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Maltreated Alice  作者: 本田そこ
7/7

第7章 行方

翌日の昼、俺は再び水川先輩の病室へとやってきた。

扉を開くと、部屋の中では先輩がジャージに着替えている最中だった。


「すみません。勢い余ってノックを忘れてました」

さきほど俺の顔を目掛けて飛んできた椅子に座りながら、先輩に謝罪する。

「……まぁ、君でよかったよ。一度、見られちゃってるからね」

ベッドに腰掛けたジャージ姿の先輩が、そう答える。

先輩はそう言うが、血に塗れた裸体と下着姿とでは受ける印象が全然違う。

ただ、そんなことを口にするわけにもいくまい。ここは黙っているのが正解だ。

「鼻、大丈夫?」

「折れてはいないと思います」

顔面がヒリヒリと痛んでいるが、これは受け入れなければならない痛みだ。

「あの、先輩。もしかして、今日退院ですか」

ベッドは整えられていて、先輩はジャージ姿。

足元はスリッパではなく靴を履いていた。

「あぁ、そうだよ」

「荷物とかないんですね」

「持ってきたの、財布と携帯くらいだからね」

ベッドの周りは綺麗に片付けられていて、あとは部屋を出て終わり、そんな状況だった。

真っ白な部屋の中、先輩の赤いジャージが周囲の景色から浮いていた。

どこか捉えどころのない、茫洋とした雰囲気を纏っているように見える。

「これからどうするんですか?」

「これから?」

「退院した後、です」

先輩は少し考えこんでから口を開いた。

「とりあえず家探しかな。さすがに、あの部屋にはもう住めないから」

あれだけ血に汚れてしまった部屋を元に戻すことは不可能だろう。伝え聞いた話では、外山に憑いていた淀みが部屋に残されており、いずれ特調会の管理下に置かれるだろうとのことだった。

「アテはあるんですか?」

「はは、そんなのはないよ。保証人のいらない物件を探すのはなかなか難しいからね」

「そう、ですか……」

それならば、やはり昨日決めた通り、先輩に提案することにしよう。

「あの、先輩」

「なんだい?改まって」

色々と話さなければならないことは多いのだが、とにもかくにもまずは本題から入るのが無難に違いない。

「あの、もしよかったら、うちに来ませんか?」

その途端、先輩の表情が固まった。

十二秒。

その間、瞬きすらなしである。

「……は?」

返ってきた言葉はその一文字だった。

「部屋、用意できるので、先輩さえよければどうかな、と」

「……それは、今後はそこで生活していきましょうという、そういう提案か?一時の宿、というわけではなく?」

「はい。そのつもりで話してます」

俺の返事を聞いた先輩は、しばらく俺の顔を凝視した後、ゆらりと俯いた。

その瞬間、ぞわ、と周囲の温度が下がった気がした。

視界に違和感は無い。だから、多分淀みによるものではないのだろう。しかしそれは平穏と等しいわけではない。

「……君は、あれか、人の弱みに付け込んで籠絡しようなどと、手篭めにしようなどと、そんなことを考えるような人間だったのか」

足元から這い上がってくるような低い声で、言葉がどぽどぽとこぼれ出す。

「家もなく、金もなく、頼れる親類も、友人もいない」

少しだけ、先輩の顔が上を向く。

黒髪の隙間から、じっとりとした視線が俺に向けられている。

「そうさ、確かに、私はこのままだと路傍を彷徨う宿無しになるに違いない。職歴無しの虚弱体質だ。かつて手に入れた技術はもはや失われ、残っているのは哀れなひとりぼっちの女だ。きっと、日雇いの仕事すら見つけられないだろう。日銭を稼ぐことすらままならない、そんな人間なんだよ、私は」

がば、と今度こそ顔が上げられた。乱れた髪の毛が顔にかかっているが、それを気にする余裕もなさそうだった。

「だけど、だけどだね。いくら困窮しているといっても、私にだってそれなりの矜持というものがあるんだ。確かに、確かに貴重な偶然だった。昔の知り合いが現れて、助けてもらって、色々と話も聞いてもらった。誰にも話したことがないし、話すこともないと思っていた過去だ。重い話だったろうに、受け止めてくれて、まぁ、もしかしたら聞き流しただけなのかもしれないが、私の心がすっきりしたのは事実だ、本当に感謝している。その結果として、私としても、君に対する信用というか、信頼というか、そういうものが蘇ってきたことは否定しない。私はそこまで不躾な人間ではない。この際だ、君に対する多少の依存心のようなものが芽生えかけたことも認めよう。でも、それとこれとは話が違う。違うだろう。いくらなんでも、再会したばかりの後輩の、しかも男の子の家に転がり込むなんて、私にはできない、できるわけがない。ど、同棲だぞ?いきなりするか?そんなこと。物事には、その、順番というものがある。私は君とそこに至るステップを踏んだ覚えはない。いや、もしかしたらいまどきは異性同士がルームシェアするなんて当たり前なのかもしれないが、私には、そんな価値観など備わっていない。私の常識ではそれに対応できない。君の提案は、その、ある意味、的確だ。縋れるものがない私にとっては逃せない機会だよ。今この状況でそう言われたらそれを選ぶしかない。そのくらい絶好のタイミングだ。だからこそ、なんだ。断れないタイミングで君がそんな提案をしてきたということが、とても嬉しいが、逆に辛い。君にそういうつもりがあるのかは知らないが、まさに、弱みに付け込むというやつじゃないか。私の知っている君は、過度に他人の心に踏み込まず、こちらを尊重して適度な距離感を保ってくれる気の利いた友人、そんな人間だった。まぁ、人間は変化するものだ。それは仕方のないことだ。私だって、今はこんなだからね。だけど、それにしたってだよ、君が、いきなり一緒に暮らしましょうなどと宣う人間になっているなんて、誰が思う?そんなことを言われた私は、どうすればいいんだ?生活能力のない、何の取り柄もない私を囲って、君はいったい何をするつもりなんだ?」

滝のように言葉を浴びせられながら、俺はただただ黙っていた。

先輩の呼吸が乱れている。休みなしにこれだけ言葉を発すれば疲れもする。

だが、さすがにそろそろ俺も口を開くべきだ。

「なぁ、凪島くん」

先輩が、顔を伏せながらポツリと言葉を漏らした。

さきほどと表情の種類が変わっている。

「あれか、もしかして君は、その、以前から私のことを」

「水川先輩」

「え、あ、はい」

突然呼ばれて驚いたのか、先輩は顔を起こして姿勢を正す。

「俺の家じゃなくて、うちの事務所の話です」

「……」

「逆村探偵事務所。昨日話しましたよね」

「……」

「うちの事務所、元々一軒家だった建物の一階を改造したものなんで、二階が住居スペースになってるんですけど、今はそこ、誰も使ってないんですよ。だったら、うちの事務所で住み込みで働いてもらうのはどうかなって、そういう提案です」

「……」

「昨日、所長には話をして了承は得ています。元々うちの事務所は事務方の人手が足りてなかったし、住居スペースのメンテナンスも手間だったので、そうなれば一石二鳥だね、とのことでした」

「……」

「それに、昨日話した本部からの監視の件も、うちの事務所で働くとなればその管理下に置かれることになるんで、施設にぶち込まれるみたいなことにもならずに済むと思います。ある意味、特調会としても都合がいいってことです」

「……」

「先輩さえよければ、いつでも来れます。部屋の掃除は必要ですけど、手伝いますよ」

「……」

目を見開いた先輩の頬が、徐々に赤みがかっていく。

コミュニケーションとは難しいものだな、と思った。



先輩がベッドに潜り込んでから十分が経った。

病室は静かで、廊下からは時折、医師や看護師の行き交う音が聞こえてくる。

「先輩、さっきの話、どうですか?」

白く膨らんだ掛け布団に話しかける。

もぞりと塊がうごめいた。

「……フォローとか、そういうのはしないんだな」

布越しのこもった声。

「触れてほしいんですか?」

「いや、いい。私が悪かった」

ようやく先輩が顔を出し、先ほどのようにベッドに腰掛ける。

髪の毛がやたらと乱れているが、直す気はなさそうだ。気にしてないのかもしれない。

「さっきも言ったけど、私としては断りようがないさ。今後のことを考えると、その提案はとてもありがたい」

「それじゃぁ……」

「というか、話を聞く限りお膳立てはほとんど済んでいるんだろう?その、特調会の都合ってのもあるなら、私の意見を聞くまでもなくほぼ決定事項だったんじゃないのか?」

「一応、この話に乗ってもらえなかった場合は特調会の管理してる寮に入ってもらうことになったと思います。罹患者登録しなければ従う義務はないですけど、それはそれで逆に面倒なことになりますし……」

「君は、そうならないよう色々と調整してくれたってことか」

「まぁ、色んな人に話をしたってだけですけど」

逆村さんに了解を取る以外にも、赤岡さんに安全性が確保されることの保証をもらったり、そういったことを本部の人にそれとなく伝えたり、やるべきことはそれなりにあった。多分、これ以降にもまだまだやらねばならないことや解決すべき懸念などはたくさんあるだろう。

「なぁ、凪島くん、さっき言いかけたことじゃないんだが」

「どれのことです?」

「そこを聞くな、流せ。とにかく、君は何で私の世話を焼こうとするんだ?それも仕事の一環?」

先輩の表情がどこか訝しげなものになる。

「そうですね。半分は、特調会神野支部としての仕事です。淀みに纏わるトラブルを可能な限り解決、それが無理ならなるべく管理下に置く。特調会自体がそういうスタンスですから、先輩がうちの事務所に住んでもらうことで、えぇ、ちょっと厄介な淀みを管理下に置けるということになります。赤岡さん、えっと、うちにいるカウンセラーの方です、彼女のおかげで先輩に憑いた淀みを寛解させるためという名目も立つので、本部にもあからさまには文句をつけられずに済むと思います」

「そうか……。正直に答えてくれてありがとう。妙な謀略とかはないみたいだな」

「騙し討ちしても意味ないですし」

「淀みって、そういうものなの?」

「他人の淀みを制御するのはかなり難しいですからね。嘘ついたのがバレて本人がどうかしちゃったら何が起こるかわからないんですよ。単純にリスク管理の問題で、説明するときは包み隠さずに話した方がより安全ってだけです」

「なるほどね」

「いざとなれば兵器やら薬品やらの出番みたいですが、先輩に憑いた淀みくらいならそこまでする必要もないみたいです」

「……人が、死んでるのに?」

「もっといっぱい死んだり、死ぬよりもひどいことになったり、前例が色々あるみたいですね」

そのうえ、俺は先輩の淀みの性質を、矛盾が起きない程度に矮小化して報告していた。だが、このことはまだ先輩本人に伝えない方がいいだろう。多分、いや、確実に怒られる。

「聞いていいかい?もう半分は、何?」

「私情ですよ」

しばらく、沈黙が続いた。

「私はその内訳を聞いているんだけど」

「……なんでもかんでも言葉にできるとは限らないんですよ」

「昨日も言った通り、君が責任を感じる必要はないんだ。それなのに」

「そんなんじゃないですよ」

遥先輩に任されたからだ、とは言わない。遥先輩は言って欲しくなさそうだったし、水川先輩も戸惑うだろう。

「放っておけないなって思ったんですよ。昔は生徒会長としてあんなにきびきびと振舞っていた先輩がこんな風になってて、なんというか、庇護欲をくすぐられたんです」

「……すごい失礼なことを言われている気がするんだが」

「それに、昨日言ってましたよね、私には生きる目的がない、死にたくないから生きてるだけだ、って」

「あぁ、そう言った。言っておくが、本心からの言葉だよ」

白い病室。

窓が少し開いていて、カーテンがゆらりとはためいている。

荷物は何もない、ベッドだけの空っぽの部屋。

懐かしい。気分が落ち着く。

そう思った。

「俺も、そうだから」

ただただ周りに流されて、ずっと生きてきた。

学生時代の色々な活動も、自発的に始めたことなどない。

誰かと交流するにしても、自分から働きかけたことなどない。

将来はどんな風になりたいとか、こんな暮らしがしてみたいとか、そういう展望なんて何もなかったのだ。

「案外、そういう人って多いんじゃないかと思うんですよ」

先輩は、耳を傾けてくれている。

「ただ、普通、まぁ普通ってなんだよって話なんですけど、そういう人たちの大半は、色んな人と関わって、色んな人の考えに触れて、事あるごとに短期的な目的をどんどんと積み重ねていって、気付けば人生を過ごし終えている、そんな感じなんじゃないかなって、最近、思ったんです」

俺は多分、環境に恵まれていたのだろう。

友人や先輩、時には後輩に流されて、色々な経験を積んできた。

どうしようもないこともあったけれど、それらも見方によっては俺の生き方を形づくったものだと言える。

「先輩はずっと、親に一つの生き方を強制されてきました。だから、違うあり方を、考え方を、取り入れる機会をもらえないままだったんです」

「……そうかもしれないな」

「今となってはどうしようもない話ですけど、もしもあの時、先輩の家が燃え尽きて親の束縛から解放されたあの時、大学に残るという選択をしていたら、違う生き方ができていたかもしれません。周りに流されるうちに自分のやりたいことが見つけられたかもしれないし、そうでなくとも、その日その日をやり過ごして行くには十分な目標が降って湧くような環境に辿り着けたかもしれません」

「あの日は、大学に残ってくれと色んな人に言われたよ。貴重な才能だとか、そんな褒め言葉をいくつももらった。ただ、全く心に響かなかったんだ。求められていることも、別にやりたいことじゃなかった。ただ、できるからやっていただけ」

「俺も、思い返せばずっとそんな感じでした。今の仕事だって、逆村さんから誘ってもらって、その時たまたまお金に困っていたから始めたことです。流されっぱなしなんですよ、今でも」

「私はそこで友人関係も全て絶ってしまったからね。幸か不幸か、親の遺産のおかげで当面は働く必要もなかった。家を探すのは少し大変だったけど、そこさえクリアしてしまえば一人で殻に篭って過ごすことができる環境が揃っていたんだ」

溢した言葉はもつれあい、真っ白な床に溶けていく。

過去の回想は、いつだってそんなものだ。

俯いていた視線を窓の外に向ける。

今日は快晴だ。

吸い込まれそうなほどに深い、一面の青が広がっていた。

「だから、いい機会かもしれないなって思ったんです」

「いい機会?」

「事務所の人たちや遥先輩、周りにいる人たちはみんな自分なりの生き方を持っていて、それを見て羨ましいなって感じることが多々ありました。だけど、そんな環境で一人で頑張るのは少ししんどいかもなってことも同時に感じてたんです」

先輩の顔を見る。

乱れた髪、くたびれたジャージ、少しやつれた顔。

過去の記憶と比べればだいぶギャップがある。

作り物だったかもしれない、先輩の過去。

だけど、今の先輩の中にも、懐かしく思えるものがある。

身のこなしや言葉の選び方。

時折見せる、細かな仕草。

どんな経緯であれ、その時の彼女は紛れもなく彼女自身であり、今の先輩に繋がっているのだと、そう感じられるのだ。

「自分なりの生き方を見つける、って言うと大げさかもしれません。少しセンチメンタルになりすぎてないかって自分でも思います。ただ、少しくらいはそういうことを、同じ目的を持てる誰かと一緒にやれたら、それだけで楽しいんじゃないかって思ったんです」

少し強めの風が吹き、先輩の髪をわずかに揺らした。

「先輩とそうできたらいいなって思ったんですよ。だから、昨日、ここから帰ってから色々と動きました。先輩の家、仕事、淀み、全部どうにかしながら一緒に生きていける方法がないかって、試行錯誤したんです」

先輩はただ黙ったまま、俺の言葉を飲み込んでいた。

髪を鋤く仕草は、どこかぎこちない。

「それが、その提案か」

「……少し、押し付けがましいこと言っちゃいましたね」

「いや……そんなことはない」

先輩は落ち着かなさそうに両手を開いたり閉じたりしている。

「そこまで言われてしまってはね。私としても嬉しいよ。君の提案を断るつもりはもうなかったけど、改めて、私からもお願いさせてもらうよ」

先輩は一度深呼吸を挟んでから言葉を続けた。

「ぜひ、働かせてくれ。君が近くにいれば、少しはまともに生きていけそうだ」

先輩が笑う顔は、この数日で何度も見た。

だけど、虚飾のない、誤魔化しでもない、心の底からの本当の笑顔を見たのは、もしかしたら高校時代からの付き合いの中でも、今この瞬間が初めてのことかもしれない。



引っ越し作業は驚くほどに簡単だった。

何しろ先輩の私物は、本や衣服を含めてもダンボール一つ分にも満たなかったからだ。

血塗れのテーブルや布団は捨てるしかない。

シンクにあった数少ない食器も、血塗れの現場に放置されていた以上使いづらいので処分した。

冷蔵庫も既にあると聞いていたので、これも持っていかない。

押入れの中にあったために被害を免れた三着のジャージと数冊の本、そしてかなり頑張って綺麗にしたノートパソコンだけが、先輩の財産だった。

わざわざ車を出してもらう必要もなかったので、先輩の部屋から事務所までダンボールを自分たちで運び、それで引っ越しは終わりである。

事務所の二階に入ったのはその時が初めてだったのだが、思っていたよりしっかりとした家だった。

一階の事務所内から繋がる階段の他、外から直接二階に上れる階段もある。

事務所内からの入り口はこれまで開放されたままだったらしいが、施錠も可能なタイプだったので心配はいらない。

風呂、トイレ、洗面所、キッチン、リビング、寝室。

それぞれがきっちり分かれていて、そこらのワンルームマンションよりもずっとよい条件の物件だ。

寝室には簡素なベッドが置かれていた。話によると、林田さんが時々使っていたそうだ。

多少手の届いていないところはあったが、掃除もそれなりにされているらしい。

「……話を聞いたときは、屋根裏部屋みたいな場所だと思ってたんだけど」

「俺も、ここまでしっかりした部屋だとは……」

ダンボールはとりあえず寝室に運び入れ、キッチンや風呂場のチェックと細かい場所の掃除を一通り終え、俺と先輩はリビングで一休みしていた。

小さなテーブルと座布団があったので、それを使わせてもらっている。

一階の広さを考えれば当然のことなのだが、俺の部屋より断然広い。

逆村さんからこの仕事に誘われた時、住み込みでどうかという話題はちらりと出たのだが、俺はそれなりの自由が欲しいからと断った。

しかし、これほどまでの条件だと知っていたら答えは違っていただろう。

もちろん、そうしたからこそ先輩が住み込みで働くことが出来たわけだが、正直、これなら二人で暮らすこともできなくはない。

「ここ、以前も誰か住んでいたんだよね?」

「……聞いたことはないですけど、多分、そうなんでしょうね」

このテーブルや座布団、そして寝室のベッド。

綺麗に使われてはいるが、そこそこ古いのも確かだ。それなりに使われた形跡もある。

「ここまでの環境だと、無賃で働かされても文句は言えないな……」

「さすがにそんなことはないと思いますよ。まぁ、そこら辺のことは明日、逆村さんと話をしましょう」

今日は用があるとのことで、逆村さんは不在だった。

今は林田さんが事務所にいて、赤岡さんは外出中。帰宅前に一度事務所に寄るとのことだったので、その二人になら挨拶できるだろう。

「実感が湧くまでは少し時間がかかりそうだな」

「俺が言うのも難ですけど、展開が急でしたからね」

「当分はバタバタとした日が続いて、余計なことを考えずに済むかもしれない」

「それがずっと続くのも、それはそれでいいかもしれませんね」

先輩があははと笑う。

その仕草に感じる新鮮さは、先輩がゆっくりと前を向いて歩きだした証なのかもしれない。それを感じ取れることが、少し嬉しかった。

「凪島くん、仕事は大丈夫?」

時間を確認する。

病室で話をしてからあっという間だったが、それなりに時間は経っていた。

「あぁ、いい時間ですね。少しやること残ってるんで、そろそろ事務所に戻ります」

俺は立ち上がり、身の回りを確認する。

下に移動するだけなので特に焦る必要はないのだが。

「そうか。それじゃぁまた今度、色々と話をさせてくれ」

「えぇ。仕事のこととかもありますし、家具を揃えたりとかそういう用なら手伝いますし、いつでも呼んでください」

「あぁ、君にいくつか質問したいこともあるしね」

「別に、今訊いてもらっても構いませんよ?」

「いや、いいよ。もしかしたら腰を据えてじっくり話さないといけないことかもしれないしね」

「どんな話するつもりなんですか」

笑って言葉を返すと、先輩も微笑みながら口を開く。

「その時は違和感を覚えただけだったんだよ。ただ、さっき作業が落ち着いた時にふと記憶を振り返ってみて、その正体に気づいたんだ」

「何か気になることでもあったんですか?」

「凪島くん、君、高校の時に裏でこっそりと渾名をつけられてたこと、知ってたかい?」

「え、いえ、知りませんでした」

突然の昔話に虚を突かれる。

何の話をするつもりなのだろう。

「まぁ、そりゃそうだろうね。私も忘れていたんだけど、さっきの病室での、君の告白にも等しいセリフを反芻してたら、思い出してしまったんだ」

不穏な形容詞が混入していた気がするが、今は渾名の方が気になる。

「俺、なんて呼ばれてたんです?」

本人が知らなかったということは、あまり良い渾名がつけられていたわけではなさそうだ。しかし知るのは怖いが過去のこと。好奇心の方が勝っている。

「高校の時は苗字で呼んでいた。あの日、あの店と私の家でもそうだった。だけど今日はそうじゃなかったんだよ」

先輩は一人で納得するように首を振っている。

なんだか嫌な予感がする。

「君は、私の大学時代の話を聞いたと言っていたけど、振る舞いの変化から察するに、それは最近、私と再会した後のことだろう。コンビニで会ったときは、私がニートだと聞いて心の底から驚いていたように見えたからね」

先輩の口調は淡々としているが、それがなぜか、とても怖い。

「天然ジゴロ」

「は?」

「それが、君が高校にいた頃、裏で呼ばれていた渾名だよ」

優しいトーンでそう口にした先輩の顔には、うっすらと笑みが浮かんでいる。

ただし、その目元を除いて。

「今日はもう時間がないから仕方ない。今度、じっくり聞かせてくれ」

先輩が真顔になった。

「君と遥がどんな関係なのか、ね」


どうやら俺は、穏やかな生活にはまだまだ縁遠いらしい。

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