第13話 再会
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楓乃と戻ると、俺達は今日という日をふんだんに遊び倒した。
既に復活していた半田と早速第二回水泳対決を行い、泣く泣くお好み焼きを奢ったところで、今度は半田の友達とうっかり鉢合わせてしまうも、そのまま三対三のビーチボール対決を白熱させた。
それらを終えて、帰る頃には既に日が傾いていた。橙色に彩られた空の下を歩く俺の後ろからは、当然のように付いてくる楓乃の姿。そのすっかり日常となったその光景に疑問を口にした。
「なぁ、当然のように付いてくるけど、お前いつ家に帰るんだよ?」
「ふぇ?」
俺の質問に楓乃は素っ頓狂な声を上げながら首を傾げた。
まるで、そんなことに疑問を持つ俺がおかしいと錯覚してしまう程に楓乃は分からないと言った表情を浮かべている。
「いや、何か家に帰っても誰も居なかったとか、待っても帰ってこないとか言って俺の家にずっと居るけど、本当か?」
「本当だよ。じゃなかったらとっくに自分の家に帰ってるもん」
「そうか」
「そうだよ」
楓乃の口調は不気味な程に淡々としていた。
まるでそれが――帰れないことが普通であるかのように、全く気にしている素振りがない。
その様子に、俺は少なからず引っ掛かりを覚えるも、具体的にどう引っ掛かっているのかを上手く説明することができない。
考え込んでいると、不意に楓乃の足が止まった。
俺も数歩前に進んだところで気づいて止まり、振り返る。
楓乃は驚愕に目を見開いて、ある一点の場所を見つめていた。
「どうした?」
そう声を掛けたときだった。
「遥?」
背後から女性の声がした。目の前の楓乃ではなく、背後からだ。
俺は誰だろうかと振り返る。
そこには四十代半ばくらいの中年の女性が口元を押さえて立っていた。
腰まで流れる黒髪が特徴の女性で、少なからずあるシワのせいか、整った顔立ちからはとても疲れた顔をしているように見えた。
「遥、なの?」
もう一度楓乃の名前を呼ぶ。その様子からは、大切なものを見つけたという印象を受けた。
俺はどうしたら良いのだろうと道の脇へと下がると、キョロキョロと楓乃と女性を交互に見る。
次に口を開いたのは女性の方ではなく、楓乃だった。
「おかあ、さん?」
楓乃の声は震えていた。目を見開いて、見られてはいけないものを見られたように、一歩二歩と後退る。
今楓乃はなんと言っただろうか? お母さんだと?
それに、二人のこの反応は何だ? 特に久しぶりでもないはずの親子の再会にしては、大袈裟すぎないだろうか。
まるで、会えるはずのない人に会ったような。
「楓乃?」
いやいやをするように首を振りながら、楓乃はどんどんと後退っていき。
「遥、なのね?」
「……ッ!」
女性の言葉が確信に変わると、楓乃は逃げるように背を向けて走り出した。
「あ、おい楓乃!?」
突然の事に身体が追い付かず、その場で何も掴めなかった手を伸ばしたまま立ち止まっていると、楓乃の背中はすぐに消えてしまった。
俺がその場で立ち尽くしていると、いつの間にか近づいていた女性が隣に立った。
「ねぇあなた、一つ聞いてもいいかしら」
「な、何ですか?」
急に話し掛けられ僅かに動揺しながらも、何とかそれだけ返す。
女性は楓乃の消えた方を見つめたまま、感情を圧し殺すような声で質問した。
「今の子の名前、何て言うの?」
質問の意図が分からなかった。母親なんじゃないだろうか。
現に楓乃はお母さんと呼んだではないか。
例の現象が原因にしては、忘れ方が半端な気がする。さっきまで誰かが居たことを認識しているのだから。
俺は訝りながらも、質問の答えを返す。
「楓乃遥、ですけど。あなたもさっき呼んでいたじゃないですか。何でそんな質問を?」
大した意図のない質問だった。
だから、次の女性の言葉に言葉を失った。
「……ありえないからよ」
僅かな間の後に出てきた言葉に思わず女性の横顔を見て、何が? と返す前に女性は続けた。
「あの子は……遥はね……」
そこまで言って、女性はようやく俺を見た。
この先を聞いたら、もう後戻りできないような気がした。
今まで通り楓乃と過ごせなくなるような、決定的に何かが変わってしまう答え。もしかしたら、関係自体が終わってしまう事実。
だがそれを聞けば、今まで止まっていた何かが動くような気もした。
だから俺は、彼女の言葉を止めることも耳を塞ぐこともしなかった。
「病院のベッドで、ずっと寝ているはずなの……一年間、目覚めたことがない」
「な……?」
言葉が見つからなかった。
思考が追い付かない。頭の中を疑問で埋め尽くされる。
そして、その疑問の中には一つとして答えを出せたものはなかった。
「ちょっと待ってください……じゃあさっきまで一緒に居たのは、一体誰なんです?」
気が付けば俺は声を上げていた。
「病院で寝てるって……だってさっきまで俺と楓乃は遊んでいたはずで……今日だけじゃない。昨日も一昨日も……その前も楓乃はずっと一緒だったはずです」
「……だから、それはありえないのよ」
「だったら――!?」
言いかけて言葉を詰まらせた。なぜなら、女性が表情一つ変えずに一粒の涙を溢したからだ。
それに俺は熱くなっていた事を自覚し、急速に頭を冷却させた。
冷静に考えれば、俺なんかよりも親である楓乃の母のほうが混乱しているはずだ。
それなのに俺は……。
「私にも分からないわ。でも、遠目からでしか見えなかったけど、あの子は遥だった……」
「俺も、あいつからは楓乃遥だと名乗られました……」
「そう」
女性は短く返事をすると、深く息を吐いた。
その横顔は、何故か安堵したような表情だ。
俺がぼんやりと見ていると、視線に気がついた女性が首を傾げた。
「どうしたのかしら?」
「ああ、いえ……」
俺は慌てて視線を逸らして、さっき感じたことを素直に答えることにした。
「その……妙に安堵しているように見えたので、何でだろうと思ったんです。普通は取り乱して、病院に確認しに行ったりするものだと思うので」
「そうね……本当はそうなんだけどね。でも、それ以上に私は嬉しかったの」
「嬉しかった?」
理由がいまいち想像できず、首を捻る。
病院のベッドで横たわっているはずの自分の娘が、普通に街中を歩いていたら異常だと思うはずだ。色んな憶測が飛び交って、どうにか話を聞こうと、すぐにでも追いかけるのが自然。
それでも女性は、穏やかな表情で口を開いた。
「さっきのあの子がもし幽霊でも、私は嬉しい。目覚めないのは確かに悲しいし疑問も尽きないのだけれど、やっぱり親としてはね、こんな形でも学生生活を謳歌してるのなら、それでも良いと思えたの。遥が楽しいなら、それでも良いって」
「…………」
「だから、少し安心した」
やはり、親になると考え方が変わるのだろうか。
俺には、彼女の言っていることが理解できなかった。
楓乃が幸せ? 幽霊としてしか動けないとしても、構わない? 何でそこで妥協できる?
楓乃は苦しんでいた。人に忘れられて、悩んで、どうしようもなくて。
だからと言って、誰かに助けを求めることもできない。唯一、覚えていられる俺にだって、結局出来ることはなかった。
支えることも、助けることも、今まで出来なかった。
それでも俺は、そこで妥協することはできない。
駄目だから諦めるんじゃない。駄目なら、次の手を考え続ける。
それをやめてしまえば、本当に楓乃はあのままだ。
すぐに崩れてしまう笑顔をずっと浮かべて過ごす。それだけは絶対にダメだ。
「……あいつには心の底から笑って欲しいです」
「え?」
突然の否定とも呼べる言葉に、女性は驚くような声を上げた。
「やっぱりこの状況は普通じゃないです。事実、楓乃がずっと苦しんでるのを傍で見てきてます」
「…………」
「だから、助けになってやりたいんです。俺に出来ることなんて、たかが知れてますけど、一人で抱えるよりずっとマシだと思うんです」
「あなたは……」
女性と目が合う。その顔には先程の安堵した表情から驚きへと変わっていた。
「だから妥協しません。あいつと本当の意味で笑える日が来るまで、付き合うつもりです」
「……そう」
女性は少し目を細めたかと思うと、目に光を宿らせた。
「駄目だな、あたし……。母親が最初に諦めてちゃ駄目よね」
そう言って俺に笑いかけた。
「ありがとう。私、あと少しで諦めてた。あの子の幸せを妥協するところだった」
「いえ、俺もこうやって話していて決意が固まったところがあるので、偉そうなことは言えないです」
「でも、気づけたのは大きいよ。私は楽な道に目が眩んでしまって、気付くことができなかった」
「そうですかね……」
少し照れ臭くなって、俺は目を逸らした。
すると、ふっと女性が笑みを溢したのが横目で見えた。
「あなたは、遥とどういう関係なの?」
「えっと……そうですね」
思わず言葉に詰まった。流石にあそこまで楓乃のことを思っているような発言をしたら親としては当然気になるのだろう。
「少し生意気な後輩であり、親友……ですかね」
思えば、まだ一ヶ月も経っていない関係だけど、とても長い間を一緒に過ごした親友のように思えた。
楓乃と過ごす時間はとても楽しくて、かけがえがなくて、だからこそこの問題が解決したら、何も気にすることなく普通の日常を過ごせるのだ。
女性は俺の答えに含みのある笑みを見せると「そう」と短く返すと、何かを思い出したように鞄からメモ帳を取り出して何かを書き始めた。
「えっと……?」
どうすればいいのか分からずに空を見上げていると「はい、これね」と言いながら俺にちぎったメモ用紙を渡してきた。
俺は渡されてすぐにメモ用紙に視線を落とす。そこには病院の名前と病室の番号らしき数字が書かれていた。
「これは?」
「遥が入院してる病院の名前と病室の番号よ。今から行けば少しくらいは面会できると思うから、良かったら行ってみて」
「……ありがとう、ございます」
一応お礼の言葉を絞り出すも、内心では少し複雑だった。
本物の楓乃とは確かに会ってみたい。だが、それと同じくらい怖い気持ちもあった。
それが何に対してかは分からない。それなのに、俺の中には輪郭の見えない恐怖があったのだ。
顔に出ていたのか、女性は俺を見て優しく笑うと「それじゃあね」と俺の横を通り過ぎて行った。
見送ろうかと思って遅れて振り返ると、女性は数歩進んだところで何かを思い出したように立ち止まって、くるりと身体を反転させた。
「そういえば、あなた名前は」
「あ……」
そういえば名乗ってなかったことを言われて気づいた。
一つ咳払いして。
「相川雪人です」
「そう……。相川君、あの子のことよろしくお願いします」
女性に深々と頭を下げられて、恐縮しながらも俺も反射的に頭を下げた。
それから女性は再び歩みを進め、今度こそ去っていった。
それを見送って、俺は先程貰ったメモ用紙の存在を意識すると、女性が来た方向へと歩き始める。歩みは次第に早くなっていき、気が付けば駆け出していた。その時にはもう先程の迷いはなくなっていた。




