表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Maltreated Alice  作者: 本田そこ
2/7

第2章 回想

特異状況調査会、略して特調会。

京都を本拠地とし全国に支部を持つ、淀みに関わる問題を包括的に処理する組織である。

表立って特調会を名乗ることはなく、大抵は何かしらの企業や非営利組織の看板を掲げており、多少経路が複雑ではあるが、全ての組織が国の管轄下に置かれている正式な国家機関である。

その歴史は古く、遡ればかの陰陽師が跋扈した時代まで行き着くというが、その真偽は定かでない。

ここ神野町に居を構える逆村探偵事務所も、そんな特調会の支部の一つであった。

駅から徒歩十分、商店街と住宅街の狭間にある場所にぽつりと存在する、二階建ての小さなコンクリート造り。その一階にあるのが逆村探偵事務所である。

事務所に来るのは初めてだったが、住所は教えてもらっていたし看板はついているしで迷う余地はなかった。

今は朝の九時過ぎ。普通の会社員ならば始業開始時刻といったところか。来てくれと言われた時間よりだいぶ早く出てきてしまった。

昨日の夕方、水川先輩と別れてすぐに逆村さんへ俺が目撃した淀みのことを電話で報告した。場合によっては急ぐ必要があるかもしれないと思ったからだ。

逆村さんも先輩に憑いていた淀みが普通でないことはすぐに理解したようだが、逆村さんに時間の余裕がなく、電話はすぐに終わってしまった。一応、最近はこれといって重大な事件も起きていないから緊急性はそれほど高くないだろうと言ってくれたのだが、不安はどうにも拭えず、日が開けて今朝、はやる気持ちのままに家を出たのである。

CLOSED の札がかけられてはいたものの、事務所の鍵は既に開いていた。いやまぁ、鍵を貰っていないから締まっていたら困るのだけど、逆村さんは朝に弱いと聞いていたからギリギリになるまで事務所には誰もいないのだと思っていた。

開いていなかったら近くの喫茶店にでも行って時間を潰そうかと思っていたのだが、入れるのなら入ってしまおう。おそらく、昨日車の中で話に出ていた二人のどちらか、あるいは両方がもう来ているのだろう。

「おはようございまーす」

挨拶しながら中に入るが、返事はなかった。

扉を開けてすぐのエリアは開けていて、観葉植物も置いてある。応接室らしき部屋へのドアがあり、奥にはキッチンと思しき場所が見える。反対側にはパーティションが置かれており、それが客対応用とそれ以外のエリアの境目となっているであろうことが窺えた。

どういう風に仕事をすることになるのか、デスクワークなのかすら曖昧なままに話が進んでいたので、どう振る舞えばよいのかさっぱりわかっていない。社員になったことは確かだが、それ以外の情報が皆無なのである。

「まぁ、とりあえずはオフィスエリア、かな……」

そう独り言ちてパーティションの奥へと向かう。

探偵事務所と聞いていたから、なんとなく、書類の山に埋もれたデスクが並ぶ古めかしく雑然とした薄暗い光景を思い浮かべていたのだが、実際はかなり違っていた。

中心に白く細長い大きなデスクが置いてあり、その周囲に四つのオフィスチェアが配置されている。デスクの上には幾つかの書類が散らばってはいるものの綺麗に整理整頓されており、すっきりとした印象がある。

壁際にはもう一つ小さなデスクがあり、そちらも少々古びた印象はあるものの、かなり綺麗な状態が保たれている。これは多分、逆村さんのデスクだろう。

空いたスペースには小さなテーブルとソファがある。ミーティングか何かで使うのだろうか。

その反対側の壁一面は、ほとんどがガラス戸付きの本棚になっている。詰められているもののほとんどがファイルだ。仕事の記録だろう。まだまだ紙の書類が猛威を振るっている時代である。

照明は眩しすぎない程度に明るく、オフィス内を満遍なく照らしている。

なんというか、モダンな IT ベンチャーのオフィスみたいだと思った。逆村さんのセンスなのだろうか。個人的にはかなり気に入っている。

しかし、先程からその光景に似合わない存在がちらちらと視界に入っている。

なるべく意識にのぼらせないようにしていたが、さすがに放っておくわけにもいかないだろう。

ミーティングスペースと思しきエリアにある二人がけのソファ。

いわゆるゴシックロリータと呼ばれるタイプの服を来た長身の女性が、そこで睡眠を取っていたのである。

二人がけとはいえコンパクトなソファにその長身はさすがに収まりきらなかったようで、折り曲げられた身体はどこか窮屈そうだ。

起こすべきなのだろうか。

そもそも、この女性は誰なのか。

鍵が開いていたことから察するに、事務所のスタッフであると考えるのが自然だ。

しかし、この服装がその予想に疑問を投げかける。

探偵事務所にゴスロリという組み合わせはどこかフィクションめいた空気を醸し出しているが、俺が聞いている限り、逆村探偵事務所の業務は身辺調査等の一般的な探偵業と変わりなく、決して難事件の解決などではない。

もぞり、とゴスロリの足が動いた。

ソファの下に脱がされたブーツが丁寧に置かれている。ということは、この人はそれなりにしっかり睡眠を取るつもりでソファに寝ているわけだから、やはり事務所の人なのだろうか。

昨日の話からすると、現在逆村探偵事務所に所属しているのは俺を含めて四名だ。そこから逆村さんと俺を除いた二人、名前だけ聞いている林田さんと赤岡さん、ここで寝ているゴスロリさんはそのどちらかということになる。

それならば俺はどう振舞うべきだろうか。

初めてここに来た身としては勝手がまるでわからない。社員となりはしたものの、何も教えられていないままにオフィスのあちこちをいじり回していいわけではないだろう。

こうなっては仕方がない。

睡眠を邪魔しては悪いという気持ちがなくもないが、このまま気まずい空間で時間を潰すよりは声をかけて挨拶でもしておいた方がいい。

そう思って彼女の方へと近寄りいざ声をかけようとした瞬間、ふと、過ぎったのだ。

少なくとも、ここに寝ているのは女性である。

女装した男という可能性はなくもないが、図らずも見えてしまった脚先や、顔立ちと喉仏の有無などから、ほぼ女性であると結論づけてもいいだろう。

また、俺は林田さんとも赤岡さんとも会ったことはなく、互いの顔を把握していない。

さて、そんな状況において、今ここに寝ている女性からすれば今の俺は一体どんな存在であろう。

俺が声を発する前に、ゴスロリさんの目がパチリと開かれた。

その視線は数瞬空を彷徨うが、ほどなく俺を捉えた。

目が合う。

俺の意識はそこで途切れた。


気が付くと、視界一面に事務所の天井が映っている。

背中の感触が柔らかい。どうやらソファに寝かされているようだった。

いまいち状況が掴めないままにとりあえず起き上がろうとすると、背中と顎に痛みが走る。

「……っつ」

幸いにしてそれほど強烈な痛みではなかったので、少し我慢すれば問題はなさそうだ。

「あ……」

顔を顰めながら身体を起こしていると、すぐ近くから声がした。向かいのソファに顔を向けると、そこにはゴスロリ服の女性が座っていた。眼鏡をしている。

「顎、大丈夫ですか?」

「えぇまぁ……ちょっとヒリヒリするけど」

どうやら彼女は俺の状態を把握しているらしい。

俺の答えを聞いてか、彼女は頭を垂れる。

「本当にごめんなさい。寝起きだったから、咄嗟の判断でつい……」

「……何のこと?」

「え、覚えてないんですか?」

顔を上げた彼女の表情はさっきよりも深刻さを増している。

「もしかして、記憶喪失……」

「いやいや、そういうんじゃないよ」

どんどんと青ざめていく顔を見て、俺は慌ててフォローする。

「気付いたらソファで寝てたから、何でだろうと思って。事務所に入ってきたところまでは覚えてるんだけど、そこからの記憶が曖昧でさ」

「あ、そうなんですね……」

彼女はほっと息をつく。少しは安心してもらえたらしい。

それはよいのだが、結局、俺は何故ソファに寝ていたのだろうか。どうやら目の前の彼女は事情を知っているらしいから尋ねてみようと思ったその時、パーティションの向こう側から逆村さんが現れた。手にはコーヒーカップを持っている。

「お、起きたね」

逆村さんは俺を見てそう言ったあと、視線をゴスロリさんの方へと向ける。

「よかったね。人殺しにならずに済んだみたいだ」

「さすがにそこまでの心配はしてませんでしたよ!……いやまぁ、ちょっとはその、ヤバい場所蹴っちゃったかも、とは思いましたけど……」

飛び交う不穏な言葉に刺激されたのか、失われていた記憶が急激に蘇ってきた。

そうだ、俺はソファに寝ているこの人を起こそうとして近づいたのだ。

そして声をかける直前に彼女が目覚め、次の瞬間、強い衝撃とともに意識が飛んだ。

「俺、顎を蹴っ飛ばされたんですね……」

「起きたら知らない男の人が目の前にいたから、思わず……」


それから、ひたすら謝り続ける彼女に対して、迂闊に近づいた自分も悪かったとなんとか言い含め、場を収めることに成功した。

「あ、自己紹介が遅れてすみません。僕は林田です。よろしくお願いします」

ゴスロリの彼女がそう口にした。

僕?

「……俺は凪島です。こちらこそよろしく」

とりあえず自分も名乗ったが、頭の中には疑念が膨らむ。

そういえば昨日の逆村さんの口ぶりだと女性は一人、赤岡さんだけのように聞こえた。ということは、つまり今目の前にいるこの人は。

「一応言っておくけど、林田くんは女性だよ」

やり取りを聞いて何かを察したのか、逆村さんが口を挟んできた。

それを受けて林田さんははっと気付いたような顔をして口を開く。

「あー、そっか。これ、昔からの癖なんですよ。お客さんの相手をする時とかは、私、って言うようにしてるんですけど」

なるほど。どうやらいわゆる僕っ娘というやつらしい。

「それにしても林田くん、きみ、今日はやたらと早いね。どうしたの?」

「いやー、昨日カラオケでオールしちゃって。家帰るの面倒だったんでここで寝てたんですよ」

「……大した距離じゃないでしょ」

「あまりにも眠すぎて……」

林田さんはえへへと笑ったあと、こちらに振り向く

「あ、シャワー借りたから匂いとかは大丈夫なんで!」

鍵を開けっ放しで眠りこけはしても、そういうところは気にするらしい。

「ここ、シャワー付いてるんですね」

「二階が住居スペースになってるんだ。というか、もともと二階建ての一軒家だったのを改装して事務所にしたんだけどね」

「あれ、じゃぁ、逆村さんの家ってここなんですか?」

「いや、ここには今は誰も住んでないよ。水周りが生きてるから、彼女みたいにたまに使う人はいるけどね」

「朝からお風呂に浸るの、気持ちいいんですよぉ」

「そもそも、なんで上のベッド使わなかったの?」

「それだと爆睡して寝坊しちゃうかなって」


逆村さんが席を立ち、こちらにやってきた。傍らにはタブレットを抱えている。

「林田くん、凪島くんの隣に行ってもらえる?」

「はいはーい」

カツカツとブーツを鳴らし、林田さんがこちらにやってくる。実際に動いている光景を見るとますます内装とのギャップが激しく映る。逆村さんは慣れているのか、全く気にも留めない。

向かいのソファに腰を下ろした逆村さんはタブレット端末を起動してテーブルに置く。

「今日のところは残ってる細かな手続きをしたり過去の記録を読んでもらおうかと思ってたんだけどね」

「何かありましたっけ」

「本部に出す書類とかだよ。まぁ、それは時間が空いたらでいいよ。今はひとまず昨日の話の続きをしよう。緊急性が高いかもしれないからね」

「はい」

水川先輩に憑いていた淀みの件だ。

「電話越しだったし時間もなかったしでちゃんと話を聞けなかったからね、もう一度、詳しく話を聞かせてくれるかい」

「わかりました」

「林田くんにも聞かせるし、あとで赤岡さんにも共有する。うちで処理できればそれでいいけど、場合によっては本部が出張ってくる可能性もある。構わないね?」

これは確認であり選択肢の掲示ではない。そもそも拒むつもりはないが、仮に拒んだとしても何も変わらないだろう。

「えぇ、大丈夫です」

俺はそう言ってから、昨日の出来事を改めて二人に説明した。

たった一瞬の出来事だったので、内容自体はそれほど多くなく、時間も要さなかった。

俺が話し終えたあと、逆村さんは少し考える仕草を見せたが、ほどなく口を開いた。

「……昨日も電話で話したけど、ここ最近は淀み関連と思しき問題はあまり発生していない。あったとしても軽微なものばかりだ。凪島くんから連絡をもらったあとに軽く記録を漁ったんだけど、ここ数年に神野町近辺で起きた事件の中に淀みに関わることで原因不明なものはない」

「……そうなんですね」

「話によればその水川さんは神野町に来てからもう何年も経っているみたいだね。となれば、少なくともここに来てからは彼女の淀みが何か問題を起こした可能性は低いと言っていい」

「そういうことになるんですかね」

「あぁ。だけど、放っておいていいというわけではない。表沙汰にならない形で周囲に害を及ぼし続けているのかもしれないし、これから何かを引き起こすかもしれない。少し淀みが濃くなったくらいなら注意しておきましょう程度の話でよかったんだけど」

「……はい。見間違いではないですね、あれは」

先輩と俺の間に聳え立つ黒い壁。そこから生えてきたしなやかな腕と、浮かび上がった空虚な頭部。記憶は白昼夢のようにおぼろげでも、じりじりと喉元に食い込んだ細い指の感触は、未だ消えずに残っている。

「淀みの濃さは危険度のバロメーターでもあったわけだけど、君が見たように淀みが確固たる形を持っているものはもはやまるで違うレベルにある。一応、特調会の見解としては形を与えられたということは安定性を手に入れたことも示している、という具合なんだけど……」

「水川先輩の場合は違う、ということですか?」

「その可能性がある。見逃せない点は二つだ。淀みが君に干渉を試みたということ、そして、彼女が自身に憑いた淀みを認識できていないということ」

こちらに向けられたピースサインは、決してふざけたものではない。

「念の為に聞くけど、凪島くん、何か身体に異常を感じたりはしていないかい?」

「大丈夫、だと思います。少なくとも今の自分の認識では、ですけど」

「ふむ。まぁ、僕から見ても変なところはないように思えるし、君については安心しておいていいのかな」

淀みによる干渉は、大抵が何らかの物理的現象として現れる。

物が動く、音が鳴る、幻覚が見える、などなどの、いわゆる怪奇現象にカテゴライズされる形で、人の錯覚に紛れるようにしてこの世に対する淀みの干渉は行われている。

俺が昨日遭遇した現象も、言って仕舞えば単なる幻覚と片付けてしまうことだってできる。

しかし、淀みを軽視できないのは、時に人の認識のより深い場所へと干渉を行うことがあり得るからだ。

かつて俺が巻き込まれた事件では、ある人に取り憑いた淀みが周囲の人間の暴力性を強く喚起し、最終的には刃傷沙汰にまで発展した。影響を受けた人達は、総じて武器を手に取り暴力を行使したのだ。できることならあの血溜まりの光景はもう思い出したくはない。

こういった干渉は、本人が気付かない内に行われることがほとんどだ。無理やり操るのではなく、その人自身の思考に影響を与えるからである。

ゆえに俺に自覚がなくとも、先輩に憑いている淀みから今も何らかの影響を受けている可能性は捨て切れないのだ。

しかし、専門家である逆村さんから見ておかしなところがないのなら、ひとまずは安心してよいのだろう。

一連のやり取りを聞いてから、林田さんが口を挟んできた。

「それだけ具現化してるってこともヤバいなって思いますけど、自分でそれを制御できてないって、その人かなりマズイ状態にあるんじゃないですか?」

林田さんは何かを手に持って振り回すような仕草をする。それにどんな意味があるのだろう。

「それ、どういう意味?」

俺は林田さんに尋ねる。動きではなく言葉についての疑問だ。

「えっと、淀みが濃ければ濃いほど憑かれている人の疲労は激しくなりますよね。頭使うのが嫌になるくらい。で、さっき所長は安定してるって言ってましたけど、それはそうとしてもとんでもない濃さの淀みであることには変わりないわけですし、それが姿を見せたりすれば、憑かれてる本人、この場合だとその水川さんですね、身体に相当な負荷がかかるんじゃないですか」

それを受けて逆村さんが応える。

「確かにその通り。もしかすると水川さんは常日頃から強い疲労感や倦怠感を覚えている可能性がある。医者に通っているなら、気分障害とか、酷ければ鬱とか、そういった診断結果ももらっているかもしれない」

「はい。自分に憑いた淀みを認識していて制御できているなら、身体を必要以上に蝕むことはないと思います。でも、凪島さんの話を聞いた限りだと、些細なきっかけでその黒い壁が現れてしまっているんじゃないかと思うんです。今は大丈夫でも、いつかは自分のキャパシティを超えてしまって淀みに呑まれちゃうんじゃないんですか」

淀みに呑まれる。

人があまりにも濃い淀みに蝕まれ続けると、意識を蝕まれ、廃人同然の存在になってしまう。

脳が傷ついたりするわけではないので、そうなったとしても回復した事例がないわけではない。しかし、一度呑まれてしまった人間はほぼ確実に後遺症に苛まれる。その後の人生に悪しき影響を与えてしまうことは免れられないのだ。

「そうだね。だから、知ってしまった以上、我々は彼女を放っておくことはできない。もちろん、彼女自身の身を案じているというのが一番の理由だ。だけどそれに加えて、人に干渉を試みるほどに肥大化した淀みが誰の制御下にも置かれぬままになっているのは非常に危険な状態だと言わざるを得ない。もし何かあれば、彼女だけではなく周りにいる多くの人間を巻き込むことにもなりかねない」

「そうなりますね……」

俺は一言そう呟いた。

予想通り、事態は大きくなってきた。あれほどに具現化した淀みを見たのは昨日が初めてだったが、そんな自分でさえも直感でその危うさを理解できたのだ。

逆村さんは直接あれを見てはいないが、俺のもたらした断片的な情報と過去の経験からそう結論づけたのだろう。

「ということで、今日から当面の間、君が取り組むことになるであろう仕事の話だ」

タブレット端末を操作しながら逆村さんは渋い顔をしている。テーブルに置かれたままだから画面はこちらからでも見ることができる。どうやらカレンダーを確認しているらしい。

「どうかしました?」

「本来なら、知り合いである君に任せるのはあまり良くないことだと思うんだけど……」

逆村さんが言わんとすることはなんとなく予想できた。

「凪島くんに任せたいのは、水川一縷さんの身辺調査だ。いつ、どのようにして、どんな淀みが彼女に憑いたのか、それを探りたい」

「俺が先輩を……」

「まぁ、背景を把握しないと淀みがどんなものなのか推測することもできませんしね」

林田さんが言う。

「でも、いいんですか?見知った人相手にそれやるの、色々大変ですよ?」

「そうなんだよね。だけど君も赤岡さんも融通効くような形でスケジュール空いてなくてさ」

「そうでしたっけ」

「それに、凪島くんと水川さんは知り合いとはいえ再会したのが最近ってだけで、交流があったのは何年も前の話だ。その辺りはなんとかなると思ってる。凪島くん、どうかな?」

逆村さんの目が俺に向けられた。

実際、逆村さんの言うように俺と水川先輩の間に交流があったのは高校時代までだ。その当時だって、生徒会という組織の中で共に活動はしていたけれど、特別仲がよかったというわけでもない。

だがそれゆえに、昨日会った先輩の様子が高校時代のそれと様変わりしていたことにかなり驚かされてしまった。

ともすれば冷徹とでも称されそうなほどに完璧主義で、崩れたところなど微塵も見せる気配のない堅物の生徒会長。風紀委員とすら見紛うほどに規律正しく振る舞う様は、近づくものに対する壁を作りつつも、多くの生徒から憧憬の目を向けられていたのだ。

そんな彼女が今やくたびれたジャージで街を出歩きコンビニでカップラーメンを啜るニートになっている。

年月は徐々に人を変えるものだが、これだけの変化には何かしら別の原因があるとみるのが自然だろう。

正直に言えば、そうした変化について個人的に興味がないわけではない。知れるものなら知りたいと思っている自分がいるのは確かだ。

「えぇ、問題ありません。やらせてください」

人の過去に深入りすることは危険を孕んでいる。知りたくもなかったことを知ってしまうリスクもある。ただ、俺はそういう点で少し感覚が麻痺していたのかもしれない。

「身辺調査って点では普通の探偵業と変わらないから、やること自体はそれほど難しいことじゃない。せいぜい依頼人がいるかいないかくらいしか変わりはないし、僕も可能な限りサポートする。ややこしいことになってきたら林田くんや赤岡さんにも手伝ってもらうことになる」

「顔が割れてると面倒そうな場合は僕の出番ですかね」

林田さんが顔を乗り出してくる。

「そうなるかな。梶田さんの件と都合がつけばだけど」

「あれ、多分クロですしそろそろボロが出ますよ」

「……そっか。ま、それは後で話を聞くよ」

そう言ってから逆村さんは一つ咳払いをする。

「というわけで、だ。調査の基本についておさらいしてから、今後の具体的な動き方を考えていこう」



大学生の時、淀み絡みの事件に巻き込まれた俺は、その時たまたま出向してきていた逆村さんの世話になり窮地を脱することができた。その縁があって、大学生の間にも何度か逆村さんの仕事を手伝ったことがある。探偵半分淀み半分といった具合で、簡単な仕事なら経験はあったのだが、今回の件にどれほど活きてくるかはわからない。

最初の一歩としては、水川先輩の昔の友人をあたるとか大学に聴き込みに行くとか、色々と案は出たのだが、結論は別の形になった。

どこから聞きつけたのか、高校時代の先輩であり水川先輩と同じ大学へと進学していた麻生遥先輩から、就職祝いをするから新宿まで出て来いとの連絡が来ていたのである。

その話を逆村さん達にすると、ひとまずその場で軽く探りを入れてくるのがよいだろうとのことだった。

水川先輩と遥先輩の仲は特に悪くはなかったと思うが、お互いにあまり親密な友人を持つタイプではなかったので、大した情報が手に入るとは思えない。しかし、今後の調査の為に何かしら取っ掛かりになる情報は出てくるかもしれない、そう判断してのことだ。

「プライベートと仕事を混同するのは避けたいんだけどね。渡りに船って感じだから仕方ないかな。あまり突っ込んだことまでは聞けないだろうし聞かなくていいよ。プライベート優先で」

とは逆村さんの談である。

交友関係を仕事に利用することに抵抗がないわけではないが、今のところ誰かに迷惑をかけるような事態には至っていないし、ここは思い切って我慢することにした。

というわけで、逆村さん達とのミーティングから二日後の夜、俺は新宿にやってきていた。

待ち合わせ場所は未だ不明だが、時間が近づいてきたら多分遥先輩から連絡がくるだろう。前もって細かいことを決めておくような人ではないのだ。

しかし、俺が定職についたことを先輩はどこから知ったのか。

高校時代からちょくちょく連絡を取り合ってはいたが、この前まで日本中を飛び回っていた間はほとんど関わりはなかったし、自分の状況を教えたこともない。

そのことを知っていたのは俺自身を除けば伊藤と外山くらいだったから、誰かから聞いたとすればそのどちらかから聞いたとしか考えられないが、遥先輩がその二人と接点を持っているとは考えづらい。どちらも大学に入ってから知り合った相手だからだ。

仮に繋がりがあったとしても、俺が逆村さんの事務所に勤めることになった事は今度こそ俺以外には逆村さんとその関係者しか知り得ない。

改めて現状を考え直してみると、微妙に不穏な空気が漂っているような気がしてきた。

果たして、俺は安全な環境にいるのだろうか。

そんなことを考えていたらスマホに連絡がきた。遥先輩からのメッセージだ。


うしろ。


一瞬ぞわりと背筋が冷えたが、三文字の短いメッセージが言わんとする事は明らかだったので振り向いてみると、なんとそこには誰もいなかった。

ただただ人が過ぎ去っていく。

不思議に思って前に向き直すと、至近距離にいつの間にか一人の女性が立っていて、こちらを見ながらニヤニヤと笑っていた。

唐突だったのでギョッと後ずさりしてしまったが、よく見てみれば不思議でも不気味でもなんでもない。

眉の上で切り揃えられた前髪に、ミディアムロングの黒髪。サイドに赤いメッシュを一本入れたその風貌は、記憶の中の姿のままだった。

彼女が麻生遥、俺の先輩であり今日の待ち合わせの相手である。

眼鏡の奥でグレーの瞳が静かに輝く。

「やっぱり振り向く時は右回りなんだねぇ」

どうやら、後ろを振り向かせたその隙に回り込んだようである。

久しぶりに会って開口一番の台詞がこれなのが相変わらず先輩らしい。

白いワンピースに七分袖のデニムジャケットを羽織り、赤いパンプスを履いている。遥先輩としてはなかなか新鮮な格好だ。この一年で服の趣味に変化があったのだろうか。

「お久しぶりです、遥先輩」

「久しぶり。考はあんま変わってないね」

服装も髪型も、最後に遥先輩に会ってから特に変化はない。元々その辺りに疎いし、こだわりもないのだ。

「遥先輩は……少し髪を伸ばしました?」

「お、よく気付いたね」

「前会ったときからだいぶ伸びてますよ」

「あれ、そうだったっけ」

そう言いながら肩まで伸びた髪先をくるくると弄っている。

その様子を見ながらさっきまで頭に浮かんでいた疑問を投げかけようと口を開こうとしたら、先に彼女が切り出してきた。

「さてと、積もる話もあるだろうけど、立ち話もなんだしとっとと店に入ろうか」

「あ、はい」

先を越される形になったが、思い返して見れば遥先輩の振る舞いは昔から大体こんな感じだった。

実際、雑踏の激しいこの場所では会話をするのも少々手間だし、話をするのは落ち着いた場所に移動してからでいい。

言い出すや否やさっさと歩き出してしまった彼女の後を、少し駆け足で追っていく。


先輩に導かれるまま裏路地に入り込み辿り着いた店は、和風の装いの中にどこかエスニックな装飾が散りばめられた不思議な雰囲気の場所だった。

店の奥の半個室へと追いやられ、気付けば遥先輩があれこれと注文をしており俺の分の酒まで勝手に頼まれていた。

「さっぱりしてて飲みやすいんだ。一杯目にはうってつけ」

彼女はそう言いながらジャケットをハンガーにかけている。

「聞いたことない名前です、これ」

「ここのオリジナルなんだってさ。ビールダメでもこれならいけるよ」

俺はビールがイマイチ好きになれない。苦いのが嫌いだとかそういうわけではないんだけど、なんとなく飲みたさを感じないのだ。遥先輩とは何度か一緒にお酒を飲んでいるので、彼女は俺の好みを把握している。

飲み物が届き、乾杯を交わした。

「どうだった?日本全国飛び回って」

一杯目をいきなり飲み干した遥先輩が唐突に聞いてきた。

「ずっと追っかけられてたんだろ?」

どうやら、この前まで俺が置かれていた状況を大体把握しているみたいだった。

「どこで聞いたんですか、その話」

「伊藤くんだったっけ、君の大学時代の友達。彼に聞いた、のかな?」

「かな?」

なんだかニュアンスが怪しい。

「気にしないでいいよ。情報源が彼ってことに変わりはないから」

伊藤のことだ。直接聞かれても答えるような真似はしないだろう。おそらく遥先輩が話術やら何やらを駆使して断片的に情報を入手していったのだ。この人は、そういうことをよくやる。

「はぁ。それにしても、遥先輩って伊藤と知り合いだったんですね」

「研究室の後輩が彼と付き合ってるんだよ」

「あいつ、いつの間に……」

料理がいくつか運ばれてきた。唐揚げ、アヒージョ、海鮮サラダなどなど雰囲気の統一が全くなされていないラインナップだ。先輩に任せるとこうなる。実をとるタイプなのだ。

「まぁ、最初は辛いとか感じてる余裕もなかったですよ。とにかく逃げなきゃヤバいって感じだったんで」

「よく卒業まで保ってたね、彼女」

「むしろ卒業のせいですかね。それまでは同じ環境にいたんであっちもなんとか衝動を抑えてられたんじゃないですか。実際のところどうだったのかは知りませんけど」

俺は大学生活の後半、同級生からのストーカー被害に遭っていた。

一度エスカレートし始めた時期に警察に駆け込み、様々な方向から防御策を講じたことで卒業までは比較的穏やかに過ごすことができていたのだが、大学を卒業するタイミングで再び活動が再開されてしまったのだ。

「もともと一年か二年かは定職就かずにふらふらする予定だったんで、資金面では問題なかったんですけどね。途中からは観光も楽しめたんで、ある意味開き直れた部分はありましたよ」

「それならよかったよ」

店員がやってくる。

先輩は二杯目に日本酒を頼んだようだ。早速グビグビと飲み始める。

「予定よりも色んな場所を行き来したせいで貯金の減りが激しくなってたのだけは想定外でしたね。だからこうして今は職につくことにしたわけですけど」

「彼女は上手く撒けたの?」

「関東ってところまでわかっても、それ以外のことは見当もつかないだろうってくらいには」

「神野町を最終地点にしたから出来た芸当かな」

「そうなりますかね」

神野町という場所は、特別に特別でない。


話の区切りに食事を進める。ラインナップはごった煮だが、そのどれもがとても美味しい。料理の味は確かな店のようだ。

「これといった特徴があるわけじゃないんだが、料理やお酒の質が良いのが気に入ってる」

先輩が言う。

「よく来るんですか?」

「気が向いた時にふらっとね。今日頼んだのは普段からのお気に入りのメニュー」

「なるほど」

「あ、いつも一人だからね、ここに来るのは」

「そういえばカウンター席ありましたね」

それから先輩は三杯目の酒と料理の追加を注文する。ペースが早い。

「というか俺が神野町で就職したって話、よく知ってましたね」

待ち合わせの時に浮かんでいた疑問を口にする。

「神野町だって知ったのはついさっきだよ」

「は?」

「カマかけたの。まぁ、アタリはつけてたけど」

まんまとしてやられたらしい。

そういえば確かにこの前来たメッセージでは場所については言及していなかった。

「就職したってことと関東にいるんだろうなってことは伊藤くんから聞き出してたけど、具体的な場所までは知らなかった。そもそも伊藤くんが知らなかったみたいだし」

それはその通りである。別に隠すつもりはなかったが、バタバタしていて具体的な情報を伊藤には伝えていなかったのだ。

「事情が事情だから神野町なんだろうなとは思ってたけど、それを事実として認識したのはさっきの会話だよ」

この調子だと、俺が逆村探偵事務所に入ったことも把握していそうだ。

「ほら、三年くらい前だっけ、考が大変な目に遭ってた時に色々調べてさ」

三年前。俺が淀みを認識できるようになってしまった事件のことだ。

当時は遥先輩にも相談していた。頼れる人が少なかったのだ。


「そういえば、最近水川先輩に会ったんですよ」

「……へぇ」

俺が話を始めた瞬間、先輩の眼の色が暗くなった。

探りを入れようとしているのが悟られてしまったのだろうか。

少なくとも何かを怪しまれているらしい。続く言葉は慎重に選んだ方が良さそうだ。

「高校以来だったんですけど、なんていうか、すごい変わってましたね」

「そう」

「……少し話したらもう何年もニートしてるって言ってて驚きましたよ」

「そうだね」

さっきまでガブガブとお酒を飲んでいたのに、今はピタリとその手が止まっている。遥先輩の眼はじっと俺を見据えており、ブレる気配を見せない。

「遥先輩は知ってました?」

遥先輩は水川先輩と同じ大学に進学した。

学部は違えど昔からの縁で多少の交流はあっただろうし、何か知っている可能性はある。

「知ってたよ。一縷の事件については大学でも話題になってたからね」

事件?

思わぬ単語が飛び出してきた。

水川先輩が何かしでかしたのか?あの先輩が?

「事件って、いったい何があったんですか」

「本人に聞けばいいじゃない」

「いや、そりゃ聞きづらいですよ」

「プライベートで会う仲なんだろう?そのぐらい大したことないじゃない」

「いや、別にこの前コンビニでたまたま遭遇したってだけなんで……」

俺の答えを聞いてから、遥先輩はしばらく黙ったままになってしまった。

彼女は昔から思考に没頭するとどこであろうと自分の世界に入り込んでしまう。こうなったら何を言っても聞かないのでただ待つしかない。何を考えているのかは知らないが、何十分も続いたりはしないだろう。

「考」

しばらくテーブルに残っていたものを摘んでいたら、突然名前を呼ばれた。

咀嚼してから返事をする。

「なんですか?」

「とりあえずさっきまでのやり取りはなかったことにしてね」

「はい?」

「さて、一縷の件だけど、本来ならあまり他言するべきことではないんだが」

「あの」

「君なら話しても大丈夫かなと判断した。だから、教えるよ」

「え、あ、はい」

唐突な展開に脳の反応が一瞬遅れてしまったが、どうやら水川先輩についての情報が手に入るようなので、心して聞くことにしよう。

「結論を先に言うと、一縷は大学を二年で退学した。自主退学だ。私はそれ以来会っていない」

水川先輩の話していた内容や現状から、なんとなく予想はしていた。しかし、改めて事実だとわかると驚きは隠せない。あの水川先輩だからだ。

「成績面ではとても優秀で、一年の途中からもう幾つかの研究室に出入りしていた。プログラミングの能力を買われてバイトのようなことをしていたらしい。だから一縷が大学を辞めると言い出した時は引き止めに動いた人間も多かったんだが、事情が事情だからあまり強く言うこともできず、説得は失敗に終わった」

遥先輩の語り口調は淡々としている。

「で、この事情というのが厄介でね。当時うちの大学にいた人間なら大体の奴が知ってはいるんだが、話題にするのはタブーみたいな状況だ。君も必要以上に口外はしないでほしい。一縷のためにもならない」

「……はい」

必要以上に、という言い回しが俺の魂胆を見透かしているようで少し後ろめたい。

「大学二年になってしばらくして、一縷は一つ下の後輩に付き纏われていた。いわゆるストーカーという奴だ。性別は逆だが君と同じだな」

「そうですね……」

「同じ学科の男子学生で、講義の手伝いをしていた一縷に一目惚れしたらしい。最初の数週間はやたらとアプローチをかけてくるちょっと鬱陶しい後輩くらいのものだったんだが、行動がどんどんとエスカレートしていってな。私も一縷から何度か相談を受けていたんだが、具体的な中身はあまり口にしたくない。とにかく、当時の一縷は相当に参っていた」

「……それでどうしようもなくなって大学を……?」

「まさか。一縷はそれくらいで自分の居場所を放棄するような性格じゃない。参ってはいたが、その時だってそろそろ警察を頼ろうかどうかって話をしていたくらいだ」

「それじゃぁどうして」

俺の問いかけに対して、遥先輩は珍しく言い淀む。

しかし逡巡は一瞬だけで、口はすぐに開かれた。

「大学が夏休みに入ってから一週間後、一縷の家が放火された」

「は?」

「焼け跡からは、一縷の両親の遺体が見つかった」

言葉が出てこない。

「犯人として逮捕されたのは、一縷のストーカー、つまりその後輩だった」

遥先輩は一息ついてから残っていたカクテルを飲み干した。

ふぅ、と大きな溜息を吐く。

「夏休みに入る頃、一縷はそいつに襲われた。幸いそれ自体は未遂に終わったんだが、反撃でそいつの顔にかなりの傷を負わせたらしい。報道なんかではそれを逆恨みしたとか言われてるが、実際のところどうなのかはわからない」

まぁ、知りたくもないけどね、と遥先輩は吐き捨てる。

「一縷はそれから周囲の人間と一切連絡を取らなくなった。メールは返ってこないし電話も不通。家を尋ねようにもそれは不可能だし、じゃぁどこにいるのかと聞かれても誰もわからない。あんな事があったんだから仕方ない、と夏休みの間は皆がそう思っていたんだけど、結局、夏休みが明けても一縷が大学に顔を出すことはなかった」


「そして十二月、冬休みに入ろうという頃に一縷がふらりと大学にやってきた。退学届を手に持って」


「いきなり退学届を出されて事務員さんも驚いたみたいでさ。関わりのあった先生達にそのことを伝えたらしい。そしたら大パニックさ。私はその場にはいなかったんだけど、講義室に大量の教授准教授院生が集まってかなりの壮観だったみたいだ。結局、説得は出来ずじまいだったんだけどね。退学じゃなくて休学にしたらって提案も跳ね除けられた」


「皆が諦めた後、私も一縷に会いに行ったんだ。そしたら一縷の方は普段通りでさ、正直拍子抜けしちゃったよ。やつれたりなんかもしてなくて、本当にいつも通り。ただ、大学を辞めるっていう意志だけは固かった。私としては本人がそこまで決意してるならとやかく言う方が無粋だなと思って何も言わなかったんだけど、理由だけは知りたいと思って聞いてみたんだ」

「……どんな理由だったんですか?」

「はっきりとは答えてくれなかったよ。事件と全く関係ないとは言わなかったけど、それだけじゃない、ってずっと言ってた」

「今どこに住んでるのかとか、メールとか電話とか、全部ごめんって言うだけで何も教えてくれなかったな。だから、それ以来会ってないし会いようもなかった」

先輩の表情が少し曇る。

「とまぁ、私が一縷について話せるのはこれくらいだよ、十分かな?」

「……はい」

正直に言えば、水川先輩に憑いている淀みとどんな関係にあるかは全くわからないが、それについてここで話題にするわけにもいくまい。

「で、考」

「なんですか?」

「私がこの話をしたのは、君の好奇心を満たすためだけじゃない。一縷に対してこの話題に触れる事がないように釘を刺すためでもある」

しかし残念ながら、俺は既に両親について水川先輩に尋ねてしまっていた。

「一縷にとってはまだまだ触れられたくない話である可能性が非常に高い。だから、かつての友人を慮って、君に注意を促している」

「そうでしょうね」

「……というのを普通なら一番の理由としてあげるべきなんだろうけど」

「違うんですか?」

「なんとなく、君によくない事が起こる気がしているんだ」

「俺に?」

「最後に一縷に会った時、事件のことについて話している間ずっと悪寒が止まらなかったんだよ。冬だからってわけじゃない。室内だから暖房も効いてた」

普段は淀みを認識できない人であっても、強く濃い淀みのもたらす影響は何らかの形で知覚しうる。

嫌な気配がする、耳鳴りがする、寒気がする。

気のせいと片付けてしまう事が多いこれらの現象の中には、淀みによるものがいくつも潜んでいる。

「こういう第六感的な話を気にするような人間じゃないと自分では思っているんだけどね、まぁ、考には話しておこうかなと思って」

「そう、ですか」

「一縷の事を心配しているってのも嘘じゃないからさ、迂闊に地雷を踏まないよう気をつけてよ」

「……わかりました」遥先輩が悪寒を感じたというのが事実なら、水川先輩に憑いている淀みはその時から既にある程度の濃さを持っていた可能性が高くなる。

大きなショックを受けたりすることでも淀みは発生しうる。自分の精神を守ろうとする心の働きが、結果として淀みを引き寄せることになることもあるからだそうだ。

時系列を考えれば、水川先輩の家が放火されたタイミングで淀みが発生したと考えるのが妥当だろうか。もちろん現時点では仮説に過ぎないが、これから調査を進めていくにあたっては重要な情報となるかもしれない。

遥先輩が大きく伸びをして、長いため息を吐いた。

「さてと、なんだか辛気臭い話をしちゃったね。本当なら考の就職祝いってはずだったんだけど」

「そういえばそうでしたね」

俺は軽く笑って返事をする。

「君が一縷の話を持ち出したりするからだよ」

「なんかすみません」

「あれだな。考はもう少しデリカシーみたいなものを身につけた方がいいかもしれない。ま、私が言えたことじゃないんだけどさ」

そうですね、とは言いづらい言い回しだったので俺は無言で受け流すことにした。

遥先輩はこのくらいで機嫌を損ねたりするような人ではないが、避けられるリスクは避けておくに限る。

「よし。料理も一通り片付いてきたし、気分転換も兼ねてそろそろ二軒目に移ろうか。時間は大丈夫?」

しっとりとした遥先輩の笑みが、俺に向けられる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ