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Maltreated Alice  作者: 本田そこ
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第4章 示唆

梶田さん、奥さん、その浮気相手、三人全員の死亡が確認されたことを、事務所で逆村さんから教えてもらった。捜査を担当することになった刑事が知り合いで、その人に聞いたそうだ。

じきにその刑事たちがここに来て、俺たちに話を聞くことになるだろうと逆村さんは言う。

状況からして、奥さんの浮気を知った梶田さんによる無理心中だと判断するのは容易い。その浮気について調査していたこの事務所に警察がやってくるのはごくごく自然な流れである。

浮気調査をしていた事実はある程度捜査を進めない限りわからないことだが、どうやら先んじて逆村さんが話をしたらしい。

「隠せるものじゃないし、隠していいものでもない。責任を問われるようなことになったりはしないだろうけど、これまでの調査の経緯はしっかりと伝えておいたほうがいいだろうね」

「なんか気が進みませんね……」

「関係者がみんないなくなっちゃっても守秘義務はあるしね。ただ、警察は僕達が梶田さんに渡した報告書を見つけて中を見るだろうから、あまり意味はないと思うけど」

逆村さんが苦い顔でそう口にした。

「しかしまぁ、凪島くんも災難だったね、ついでのように襲われかけるとは」

「えぇ」

「梶田さんは君の顔を見て豹変したんだってね。何か、心当たりはあるかい?」

「いえ……全く。ただ、「お前みたいなやつが」と口にしていたので、もしかしたら逆村探偵事務所の凪島考ではない、別の要素が梶田さんを刺激したのかもしれません」

「ふむ。現場の様子が再現できればいいんだけど、周りの人たちは逃げ惑うのに必死でほとんど覚えてないだろうね」

「でしょうね、かなりのパニックでしたから」

「まぁ、君にだけでも話を聞けたのは幸いかな。梶田さんが何故あんな凶行に及んだのか、うちとしても知っておきたいからね。淀みが関係しているかもしれないし」

「……そうですね」

少しだけ後ろめたい気持ちがあることは否定しない。

黙っていることがよい結果をもたらすとは思っていないが、今はまだその時ではないという、そんな予感がしていたのだ。

あの場に水川先輩もいたことを、俺は皆に黙っていた。


その結果、取り返しのつかない事態になってしまう事も知らずに。



梶田さんが倒れ伏した後も混乱は止まない。

血溜まりはじりじりとタイルの目に沿って流れていく。

へたり込んだ水川先輩に肩を貸し、パニックになった人々を追うように俺たちも駅前広場の方へと向かっていく。

先輩の足はかなりたどたどしい。油断していると転びそうになる。

「先輩、歩くのしんどいですか」

ひゅぅ、と先輩の喉から空気が押し出される。

「……頭痛いな……」

声は掠れているし、視線もフラついたまま。額には汗が滲んでおり、見るからに辛そうだ。

駅前広場のタクシー乗り場にはタクシーが一台乗り付けていた。運転手が窓から身を乗り出して通りの方を窺っている。何の騒ぎか気になったのだろう。

「病院、行きますか?」

俺がそう言った瞬間だった。ぐい、と思いっきり服が引っ張られる。先輩の右手が俺の服の裾を掴んでいた。手の甲に血管が浮かぶほどの力強さで。

項垂れていた顔がこちらに向けられる。

焦燥と怒りが混ざり合った表情の中、ぐらつく両目が俺を睨みつけている。

こんな表情を、俺は見たことがなかった。

先輩の内に潜む昏い感情がその片鱗を覗かせた、のだろうか。

「……イ、ヤ」

絞り出された途切れ途切れの言葉だったが、抵抗の意思を示すには十分だ。

「すみません。じゃぁ、家まで送ります」

「……大丈夫、平気……」

どう見ても平気ではない。

帰りたくないというわけではないみたいだし、このまま放っておくわけにもいかない。この調子じゃこの場から動くことすらままならないだろう。

運転手に声をかけ、先輩を後部座席に押し込む。抵抗はなかった。さすがに自分の状況がどれだけ酷いかはわかっているようだ。

先輩を座席に寝かせたことで狭くなったスペースに、自分の身体をねじ込ませる。助手席だと離れすぎていて少し不安だったのだ。

ボソボソ声の先輩から教えてもらった住所を伝えると、運転手は心配そうな顔でこちらを振り返りつつ、タクシーを発進させた。

運転手の表情はこちらを気にかけているにしては妙に緊張しているように見える。

ふと先輩の様子を確認すると、その頬に血が付いていた。梶田さんが振り上げたナイフから飛び散ったのだろう。

「失礼します」

ポケットティッシュでそれを拭き取る。完全に拭い去ることはできなかったが、目立つことはなくなった。あとは運転手が何も追求してこないことを祈ろう。


「その子、大丈夫なのかい?」

タクシーから降りるとき、運転手が声をかけてきた。声色と表情をから察するに、純粋に心配してくれているらしい。

「えぇ、なんとか。貧血を起こしちゃったみたいで」

先輩の身を起こしながら代わりに答える。

「そうか、お大事に」

「ありがとうございます」

走り去っていくタクシーを見送り、先輩の家へと向かっていく。

タクシーで横になって多少は回復したみたいだが、いまだに肩を貸していないと立つのも難しいらしい。虚脱状態、と言うのだろうか。全身に力が入らなくなっているようだ。

こうなってしまった原因は、十中八九、あの時現れた淀みだ。

取り憑いた淀みが現実に何らかの干渉を行う時、憑かれている人間の体力は大きく消耗する。

コンビニの前で俺の目の前に現れた淀みは、結局形を為すだけで俺に何も干渉しなかった。もちろん、何かされたことに自分では気づいていないだけという可能性もあったのだが、今日の、さっきの顛末を見れば俺には何も干渉がなかったと断言しても良いだろう。

先輩に憑いている淀みが襲いかかってきた梶田さんの全身を包み、その後、彼は突如その刃先を自身に向けた。あれほどの勢いで迫ってきた男が急に立ち止まり、自分の喉にナイフを突き立てたのだ。

その現象と淀みを切り離して考えることは難しい。

古ぼけたアパート。

多分、俺の家よりも昔からある建物なのだろう。整備などがおざなりなのか、ところどころに塗装の剥げや錆が目立っている。

コンビニで遭遇した時に思った通り、俺の家とそう離れた場所ではなかった。

部屋の場所を尋ね、ドアの前までやってくる。

中まで入ることはなるべく避けたかったのだが、この様子だと玄関先で倒れ込んでしまいかねない。

「鍵、出せます?」

「……左ポケット」

先輩の部屋は、驚くほどにシンプルだった。

四畳半の部屋に小さなキッチンが備えつけられている、ただそれだけの部屋。

隅にある小さなテーブルに、大きめのノートパソコンが開かれたまま置かれていた。

畳まれた布団、小さな冷蔵庫。

目に見える範囲にはそれしかない。

ずる、と先輩の身体が地面に引っ張られていった。

「……先輩?」

「ちょっと、疲れた……」

その有様はちょっとではないだろう。部屋まで辿り着いたことで気が抜けたのかもしれない。

どこか申し訳ない気持ちがありつつも、部屋に上がって布団を敷く。

正直に言うと、あまりの簡素さに女性の部屋に上がるという意識がほとんど湧かなかったので、心理的抵抗は少なかった。

玄関に伏した先輩の靴を脱がし、布団まで運んでいく。

改めて思ったが、先輩の身体はこの年頃の女性にしては随分と軽い。華奢な肩周りは力を込めるとたやすく砕けてしまいそうに思える。

「……変なこと、考えてない?」

「あ、いえ、そんなことないです」

妙な背徳感に目を瞑りながら、先輩を布団に寝かせる。

「ごめんね、面倒かけて……」

「いえ」

先輩は疲れて寝ているのだから無言になるのも当然の話なのだが、その間が気まずい。

「先輩、こんな風になること多いんですか?」

「……いや、ほとんどない、かな」

「高校の時、体育もほとんど見学だったって聞いてたんで、もしかしてこれが原因なのかなって思ったんですけど」

「……まぁそんなところ」

そう答える先輩の表情はいつになく暗い。声色からわずかに感じ取れるのは、怒りだ。

「変なこと聞いてすみません」

「あぁごめん、君に怒ったわけじゃないんだ」

ふぅ、と先輩は大きく息を吐く。少しは良くなったみたいだが、やはり会話をするのは疲れるらしい。

「先輩、タオル、使いますね」

冷蔵庫の上に銭湯用具一式が置いてあった。濡れタオルをこしらえ、先輩の額に載せる。その間、先輩は黙ったままじっと天井を見つめていた。

昔の水川先輩はこんな風にプライベートな領域に他人の干渉を許すようなタイプではなかったので、今こうして先輩が俺のなすがままになっている状況は非常にむず痒い。

先輩が寝ている布団の横で、ぽつんと座っている。四畳半という狭い空間ゆえ、距離が近い。

「……凪島くん」

「はい」

「面倒をかけたね」

「いえ、そんな」

「……何年か前にも同じくらい体調を崩したことがあったんだけど、その時は色々ありすぎて病院に運び込まれてね」

「え、それじゃぁ今回もやっぱり病院行った方が良かったんじゃ」

「結局ね、極度の疲労ってことで少し点滴を受けただけだったから。心配はいらないよ」

「いや、そんな風に寝込んじゃってるんですから、そりゃ心配しますよ」

「……それもそうか」

先輩は冗談めかして軽く笑う。なんだろうか、普段よりも先輩の口が軽くなっている気がする。普段といっても、俺が知っているのは高校時代の先輩の姿のみなのだけど。

「こう言うと失礼かもしれませんが、この部屋、ほとんど物がないんですね」

「そうかな?」

「机にパソコン、それと布団だけっていうのはかなり少ない方だと思いますよ」

「あぁ……まぁ、ジャージとか本は押入れに入れてあるからね。量は少ないけど」

その言い回しに引っかかるものがあった。

「……あの、もしかして、服、ジャージしか持ってないんですか……?」

「そうだよ。楽だからね」

高校時代の記憶を振り返る。そういえば、生徒会絡みの用事で休日に会うことがあっても常に制服だったような気がするが、もしやその頃からずっとそうだったのだろうか。

「それじゃぁ、ジャージ以外の服を着たことは……」

「あはは。さすがにそこまでじゃないよ。大学に入るときにしっかり買い揃えたさ」

つまり、高校時代は私服を持っていなかったということである。

「まぁ、それも燃えちゃったからね。それ以来ずっと安物のジャージを着潰してるよ」

燃えた。

それが意味するのは、遥先輩から聞いたあの話。

口を滑らせたことに気づいたのか先輩が少し慌てた様子で口を開いたが、しかし俺の表情を見てその動きを止めた。

先輩の表情から感情が消えていく。

「凪島くん。君、知ってるね?」

顔に出てしまっていたのか、反応が変だったのか。

火事があったんですか?と聞けばよかったところで、遥先輩から聞いた話を思い出して苦い表情で黙ってしまったのが失敗だったのだろう。

水川先輩は人の感情の動きに鋭い。些細な違和感から幾つもの嘘や隠し事に気が付くタイプの人間だった。

「……はい」

「どこで聞いた?」

「……麻生先輩から」

誤魔化すべきか悩んだが、ここは正直に答えた方が不信感を与えずに済むだろうと判断する。

「そうか、遥から……」

先輩の表情が少し緩んだように見える。どうやらこれで正解だったらしい。

遥先輩をダシにしてしまったような感じで心苦しいが、仕方ない。

「その調子だと大学を辞めたことも聞いてるんだろう?」

「えぇ」

「そういうことさ。何もかもが燃えて、大学も辞めた。わざわざきちんとした服を買う必要もなくなってジャージだけで生活してる、それだけの話だよ」

それだけ、で済ませていい話なのだろうか。いくらニートとはいえ私服がすべてがジャージというのは、少しおかしい気がする。

だが、この言い方は言外にこれ以上の詮索をするなと主張していた。

気まずい沈黙が流れる。

そろそろ部屋を去る頃合いなのだろう。

「それじゃぁ、俺はこれで」

そう言って立ち上がろうとした時、先輩の手が俺のズボンの裾を掴んでいることに気がついた。

「……」

姿勢を元に戻し、先輩の方を向く。

「?」

「いや、その、手を……」

「あぁごめん、布団と間違えてた」

パッと離された手はすぐに布団の中へ引っ込んだが、先輩の様子はさっきと変わらない。何もなかったかのような表情で布団に収まっている。

その言葉が嘘なのか本当なのか、判別することはできない。

昔から、何を考えているのか、それを振る舞いから読み取るのが難しい人だった。人の内心を推測しようなど愚かな行為だが、それにしたって先輩の計り知れなさは他の人と比べものにならなかった。

正しさを体現するかの如き身のこなし、時には冷血と称されるほどに厳格なその振る舞いは、ある種の憧れを生み出していて、生徒会の外側からは崇拝の対象にもなるほどだったのだ。

同じ場所で活動していた自分から見ても、水川先輩は神秘性を纏っているように感じられることがあった。

そんな先輩の過去の、高校時代を一緒に過ごしながらも見えていなかった部分。

朧げながらに見えてきたその風景を、俺はどんな風に扱えばいいのかわからなかったのだ。

親。

悪意。

この先に踏み込めば、どうしたって触れざるを得ない。

淀みに憑かれた彼女の過去に不作法に触れることの危うさは、今、彼女がこうして倒れ伏していることが物語っている。

そして今の俺には、その業を背負うほどの覚悟が備わっていない。

「送ってきてくれてありがとう。助かったよ」

「いえ」

コンビニで再会した時、水川先輩の纏っていた神秘性が既に失われていることを否応無しに思い知らされた。

そこに多少の失望があったことは否定しない。

高校時代、憧れがあったわけではないが、書記という立場ゆえに目の当たりにしてきた彼女の凛とした立ち居振る舞いに、少なからず尊敬の念を抱いていたからだ。

しかし、そういった装飾が剥がれ落ちた後に残ったものを見て、俺は後ろめたさを伴うわずかな愉悦を覚えていた。

これまでに見たことのない先輩の姿。

それでもなお残る理知の欠片。

くたびれたジャージ、手入れの疎かになった髪、それらを身に纏いながらも漂うかつての面影に、服を剥ぎ取り裸身を覗くような下卑た感情を抱いたのだ。

「俺は事務所に戻ります。何かあったら連絡ください」

「ん」

「遠慮しなくていいですからね。俺としても放っておくのは気が引けるんで」

「わかった。いざとなったら頼らせてもらうよ」

返事を聞いてから俺は立ち上がる。今度はどこも掴まれていなかった。

「鍵、閉めるの忘れないでくださいね」

「あぁ」

「……お大事に」



「凪島さん、ちょっといいですか」

逆村さんへの報告を終えてソファーで休んでいたら、向かいに林田さんがやってきて腰掛けた。今日の服装はいつも通りゴスロリである。

「ん?何?」

「さっき襲われたばかりなのにこんなこと尋ねるのはどうかなって思ったんですけど……」

「いいよ、気にしないで」

「はい、気にしません」

林田さんはいつもこういう話し方をする人だというのをここ数日で理解した。悪気はないらしいので受け流すのが正解だ。

「えっと、梶田さんが持っていた武器って、刃物だったんですよね?」

「うん、大きめのサバイバルナイフだったと思う」

「サバイバルナイフですか、包丁とかではなく」

「刃がギザギザになってたし、包丁ではないと思うよ。まぁ、ギザギザの刃をした包丁だった可能性は否定できないけど」

「カテゴリの話ではないんですよね。形なんですよ」

林田さんがわちゃわちゃと手を動かしている。手振りで包丁の形を再現しているつもりらしい。

「包丁がどうかしたの?」

「あー、包丁がどうかしたってわけじゃないんですけど、昨日ちょっとありまして」

なんだかキナ臭い予感がする。

「駅からの帰り道でですね、襲われたんですよ」

「は?」

「あ、いえ、別に怪我とかしたわけじゃないんです。むしろ相手の方が多分やばいですね」

「何があったか聞いてもいい?」

「いいですよ。むしろ愚痴らせてほしいくらいです」

というか、俺だけではなく色んな人に、特に警察の方々に話しておくべきことなのではないかと思われる。

「友達と遊んだ帰りだったんですけど、駅を出てからずっと尾けられている気配があったんです」

「ストーカー?」

「かもしれませんけど、昨日まではそんなことなかったんですよね。まぁとにかく尾けられてるなって思ったんで、いつもの帰り道と違う道に入ったんですよ」

「撒こうとしたんだね」

「いえ、人気のない場所に誘い込んで迎撃しようと思って」

何を考えてるんだこの子は。

「で、真っ暗な路地に入り込んだら途端に距離を詰められたんですよ。家まで尾行しようとかそういうんじゃなくて、最初から私を襲うつもりだったみたいですね」

そういう林田さんの口調は軽いが、相当危険な状況だったのではないだろうか。

「もう気配を隠すつもりはなかったみたいで、ものすごい勢いでこっちに走ってくる音がして、振り返ってみたら包丁を振り上げた黒尽くめの人が迫ってきてたんです。だからまぁ、それを避けて、脇腹に思いっきり蹴りを入れたんですよ」

「え、何してんの……」

「正当防衛ですよ。まぁ、今思えば逃げてもよかったんですけど、なんとなく返り討ちにしたいなぁって」

なんとなくで選べる行動ではないと思うのだが。

「全力で蹴ったんで、もしかしたら肋骨一本くらいは折ったかも。結局そいつには逃げられちゃったんですけど、襲われる心当たりなんてほとんどなかったんで、さっき話を聞いてもしかして梶田さんだったのかな、なんて思ったんですよ」

林田さんは大袈裟に考え込むような仕草をする。

「なんでまた」

「いや、根拠があるわけじゃないですよ。さっきまで全く考えもしませんでしたし。ただまぁ、こういう偶然ってそうそうあるもんじゃないよなって思ったんで」

「二つくらいなら偶然が重なることもあるんじゃない?」

「数字の根拠はなんですか?」

「マンガ」

「あてにならないですね」

林田さんはやれやれと首を振る。

「よくよく思い返してみれば、そもそも襲ってきたやつ、女だったような気がしなくもないです」

「性別すら違うじゃないか。なら、梶田さんの奥さんとか?」

「梶田さん以外には僕の顔は割れてないはずなんで、それはないと思います。あと、なんとなく淀みが憑いてたような……」

あの時すれ違った梶田さんの頭部には淀みの靄がかかっていたが、奥さんの方には何も見えなかった。もちろん、だからと言って淀みに憑かれていないと断言できるわけではないが、傍証になりはしない。

「夜道でよくわかったね。淀みが憑いてるって」

身も蓋もない話だが、淀みは黒い靄のように視認されるので、暗い場所だとよくわからないのだ。

「私、温度で感じるタイプなんで」

「あぁ、そういえばそんなこと言ってたね」

「なんかこう、既視感を覚えるような寒気だったんですよね。ずっとなんだろうなって考えてるんですけど、わかんなくて」

「デジャヴなら錯覚なんだし、考えてもわかんないのは仕方ないと思うけど」

「それもそうですねぇ」

「その話、逆村さんには早めにしておいた方がいいんじゃない?」

淀みに関係なくても話しておくべき事件ではあるが、淀みが絡んでいるとなればその重要度はかなり高くなる。

「えぇ、そう思ってはいるんですけど、さっき出てっちゃったんで」


キッチンでコーヒーを淹れていると、玄関のドアの開く音がした。足音が近付いてくる。逆村さんが帰ってきたのだろうか。

「あら」

そう思っていたのだが、どうやら違ったらしい。聞き覚えのない女性の声だった。

声の方へ顔を向けると、キッチンの入り口に、グレーのパンツスーツに白衣を羽織った見知らぬ女性が立っていた。毛先に軽くウェーブをかけたセミロングの髪が揺れている。

「もしかして、君が凪島くん?」

「え、あぁ、はい。そうです」

「初めまして、赤岡百合子です。一応、この事務所のスタッフ」

「あ、初めまして。そういえば、名前だけは逆村さんから伺ってました」

「最近こっちに来れてなかったからね」

逆村さんとの会話を思い出す。

「本業が別にあるってお聞きしましたけど」

「んー、別ってわけでもないんだけどね。この事務所でもカウンセラーとして仕事してるわけだし」

「カウンセラー、ですか」

「特調会の支部には必ず一人はカウンセラーが所属してるのよ。人が足りてないからいろんな支部を兼任してるのがほとんどだけど。君も誰かにお世話になったことない?」

「あるような、ないような……」

俺の適当な返事に赤岡さんは苦笑いを返す。

「あ、そうだ。赤岡さんもコーヒー飲みます?」

「えぇ、お願い。じゃぁ話はまたあとでね」

デスクまで戻ると、赤岡さんはデスクでタブレットを眺めていた。林田さんと赤岡さんの二人にコーヒーを配り、俺も席に着く。

赤岡さんはコーヒーを一口飲んだ後、ふぅ、と大きな溜息を吐いた。

「どうかしました?」

「ちょっと疲れ気味。仕事が立て込んでてね。今日もさっきまで新宿にいたんだけど、こっちがバタバタしそうだから居てほしいって言われて急いで来たのよ。そしたら逆村さんいないし」

「すぐ戻ってくると思いますよ。どこ行ったかは知らないですけど」

「まぁ、それは別にいいんだけどね」

背もたれに全力でもたれかかっていた赤岡さんが身を起こす。

「えっと、水川さん、凪島くんの先輩なんだっけ、その子のこと、一応聞いてるわ」

「あ、そうなんですか」

「その子自身は淀みのこと、まだ何も知らないのよね?」

「えぇ、そうだと思います。淀みが姿を現した時も気付いた素振りが特になかったので」

コンビニの前でもさきほどの商店街でも、水川先輩は自分の身体から湧き出たあの淀みをまるで認識していなかった。自身に取り憑いた淀みの影響であれだけの疲労に襲われはしたが、原因が何なのかはわかっていないようだった。

「……これは決定事項というわけじゃないのだけど、多分、近いうちに彼女には自分に憑いている淀みのことを伝えることになると思うわ」

思わぬ展開だった。

まだまだ調査を続けていく段階だと考えていたので、先輩をこちら側に巻き込むことなど想定していなかった。

「どういうことですか?」

「君がコンビニの前で見た光景。正直、それだけでもかなり危険な状態だと判断せざるを得ないのよ。ともすれば施設に強制収容って可能性もありうるくらいにね」

「それはさすがに過激なんじゃありませんか」

思わず声に怒気が入ってしまう。

「えぇ、そうね。最近の本部はちょっと神経過敏になってるから。だからこそ、私達のレベルで穏便に事を済ませたいのよ。その為には淀みに憑かれてるその子本人の協力が欠かせない。だから、彼女に自分の置かれている状況を知ってもらう必要がある。そういうこと」

それは確かに正論だった。

実際、今日の先輩の様子を考えればこのまま放っておくことが得策ではないのは明らかだ。先輩に取り憑いた淀みが人を死に至らしめ得る可能性を、俺は知ってしまったのだ。

「……淀みについて知らないままでいられるならその方がいい、というのはその通り。凪島くんが自分の先輩をなるべく面倒なことに巻き込みたくないと思う気持ちはとてもわかるわ。だけど、既にとても濃い淀みが取り憑いてしまっている以上、無関係ではいられない。それならば、伝えるべき情報はしっかり伝えて然るべきフォローが受けられる状況を作ってあげる。そういうことが大事だと思うの」

「どうしてそれを今俺に……?」

「機を見て君から話してもらうのが一番いいだろうっていうのが逆村さんと私の意見だからね」

「それは、そう、かもしれませんね」

いきなり現れた第三者が「あなたには良くないものが憑いている」と告げても不審がられるだけだろう。だからといって、俺が話せば無条件で信じてもらえるというわけでもないだろうが。

淀みについて信用してもらうには開示すべき情報が多い。自分が初めて淀みについて説明を受けた時のことを思い出し、あまりの面倒さに嫌になった。

呪いだのなんだの、そういったオカルトが半分くらいは本当に起きうることなのだと言われて、それをすぐに信じられる人間はそんなに多くない。

「今すぐってわけじゃないの。彼女の淀みについて集められる情報はなるべく集めておいた方がいいとは思ってる。でも、うかうかしてると本部に目を付けられかねないからあまり時間の猶予はないかもしれないわ」

「本部ってそんなに面倒なところなんですか」

色々な人の話を聞いていると、どうやら本部は嫌われているとまではいかなくても敬遠されているようだった。

「まぁ、色々としがらみが多くてね。何でもかんでも判断が保守的になるのはある意味仕方ない面もあるんだけど、ここ最近は態度が硬直化しててあまり良い状態とは言えないわ。本部も一枚岩じゃないから、中で苦労してる人がいっぱいいるのも知ってるんだけどね」

おかげでこっちも色々負担が増えて大変なのよ、と赤岡さんはぼやく。

「状況が整ったら君にも色々と頼むことになると思うから、気持ちの準備はしておいてね」

「……はい、わかりました」


二時間後、逆村さんが事務所に戻ってきた。

「あれ、赤岡さん、もう来てたんだ」

「あのね逆村さん、もうはないでしょう、もうは。呼ばれてすぐに飛んできたんですよ」

「え、あぁそうか、もうこんな時間か。ちょっと長く空けすぎちゃったね、ごめん」

「あ、所長、コーヒー飲みます?」

「そうだね、お願いするよ、林田さん」

「百合子さんと凪島さんは?」

「それじゃぁ私も」

「俺もよろしく」

四人分のカップをトレイに乗せて、林田さんがキッチンへと向かっていった。

「逆村さん、どこ行ってたんですか?ちょっと長かったですけど」

「警察。話をしてきたんだよ」

「え、うちに来るって話じゃなかったんですか」

「なんかね、梶田さんの他にも幾つか事件が起きてて人手が足らないんだって。だから尾道くん、あぁ、神野署の知り合いなんだけど、彼から頼まれてあっちまで話をしにいってたんだよ」

「梶田さん、だったっけ、その人の事件を尾道さんが担当するってことはやっぱり淀み絡みだったの?」

赤岡さんがそう尋ねる。

「いや、まだわからない。聞けるだけのことは聞いてきたんだけど、確定はしていないみたいだったよ」

その会話を聞いて、ふと疑問が湧いた。

「あの、淀みが関わっていたかどうかって、その、死んでしまった後でもわかるんですか?」

問い掛けに反応して返事をしてくれたのは赤岡さんだった。

「んー、わかるときもあるって答え方が正しいのかな。生前に強い淀みが憑いていた場合、その人が死んだ後も淀みが残っている例は幾つも報告されているの。命を落とした場所だったり遺体そのものだったり、残り方は様々だけどね」

「そうなんですね」

「地縛霊がいるって噂されるような心霊スポットの幾つかは、残された淀みが滞留している場所ってこともあるのよ」

「あぁ、じゃぁ、そういうとこでは見間違いとかじゃなくて実際に怪奇現象が起こっちゃってるわけですね……」

「えぇ。だから特調会としては色々苦労してるみたいよ。放っておくわけにはいかないけど、自分たちの土地じゃないから迂闊に手出しができないし、かといって立ち入り禁止にしても却って人を煽る結果になるし」

「うかうか足を踏み入れたら淀みにあてられて身体壊しちゃいそうですね」

「そうなると噂がさらに広まって余計に対処が面倒になっちゃう。ネガティブスパイラルね」

事件性に惹かれる人種は案外多い。

淀みに関する情報が広く一般に広まることはないが、心霊現象や怪奇現象の一種として淀みに纏わる事象の話は漏れ出ていくのだ。

さらに、淀みが絡むと単なる見間違いや空耳で事が済まなくなってしまい、噂の信憑性を底上げする結果になる。

特調会は、一見すると淀みに関係のなさそうな事についても活動の領域を広げているのだが、それらは結局、多くの人々が淀みというものを知らずに過ごしていることに起因する。

淀みの存在を知らなくとも、人々は常に淀みを傍らに日常を過ごしているのだ。

「リンちゃんなんかは調査名目で色んなスポットに足を延ばしているみたいだけど、あれ、半分、いえ、九割がた趣味よね」

「まぁ、レポートはもらってるから別にいいんだけどね」

赤岡さんが笑みを浮かべた呆れ顔で言葉をこぼし、逆村さんが応えた。

「あの、リンちゃんって誰です?」

「あぁ、林田さんよ」

「なるほど、林だから……」

「違うわよ。そうじゃなくて、彼女の昔の芸名なの。林田凛、聞いたことない?」

「いえ、聞いたことないです。ていうか芸名って、どういうことです?」

「凪島さんが知ってるわけないじゃないですか」

ちょうどコーヒーを淹れ終えて戻ってきた林田さんが、背後からそう言った。

「女性誌の読者モデルですよ?むしろ知ってたら引きますね」

「そうは言ってもそれ以上に有名だったじゃない」

「んー、まー、そーですね。色々面倒でしたけど」

林田さんが、ふぅ、と溜息を吐いた。

「でも、よかったら凪島さんもそう呼んでくれてもいいんですよ?」

「いや、遠慮しておくよ」

「つれない人ですねぇ」

距離感というのは大切なのだ。



結局その日、警察がうちの事務所に来ることはなかった。ひとまずは逆村さんが話してくれた内容で十分ということなのだろう。

「あぁそうだ、凪島くん」

帰り際、逆村さんに呼び止められる。

「水川さんの件、さっきも話したと思うけど、色々とよろしくね」

「……はい」

先輩に淀みのことを教える、という話だ。

あれから改めて逆村さんとも話をした。

その理由については赤岡さんが言っていた通りだったが、さらに、先輩が過去に巻き込まれた事件について、逆村さんが調べてわかったことを幾つか教えてもらっていたのだ。

先輩の家に火をつけたストーカー男。

その裁判の記録に、気になる供述があったという。

「彼は、家に火をつけたのは水川さんを殺すためだったと言っているんだけど、その時間、水川さんは家にいなかった」

「そうなんですね。だから、先輩は助かった……」

「深夜だったからね、もしも普段通りの生活をしていたらご両親と一緒に亡くなっていただろう」

「不幸中の幸い、ですね」

「あぁ、多分ね」

「多分?どういうことですか?」

少し言い淀むような口ぶりに違和感を覚えたので聞き返す。

そして、逆村さんの口から思わぬ言葉が吐き出された。

「少し気になっているんだよ。何故、それまで執拗に水川さんをストーキングしていた男がいざ決行という時に限って彼女の行動を把握していなかったのか、ってね」

「どういう、意味ですか」

「あぁ、いや、水川さんとストーカー男が共謀していたとかそういうことを言いたいんじゃないんだ。なんだか彼の供述には曖昧な箇所が多くてね、どうやら犯行当時の記憶をあまり覚えていないらしい。どうも、その間ずっと意識が朦朧としていたようなんだよ」

段々と、逆村さんの言わんとしている事がわかってきた。

「ということはもしかして、そいつは……」

「水川さんに取り憑いた淀みから何らかの干渉を受けていた可能性がある、ということだ。そうだとしたら、結果を見れば明らかなのようにその危険度は跳ね上がる。このまま放っておくのは得策ではない、ということになるだろうね」

人の行動に強く干渉するような淀みは、当然ながら放置することは出来ない。どれだけの被害を及ぼすかわからない上、本人に自覚が無ければ制御することもままならないからだ。

逆村さんと赤岡さん、この二人が調査を始めてそれほど時間が経っていないのにも関らずこの結論に至るのも無理はない。

「具体的な日時とかはこれから決めることになると思うけど、一応、それまでも水川さんの動向には注意していてほしい。色々と悩ましいとは思うけど、彼女自身のためでもある。よろしく頼むよ」

「……わかりました」

そろそろ、覚悟を決めなければならないということだろう。

淀みのことを知り、先輩がどんな反応をするのかはわからない。

ただ、先輩の性格であればそれほど面倒なことにはならないだろうという予感もある。

相手に隠し事をしながら接しているという後ろめたさが取り除かれるのなら、むしろ俺にとっても良いことなのかもしれない。


そんな配慮など、意味のないものだったのに。



自宅に着いてから先輩にメールを送った。

具合はどうですか、という簡潔なものだったが、返事はなかった。まぁ、あれだけ疲れていたのだ、まだ寝ているのだろう。

その時はそう思っていた。


返事が来たのは翌日の夕方、事務所で作業をしている時だった。

返ってきたメールの件名は「お久しぶり」。意味がわからない。

だが、メールを開き、俺の思考は更に停止する。


一枚の写真が添付されていた。


そこに映っていたのは、畳に横たわる裸身の女性。

その周囲に、赤い何かが散りばめられていた。

両腕が背中に回されている。後ろ手に縛られているのかもしれない。

猿轡を噛まされ、長い黒髪が無造作に広げられていた。

髪の毛に覆い隠された隙間から見える瞳は暗く、感情は読み取れない。

そもそも写真の解像度が粗く、顔がはっきりと見えないのだ。

ただ、写真に収められた部屋がどこなのか、俺は知っていた。

切り刻まれて赤い残骸の元の形を、俺は知っていた。

粗くてもわかる華奢な体躯が記憶を刺激する。

四畳半の部屋。

赤いジャージ。

何よりも、このメールの送信元が全てを物語っている。


ここに、映っているのは。

両腕を縛られ、猿轡を噛まされ、床に転がされているのは。


間違いなく、水川先輩だった。


そのことに気付いた瞬間、様々な思考が頭を駆け巡った。


警察を呼ぶか?

逆村さんや赤岡さん達の協力を仰ぐか?

そもそも俺はどうするべきなのか?


だが、メールの本文に目を向けた瞬間、それらの思考は全て吹き飛び、俺は駆け出していた。


これから料理します。


このたった一文が示唆するもののおぞましさに怖気が走る。

しかし、俺を一番に刺激したのはそこではなかった。

メール本文、その最後に記された署名。

それは、撒いたはずの過去が俺に追いついてきていたことを如実に語っていた。


大学時代、俺を巡って巻き起こったとある事件。

その事件の被害者であり加害者であり、その後も俺に付き纏っていた大学の後輩。


外山ゆかり。


彼女の名前だった。

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