第1章 双眸
東京都神野町。
誰でも知っている、誰も知らない町。
都心部から電車で一時間ほどの距離にあるこの町に、この春、俺は引っ越してきた。
いや、引っ越してきたというよりは根を下ろすことにしたという方が適切かもしれない。
大学を卒業してから一年間、どこに就職するでもなく全国をふらついていたのだが、いい加減貯金も少なくなってきたしちゃんとした住居も欲しい、そんな思いがあり、ちょっとしたツテを頼ってこの町にある小さな探偵事務所に雇ってもらうことにしたのだ。
高校時代までを過ごした地元とも、大学生活を送ったあの寂れた地方都市とも異なる雰囲気を持つここ神野町は、高層建築はほとんどないものの駅周辺だけはほどほどに活性化されており、このアンバランスな構造がどこか懐しさを感じさせる。多分、視線のずっとずっと先まで続いていく青空と町並みの間の平坦な境界線が、心をくすぐっているのだ。記憶の中にあるはずのない、見知らぬ郷愁を匂わせるような静かな空気がこの町には漂っている。
俺の新生活は、この場所で始まる。
期待よりも安堵の方が大きい今の気持ちを素直に受け止めて、精々穏やかな生活を送れるよう、慎ましやかに努力していくことにしよう。
そう、心に刻み込んでいた。
「やぁ凪島くん、相変わらず元気みたいだね」
駅から降り立ちふらふらと彷徨う俺を、雑踏の中でもよく通る、低くて渋みのある声が出迎えた。
声の方へ振り向くと、人の流れの隙間から、黒い軽自動車の傍らに佇む壮年の男の姿が見える。そのシルエットは、何年ぶりかの再会にも関わらず以前と全く同じ印象だ。
「逆村さん、待っててくれたんですか」
彼の下へと歩きながら、久しぶりに再会した恩人に感謝の意を示す。
「たまたま時間が空いてたからね。君が時間通りに到着してなかったら帰ってたよ」
グレーのスーツの上から薄い深緑のジャケットを羽織ったその人の名は、逆村銀蔵という。
ここ神野町で探偵事務所を営んでおり、これから俺の上司となる人だ。
大学時代に俺がとあるトラブルに巻き込まれた時、助けになってくれた人達の一人でもある。その時の縁があって、俺は今こうしてこの場に立っているのだ。
「家の場所、よくわかってないだろう?送っていくから乗っていきなよ」
「実はそうなんですよ。助かります」
促され、俺は車に乗り込んだ。荷物は少ないから、直接車内へ持ち込める。
日本全国あちらこちらをふらふらと飛び回っている間は、ちょっとした事情があって神野町に来ることができなかった。
それゆえ、この町に引っ越してくるにあたっての家の手配などは全て逆村さんにやってもらっていたのだ。だから、俺は自分の家がどんな場所にありどんな部屋なのかをまるで知らない。最低限文化的な生活が送れる程度という希望は伝えていたが、それを逆村さんがどう解釈したのかも不明である。
当初の予定では神野町のあちこちを散策ついでにふらつきながら教えてもらった住所まで向かうつもりだったが、車で直接送ってもらえるならその方が楽でいい。
「どうだった?一年あちこち飛び回って」
「まぁ、そうですね、楽しかったですよ」
「ほう?」
「確かに面倒ごとはついて回りましたけど、俺、元々あまり旅行とかしないタイプだったんで、途中からはいい機会だと思って楽しむことにしてました」
「そりゃ良かった。変に気負うよりは格段にいいね」
車外の風景は駅前の繁華街をすぐに抜け出して静かな住宅街へと変わっていく。
人通りはまばらだ。
神野町はベッドタウンとしての側面が強く、優雅な午後のひとときを過ごすという土地柄でもないから、平日の昼過ぎという時間帯は閑散としている。
「そのせいで手持ちの資金が思ってたよりも早く無くなりそうだったんで、こうして逆村さんを頼ることになったわけなんですけど」
「はっはっは、まぁ、ろくに仕事もしてなかったんだから遅かれ早かれこうなってただろうさ」
「あぁ……そうかもしれませんね」
彼につられて俺も苦笑する。
「こっちとしちゃぁ遅くとも来年までには君を確保しときたいって考えてたし、ちょうどよかったよ」
「そうだったんですか」
「ここ最近は人手不足でね。うちのメンツじゃ手が足りなくなることが増えてきたんだ」
逆村さんは大袈裟に溜息をつく。
「神野町って治安悪いんですか?」
「それは他と大差ないかな、むしろ穏やかなぐらいだ。食べるに困るほどじゃないけどね。忙しいのはそっちじゃなくて特調会の方さ。最近はよそからの応援要請も多くてね、手が回らない」
やれやれと言いたげに首を振っている。
「となると、俺もあちこち飛び回ることになるんですかね?」
「いや、当分はこっちに専念かな。どちらかというと人が足りてないのは僕のサポートだから。それに、仕事に慣れてもらうまではそうするしかないだろう?」
「そりゃまぁそうですね」
「人手がどうしても必要ってときはあるかもしれないけど、そういう場合は多分林田くんの補助って感じになるかな。君だけってことはないと思うよ」
「林田くん?」
「あぁ、うちのスタッフの一人だよ。といっても他にはあと一人しかいないんだけど」
ということは、今の逆村探偵事務所は三人で切り盛りしてるということか。それは確かに人手不足待った無しだろう。
「多分、明日なら林田くんも事務所にいるかな。そのときに詳しく話すよ」
「わかりました」
あらかじめ、働き始めるのは明日からでいいと言われている。引っ越しに関わる雑事も少なくはあるが皆無ではない。どんな状況かは不明だが、部屋も少し整えておきたい。
「ちょっと驚くかもしれないね」
ふと、逆村さんが呟いた。
「え、何がですか?」
「林田くん」
「そんなに変な人なんですか」
「いや、そういうわけじゃない。若い子だけどなんでもそつなくこなすし、性格も悪くない。しっかりしてるよ、あの子は」
「はぁ、それじゃぁなんで」
「ま、明日になればわかる。多分だけど」
どうにも煮え切らない答えだが、明日にはわかるというのなら、今は気にしないでおこう。
俺は代わりに他に気になったことを尋ねてみる。
「あの、もう一人の方はどんな人なんですか」
「ん?赤岡さんのことだね。彼女には事務処理をかなりこなしてもらってるね。僕がそういう細かい仕事が苦手だからかなり助かってる。あとはそうだな、がさつな男だと難しい案件もなくはないから、そういう意味では欠かせない人だね」
「あぁ、女性なんですね」
「本業が別にあるから頼りっきりにできないのがちょっとしんどいけど」
「えっ」
ただでさえ三人しかいないのに、そのうち一人が兼業とは。
「それって、俺が入っただけで人手不足解消できるんですかね」
逆村さんは渋い顔をする。
「……どうかな」
「えぇ……」
「もしかしたら君にはいくらか書類仕事もやってもらうかもしれない。申し訳ないけど、そのときは頼むね」
「構いませんけど……」
「もう一人くらい事務仕事やってくれる人がいればいいんだけど、なかなか確保が難しくてね」
別に、俺はそういう仕事が苦手というわけではない。選り好みをする気もない。
しかし、果たしてこの職場は大丈夫なのだろうかという思いが仕事開始前から湧き出してきてしまった。
「まぁ、なるようになるか……」
不安の拭えぬ毎日など慣れたものだ。
大事なのはその中でいかにして楽しみを見出すかである。
そういう綺麗事で思考に蓋をして、俺は考えるのをやめた。
「着いたよ」
しばし空想に耽っていた俺を逆村さんの言葉が現実に引き下ろす。砂利を踏みしめる音が少し続いたあと、エンジンの駆動が止まった。
逆村さんが車外へ出たので俺もそれに続く。
目の前には築二十年くらいの雰囲気を醸し出す二階建てのしなびたアパートがあった。各階四部屋ずつ、だろうか。ドアが全て道路に面していて、旧時代的な開放感と古臭さを漂わせている。俺から見て左手側には、昇り降りするときにはぎしぎしと音を響かせること間違いなしのこじんまりとした階段。
「外面はぼろっちいけど、中は大丈夫。この前、リフォームだかリノベーションだかなんだか、それをやったんだってさ」
「このくらいの大きさの部屋でリノベーションする余地あるんですかね?」
「知らない」
まぁ、なんにせよ中が綺麗ならそれはありがたい。
「君の部屋は二階の一番奥だね」
逆村さんは部屋の場所を指差している。
「空きがそこしかなかった」
「何か問題でも?」
「階段から遠いかな」
まだまだ若いんでそのくらい別に気になりませんよと言いそうになったが、いらぬ面倒を起こしそうな気がしたので口を噤んだ。
「鍵はこれ」
「あ、はい」
逆村さんはそう言って無骨なリングに繋がれた鍵を俺にぽいっと手渡すと、そのまま一階の一番左にある部屋の前まで歩いていった。
「おーい、潤。いるかい?」
ドアをノックしながら、逆村さんは部屋の中に声をかけている。
その後数十秒ほど何の反応もなかったが、逆村さんがもう一度ノックしようと腕を上げたとき、のっそりとドアが開かれ、奥から女性が現れた。
「はぁい」
「……寝起き?」
乱れた髪に開ききっていない瞼、だらしなくよれたシャツはまさにそれを物語っている。他にもう一点、本来なら看過すべきではない要素があるのだが、口にするのは憚られる。
「おはようございますぅ……」
ふにゃふにゃとした欠伸混じり声のがぽかりと開かれた口から垂れ流される。
「今何時だと思ってるんだい。……ていうか、下……」
逆村さんも気付いたらしい。
彼女がその言葉の意味を理解し、逆村さんの背後にいた俺に気付き、慌ててドアを閉じ、再び姿を表す。この一連の動作にかかったのは一分程度である。
「すみません。お見苦しいものをお見せしまして……」
「いや、まぁ……」
深々と頭を垂れる彼女に対して俺はどう反応すればよいかわからなかったので、適当に言葉を濁してやり過ごす。綺麗な太股でしたよなどと宣えば、セクハラ待ったなしである。
「潤、頭上げて。ほら、彼がこの前話してた凪島くんだよ」
「あぁ、そういえば今日からでしたっけ」
元の姿勢に戻った彼女の表情はまだぎこちないが、平静を装おうとしている努力は窺えるので、こちらも気にしないでおくのが礼儀であろう。
「あの、えっと、私、葉田潤と言います。一応、このアパートの管理人、という感じですねぇ」
葉田さんはえへへと小さく笑う。
「久しぶりに新しい人が入って来られるので、楽しみにしてたんですよぉ。これから、よろしくお願いしますね」
そう言いながら右手を差し出されたので、俺もそれに応えて握手を交わす。
ニコニコと手を振る葉田さんを横目に疑惑の視線を逆村さんに向けると、気持ちはわかると言いたげな深い頷きが返ってきた。
「まぁ大丈夫。何かトラブルがあったって話も聞いたことないし」
「えぇ、仕事はしっかりやってますよっ」
いやぁ、説得力を持った言動というのは難しいものだ。
「一応、お互い挨拶くらいはしといた方がいいと思ってね。何かあったら潤の世話になるわけだし」
「……そうですね」
ひとまず、今は逆村さんの言葉を信じることにしよう。第三者の証言は重要なのだ。
そして、その言葉がなぜか心に響いたか、葉田さんの表情はやる気に満ちたものに代わり、気合い入ってますよと言わんばかりのガッツポーズが繰り出される。
「基本的に私はいつでもこの部屋にいますから、何かあったら遠慮なく来てくださいね!小さなことでもお助けします!人生相談もドンと来い、です!」
何かあったら可能な限り自分で解決することにしよう。自助努力は大切だ。
彼女とは最低限の交流で済ませた方がよい、そんな気がしている。
*
それから、逆村さんは一通りやるべきことを終えたと判断したのか、僕は仕事に戻るよと告げて車に乗って去っていった。
それを受けて葉田さんも、おやすみなさいと言い残して部屋の中に戻っていく。
色々と気になることはあるが、このくらいのことなら日常には付き物だ。
二階に上がり、自分の部屋の前まで向かう。
他の部屋からは何も聞こえてこない。この時間には誰もいないのか、寝ているのか、それとも防音が優れているのか。いずれにせよ、のんびりと生活するにはちょうどよい環境なのかもしれない。
受け取った鍵でドアを開けると、新居独特の匂いが微かに漂ってきた。部屋の中に足を踏み入れる。
最低限の家具は一通り揃っているとあらかじめ聞いていた。
通路兼キッチンにはコンロと冷蔵庫が既に設置されていて、その反対には浴室とトイレのドアがそれぞれ。玄関の脇には洗濯機が置かれていた。見渡せば電子レンジも置いてある。至れり尽くせりだ。当面の間は家電を買い足す必要がなさそうだ。
奥に進むと六畳ほどの部屋があり、そこがメインスペースとなる。
南に面した壁はほとんどが窓になっていた。カーテンはあらかじめ備え付けられているものなのか、それとも逆村さんか葉田さんが気を利かせてくれたのか、どちらにせよ買う手間が省けるのでありがたい。
部屋の中には何もない。
放浪を始める前に私物のほとんどを処分してしまっていたし、放浪中の荷物は今の手持ちで全部だ。運び入れるようなものをもう持ち合わせていないのだ。
これから生活環境を新たに作り上げていくことになる。まさに新生活の始まりだ。精々その過程を楽しもう。
電気やら水道やら、自分でやらねばならない手続きはまだ幾つか残っているが、とりあえず腹が減った。
まずは食事だ。
荷物を置いて部屋を出て、アパートの周りをぶらついていたらすぐ近くにコンビニを発見した。多分、これから何度もお世話になることだろう。
やはりというか、駐車場がやたらと広い。都会ではない場所にあるコンビニは、土地が余っているのか無駄に広い駐車場を備えていることがままある。自家用車が必須の地方ならまだしもこうした準都会でもそういった光景が見られるのはどういった理由からだろうか。
空っぽの駐車場を尻目に店内へ足を踏み入れると、馴染みのある音楽が流れ出す。
土地が広いだけあって、コンビニ店舗の大きさもよく見かけるものよりは広く出来ている。そのおかげか飲食可能な席が用意されていたので、サンドイッチと缶コーヒーを適当に選んでレジに向かった。
電気ポットもあったから、カップ麺でもよかったか。
道路に面した席だが、住宅街の中にあるせいか車通りはほとんどない。店内の放送が少しやかましいが、それを除けばのんびりとした空間だ。
コンビニで食事を摂るなんてことはこれまでの一年で何度も繰り返したきたことなのだが、今日の気分は今までのそれと違ってとても落ち着いている。
定住地を確保したことを、自分としてはそれほど重大なことだとは思っていなかったが、案外、自己認識以上に安心感をもたらしてくれているのかもしれない。
ぼんやりと窓の外に目をやりながら、サンドイッチをちまちまと頬張っていく。
やはりたまごサンドが最強だ。
ふと、人の気配がしたので何の気なしに振り向いた。
さっき買い物をしていた時は誰も見かけなかったから客は自分だけかと思っていたのだが、そうではなかったらしい。
そこには電気ポットの傍らでカップ麺の包装を剥ぎ取っている赤いジャージ姿の女性がいた。
平日の昼過ぎのコンビニのイートイン、人通りの少ない時間帯とはいえ特段珍しい光景ではない。
ダボっとしたジャージの裾を地面に付かないように折り畳んでいるが、それが少々雑なのか踝がちらりと見えている。
腰まで届きそうな長髪はポニーテールになっているが、あまりまとまりがない。
本来ならばこうしてじろじろと眺めるのは良いことではない。そんなことはわかっているのだが、しかし、俺の視線は引きつけられて離れない。
どことなく見覚えのある立ち姿だった。
記憶の中にある凛々しい姿とはかなり異なる印象だが、つんとした横顔は昔のまま変わらずそこにある。
視線に気づいたのか彼女は振り向き、目が合った。
そして、俺は確信する。
名前を思い出すのに時間はいらなかった。
「水川先輩、ですよね?」
目の前にいたのは、俺の高校時代の一つ上の先輩で元生徒会長、水川一縷、その人だった。
俺が声をかけてからしばらく間があった。
彼女はきょとんとした表情でこちらを見つめながら、無言のままである。
さすがに人違いってことはないだろう。
多分、俺のことを覚えていないのだ。それは仕方ない。なにせ最後に会ったのは俺が高校三年のとき、つまり五年以上も前のことなのだから。
と、そんなことを考えていたら、彼女の口からは意外な言葉が帰ってきた。
「あぁ、凪島くんだったのか。さっきからそうなんじゃないかとは思っていたんだけど」
意外にも、水川先輩は俺のことを覚えていた。そのことに驚いていると、彼女は言葉を続ける。
「久しぶりだね。最後に会ったのは私が高校に講演させられに行ったときだったかな」
炎天下、効きの悪い冷房のせいでうだるような暑さの講堂の中、壇上で凛然と言葉を紡ぐ水川先輩の姿が記憶の中から掘り起こされた。
あの時の彼女の服装は、きっちりとしたパンツスーツだった。今のダボっとしたジャージ姿とはまるで正反対だ。
高校時代に水川先輩のプライベートを覗く機会なんてなかったから知ることはなかったけど、オンとオフの差が激しい人なのだろうか。
「そうですね、五年振りになりますか」
「そうか、そんなに前のことだったか……。時間が経つのは早いね」
水川先輩は懐かしむような口ぶりだが、表情はどこか色褪せている。
「遅めの昼食?」
続けて先輩は問い掛けてくる。
俺の手に持ったサンドイッチに気づいたのだろう。
「先輩もですか?」
「あぁ、気を抜くと、いつもこのくらいの時間になるんだ」
俺と話している間も、先輩の手はカップ麺の準備を淡々と続けていた。
お湯の入れられた容器を手に彼女はこちらへ向かってくる。
「隣、いいかな?」
「かまいませんよ」
隣というか、このコンビニのイートインは小さく席が二つしかない。二階に行けばもっと広い場所があるみたいだが、わざわざ階段を上るのは面倒だ。
席についた先輩がポケットから何かを取り出した。ちらりと目線をやると、それはいわゆるところのガラケーである。そして、記憶の奥にうっすらと見覚えのあるその機種は多分。
「あれ、そのケータイ、もしかして高校の時からずっと変えてないんですか?」
「ん?あぁ、これ?そうだよ」
先輩はポチポチとケータイを操作している。タイマーのセットでもしているのだろう。
「そうか、あまり意識したことはなかったが、随分と長いこと使っているんだな、これ」
「不便じゃないですか?」
「んー、特にそう感じたことはないかな。スマートフォンじゃなきゃできないことにあまり用がないんだ。こういうちょっとした機能ならこれにも備わってるしね」
そう言って先輩は画面をこちらに向けてくる。タイマーが三分のカウントダウンを始めたところだった。
「インターネットなんかも家でパソコンを使えば事が足りるからね。長いこと故障もせずに使えてきたからわざわざ変える必要にも駆られなかったんだな、きっと」
機種変更、自分の場合はどうだったかなと思い返してみたが、あまりいい思い出が出てこなかったので思考を打ち切った。
「先輩、今はこっちに住んでるんですか?」
ふと気になったので聞いてみることにした。そんな格好で外を出歩いているんだから十中八九そうに違いないとは思ったが、一応だ。
「ん?そうだよ。ここ、家の近くなんだ」
だから気の抜けたジャージ姿なんですね、とは言わない。
というか、このコンビニの近くに家があるということは俺の家ともそんなに離れていない。
「凪島くんはどうしたの?仕事?」
この聞き方から察するに、おそらく先輩は、俺がたまたまこの町にやってきたのだと思っている。そしてその途中でふらっと寄ったコンビニで自分と遭遇した、そう考えているのだろう。
「いや、実は今日神野町に引っ越してきたばかりなんですよ」
特に誤魔化す必要もないので素直に答えた。
この返事に驚いたのか、先輩はこちらを見たまま少しだけ目を見開く。
「まさか知り合いがいるとは思ってなかったんでびっくりしましたよ。俺の家もこの近くなんで、これからばったり出会すことがあるかもしれませんね」
「……あぁ、そうだね」
何の気なしに発言したつもりだったが、先輩の返事はどこかぎこちない。
「どうかしました?」
「いや、ちょっと考えごとをしてた。すまないね」
「?」
「しかしそうか、知り合いに遭遇するかもしれないなら、こんな気の抜けた姿で外を出歩くのは控えた方がいいかもしれないな」
自覚はあったのか。
「あー、まぁ、悪くはないんじゃないですか?」
「そうかな?」
「そうですよ」
良いとは言っていないけど。
記憶の中の先輩はいつもパリッとした制服姿だから、こういう意外な一面を垣間見ることが出来るのはなんだか新鮮で楽しいという気持ちがあるのは否定しない。
俺の返事を受けて、先輩はうぅんと言葉を漏らしながら自分の今の格好を見返している。
「でもまぁ、赤はちょっと目立ちすぎかもしれないな」
先輩がぽろりとこぼした。
いや、色の問題ではない。
「そういえば、先輩は今何をされてるんです?」
久しぶりの再会でどこまで聞いてよいものかちょっと悩んだが、先輩相手ならこの手の話題でも特に問題はないだろう。
先輩は俺の一つ上だから、就職しているかもしれないし、大学院に進んでいてまだ学生の可能性もある。
単なる興味本位で軽い気持ちで口にした質問だったのだが、しかし、先輩はこの問い掛けに対してすぐには答えを返してくれなかった。
ほんの少しだけ俯くようにして、先輩はじっとしている。また考えごとだろうか。
答えを急かすわけにもいかないので、俺はそのまま待つしかない。
「……ほとんどニートだよ」
そんな答えが返ってきたのはどれだけ時間が経ってからだろうか。
ぞわりとした感覚が背筋を這う。一瞬、周囲の温度が下がったような気がした。
先輩の声が冷たかったとか、言い回しが固かったとか、そういうわけではない。むしろ、あっけらかんとした雰囲気ですらある。
俺がその答えに驚いて返す言葉を選びあぐねていると、先輩のケータイが音を流し始めた。
何の変哲も無いベルの音。三分経ったのだ。
ケータイのアラームを止めながら先輩は口を開く。
「先にこっち処理していいかな?」
先輩の少しおどけたような口ぶりが、何かを隠そうとしていることを逆に強調していた。
「え、えぇ」
そう答えるしかなかった俺は、カップ麺を啜り始めた先輩の横で食べかけのサンドイッチの残りを処理することにした。
考えてみれば、そういう答えが返ってくる可能性は十分あったのだ。
平日の昼間に出歩いているからといって即ニートというわけではない。在宅だったり休日が不定期だったり、はたまた夜勤だったりと可能性は多々あるが、ニートという答えを押しのけるほどでもない。
多分、先輩に対する過去の印象がそういった可能性を頭から除けていたのだ。
そもそもニートだからといって何かおかしいわけでもない。今、俺が先輩の答えに動揺しているのもそんな答えが返ってくるはずがないと思い込んでいたからだろう。
きっと先輩のことだから、どこかの企業で優秀な社員として業績を上げているか研究者として実績を積み重ねているか、そんなところだろうと漠然と考えていたのだ。
何年も前の印象がそのまま今でも通用するとは限らない。
先輩が返事をするときの空気が少し重かったのは、きっとあまり聞かれたくないことだったからだろう。
サンドイッチを食べ終え、無遠慮な質問をしてしまったことを謝ろうとした。
しかし、先に口を開いたのは先輩だった。
「不躾なことを聞いてしまった、とか考えているだろう?」
ほんのりと諦念の混じった笑顔がこちらに向けられる。図星を突かれた俺はただ黙るしかなかった。
「気にしなくていいよ。もう何年もこんな生活をしているからね、悩めることは悩み尽くした。今はもうこの暮らしを満喫してる」
「……そう、ですか」
「まぁ、とはいえ昔の知り合いに話すのは初めてだったからね、ちょっとは躊躇した。答えあぐねていたのもそのせいだよ」
だから君が何か気にする必要はない。そう付け足して、先輩はカップ麺の残りを食べ始めた。
本人からそう言われたら従うしかない。俺は頭の中でもぞもぞとこねくり回していた言葉を放り投げ、缶コーヒーの残りをゆっくりと処理することにした。
それからはお互いに口を開くことはなく、ただ黙々と食事に時間を費やした。店内に流れるコンビニの放送も、時折訪れる車の走行音も、ただの雑音として耳の奥を通り過ぎていく。
ややこしいことから強引に意識を引き剥がした俺は、明日からの生活のことをぼんやりと考えることにした。
「ごちそうさま」
ぽつ、と小さな呟きが耳に届く。
頭の中を渦巻いていた部屋のレイアウト案を一旦頭の奥にしまい込む。
「スープ、全部飲むんですね」
「身体に悪いとはわかっているんだけどね。ついやってしまうんだ」
そう言って軽く笑う先輩の顔に、先ほどの暗い表情は残っていない。
「さて、食事も済んだし私は帰るとするよ。君は?」
「俺もそうします。ちょうどコーヒーも無くなったんで」
言いながら、少しだけ残っていたコーヒーを一気に流し込む。
ゴミを片付け手を洗い、俺と先輩はコンビニの外へ出た。店内の明かりもそれなりに強かったが、日差しは日差しでまた別の眩しさがある。
「いつもコンビニで食べてるんですか?」
「いや、いつもってわけじゃないよ。今日はたまたまだ。お湯を沸かし忘れていてね。パンかおにぎりにしようと思ってたんだけど、いざコンビニに来てみたらやっぱりカップラーメンが食べたい気分になったんだよ」
ジャンクフードの魔力は怖いね、と先輩は微笑む。
歩道に差し掛かるまでのちょっとした道程で摘むように言葉を交わす。
「準備も簡単ですからね」
「あぁ、自炊するとなると色々面倒が多くて困るよ。最後に包丁を握ったのはどれくらい前のことだったかな。そもそもうちには調理器具がないし、自炊したくてもろくに出来やしないんだけど」
「あぁ、ご両親と一緒に暮らしてるわけじゃないんですね」
ニートと言っていたからてっきり家族ごとこっちに越してきているのかと思っていたのだが、そうではなかったらしい。
家族で暮らしているなら調理器具がないなんてことはまずあり得ないだろう。
そんな、単なる気付きのつもりで口から出た言葉だった。
一人暮らししてるんですね、を少し言い換えただけの、他意もなく何かを探るわけでもないこの発言に、しかし先輩の表情は敏感に反応した。
笑顔が消え、感情を示唆するものは全て洗い流されたかのように無機質な瞳。
睨みつけるでもなく、淡々と俺に向けられるその視線は鋭く、肉を抉るように突き刺さる。
たった一瞬で生じたその変化に俺は自分の不手際を悟った。何が問題だったのか、推測することしかできないが、原因が今の言葉にあるとするなら特定は容易い。おそらくは親についての話題が先輩にとってのタブーだったのだ。
過去を軽く思い返してみた限り、当時の先輩にとって親の話題が問題になったことは記憶にない。むしろ、先輩が自身の両親について話していた記憶が朧げながらに蘇ってきたくらいだ。
となれば、きっと高校を卒業してから今までのどこかで、これほどの反応を返すような何かが起きたのだ。
昔の知り合いとの再会は、かつての空気が戻ってきたかのような錯覚をもたらす。しかし、互いの知らぬ間にそれぞれがそれぞれなりの経験を積み、それらは確実に各々を変化させている。
そこに例外はなく、俺がそうであるように、先輩も。
俺があれこれと考えを巡らせている間も先輩は黙ったままだったが、このまま立ち尽くしているわけにはいかない。
知らなかったとはいえ、不注意で先輩のデリケートな部分に無遠慮に触れてしまった。まずはそれを詫びるしかない。
そして、どんな言葉を使い、どんな言い方をすればいいのか悩み始めた、その瞬間だった。
彼女の周囲に突如黒い靄が出現し、吹き出すようにして瞬く間に周囲へと広がった。
辺りを覆い尽くすように薄く伸びたその靄は、次の瞬間、俺と先輩の間を遮るように壁を作り出す。
視界を覆い尽くすほどの巨大な黒い壁。
威圧感はない。
一切の雑音が消え、漂うのは、ただただ強い拒絶の意思。
ざらり、と肌を撫ぜる感触がした。
気づけば靄の壁からは黒々とした女性の物と思しき腕が飛び出していて、伸ばされたその先、細く鋭い指先が、俺の頬に触れている。
視線の先、本来ならば先輩の顔が見えたであろうその場所からは、先輩とよく似た、しかし細部の異なる女性の顔が、押し出されるようにしてこちらへ向かってきている。
鼻先が触れるほどに接近しその動きが止まったと思ったのも束の間、それまで硬く閉じられていた両の瞼がぎちぎちと開かれる。
眼窩は空っぽだった。
深く黒く渦巻いて、底の見えぬ二つの窪み。
暗闇が、俺の眼を執拗に引き付ける。
淀み。
存在を知るものはそれをそう呼ぶ。
それ自身は意志を持たず、ただただ人の世の傍らに古くから漂い続けていたという。
多くの人々は淀みの存在そのものを知らない。認知することもできない。
しかし、例外はいつだって発生するものだ。
生まれつきの能力として、あるいは後天的に目覚めたものとして、いずれにせよ、淀みという存在がこの世にあることを知るものが現れる。
俺も、ある事件をきっかけに淀みを視認できるようになった。
聞くところによれば認知の仕方は様々で、俺のように淀みを黒い靄として視認している場合が最も多いが、それ以外にも、体感温度の変化や異様な耳鳴りなどで感じ取れることもあるらしい。
それが事実であることを、俺は身を以て理解した。
漆黒の手は確かにそこにあり、体温が吸い取られそうなほどに冷たく、細い指先が頬を伝い首元に差し掛かるその感触にはゆったりとした官能さすら伴っている。
視線を捉えて離さない二つの空洞は、品定めをするように揺らぎ、俺の意識を飲み込もうとしている。
淀みは、通常想定される物理法則の外側にあった。
安定した観測はできず、干渉もできない。
確かにこの世にあるのに我々とは全く別の層にある存在、そう思われてきた。
だが、いつの頃からだったのだろう。
淀みが人の強い思いに反応し、変化し、そして我々の世界に干渉するものであると知られるようになったのは。
超常現象と呼ばれるものの大半は、観測者の勘違い、無知による錯覚、あるいはその時点では未知だった科学反応である。しかし、そこから零れ落ちた真に超常たりうる現象は確かに存在し、それこそが淀みの干渉によるものであると、淀みを研究してきたものは語る。
なんだか空気が重い、寒気がする、そんな現象も時には淀みの干渉によるものらしい。規模が大きければ、あらゆる人々が視認可能なほどの塊となりこの世に現れたり、人の意志をも操ることがあるという。
かつては淀みを科学的な方法で取り扱おうとした試みもあったそうだ。
しかし、それらは悉く失敗した。
再現性はなく、観測結果も不定。
人の意志と呼応することまでは突き止められたが、どのような意志にどのような反応を返すのか、それらはまるで規則性を持たず、しかしランダムネスとも言えない振る舞いをを続けるばかり。いつしか科学的アプローチは縮小し、今は世界のどこかで細々と少数の手によって続けられているだけだという。
強い思いが必ずしも淀みと反応するわけではない。その条件には多くの仮説が立てられているが、有力なものすら定まらない状況である。
だから、俺にはこの淀みが何を意味するのか、何をもたらすものなのか、そんなことは全くわからない。ただ、予感はしている。
つぷ、と指先が肉の奥に入り込む。
痛みはない。
肉をかき分けるその感触も、恐らくは錯覚に近しいものだろう。
しかし、俺の中にある何かをその手が探り出そうとしていることは、直感として理解できた。ただ漫然とまさぐっているのではなく、その手は、窪んだ双眸は、意志を持ち俺自身へと干渉を試みているのだと。
ふと、昔の記憶が頭を過ぎった。
高校時代、強い陽射しの降り注ぐ屋上に呼び出され、ぬるりと見せつけられた右手首。
幾重にも刻み込まれた傷跡を撫でながら、うっとりと上気した歪な笑顔を浮かべるあの子。
戸惑う俺に滔々と愛を語るその口元を、服に手をかけ徐々にはだけてゆくその様を見て、俺は何を考えていただろう。
その時湧き出た感情は、どんな類のものだっただろう。
遠くに捨て去ったつもりの記憶がずるずると引き摺り出され、輪郭が徐々に鮮明さを取り戻してきたその時、不意に周囲の景色が変化した。
一瞬だった。
首元に食い込んでいたはずの腕は消え、目の前にはさっきまでと同じ格好で先輩が立っていた。あの顔も、それを生み出していた黒い壁も、いつの間にかどこかへ消え去っていたのだ。
車の駆動音、葉擦れの音、忘れていた雑音が戻ってくる。
「そうだよ」
先輩の声がした。
たった一言、表情の消えた顔から絞り出されたその声が、俺の意識を混乱から引き戻す。
「もう何年になるかな、ずっと一人で暮らしてる」
再び歩き出し、先輩は前を向く。横顔は静かで、コンビニから出てきた時と変わらない。
敷地から出てすぐに立ち止まる。
「凪島くん、どっち?」
先輩は道路の左右を指差している。
「え、あぁ、俺は家があっちなんで」
「そっか、反対だね。それじゃぁここで」
「あ、はい」
そんな風に、別れ際はあっさりとしたものだった。
軽く手を振り、先輩はそのまま歩き去って行く。
もしも何も起きていなかったら、俺も同じようにしてすぐに家へと向かっていただろう。だが、そうはできなかった。
淀みのもたらす知覚は時に白昼夢のような感覚を残すらしい。じりじりと長く続いたあの光景も、先輩の反応から察するに、実際にはたった一瞬の出来事だったのだと思われる。
遠ざかる先輩の後ろ姿を目を凝らして観察すると、微かにだが淀みと思しき黒い靄が周囲を漂っているのがわかる。
黒い壁の出現前後に先輩の様子に何の変化も見られなかったことから、あの場で淀みを認識していたのは俺だけだと推測できる。
今も身体から漏れ出ているあの淀みを、おそらく先輩自身は認識できていない。
人の身が淀みを纏うことそれ自体は珍しいことではないと、淀みを見ることができるようになってすぐに言い聞かされた。誰しも何かしらの強い思いは抱いているもので、それに惹かれた淀みが微かに漂う光景は当たり前のものなのだ、と。
しかし、それはつまり淀みが形を成して姿を現わすような状況が異常なものであるということでもある。
あれ程に確固たる姿形で、しかも俺に対する干渉も試みてきたあの淀みは、もはや無視できる存在ではない。
強く育った淀みは宿主と周囲に害をもたらす存在となりうる。
先輩があんな状態になってからどれだけ経っているのかはわからない。もしかしたら安定した状態にあり、心配するほどのことでもないのかもしれない。
だが、知ってしまった以上、放っておくことはできない。
逆村探偵事務所、いや、この場合は特異状況調査会神野支部と呼ぶべきか、この組織に所属することになった身として、淀みに関わる問題を見過ごすことはできない。
もちろんそれ以上に、淀みに関わっているのが彼女だからこそ、というのはある。
なるべく穏やかに暮らしていきたいと思い神野町にやってきたわけだが、現実はそう甘くなかったようだ。
俺の勘でしかないけれど、先輩のあの無機質な表情は、これがだいぶ厄介な問題であることを暗示しているように思えてならない。




