第12話 一人きりの思い出
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迎えた夏休み二日目。外はこれでもかって言うくらいの日本晴れだった。
今朝のニュースでは、絶好の行楽日和ですとアナウンサーがハキハキとした声でそんなことを言っていたのをよく覚えている。
だが、そんな言葉とは裏腹に、俺の気分はとてもげんなりしていた。
数週間前まではじめじめとした暑さだったのが、今ではからっとした暑さに変わり、気温もかなり上がったように思える。
毎年の事とはいえ、やはりこの時期は苦手だ。こんな時はキンキンに冷えた部屋で過ごすのが一番なのだが、今日はそういうわけにはいかなかった。
「おい雪人、見てみろよ。海だぜ海! 砂めっちゃサラサラしてるし、テンション上がるな!」
手で庇を作って言うのは半田だ。部活で鍛えられた身体の下にはトランクスタイプの水着を着用している。
というか、砂がサラサラしていても別にテンションは上がらない。
「センパイセンパイ。向こう岸までどっちが早く泳げるか競争しよ! 負けた方はかき氷奢りで!」
両手を胸の前で拳を作りながら言う楓乃の格好は、上は胸だけを隠すようにあるフリフリのついたタイプで、下はショートパンツのようなものだ。
そんな、健全な学生らしい反応をする二人の雰囲気が他人の振りをしたいほどに眩しく見えたのはきっと、逆光のせいだ。
「楓乃さんの次は俺と焼きそばを賭けて勝負しような!」
「いや、それ勝負にならんだろ……」
半田は今までの体育の授業を見ている限りでは、運動全般をそつなくこなしていた。対して俺は、飛び抜けてできないわけではないが、別に得意というわけでもないため、半田には絶対に負ける。
実際、体力測定の持久走では「一緒に走ろうぜ」「おう」というやり取りをしたにも関わらず、半田はスタートダッシュから俺を置いてきぼりにしてしまうくらい俺には分が悪いのだ。
俺があからさまに渋った顔をしていると、痺れを切らした楓乃が俺の腕を掴んだ。
「良いから早く来る。折角の海なんだから、パラソルの下でくつろいでるだけなんて勿体ないよ」
「そうだぜ雪人。海の中に入ってしまえば、こんな暑さなんてどこ吹く風よ!」
交互にそんな事を言う二人の言葉に俺は折れるように。
「……わかったよ」
渋々頷いて、立ち上がった。
まあ、楓乃を誘ったのは俺だし、それに海なんて来る機会そうそうないんだから、遊ばないと損だよな。
そう、自分に言い聞かせた。
「まさか、こうなるとはな」
「あはは、そうだね」
レンタルしたビーチパラソルの下で、俺と楓乃は苦笑いしながら呟いた。
その目線の先には、顔をタオルで隠した状態でぐったりと寝転がる半田と、その横で体育座りしてかき氷を口に放り込む楓乃が居た。
焼きそばを賭けた半田との水泳対決は、意外な結果で終わった。
一回目に勝負した楓乃との対決は俺が辛くも勝利したものの、何故か奢らされ、続いて二回戦目に行われた半田との水泳対決。
序盤は予想通り俺の前を泳いでいた半田だが、俺が岸に辿り着くと、何故かそこに半田の姿はなかった。おかしいなと思った俺は振り返ると、後方で足がつったらしき半田がノロノロと歩いているところだったのだ。
「う、うぅ……市民プールとかで何でわざわざ皆をプールから上げてまで準備体操をやらせるのか疑問だったけど、さっき痛感したわ……。体操大事」
「長年の疑問の答えが分かって良かったじゃないか。俺は焼きそばをタダで食えたし、お前のへばってる姿も見れてお腹一杯だ」
「くっ……雪人、少ししたら今度はお好み焼きを賭けて勝負だからな」
「はいはい、そういうことはまず起き上がれるようになってから言おうな」
半田の言葉を適当に流していると、不意に立ち上がった楓乃が「ちょっとゴミ捨ててくるね」と言って、俺からひょいっと焼きそばの空の容器を取り上げた。
「おう、頼むよ。俺はこいつのこと見とくから」
「うん」
短く返事をして、楓乃は小走りで去っていった。
その後ろ姿が人混みに紛れて見失った辺りで、半田が話し掛けてきた。
「雪人」
俺を呼ぶその声は、先程まで海ではしゃいでいた奴と同一人物だとは思えないくらい、どこか真剣味を帯びていた。
それに俺はいつもの調子で「何だ?」と返す。
「楓乃さんは、今居るのか?」
その質問だけで分かってしまった。
半田はきっと楓乃遥を覚えていない。たった今、楓乃が離れた時点で忘れてしまったのだろう。今彼にあるのは、俺が教えた楓乃遥という名の知識だけ。そこに思い出と呼べるものは存在しない。言ってしまえば、歴史の教科書に出てくる登場人物と同じだ。
俺は諦めるように息を吐いて。
「……居ないよ。今はゴミ捨てに行ってる」
「そっか」
半田は簡素に返して、それ以上喋ることはなかった。
俺も特に喋ることもなく、楓乃を待った。
周りにいる他の客の楽しそうな喧騒が、今の俺には虚しく感じた。
本来なら、彼ら彼女らのように心の底から楽しむ権利を俺達も持っているはずなのだ。今しか出来ない事をして、思い出を作って、大人になったとき、ふと思い出して口元がついほころんでしまうような、そんな思い出にしたい。
けれど、その思い出を楓乃は共有することが出来ない。笑いあった友人達に忘れられ、自分一人で抱え込む悲しく虚しい記憶となる。
そんなの辛すぎる。一番辛いのは忘れることじゃない。忘れられることなのだ。
楓乃に起きていることが一体どういうものなのかまだ分からない。けど、絶対に何とかする。俺だけが覚えていられるのはきっと、楓乃を助けるためだから。だからいつかこの現象を大人になったとき、笑い話にできるようにと、そう思う。
俺はふと思い出したようにスマホの画面を見ると、楓乃がゴミを捨てに行ってから二十分もの時間が経過していた。
流石にゴミを捨てに行くだけにしては遅すぎる。
「半田、ちょっと荷物見ててくれ。トイレ行ってくる」
「ん? ああ……」
今だにタオルを顔に被せたままの半田が、くぐもった声で返事をしたのを聞き届けると、俺はその場を離れた。
最初は海の家からその周辺、次にトイレへと順番に探し回ってみるものの楓乃を見つけられなかった。
もう一度海の家の前へと戻り、今度は全体を見渡してみる。
「ん?」
その視界の端。岩のアーチのところで目が止まった。その先は海水浴場ではないため、客が入っていくのは原則禁止になっている。事実、そのアーチには通行禁止の看板をかけられたロープが引っ張られている。
禁止の理由は表向きには監視員の目が届きにくいためとされているが、実は別の理由があると言われている。
その岩のアーチの向こうが、先日読んだ本に登場した死者と邂逅出来る砂浜であり、俺と楓乃が初めて出会った場所でもあるのだ。
気が付けば俺は、その岩のアーチの下まで来ていた。
そして何の躊躇もなくロープを乗り越えて、その先へと向かう。
岩のアーチを抜けると、一気に広いところへと出た。
右手には階段があり、左手にはどこまでも続きそうな水平線が広がっている。
そして、砂浜の中心には少女が一人、膝を抱えてうずくまっていた。
俺は忍び足をするでもなく、普通に近づいていき。
「探したぞ楓乃。ここで何してんだ?」
声を掛けた。
すると、楓乃はビクンと肩を震わせると、ゆっくりと顔を持ち上げた。
「センパイ……」
掠れた声で楓乃が言うと、俺はその隣に腰掛けた。
楓乃は特に嫌がることもなく、目の前の水平線へと視線を戻す。
それから少しの間沈黙して。
「……センパイ、この場所覚えてる?」
「そりゃあな。そうそう忘れられるもんじゃないだろ」
「そうだね」
最初はいきなり都市伝説を信じるか聞かれて、正直胡散臭い奴だと思っていたが、今思えば納得できなくもない。
友達にも親にも相談しても意味はなく、かと言って一人で抱えるには大きすぎる問題。心細くて、色々と磨り減った精神状態の時にタイミング良く都市伝説の噂で有名な場所で海を眺める少年が居たら、もしかしたらと思うのも当然かもしれない。なんなら、あの時の彼女からすれば、俺の方が胡散臭かっただろう。
「前に聞いたときは結局誤魔化された感じだったけど、センパイはなんであそこに居たの?」
「んー、本当に何かを思ってあの場にいた訳じゃないんだよな。落ち込んだりとか、考え事があったわけでもない……でも、強いて言えば、頭の中を一度空っぽにしたかったのかな」
「空っぽに?」
「そ。だから意味なんてないんだ」
人は考える生き物だ。考えたくなくても考えてしまう。
そんな時、ドラマのワンシーンである海を眺める主人公達を見た俺は、あの砂浜に足を運んだのだ。
だから何故? と言われても、納得させるだけの答えを俺は持ち合わせていないのだ。
だが、もしそこに意味を見出だすと言うならば。
「でも、もしかしたら俺は、楓乃の助けになるためにあそこに行ったのかもな。俺だけは楓乃のこと覚えてられるし」
そう言うと、楓乃は驚いたように目を丸くしてふっ、と表情を和らげた。
「センパイもそんな事言う時あるんだね」
言われて、途端に恥ずかしくなり、楓乃から目を逸らす。
「……忘れてくれ」
「やーだよ」
楓乃はイタズラっぽく笑うと、沈黙が降りるが、不思議と気まずくはなかった。
俺はふとどんな顔をしているのか気になって楓乃を見ると、穏やかな顔で海を眺めていた。
決して小さくない問題を抱えているとは思えない程に、その顔は穏やかだった。
「楓乃……」
気が付けば、楓乃の名前を呼んでいた。
「なに?」
特に喋ることを考えてなかったことに、俺は少しの間を開けて。
「夏休み……沢山遊ぼうな」
言ってから、自分は何を言っているのだろうかと思ったが、楓乃は少し驚いただけで、すぐに笑みを作った。
「うん!」
そう明るく返事をしながら立ち上がると、砂を払うようにパンパンとお尻を叩いてから腰に手を当てた。
「じゃあ、そろそろ戻ろっか。半田センパイも待ってるだろうし」
晴れやかな笑顔でこちらに手を伸ばす。
「そうだな」
伸ばされた手を取って立ち上がりながら思う。
絶対に、何とかする。
そんな頼りなくも、力強い言葉を胸に刻んだ。




