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Maltreated Alice  作者: 本田そこ
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第5章 傷跡

外山ゆかり。


彼女のストーカー行為は大学卒業が近づくほどにエスカレートしていった。

どこに行ってもその影を振り払えず、嫌気がさした俺は、元々卒業後に予定していた全国行脚を彼女を撒く手段としても利用することにした。

彼女は、周囲の人間の暴力性を喚起するという厄介な淀みに憑かれている。

淀みの影響は彼女自身にも及んでおり、その危険度の高さから、特調会は彼女を確保しようと動き出していた。俺はある意味、彼女を釣る餌にもなっていたのだ。

しかし、彼女は俺を追いかけつつ自分の追っ手は巧みに撒き続けるという異常な技術を持ち合わせており、何ヶ月かけても特調会が彼女を捕まえることは出来なかった。

そんな生活が一年近く続くとさすがに俺も疲弊するし資金も底をつく。

限界がきた俺は、神野町という町の特異性を利用して、彼女を出し抜くことにしたのだ。

一度しか使えない方法だったから、最後の手段として取っておいた策である。

とにかく一旦自分の身の安全だけは確保して、あとは特調会に任せようと思っていたのだ。

だが、それは叶わず、自分の居場所もまたすぐに嗅ぎつけられてしまったらしい。


水川先輩の家に向けて全力で走っている間、ここ最近の出来事が次々と思い出されてくる。

今思えば予兆はいくつもあったのだ。

おそらく、外山に発見されたのは、梶田さんの奥さんを尾行するために神野町を出てショッピングモールへ向かったあの日だ。

まさかこれほど近い場所にまで迫ってきているとは思わず、油断していた。もしかしたら、彼女にとっても俺との遭遇は偶然の出来事だったのかもしれない。

その時に神野町の存在に気付かれてしまったのだろう。

一昨日、夜道で林田さんを襲ったのも多分彼女だ。尾行している俺と林田さんを見て何かを勘違いしたに違いない。いや、勘違いでなくとももはや彼女には関係ないのかもしれない。

ここ最近神野町近辺で起きている暴力事件のいくつかは、彼女に取り憑いた淀みに影響を受けたものの可能性がある。

彼女が水川先輩の家を突き止めて侵入したのが昨日から今日にかけてという事実を踏まえれば、梶田さんがあの凶行に及んだ原因すら、彼女のせいだと考えても不自然ではない。

暴力性の喚起。

外山ゆかりに取り憑いた淀みの性質は、特調会本部が頭を抱えるほどに厄介な代物なのだから。


事務所から先輩の家まで、全力で走れば十分もかからなかった。

アパートの周囲の空気が異様に静かに感じられる。環境音が耳に入ってこない。

先輩の部屋の前まで静かににじり寄っていく。

物音はしない。

何か変化が起きるまで待つべきだろうか、そんな考えが一瞬頭を過ったが、先輩の状況を思い出して即座に捨てる。

猶予はない。もう、手遅れかもしれない。

そう覚悟を決めてドアノブを掴んだ瞬間、これまで感じていたものとは別種の悪寒、決して触れてはいけない領域に手を突っ込んでしまったような、そんな感覚に襲われた。

だが、迷ってはいられなかった。

纏わりつく躊躇を振り払い、ノブを捻る。

鍵はかかっておらず、ドアはすんなりと開かれた。

途端に鉄臭い匂いが鼻腔をつく。

俺は、この匂いの正体を知っている。

しかし、いちいち思い出すまでもない。

ドアを開き現れた四畳半の小さな部屋、その全てが真っ赤に染め上げられていたからだ。

鮮血。

それはまだ乾いておらず、壁に飛び散った血の粒がゆっくりと流れ落ち筋を描いている。

そして、部屋の奥、押入れの手前に、彼女はいた。

メールで送られてきた写真と同じ格好で、先輩が転がされていた。

写真との違いは、全身が血に染まっていること。

躊躇なく部屋に足を踏み入れる。

血溜まりを避けることなどできないくらいに畳の上は血塗れだった。

先輩の傍らに膝をつく。

血に塗れた、先輩の裸身。

おもわぬ形で目の当たりにしてしまったその光景の中に、俺は更に、決して見てはならぬもの、絶対に見られてはならなかったはずのものを見つけてしまった。

それが、その跡が意味するものが何なのか。

止める術なく思考が走り出そうとしたその瞬間だった。

「……ぁ」

倒れた先輩の口元、猿轡の奥から微かな息が漏れ出る。

慌てて猿轡を外し、両腕と両足を縛っていたビニールテープも解いていく。相当強引に縛り付けられていたのだろう。鬱血がひどい。

「先輩!聞こえてますか!」

力なく倒れたままの先輩に呼びかけるが返事はない。

かろうじて呼吸はしている。

朦朧としているが、意識もあるようだ。

うっすらと開かれた瞼の奥で、瞳がゆらゆらと揺れている。

ただ、俺の問いかけに答えるだけの体力すら残っていない、そんな様子に見える。

あいつに何か薬を盛られたのかもしれない。

そうした思考に至り、ようやく俺は警察と救急車を呼ぶという考えに辿り着いた。

しかし、この状況で警察を呼ぶことはリスクが大きい。

けれど、そうせざるを得ない。

もはや俺だけの手に負える状況ではなくなっている。


ぽつ、と腕に血が垂れ落ちてきた。

見上げると、天井にまで血が飛び散っているのがわかる。


話には聞いたことがある。

首を通る血管を切り裂けば、とてつもない勢いで血が吹き出てくるという。

マンガや小説でも度々お目にかかる描写だ。

だから、そのこと自体に不思議はなかった。


ドアを開けた時から視界には入っていた。

ただ、先輩のことで頭がいっぱいで他の出来事が意識に上ってこなかっただけなのだ。


部屋の真ん中に、女が一人、仰向けになって倒れていた。

傍らには大きな包丁が転がっている。


苦痛に染まる顔。

大きく見開かれた両の眼。

見たことのない表情ではあったが、それを見間違うことはない。


外山ゆかり。


首を大きく切り裂かれた彼女の死体が転がっていた。

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