」
「お断りします」
「そうか、それはよか……何でだい!?」
まさか断られると思ってなかったのか、店長は遅れて気づいた。
新人アルバイトの教育係なんて冗談じゃない。教えるのは苦手だ。
「頼むよ相川君! 他に教えられる人が今日は居ないんだ」
「そんな事はないんじゃないですかね。他の先輩は?」
と、休憩スペースの入り口の向こう側で働いているであろう先輩アルバイトの方へと視線をやると、店長は首を振った。
「今日は二人とも用事があるって……今働いてる二人は相川君と入れ替わりだし」
「な、何で他の人入れなかったんですか!? 流石に夕方からは僕一人じゃ回せないですよ!?」
「もちろん入れたよ! 入れたんだけど、来れるのが四時くらいなんだ」
慌てて言う店長は今だに視線を逸らしている。まだ他にも何か隠していそうだ。
「それまでは普段、あまりお客さんも来ないから大丈夫かなって……あはは」
「まあ、確かに四時から来てくれる人がいるなら、それまでの間は回せますよ。普段通りなら、ですけど」
「本当かい! じゃあお願いするよ」
パッと瞳を輝かせる店長の様子を見るに、俺が含みを持たせた言い方をした事に気付いていないようだ。それか、気付かないフリをしているのか。
「それは良いですけど、新人君はどうするんです?」
「……おねがーい?」
神に祈るように両手を合わせて、店長は小首を傾げてお願いしてきた。正直、おっさんにそんな事をされても鳥肌が立って余計に逃げ出したくなるだけだからやめて欲しい。
そこで、そういえばとひとつ気になることがあったことに気づいた。
「そういえば半田はどうなんですか? 半田なら来れないですかね?」
半田は確か文芸部の新入部員勧誘に協力できるくらい、今日は時間に余裕があったはずだ。
篠崎には悪いが、鈴木も送り込んだから半田が居なくてもどうにかなるだろうと思っての事だったのだが。
「一応してみたんだけど『親友に頼まれた事があるから、いくら店長でも……すみません!』って断られちゃった」
「はんだぁぁぁっ!」
どうやらこの状況を招いた責任の一端は俺にあったらしい。
俺が唖然としていると、店長がいきなり頭を下げ出した。
「頼むよ相川君。君しか居ないんだ。君だけが頼りなんだ! この危機的状況を乗り越えられるのなら、妻に何度も踏まれたこの汚い頭なんぞ、いくらでも下げる!」
調子のいい事を言っていたかと思えば、店長の性癖のようなものが言葉の端々に見え隠れしていて、全然説得力がない。
俺はこれ以上、表面上だけ尊敬している店長の汚い部分を見たくないため、取り敢えず頭を上げてもらうことにした。
「店長、頭を上げてください。そんなに頭を下げて貰ったって意味がないですよ」
もう決めていたことなのだから。どれだけ特殊な性癖を持っていても、店長は店長だ。なら、従業員たる俺がやる事は変わらない。
勤めて優しく笑う俺の表情を見て、店長は再び眼に光を宿した。
「そう、だよね。相川君は優しいから、こんな事されなくてもやって――」
「どんだけ頭を下げられても、やらないから意味ないんでね」
遮るように言った言葉に、店長は続きの言葉も出てこずに固まった。
俺は今のうちにその横を通り過ぎることにして、休憩スペースを出ようとしたところで。
「あいかわくぅぅぅぅん!」
という叫びとともに腰にしがみついてきた店長を引き剥がそうと、約一分ほどの死闘の末、俺が折れる形となった。
俺はともかく、他の従業員にまで今の店長の醜態を晒すのはどうかと思ったのだ。
勘違いして欲しくないのだが、別に店長のためではない。店長にここまでさせる相川雪人はヤベー奴というイメージになりかねなかったからだ。
それを店長が計算でやっていたのなら、一生勝てない気もするが、きっと違う。店長は醜態を晒すことに慣れているだけなのだ。きっとそうだ。
この時、俺の中で店長の株は大暴落した。
そして、問題の一時間が経過しようとした頃だった。
フロアに出ていると、店長に手招きで呼ばれた。
きっと例の新人アルバイトが来たのだろう。
俺はやれやれと言った感じで重たい足取りで休憩スペースに入ると、店長は「挨拶する時間くらいは、僕がホールの方にいるよ。ゆっくりしてね」と言い残して出て行ってしまった。
俺は取り敢えず適当な椅子を引っ張って、テーブルの前に座る。今は着替え中なんだそうだ。
ちゃんと店長にも付き添ってもらって紹介してもらいたいものだが、もうそんな事を言う気も失せてしまった。
というか、店長は今日いつまでここにいるのだろう? ずっと居るなら自分で教えればいいのにと思うが、先ほども言った通りそんな事を言う気はとっくに失せている。
俺は突然どっと疲れたような感覚になり、目の前のテーブルに突っ伏した。
すると、身体的にも疲れていたようで、すぐに睡魔が襲ってきた。
まだ就業時間中だと言うのに、これでは怒られてしまう。
そう思った時だった。
「あの……」
弱々しい声が聞こえた。
どこか伺うようにも、戸惑いが含んでいるようにも聞こえる声だった。
何よりも、聞き覚えのある声だった。
そして、とても懐かしい声でもあった。
「大丈夫、ですか?」
顔を上げると、心配そうに俺の顔を覗き込む少女が居た。
肩までは掛からない程の長さの黒髪ショートと少しキツい猫目が特徴の少女。
見覚えのない顔だ。なら先ほどの懐かしさは気のせいなのだろうか?
「あの……そんなに見られると」
「え? あ、ああ……」
気づかないうちに俺は彼女のことをずっと見続けていたようで、気まずそうにしている。
俺は慌てて視線を逸らして、ぼんやりとしていた頭を覚醒させた。
「君は?」
話の繋ぎにとそんなことを聞いてみるが、店長の話していたバイトの新人以外の何者でもないだろう。
そんなことを知ってか知らずか、少女は「そうでしたね」と思い出したように前置きして、姿勢を正した。
「楓乃遥です。今日からよろしくお願いしますね――セーンパイ」
はじめましてにしてはやけに気安く、だが全く嫌な感じのしない笑顔を覗かせた。
名前を聞いた瞬間、心臓が跳ね上がった。
俺はこの子を知っている。
何故忘れてしまったのか分からないほどに濃密な時間を過ごしているはずだ。
そう、この子は……。
俺は一度目を閉じて視界をリセットし、もう一度開ける。すると、胸の中にストンと何かが収まった。
――ああ、そうか。
俺が何かに納得すると、彼女はやはり懐かしい笑顔で笑った。
「センパイ、あたしの勝ち……ですね!」
END




