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Maltreated Alice  作者: 本田そこ
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第3章 発露

翌日、俺は朝から事務所に来て資料を読んでいた。

水川先輩の淀みに関するものではなく、林田さんが今担当している浮気調査に関するものである。依頼主や奥さんのプロフィール、これまでの調査の記録など、一通り目を通しておいてくれと逆村さんから言われていた。

今日はこれから林田さんが依頼主の奥さんを尾行する予定なのだが、俺はそれを手伝うことになっているのである。

これまでの記録を読んでみると、奥さんの浮気はほぼ確定的だ。今日の尾行の目的はその決定的な証拠を手に入れることらしい。

「おはようございまーす」

玄関の方から声がした。林田さんがやって来たようだ。

「あ、凪島さん、おはようございます。早いですね」

「おはよう。……んん?」

背後から声をかけられたので振り向くと、そこには確かに林田さんが立っていたのだが、その服装が普段とまるで違うパリッと決められたパンツスーツ姿だったので、驚いて変な声を出してしまった。

「どうかしました?」

「いや、そういう格好もするんだなぁって思って」

「あぁ。さすがに尾行するときにいつもの格好じゃ目立って仕方ないですからね。仕事で外に出るときは控えめな服にしてますよ」

「そりゃそっか」

「これもこれで気に入ってますけどね」

そう言ってから眼鏡をくいっと持ち上げる。演出が過ぎる気もしたが、確かに様になっている。

「さて、コーヒー淹れてきますけど、凪島さんも飲みます?」

「そうだね、お願いするよ」


「凪島さん、昨日はどうでした?」

コーヒーを一口啜ってから林田さんが聞いてきた。遥先輩の件だろう。

「少し気になる話は聞けたかな。先に進んだって感じはあまりしないけど」

「へぇ」

「あとで逆村さんに報告して今後の方針を決めることになるのかな。淀み絡みの調査って手応えが感じられないから難しいよね」

「そうですね。確証みたいなものはどこまで行っても手に入りませんし」

「とりあえず、次は水川先輩と話をしてここ最近の様子を窺うのがいいのかな」

「かもしれませんね。そもそもここで問題が起きちゃったら元も子もないんで」

林田さんはそう言った後、無言でじっと俺の方を見つめてきた。眉間に少し皺が寄っている。怒っているという感じではなさそうだが、どんな意図なのかまるでわからない。

「どうしたの?何かついてる?」

「まぁ……」

「え、どこ?」

「あの、凪島さん。一つ聞いていいですか」

「え、何を?」

「昨日会って話を聞いた方って、凪島さんの恋人なんですか」

林田さんの口から飛び出てきたのは予想外の質問だった。

「いや、違うけど……。高校時代の先輩だよ」

「ふぅん……」

林田さんの目が細められている。普段はパッチリと開かれた大きな瞳なので、ギャップが激しい。

見つめられているのか睨みつけられているのかわからない状況がしばらく続いた後、林田さんがため息を吐いた。

「気を付けてくださいね」

「?」

意図の見えない発言だったが、それからすぐに林田さんが仕事の準備へと戻ってしまったのでそれ以上の追求はできなかった。

何か不興を買ったというわけでもなさそうだし、とりあえずは放っておくことにしよう。

もしも何か言いたいことがあるなら、彼女ならちゃんと言ってくれるだろう。


予定していた時間になったので、俺と林田さんは事務所を出発した。林田さんの運転する車の助手席に乗っている。俺は免許を持っていないので運転ができないのだ。

「奥さん、休日の朝から浮気するもんなのかな?」

これから俺たちは依頼主の家まで向かい、近くの駐車場に車を止めて奥さんが出かけるのを待つことになっていた。

「今日まで見てきた感じだと、最近調子に乗ってて行動が派手になってますね。放っておくと多分家に連れ込むくらいしますよ、あの人」

「あーあ……梶田さんかわいそう」

「この前話した感じだと、感情はもう一線を越えちゃったのかすごく淡々としてましたけどね、梶田さん。事務処理感すごかったですよ」

「もう割り切っちゃってるのかな……」

「どうなんでしょう。最初依頼に来たときはとんでもなく悲惨な表情してて見てらんないって感じでしたけど」

「依頼の段階で?」

「半分錯乱状態なんじゃないかって思いましたよ。理性でなんとか抑えて真人間っぽい振る舞いをしようとしてたみたいですけど、行動の端々が挙動不審でしたね。奥さんには相当惚れ込んでたみたいです」

「好きって感情はでかければでかいほど壊れたときの余波がひどいことになるからなぁ」

そう漏らしたあと、隣からじっとりとした視線を感じた。何か言ってくるわけでもなかったので、俺もそのまま黙っていた。

「それが今は怖いくらい静かなんですよ。怒りの方が上回っちゃったんですかね」

「冷めるときは一気に冷めるからね。あとはもう淡々とやるべきことをこなして離婚、ってことなんじゃない?」

そして、俺たちはその手伝いをするということだ。

わかってはいたが、気の滅入る仕事である。


春にしては陽射しが強く、まだ昼前だというのに車内の温度は汗がかすかに滲むくらいには高くなっていた。

梶田さんの家の玄関を監視できる位置に駐車場があったのでそこに車を止め、俺たちは車内から動きがあるのを待っていた。

「アイスおいしー……」

林田さんはハンドルに顎を乗せながらチューブタイプのアイスをズルズルと吸っている。さっき俺がコンビニで買ってきたやつだ。

「梶田さんが出かけてからそろそろ一時間経つね」

梶田さんが用事で出かけることについては前もって連絡をもらっていた。それを踏まえ、最近の奥さんの振る舞いを考えればこのタイミングで浮気相手と会わないわけがないだろうということで、決定的な証拠を掴むには今日がうってつけだろうと林田さんと逆村さんが判断したのである。

だが、しばらく経っても奥さんが出てくる気配がない。

「もしかして今日は何もないのかな」

だからといってこの場から離れられるわけではないのだが、結果的に無駄足になってしまうのは避けたい。

「そうでもないと思いますよ」

林田さんがそう口にしたのとほぼ同じタイミングで、梶田さんの家の前に一台の車がやってきた。遠目なのではっきりとは見えないが、運転席からは茶髪に緑のジャケットを羽織った男が降りてきた。

「あれ、奥さんの浮気相手です」

林田さんは、いつの間にかだらけ切った姿勢から元に戻っている。

「車に乗ってきたのは初めてですね」

車がやってきてから数分もしないうちに玄関のドアが開き、梶田さんの奥さんが出てきた。事前に見せてもらっていた写真と比べると、随分と服装が派手になっている。

「おめかしするのに時間使ってたんですよ」

「なるほど……」

俺はそう言いながら、梶田さんの奥さんが車の助手席に乗っていく光景を何枚か写真に収めていた。もちろん、浮気相手も一緒に映っている。

「やっぱり今日ならホテル入るとこ撮れそうです。下手するとどこにも寄らずにいきなりホテル行きますよ」

「あれだけおしゃれしてるのに?」

「だからですよ」

「どういうこと?」

「浮気相手とデートするときに普段着なのは、言い訳ができるようにするためです。友人とか親戚とか、相手によって言い訳の種類は変わるでしょうけど、あくまで日常生活の一環で特別な相手じゃないよってアピールするにはその方がいいですからね。逆に、今日みたいに車での移動なら人目を気にしなくていいから本気でおしゃれするんですよ、相手に見せるために」

「そういうもんなんだ……」

そのとき、梶田さんの奥さんを乗せた車が動き始めた。

「それじゃぁ追いかけますね。遠出になりますけど、最後は絶対ホテルですよ」

「確信してるね」

「ここ最近ずっと普通にデートしてるだけだったんで、僕の隙をついてやってなきゃ絶対欲求不満ですよ、あの人たち」

林田さんのあけすけな物言いにそのまま乗っかっていいものか悩んでいたら自分たちの車も動き始めた。

「さてさて、どこに行くんですかねぇ、あの人たち」

林田さんの楽しそうな声を聞きながら、そういう性格だからこういう仕事やってるんだな、と腑に落ちる思いだった。


「つまらん」

三十分ほど尾けていた車がショッピングモールの駐車場に入っていくのを見たとき、林田さんが発した言葉だ。あからさまに不機嫌な顔をしている。

「ちょうどお昼時だし、ランチじゃない?」

「なるほど。まずは体力を確保してからということですか……」

俺はそれ以上この話題に乗るのをやめた。林田さんは事務所にいる時よりも言葉のブレーキが緩んでいるように思えるのだが、多分、気のせいではない。

俺たちの車も駐車場へ入っていく。

「尾けた方がいいよね?」

「でしょうね。これといって妙なことは起きないと思いますけど、一般論として、長時間目を離しておくのは避けた方がいいかもしれません」

どこの一般論だろうか。

「あと、お腹空いたんでついでに僕たちもお昼食べましょう」

「ショッピングモールで尾けながら食事って出来るのかなぁ」

「同じ店で食べればいいじゃないですか」

「はぁ?」

「僕たち顔バレしてないんで平気ですよ」

そういうもんなのだろうか。

林田さんはこの仕事を始めてもう何年も経っているみたいだしその経験を信頼してもよいのかもしれないが、どこか不安は拭えない。ゴスロリからスーツ姿に変わって見た目の仕事人らしさは強くなったのに、言動の適当さは逆に増加していた。

休日ゆえにショッピングモールの中は人でごった返している。

「なんか冷房少し強くないですか?」

林田さんが呟く。

まだ春先だがこの人混みだからだろうか、少し空調が効いているようだ。

「そう?ちょうどいいくらいだと思うけど」

「あぁ、男女の差ですね……」

「なるほど」

「しかしまぁ、あの人たちはどこ行くかと思ったらこんな大衆的な場所とは。あんだけおめかししたんだからもっといい場所行けばいいのに」

「ショッピングモールでのデートも悪くないと思うけど」

「カジュアルに楽しむなら、ですよ」

それからしばらく、奥さんの派手な服を目印に尾行を続けていた。普段の地味な服装だったら見失っていたかもしれない。

奥さんとその浮気相手は、ウィンドウショッピングもそこそこにパスタ屋に吸い込まれていった。ショッピングモールにはオープンな席を提供する店も幾つかあったのだが、二人が入った店は違っていた。そうでなければより安全に監視することができたのだが、こうなっては仕方がない。林田さんの提案通り、俺たちも同じ店で食事を取ることにした。

「店を出るタイミングずらせないから、量の多いものは注文できないよ?」

俺がそう言うと林田さんは苦虫を噛み潰したような顔をした。

「我慢、します……」

そんな辛そうな声を出さなくても。

店員に案内された席は幸いにして奥さんと距離は取りつつ視界にギリギリ収めるくらいはできるという位置だった。

彼女らはわいわいと歓談しているようだが、店内の雑音と距離のせいで何を話しているかは聞き取れない。

「二人の会話は聞かなくてもいいの?」

「どうせ大した話はしてませんからね。人目もありますし」

林田さんはメニューに目を向けたままである。

「なんというか、この件、少し扱いがぞんざいな気がするんだけど、気のせい?」

「凪島さんも報告書読みましたよね?書いてある通り、浮気はもう確定的なんですよ。浮気相手は奥さんが友人から紹介してもらった大学生。二人の関係は半年前からで、奥さんの方は旦那さんと離婚することもそろそろ視野に入れてるみたいです。この前カフェで会話を盗み聞きした時は、どうやって慰謝料ふんだくろうかなんて話をしてましたし」

「ひどい話だな……」

「一応、決定的な証拠を掴むまでは踏み込んだ内容を梶田さんには伝えないようにしてるんですけど、さすがに察してると思いますよ」

「……今のところ、梶田さんは大丈夫なの?」

「淀みですか?」

「うん」

「とりあえず、この前会ったときは落ち着いてましたよ。少し寒気がしましたけど、思い詰めたらどんな人でも引き寄せちゃう程度の濃さだったと思います」

林田さんは淀みを温度で感じ取るタイプだそうだ。淀みを視ることもできなくはないが、他の人よりもぼやけていて曖昧にしか映らないという。

その代わり、些細な変化を感じ取りやすく、特に人に淀みが取り憑く際の初期段階を感知するのが得意らしい。

「ちょっとしたきっかけで一気に膨れ上がるんで、油断はできないですけど」

「うちとしては穏便に事が済むよう全力でサポートするしかないか……」

この浮気調査は探偵事務所として受けた依頼だが、だからと言って淀みに関する問題の芽を無視するわけにはいかない。表立ってアプローチをかけられないのなら、策を弄してなんとか事を収めるのが自分たちの役目でもある。

「最終報告書渡した後は、優秀な弁護士さんを紹介するっていうのが次にやるべき事になりそうですね」

その後、滞りなく食事は終わった。

監視対象の二人はひたすら会話に励んでいたようで、俺たちの方が先に食事を終えてしまった。

店を出ると、ショッピングモールの奥の方がざわついていることに気が付いた。

「何か起きたのかな?」

「イベントでもやってるんじゃないですか?」

「警備員、走ってあっちに向かってるけど」

奥さんたちの後を追っていると、周囲の会話から情報が断片的に集まってきた。どうやら喧嘩沙汰があったらしい。

「元気ですねぇ」

「わざわざこんな場所でやらなくてもとは思うけど」

「デート中に痴話喧嘩でも起こしたんじゃないですか」

奥さんと浮気相手の二人もそのことに気付いたのか、ショッピングモールの途中で踵を返し、駐車場までストレートに戻っていった。結局、買い物などは一切していない。

「興を削がれたのかな」

「もともとご飯食べるだけで買い物とかするつもりなさそうでしたけど。ウィンドウショッピングおざなりでしたし」

「ランチだけならわざわざここじゃなくてもよかったんじゃないかなぁ」

思わずそう漏らすと、林田さんが反応する。

「あれですね。形だけでもデートをしたということにしたかったんでしょう。気持ちの問題です」

「どういうこと?」

「いきなりホテル直行ってなんか無粋でしょう?」

「あぁ……そういう……」

「アリバイ作りが終わったんでいよいよですね」


その後の経過は非常にスムーズだった。

駐車場から出発した彼女らの車は、五分もしないうちに少し離れた場所にあるラブホテルの駐車場に突入、俺たちの車もその後を追う。

駐車場はホテルの地下にあるため、外からはホテル入り口までを監視できない。

バレないように車間距離を取っていたせいで奥さんと浮気相手の二人がホテルへ入っていく光景を写真に収める事ができなかったので、出てくるところをしっかり抑えることにした。これは元々想定していたことである。

ホテル入り口と浮気相手の車、車内からその二方向に向けてそれぞれカメラを設置し、俺たちも怪しまれないようホテルへと入った。入り口に一番近い部屋から遠隔操作でカメラの映像を確認するのである。今どきはスマホアプリでこれができるのだから楽な時代だ、と逆村さんが以前ぼやいていた。

「眠いんで寝てていいですか」

室内に入って早々に林田さんがそんな事を言う。

「こんなにふわっふわなベッドで眠る機会なんてなかなかないんで」

「今仕事中」

「冗談ですよう」

さすがに今すぐということはないだろうが、奥さんたちがいつホテルを出るかわからない。ここの映像さえ撮れれば十分かもしれないが、可能ならここを出て以降の行動も追っておきたい。こちらもすぐに部屋を出れるようにしておく必要があるのだ。

「部屋がどこかわかれば隣から様子を窺うとかできたかもしれないですねー」

「さすがにそこまでする気はないよ……」

音声などが録れたらそれはある意味でより決定的な証拠になるのかもしれないが、必要性をあまり感じないし、できれば聴きたくない。

三時間後、ホテルから出てくる二人の姿をカメラが捉えた。その様子は問題なく録画出来ているので、これで今日の目的は達成されたといっていい。

「延長なしですか。そういや梶田さんが家に帰ってくる時間までもうそんなにないですね」

「移動時間考えると結構ギリギリだ」

「鉢合わせしたら面白いですねぇ」

「修羅場に居合わせたくはないな。ご勘弁願いたい」

結局、奥さんを乗せた車は家まで直行し、浮気相手と奥さんは家の前で別れた。

別れ際にキスまでしていたが、誰かに見られる可能性を考えなかったのだろうか。もちろん、この場面も撮影してある。

その後も駐車場から監視を続けていたが、梶田さんが帰ってくるまでは何事もなく時間が過ぎていった。

これまで手に入れた証拠で十分、もう得るものはないだろうということで、そこで監視は終わりとなった。

「しかしあぁも簡単に尻尾が掴めるとは思わなかったな」

帰り道、助手席で俺はそう呟いた。

「まさか、自宅の玄関先でキスまでするとはね」

「色々盛り上がって気持ちが昂ってたんじゃないですか。ベッドの上で上手いこと離婚に持ってく算段でもついて、気が緩んでるんでしょうよ」

「こっちとしては仕事が非常に順調に進んだわけだけど……」

「あまりにもあからさまなんで、梶田さんに報告するのちょっと躊躇いますね」

頭では覚悟を決めていても、いざ実際に証拠を突きつけられて浮気が確実なものとなると、やはり辛い気持ちになってしまうであろうことは想像に難くない。この頃は淡々としている梶田さんだが、今日の尾行で得られた情報をまとめて報告したらどんな反応が返ってくるのか、全く想像がつかなかった。

「あ、そうだ凪島さん」

しばらく経ってから、思い出したように林田さんが声をかけてきた。運転中なのでこちらを見てはいない。

「うん?」

何か気になることでもあったのだろうか。

「朝からですね、言おうか言うまいか悩んでたんですけど」

「うん」

何のことだろうと彼女の方に顔を向ける。相変わらず前を向いたままだったが、ふと、ハンドルから左手を離して自分の首元を指差す仕草をした。

「首元、キスマーク付いてますよ」



平日昼過ぎの神野町駅前は人通りがかなりまばらだ。商店街に入れば人も行き交うが、駅前広場はさっぱりとしたものである。

空白が鎮座する駅前広場、そこにある作者不詳の銅像の足下に俺はいた。

よく見ればどこかに作者なり銅像のタイトルなりが彫られているのだろうが、わざわざそんなことをする程の興味はない。

今、俺は水川先輩と待ち合わせをしている。これから一緒にラーメンを食べに行くのである。

昨日、水川先輩のケータイへメールを送り、少しだけやりとりをした。

アドレスは高校時代に教えてもらったものだったのでちゃんと送れるかどうか不安だったのだが、無事に届いた。機種変更すらしていなかったのだから、メールアドレスを変更する機会などなかったのだろう。

用件は単純で、この辺りでオススメの店があったら教えて欲しいというものだった。

するとすぐに、駅近くにある小さな中華料理屋のラーメンが美味しい、と返事が来たので、ならば一緒に行きましょうと誘い出したのである。

オススメのお店を教えて欲しかったのは嘘ではない。ただ、水川先輩と話をする機会を作るべく行動したのも確かである。

遥先輩から話を聞いて以来、水川先輩の淀みに関する調査はあまり進んでいない。放火事件があった時期の新聞やネットニュースなどを漁り傍証をかき集めはしたものの、新たな情報を得るには至っていない。どうやら林田さんが一度大学へ聞き込みに行ったようだが、遥先輩から得られた以上の情報は誰も持っていないようだった。

もちろん、ならば水川先輩から直接聞き出そうという魂胆でもない。どんな事態になるかわからないし、普通に考えてあんな事件のことをほじくり出すのは不躾な話だ。

あくまで、水川先輩の身にこれ以上何かおかしなことが起きていないかを探るためである。

淀みは不安定だ。

何がきっかけでよからぬことになるか予測がつかない。

逆村さんからも、可能な限り様子を伺っておいてくれと言われていた。

なんだか先輩を騙しているような気がして後ろめたい気持ちもそこはかとなく湧いてきているが、意識し過ぎると態度に出かねない。食事を楽しむことを一番に考えよう。

こちらに向かって歩いてくる人影が見えた。顔はよく見えないが、赤いジャージを着ているのは遠目からでもわかる。

「お待たせ」

予想に違わずそれは水川先輩だった。

「いえ、さっき来たばかりなんで」

「だろうね。まだ十分前だから」

ケータイを開いて時間を確認している。

先輩が言う通り、俺はさっきここに着いたばかりだった。

「君がいつも十分前行動だったのを思い出してね。あまり待たせても悪いと思って早めに来てみたんだ」

高校時代のことだ。生徒会長と書記ということで、何かと一緒に行動する機会が多かった気がする。

「それじゃぁ行こうか。すぐそこだよ」

駅前広場から大通りに入ってすぐ、一本脇道に逸れた場所にその店はあった。チェーン店ではなく、どうやら個人経営の小さな中華料理屋らしい。

「お昼時だと混んでて入れないことが多くてね。私は時間に縛られる生活をしてないから、こうやってピークを避けて来るようにしてたんだ」

店先は少し雑然としていたが、店内は想像よりもかなり綺麗な見た目だった。料理の煙で壁が黄ばんだりなどもしておらず、かなり丁寧に手入れがされているように見える。

先輩が言っていたようにピークを過ぎているのか、客は数人しかいなかった。

「先輩はここよく来るんですか?」

「以前は週に一回くらいのペースで来てたかな。最近は来れてなかったけど」

「何かあったんですか?」

「いや、別に。ほら、遠出するのが億劫になる時期ってあるだろう?」

先輩の家があると思しきエリアから駅までの道のりは遠出というにはだいぶ誇張が過ぎると思うのだが、触れないでおくことにした。何事にも個人差というものがある。

「凪島くんから来たメールでね、ちょうどいい機会だと思ったからまた来ることにしたんだ」

店員がやって来たので注文をする。二人ともラーメン単品だ。メニューにはただただラーメンとだけ書かれていて、スープの種類だとかそういったものは一切わからない。

「そういえば、凪島くんは時間大丈夫なのかい?今日は休み?」

「いや、仕事はありますよ。ただ、時間に融通が効くんで」

実際、先程まで事務所にいた。

いつどのタイミングで依頼人が来るかわからないので、事務所を空にすることは出来ない。だが、誰かが残ってさえいれば好きな時間に外出することは可能である。

今は逆村さんと林田さんが二人ともいるはずだ。

「そうか、それならよかった。君の都合を聞かずについつい自分の感覚で時間を決めちゃったからね」

昨日のメールのやり取りでは、俺が少し遠慮がちに誘いをかけたら先輩はあっさりと乗ってきて、日時の指定までしてくれた。さっきも言っていたように、ちょうどよいタイミングだったのだろう。

しばらくの間昔話も交えつつポツポツと話をしていると、先ほど頼んだラーメンがやってきたので、ひとまず食事に専念することにした。

「あ、おいしいなこれ」

鰹出汁の効いた醤油ベースのスープ。麺は細麺だがモチモチとしていて仄かに甘みを感じる。いわゆる定番の中華麺っぽさが程よく活きており、するすると食べやすいラーメンだ。

「だろう?さっぱりしてて好きなんだ。何度食べても飽きが来ない」

先輩の食べっぷりもなかなかだ。

さらに食事を進め、一息ついた頃に俺は話を切り出す。

「……今はほぼニートって言ってましたけど、どんな感じなんですか、そういう生活って」

この話題について踏み込むかどうかはかなり悩んだが、これまでの会話から、この程度ならきっと問題ないだろうと判断した。

先輩の手が止まり、こちらに視線が向けられる。特に険しい表情だったりはしていないので、多分、機嫌を損ねたりはしていない。

「そうだね。まぁ、どんな感じって言われてもあまり話すことはないかな。基本的に寝て起きて食べての繰り返しだから」

「……そうなんですか。暇、じゃないですか?」

「まぁ、暇といえば暇だね。本を読んだりはするけど、それだけだとやっぱり滅入る」

「そういえば、高校の時はかなり読書してましたよね」

思い返せば、先輩は暇を見つけては何かしら本を読んでいたような気がする。どんな種類のものだったかは知らないが、おそらく読書家と言える程度の量は摂取していたのではないだろうか。

ふと、先輩の目が曇った。

「あぁ、そうだったね……。まぁ、今はあの頃とはかなり違うタイプの本を読むようになったけど」

「へぇ。どんなんです?」

しかし先輩は俺の問いかけには答えず、麺を啜り始めてしまった。仕方ないので俺も食事を再開する。

しばらくして、再び先輩の顔が上げられた。どうやら食べ終えたらしい。

「ほぼニート、って言っただろう?」

先輩がそう話し始める。

「え、あぁ、はい」

「たまにだけど、仕事はしてたんだ。だから、ほぼ」

「あ、そうなんですか。どんな仕事してるんです?」

どこかでバイトでもしているのだろうか。

「インターネット経由でソフトウェア開発周りの仕事を時々請け負ってた」

「あぁ、あの、あれですね、クラウドなんちゃら……」

「クラウドソーシング」

「それです。最初から最後までネット経由で完結するんですか?」

「大規模な案件は請けないからね。ツールの開発や環境構築が主で保守もしないから、継続して関係を持つ必要もないし、色々と気楽に出来ていいよ」

「それなら先輩はニートじゃなくて普通にフリーランスのエンジニアじゃないですか?」

「本当にたまにしか仕事しなかったんだよ。生活をそれで支えてるわけでもないし、もう一年以上新しい案件に手を出してない。まぁ、単なる暇つぶしだね」

「そんなもんですか」

そんなもんだよ、と言った後、先輩は店員を呼んで杏仁豆腐を注文していた。ついでなので俺の分も追加してもらう。

生活費をどう賄っているのかは気になっているのだが、それを聞くのは流石にやりすぎだろう。両親が既に亡くなっているのを知っているがために疑問が湧いてくるわけだが、逆に、そこが地雷の可能性が高いということでもある。

「そういえば、凪島くんは今はどんな仕事を?」

会話の主題が自分になった。うっかりしていたが、当たり前の流れだ。

「あー、なんと言いますか、探偵業的なやつを……」

ぼかして答えるべきかどうか悩んだが、先輩のプライベートに踏み込んだ手前、嘘をつくのも不誠実だと思い正直に答えることにした。

俺の答えを聞いて先輩は目を丸くした。

「へぇ、君が探偵……。意外だな」

どういう意味だろうか。

「フリー?それともどこかの会社?」

「小さいですけど、探偵事務所です。以前からそこの所長とちょっとした縁があって、それでそろそろお金欲しいなって時に話をもらったんで、そこで働かせてもらうことに」

嘘はつかず、しかし情報量を少なめにした話し方。

「そういえば近くに一個探偵事務所あったね。そこ?」

どうやら逆村探偵事務所の存在を知っていたらしい。

「えぇ、多分それです」

隠す理由もないし、正直に答える。むしろ隠したりしたら怪しまれかねない。いっそ名刺でも渡してしまおうかと思ったが、まだ手元にないことを思い出した。

「もう何か大きな事件に巻き込まれたりはしたのかい?」

「いや、そういうんじゃないですからね。ミステリィじゃないんで」

「わかってる、冗談だよ。身辺調査とか人探しとか、そういうのだろう?」

「はい」

「最近はどんなことがあった?……って聞いても答えられないか」

「そうですね、守秘義務あるんで」

「残念」

「まぁ、かなりざっくりとした話なら出来なくもないですけど」

「へえ、どんな?」

俺は梶田さんの浮気調査の件をかなりぼかして話すことにした。

依頼人に関する情報は一切出さず、自分たちの調査方法や一般論をふんだんに交えて話せばなんとかなる。

先日、梶田さんの件も報告書を渡して一区切りついていた。一応、口頭でも調査結果を報告したのだが、相変わらず異様に静かで不気味に思えたほどである。離婚調停に強い弁護士の紹介もしてやれることは全部やったつもりなのだが、やはりこういう仕事は煮え切らない気持ちになるものらしい。

「……とまぁ、証拠掴むか期限になるかしたら報告書渡して調査は終わりですね。その後に少しアフターケアって感じです」

俺が話す間、先輩は杏仁豆腐をちまちまと口に運びながら興味深げに耳を傾けていた。

「なるほど。なんとなく知ってはいたけど、そういう調査ってやっぱり地道にやるしかないんだね」

「そうですね。なにしろ相手も隠そうと必死ですから」

「しかし、なんというか」

「なんですか?」

「仕事とはいえ、男女二人でラブホテルに入るっていうのは、すごいね……」

先輩の表情がすごく複雑な形になっている。しかめっ面を強引に引き延ばしたような、突っ張った表情だ。昔からこういう類の話題になるとこんな顔になっていたような気がする。

「場合によってはそうせざるを得ないですからね。周りの人に怪しまれたらどうしようもないので」

尾行している相手以外にも、ホテルの従業員など注意すべき対象は案外多いのだ。

そういう意味では、諸々の懸念を無視すれば男女二人で尾行するというのはむしろ合理的ではある。

しかし、よくよく考えれば林田さんがああいう性格だからこそ滞りなく事が進んだだけで、他の事務所などではそれなりに苦労しているところなのかもしれない。

「正直、意外だった」

しばらく杏仁豆腐に専念していた先輩だったが、ふと、そう声を漏らした。

「意外、ですか?」

「こう言ってしまうと失礼かもしれないけど、高校時代の君はあまり他人に興味を持っているようには見えなかったからね。だから、そんな君が探偵なんて仕事をしているのが不思議に思えたんだ」

「そんな風に見えてましたか、俺」

「人当たりが悪かったとかそう言っているわけじゃないんだ。ただ、凪島くんは他の人たちに比べて、他人の内側に踏み込もうとすることがほとんどなかったように見えた。親身に接することはあっても、他人の気持ちをどうこうしようとするタイプじゃないように、私には思えたんだ」

じわりと、昔の記憶が蘇ってくる。

「なんていうのかな、壁があるというと語弊があるな、自分と他人との間にきっちりと一線が引かれていて、決してそこを越えたりはしない。そんな感じかな」

実は、同じようなことを言われたことが過去に二度ある。

高校を卒業する直前と、大学に入学した直後、どちらも別の人からだ。

「だから、探偵っていう人の秘密を覗くような仕事を君がしていることに驚いた」

「そう、ですか……」

頭は記憶に埋め尽くされていて、返事はぼやけたものになっている。

一度目は拒絶。

二度目は受容。

異なる理由で同じことを言われ、当時の俺はどんな気持ちだっただろう。

もはや記憶は朧げで、はっきりと思い出すことはできない。

そして三度目の今、先輩はどんな意図で俺をそう評したのだろうか。

「気を悪くしたらすまない。別に悪い意味で言ったつもりじゃないんだ」

「いえ、大丈夫です。心配いりません。昔、麻生先輩にも同じこと言われてますし」

「あぁ……そうだったのか。確かに遥なら言いそうだな」

先輩は懐かしむような表情でそう口にする。

放火事件以来連絡は取っていないはずだが、やはり昔の関係の名残はあるのだろう。

おそらく、先輩が思い描いているであろう光景は、実際に俺が遥先輩からそう言われたシチュエーションとはまるで違っている。

だが、そのことについて水川先輩に話すつもりはない。これは、俺と遥先輩だけの話なのだ。

ほとんど手をつけていなかった杏仁豆腐を一気にかきこむ。

「いい時間ですね。そろそろ出ましょうか」


会計を済ませて店を出ると、散らばる雑踏が耳に戻ってくる。

「今日は頼まなかったけどね、ここは炒飯もなかなか美味しいんだ。次来ることがあったら食べてみるといいよ。量がかなり多いんだけど、君なら問題ないと思う」

「俺はそんな大食らいってわけじゃないですけどね」

「私よりは胃に物が入るだろう?」

「そりゃまぁそうですね」

水川先輩は女性にしては背が高い方なのだが、成人男性の平均身長程度の俺と比べるとやはり体格は華奢だ。そして、直接確認したわけではないが、多分、先輩は身体があまり強くない。

俺の知る限り、高校時代の体育はすべて見学していたはずだ。代わりに先生の手伝いなどをすることで授業自体には参加していたらしいのだが、先輩が運動している姿を俺は見たことがない。

商店街の本通りへと戻ってきた時、目の前を見知った顔が過ぎ去っていった。

「どうかした?」

先輩が横から声をかけてくる。

思わず目で追ってしまっていて、不思議に思われたようだ。

「あ、いえ、なんでもないです」

俺は慌てて返事をするが、頭の中は今見た光景でいっぱいになっていた。

通り過ぎていったのは件の浮気調査の依頼主、梶田さんだった。

同じ街に住んでいるのだ。それだけならば別に不自然なことではない。すれ違う事もあるだろう。

だが、あの表情は異様だった。

ものすごい形相をしていたわけではない。むしろその逆だ。

その顔には、何の感情も浮かんでいなかった。能面のように凝り固められ、血の気の引いた真っ白な表情。

そして、頭部の周囲を漂う黒い靄。

間違いなく、淀みだった。

その異様さに気を取られ、じっと据えられた視線の先まで意識する事ができなかったのは手痛い失敗だった。

先輩に声をかけられ一度は目を離したが、不穏な予感が拭いきれず、俺は梶田さんが歩き去った方へ振り向き直す。

猫背でトボトボと歩く様子は老人のように見えた。

左手には見覚えのある黒い鞄をぶら下げている。梶田さんが事務所に来るときいつも身につけていたものだ。

すると、梶田さんはその鞄から何かを取り出したようだった。

こちらからは梶田さんが取り出したものが何なのかはわからなかったが、梶田さんの周囲にいた人たちがざわつき始めた。

瞬く間にどよめきが広がっていく。

「何か起きた?」

水川先輩がその様子に気付いて声を発した直後だった。


「ああああああああああああ!」


耳に重く響く、限界まで喉を絞り上げることで吐き出された捻れた咆哮。

人間が出せる音とは思えなかった。

梶田さんは叫び声を上げながら、破裂したかのような勢いで走り出す。


迂闊だった。


梶田さんだけではなく、彼が何を見ていたのか、何を追っていたのか、そこに注意するべきだったのだ。

梶田さんが向かうその先には二つの人影があった。

その後ろ姿には見覚えがある。

つい先日尾行したばかりの二人。

梶田さんの奥さんと、その浮気相手だ。

大声に反応した二人が振り向く。

真っ先に反応したのは奥さんの方だった。

梶田さんを見て驚愕の表情を浮かべた直後、一瞬でその顔は恐怖に染まる。

混乱していた俺の思考も、その瞬間に状況を悟った。


「ダメだ!梶田さん!」


走り出すことに躊躇はなかった。

だが、間に合わなかった。


梶田さんの身体が奥さんに衝突した。

数秒の静寂があった。

苦痛に歪んだ表情を浮かべながら、奥さんが膝から崩れ落ちていく。

そして、倒れ伏した奥さんの下から赤黒い液体がじわりと広がっていく。

血。

そして悲鳴。

一瞬にして混乱が蔓延し、周囲の人たちが逃げ出していく。

奥さんの隣にいた男は腰を抜かして地面にへたり込んでいた。

梶田さんが、必死で後ずさりしてその場を逃れようとする男の方へと身体を向ける。その前面は返り血で赤く染まっていた。

「ひっ」

すぐ後ろから、水川先輩が息を飲む音が聞こえた。

どうやら走り出した俺の後をついてきていたらしい。

俺は、自分の足が止まっていたことに気付く。

「それ以上はダメだ!やめてください!」

思わず叫んでいた。

そして、それだけにしておけばよかったのだ。

血に染まった刃物。

血溜まり。

そこに倒れ伏す女。

その光景は、俺のトラウマを刺激した。

なんとしてでもそれ以上の被害を防がなければならない。そんな思いで頭が埋め尽くされて、冷静に考える余地はすべて奪われてしまっていた。

俺は再び駆け出す。

何か考えがあったわけじゃない。

刃物を持った相手に何の策も練らずに飛びかかろうとするのがどれだけ愚かな行為か、そんなことすらもわからなくなっていたのだ。

だが、間に合うはずがなかった。

梶田さんはこちらに見向きもせず、淡々と手に持った大ぶりのサバイバルナイフを振り下ろし、男の胸に突き立てる。

男の喉から、掠れた音が響いた。

深々と突き刺さったナイフが抜かれ、傷口から吹き出た鮮血が梶田さんを更に赤く染めていく。

その時初めて俺は笑顔の梶田さんを見た。

痙攣する男を見下ろしながらニコニコと微笑むその表情は、今この場で起きていることが嘘に思えるくらいに晴れやかなものだったのである。

しかし、梶田さんの目が俺に向けられた直後、笑顔は一瞬で消え去った。

無。

さっきすれ違った時と同じ、何も読み取れない、空っぽの感情を貼り付けた表情になっていた。

俺に向けられていた視線が不意にずれ、背後に向けられる。

つられて振り向くと、俺のすぐ後ろに水川先輩が青ざめた表情で立っていた。

油断だった。

彼から、目を離すべきではなかった。

「お前みたいなやつがああああ!」

再び咆哮が響き渡る。

思わず振り向くと、血に染まったナイフを振り上げた梶田さんが俺に向かって突進してきていた。

理由はわからないが、梶田さんの次の攻撃対象が俺になったのは間違いない。

「先輩!遠くへ!」

避けることはできなかった。後ろに先輩がいたからだ。

梶田さんを無傷で制することはできないだろう。狂った人間の力は常人のそれとはまるで違う。ましてや相手は男である。

だが、大怪我を覚悟してさえいれば何とか相討ちに持っていくことくらいはできるはずだ。

目の前に梶田さんが迫り、今にもナイフが振り下ろされそうになった、その瞬間だった。


突如、横から身体を突き飛ばされた。


全集中力を前方に向けていたせいで横からの衝撃に対応しきれず、俺の身体は無様に倒れていく。

それからの一瞬は、スローモーションのように感じられた。

倒れゆく中、自分が元々立っていた場所に視線を向けると、そこには両手を張り出した水川先輩がいた。どうやら彼女が俺を突き飛ばしたらしい。

迫りくる梶田さんは、姿勢を崩した俺に少しも目を向けることなく、入れ替わるようにして立ち塞がった水川先輩に向けて、そのままナイフを振り下ろそうとしていた。

先輩は俺を庇ったのか?

なんでそんな無茶を?

なんでそんな馬鹿な真似を?

このままでは大怪我どころでは済まないと、俺は必死で姿勢を戻そうとする。だが、思考の速度に身体がついていかない。

せめて避けてくれと叫びたくても、声を出すことすら追いつかない。

どうしようもないのか。

諦念と同時に俺の脳裏に浮かんだのは、大学時代のあの記憶。

血溜まりに倒れた、彼女の姿。


しかし、その光景が再現されることはなかった。


水川先輩の身体から、黒い靄が噴き出して辺りを覆い尽くす。

広がった靄が凝縮し、彼女と梶田さんの間に黒い壁として立ちはだかる。

水川先輩に憑いている淀みが、今ここで姿を現したのだ。

驚く間も無く状況は一変していく。

何もかもがスローに流れていく中で、淀みだけは変わらぬ速度で蠢いている。

壁から突き出された腕は、あの時俺にそうしたように梶田さんの頬を撫ぜ、首元に指を滑らせた。指先が首筋に沈んでいく。

浮かび上がった頭部は、空っぽの瞳で梶田さんをじっと見つめている。

そこまでは、俺が体験したものと同じだった。

だが、今度は指先が止まることなく食い込んでいき、ついには掌全てが首筋に吸い込まれていく。

そして、それまで無表情だった顔がニタリと不気味な笑みを浮かべた、次の瞬間だった。

黒い壁が突如形を変え、梶田さんの全身を包み込んだのである。

梶田さんの姿は完全に覆い隠され、中が全く見えなくなった。


グルン、と何かが捻れる。


音がしたわけではない。

景色に変化があったわけでもない。

ただ、さっきまでそこにあったはずの何かがねじ曲がってしまった、そんな感覚が確かに感じられたのだ。


スローモーションは唐突に終わりを告げた。

今まで周囲に漂っていた淀みはいつの間にか消え去り、地面に倒れ込みそうになっていた俺は咄嗟に体制を変え、何とかして先輩と梶田さんの間に割って入ろうとしていた。

だが、幸か不幸かその行動は意味を成さなかった。

梶田さんの動きが止まっていたからである。

彼はナイフを振り上げた姿勢のまま、視線をふらふらと彷徨わせていた。

一方、先輩は俺を突き飛ばした反動か、尻餅をついて地面に座り込んでいた。

「大丈夫ですか!」

ついさっき現れた淀みのことが頭を過ぎったが、とにかく今は安全を確保するべきだと判断し、俺は先輩を抱きかかえて梶田さんから距離を取る。

そうしてから改めて先輩の様子を伺うと、彼女は目を大きく見開いて息を荒げていた。

「平気、ですか」

尋ねてみたが、返事はない。聞こえてはいるようだが、呼吸を整えるのに必死なようだった。

「お、おおおお……」

不意に梶田さんが唸り声を上げた。

緊張が走ったが、ナイフをまだ手に持ったままとはいえ腕はだらりと下ろされており、彼の視線は虚空を見つめていた。

どうにか鎮まったのだろうか。

まだまだ安心は出来ないが、とにかく一定の距離を取ることが出来たのは大きい。これならこの場から上手く逃げ出すことも可能だ。

「先輩、立てますか?」

できるだけ早くこの場を離れるべきだと思い、傍らに座り込んでいた先輩に話しかける。しかし、彼女の口から吐き出されたのは俺に対する返事ではなく、驚愕と恐怖を纏った掠れ声だった。

「あ……」

先輩の視線の先に俺も目を向ける。

そこには先ほどまでと変わらず立ち尽くす梶田さんがいた。

違ったのは、彼が大粒の涙をながしていたこと、そして、ナイフを両手で構えていたこと。

「悪いのは、誰だ?」

彼の口から、誰に向けるでもなく、ポツリと言葉が落とされた。


どうしようもなかった。

声を出す暇もなかった。


言葉が空気に溶け込むよりも早く。


彼は、自らの喉にナイフを突き立てた。

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