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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第4部 七英雄の罪と星の船
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第8話_空中庭園セラフィア

 ダイダロスの記録室を出た時、誰もすぐには言葉を持てなかった。黒い星図は扉の向こうへ閉じられたはずなのに、天井に浮かんでいた黒い円は、まぶたの裏に焼きついて離れなかった。パンドラボックスは、ただ魔王を閉じる箱ではなかった。肉体、魂魄、名、その三つを同時に封じるための星導機巧。千年前、そのうち名を封じる真言が欠けたため、箱は肉体だけを閉じ、魂魄と名は世界の縁へ逃れた。伝承で勝利と呼ばれたものは、設計記録の上では未完の起動であり、英雄たちの凱旋ではなく、間に合わせの閉鎖だった。


 エノクは胸元の鍵を握った。鍵はまだ微かに熱い。だが、その熱は以前のような不吉な震えではなく、重い責任の温度になっていた。これは王家の証ではない。ただ箱を開ける道具でもない。失敗した封印の続きを、誰かに押しつけずに見届けるための部品なのだと、ダイダロスの記録は告げていた。


 そのダイダロスは、機械椅子の上でしばらく沈黙していた。老いた羊人の背は曲がり、指は震え、拡大鏡の奥の目だけが鋭く光っている。偉大な天才。だが、その天才は自分の設計で世界が完全には救われなかったことを、千年もこの地下で腐らせずに保存していた。ハルナは彼の横顔を見ていた。憧れと怒りと、父の手がかりを求める焦燥が、猫人の耳と尻尾に落ち着きなく現れている。


「次に行くべき場所がある」


 ダイダロスは言った。


「黒星核の遮断記録を全て読むには、ここだけでは足りぬ。星の船そのものの軌道、外宇宙での漂流、カオスの魂魄がどの方角から戻ったか。それらは地底からでは測りきれん。千年前、それを最も早く観測した者たちがいる」


 アイオンが静かに言った。


「空中庭園セラフィア」


 その名を口にした瞬間、ダイダロスの目が彼へ向いた。アイオンはいつものように微笑もうとしたが、記録室で欠けた弦を見せられた後では、その笑みは薄かった。


「知っているなら話は早い」


「空の民は、地上の戦に手を出しません」


「昔からな」


 ダイダロスは自嘲するように笑った。「彼らは観測した。星の船が落ちるのを。カオスが地上へ降りるのを。ランバードとシオゥルが休戦するのを。アベルが倒れるのを。パンドラボックスが不完全に閉じるのを。すべて見て、記録した。だが、降りてはこなかった」


 テイルが低く唸った。


「見てただけかよ」


「それが彼らの掟だ」


「掟って便利だな。何もしない理由になる」


 イリスはテイルを止めなかった。彼女の顔にも、静かな怒りがあった。名を失った村、死者の行進、ヴェルナの傷、封印の欠落。それらのすべてを空から見ていた者たちがいたと聞けば、神官である彼女でも平静ではいられない。


 ダイダロスは、機械椅子を工房の外縁へ向けた。そこには、地上へ戻る道とは別に、巨大な縦穴が開いていた。縦穴の壁には銀の軌道が螺旋を描き、中央には鳥籠のような昇降装置が吊られている。古代の昇降機。いや、ハルナが目を輝かせているところを見ると、ただの昇降機ではないのだろう。


「星導昇降籠」


 ハルナが呟いた。


「鉱山用昇降機の原型? 違う、逆だ。これは下から上げるんじゃなくて、上に引かれる。星図に合わせて浮力を変えるんだ。うわ、古いのに軸が生きてる。これ、触っていい?」


「落ちたいなら好きに触れ」


 ダイダロスが言った。


 ハルナは手を引っ込めた。


「じゃあ見て覚える」


「よい判断だ」


 アリアが昇降籠を見上げる。


「これで空へ行くの?」


「途中までだ。セラフィアへ直接入るには、有翼人の許可がいる。だが、古い観測塔の下層までは上がれる。そこから先は、向こうの判断だ」


「判断される側って、気分が悪いわね」


 アリスが小さく言った。


「ずっとそうされてきたの?」


 アイオンは静かに答えた。


「空の民は、地上の者を判断することに慣れています。地上の者は、判断されることに慣れていません。だから、たいてい険悪になります」


「経験者みたいな言い方」


 アリアが言うと、アイオンは帽子のつばを下げた。


「歌は、どこへでも届くものです」


「歌だけは、ね」


 アリスの言葉は小さかったが、刺を含んでいた。アイオンは黙った。


 昇降籠は、思ったより静かに上昇した。古代の機械が千年の眠りから起きる時、もっと軋み、もっと火花を散らし、ハルナが歓喜しながら悲鳴を上げるような事態になるかと思っていた。だが、星導昇降籠は、まるで眠っていた鳥が翼を開くように浮き上がった。下ではダイダロスの工房が小さくなり、星導環の青白い光が地底の湖のように遠ざかっていく。縦穴の壁を流れる銀線が星座のように繋がり、エノクの胸元の鍵がその光に応じて小さく鳴った。


 テイルは籠の床を掴んでいた。


「飛んでるわけじゃない」


 ハルナが説明する。


「引き上げられてるの」


「同じだ」


「全然違う。飛行は自分で揚力を作る。これは星導浮力と磁霊索の組み合わせで」


「同じだ!」


「竜族さん、理屈を聞く気ないでしょ」


「高いところは自分の翼で行くもんだ」


「翼ないでしょ、今」


「ある。竜に戻れば」


「ここで戻ったら籠が壊れる。弁償」


 テイルは黙った。ハルナの「弁償」は、またしても強かった。


 アリスは籠の隅で外を見ていた。縦穴の壁がいつしか透明な光へ変わり、下界の山脈が見え始める。鉱山都市ガルドベルクが、煙を上げる鉄の巣のように小さくなり、その先に赤茶けた血潮野、さらに遠くにシオゥルの黒い廃都が霞んでいた。アリスはその黒い点を見つめ、胸元を押さえた。


「上から見ると、小さい」


 彼女は言った。


 イリスが隣に立つ。


「小さく見えても、そこに名があります」


「うん」


 アリスは頷いた。


「小さいから、忘れていいわけじゃない」


 その言葉は、これから向かう空の民へ投げる前に、自分自身へ確かめるもののようだった。


 やがて縦穴が終わり、昇降籠は雲の下へ出た。風が吹き込む。地上の風とは違う、薄く、冷たく、澄んだ風だった。雲海の向こうに、空中庭園セラフィアが浮かんでいた。


 それは都市というより、空に咲いた白い島だった。いくつもの浮遊岩盤が銀の橋で結ばれ、中央には細長い星図塔が天へ伸びている。外縁には庭園が広がり、雲から水を引いた細い水路が白い石の間を流れ、淡い花々が風に揺れている。建物は大地へ根を下ろさず、柱も壁も軽く、まるで光と羽根で編まれたようだった。空を飛ぶ有翼人たちが、白や銀や青灰の翼を広げて行き交う。彼らの服には星図の刺繍があり、額には小さな宝石が光っていた。美しい。あまりにも美しい。その美しさは、地上の煤や血や油を知らないように見えた。


 ハルナがぽつりと言った。


「修理代、高そう」


 緊張しかけていた空気が少しだけ緩んだ。


 アリアが言う。


「最初の感想がそれ?」


「だって、あの橋、白銀合金だよ。しかも浮遊石を惜しみなく使ってる。落ちたら大損。いや、落ちないようにしてるから高い。ああいう金の使い方、心臓に悪い」


 テイルはセラフィアを睨むように見ていた。


「大地から離れすぎだ」


「竜族には落ち着かない場所でしょうね」


 アイオンが言う。


「お前は落ち着いてるな」


「私は、どこでも落ち着いて見せるのが仕事です」


「見せてるだけか」


「ええ」


 その返事は、いつもより正直に聞こえた。


 昇降籠がセラフィア外縁の受け台へ着くと、すでに有翼人の衛士たちが待っていた。白銀の軽鎧をまとい、長い槍ではなく、星図板と短い杖を持っている。彼らは美しく、静かで、無駄な動きをしない。だが、その目は客人を歓迎するものではなかった。観測対象を確認する目だ。


「地上の来訪者。人数、八。人間三、竜神族一、猫人一、器生命一、生命剣一、種族不明一」


 衛士の一人が言った。


 アイオンが微笑む。


「種族不明とは失礼ですね。しがない吟遊詩人です」


「記録分類不能。発言保留」


「厳しい」


 ティンカーベルが鞘の中で言った。


「剣を生命に数えた点だけは評価する」


 衛士たちは剣が喋っても表情を変えなかった。セラフィアでは、驚きさえ儀礼に組み込まれているのかもしれない。イリスは少しだけ居心地悪そうにした。彼女にとって、名ではなく分類で呼ばれることは、あまり好ましいことではない。


「代表者は」


 衛士が問う。


 エノクが一歩前へ出ようとすると、アリアが小声で言った。


「王子顔をしない」


「どんな顔ですか」


「今してる顔」


「直します」


 ハルナが横から囁く。


「代表手当って出る?」


「出ません」


 イリスが即答した。


 エノクは息を整え、衛士へ向き直った。


「エノク・ランバードです。空中庭園セラフィアの長老に会いたい。星の船について、教えてほしいことがあります」


 衛士たちの翼が、ほんのわずかに揺れた。ランバードの名と星の船。その二つは、この空の都市でも軽く扱われる名ではないようだった。


「星図塔へ」


 衛士は短く告げた。


 セラフィアの街路は、歩くというより漂うように進む場所だった。石畳は白く、足音をほとんど吸い込んでしまう。水路の水は清らかで、花の香りは薄く、風鈴のような魔導具が軒先で澄んだ音を鳴らしている。住民たちはエノクたちを見た。子どもは好奇心を隠せずに覗き込み、大人はすぐに視線を逸らす。恐れではない。蔑みでもない。距離だった。地上の者を、地上の出来事ごと見ている距離。


 テイルが低く言った。


「気に入らねぇ」


「何が」


 アリアが問う。


「見方だ。こいつら、こっちを見てるのに、見てない」


 イリスも静かに頷いた。


「名前を尋ねられていません」


 アリスは小さく呟く。


「分類はされた」


「分類と名前は違います」


 イリスの声は柔らかいが、強かった。


 星図塔の最上庭へ通されると、そこに若き長老が待っていた。


 イーサーは、有翼人の中でも特に美しかった。白銀の髪は肩の下まで流れ、風を受けても乱れず、澄んだ青灰の瞳は遠くの空をそのまま宿している。背の翼は淡い銀白で、羽根の先だけが夜明けの青を帯びていた。身にまとう賢者服は薄い布と軽い装甲を重ねたもので、星図の刺繍が胸から袖へ流れている。額には細い銀環、指には古代文字の刻まれた指輪。外見は青年に見えるが、その立ち姿には人間の青年とは違う静けさがあった。彼は庭園の中央、雲海を見下ろす白い卓の前に立ち、エノクたちを迎えた。


「ようこそ、空中庭園セラフィアへ。私はイーサー・セラフィム、星図塔の管理者、長老議席の末席にある者です」


 声は丁寧で、柔らかい。だが、冷たく聞こえた。氷の冷たさではない。高所の空気のような冷たさ。触れれば傷つくのではなく、吸い込みすぎれば胸が痛くなる冷たさだ。


 エノクは名乗り、仲間たちもそれぞれ名を告げた。イーサーは一人ずつ聞いた。聞きはした。だが、彼の目は名の背後にある役割や種族や記録を先に見ているようだった。


「ランバードの血を継ぐ者。竜王ザッハの子。ヴェルナ剣舞の継承者。地上神殿の名を記す神官。シモン系統の器生命。猫人機械師、ダイダロス式図面の所持者。喋る剣。そして」


 彼の視線がアイオンへ止まる。


「弦の不協和を抱く吟遊詩人」


 アイオンは微笑んだ。


「ずいぶん詩的な歓迎ですね」


「詩ではありません。観測です」


「それはなおさら無粋です」


 イーサーは表情を変えなかった。


「地上の言葉では、そう受け取られるのでしょう」


 アリアの眉がわずかに上がった。テイルはもう不機嫌を隠していない。ハルナは白い卓の材質を指先で確かめようとして、イリスに手首を掴まれた。


 エノクは一歩前へ出た。


「星の船について教えてください。ダイダロスの工房で、カオスが星の外から来た存在だと知りました。パンドラボックスが肉体しか封じられなかったことも。星の船の正体を知るには、セラフィアの星図が必要だと」


 イーサーは静かに頷いた。


「ダイダロス殿は、まだ地底で失敗を数えておられるのですね」


「知っているのですか」


「空から見えることは多いのです」


 その言い方に、テイルが噛みつくように言った。


「見えるだけで、何もしないのか」


 イーサーは彼を見た。怒りに反応したわけではない。ただ、竜神族の若者が発言した事実を認識したような目だった。


「私たちは地上の戦に介入しません。古い掟です」


「また掟か」


「掟は、傲慢な善意を抑えるためにもあります。空から降りる力は、地上の王を変え、戦を変え、信仰を変える。有翼人が一度どこかの国を救えば、次の国も救わねばならない。救わなかった国は、なぜ見捨てたと問うでしょう。ならば最初から、地上の戦には手を出さない。記録し、観測し、保存する。それがセラフィアの役目です」


 イリスが静かに言った。


「その間に、名を失った人たちがいます」


「地上では、いつも名が失われています」


 イーサーの返答は、残酷なほど穏やかだった。


 イリスの指が記録帳を握る。


「それを、仕方のないこととして扱うのですか」


「仕方がないとは言いません。ですが、世界全体を見る者は、ひとつの町の痛みに沈みすぎてはなりません。そう教えられてきました」


 アリスが小さく言った。


「ひとつの町にも、ひとりがいる」


 イーサーの視線が彼女へ向く。


「あなたは死者を臣民として縛った器生命ですね」


 空気が凍った。


 アリスの顔が白くなる。もともと陶器のように白い顔だが、それでも表情から色が引いたのが分かった。エノクが一歩前へ出るより早く、アリアが低く言った。


「その言い方はやめなさい」


「事実です」


「事実でも、名で呼びなさい」


 イーサーは少しだけ首を傾げた。


「アリス殿。失礼しました」


 謝罪はした。だが、そこに痛みはない。形式として正されたから直した、というだけの声だった。アリスは唇を結んだまま頷かなかった。イリスがそっと彼女の横に立つ。


 エノクは、胸の内に怒りが生まれるのを感じた。イーサーは悪意で言っているわけではない。むしろ、極めて正確に、冷静に事実を並べている。だからこそ、痛い。人を役割や罪や種族で見ている。名を呼ぶ前に、分類している。


「私たちは星の船の情報が必要です」


 エノクは努めて声を抑えた。


「カオスを止めるために」


「カオスを止めることには、私たちも異論はありません」


 イーサーは白い卓へ手を置いた。卓の表面に星図が浮かび上がる。黒い円と、そこから伸びる軌道。星の船の航路だろう。セラフィアは本当に観測していたのだ。千年前も、今も。


「星の船は、天外の墓舟です。船であり、神殿であり、黒星核を抱く移動要塞であり、カオスの魂魄を運ぶ棺でもある。現在の軌道を見る限り、船は完全復帰していません。傷つき、不安定です。地上の霊脈へ錨を下ろし、魔導汚染を広げながら肉体との再接続を試みている」


「なら、止める方法を」


「あります」


 イーサーはあっさり言った。


 全員が息を呑む。


「ただし、あなた方の望む形ではないでしょう」


 ハルナが耳を伏せた。


「嫌な前置き」


「星の船が霊脈へ完全接続する前に、接続地域を切り離す。地上の霊脈を局所的に断ち、汚染された領域を封鎖する。犠牲となる範囲は広いでしょう。都市、村、森、鉱山、墓地。そこに住む者は救えない可能性が高い。しかし、大陸全体への侵食は遅らせられる」


 沈黙。


 テイルが一歩踏み出した。


「ふざけんな」


「ふざけてはいません」


「地上の一部を切り捨てるって言ったな」


「世界全体を守るために、時として必要な判断です」


 イリスの声が震えた。


「そこにいる人たちの名前は」


「記録します」


 イーサーは静かに答えた。


「セラフィアの星図塔に、失われた土地と名を記します」


 イリスが初めて、はっきり怒った。


「記録は、救えなかった後にするものです。救う前に、記録すればよいと決めるものではありません」


 イーサーの目がわずかに細くなる。感情を荒げたわけではない。彼女の言葉を、初めて単なる地上の感傷ではなく、思想として観測したようだった。


「あなたの帳面は、全ての名を救いましたか」


「救っていません」


 イリスは即答した。


「では」


「それでも、最初から切り捨てるためには使いません」


 その言葉に、風が強く吹いた。セラフィアの白い花が揺れる。雲海の向こうに、地上が霞んでいる。そこにある村も、墓も、戦場も、工房も、ここからは見えない。見えないからこそ、簡単に線を引けるのだ。


 アリアが低く言った。


「あなたは賢い。でも、地上を地図で見すぎている」


「地図で見なければ、全体を見失います」


「全体って何」


 アリアの声は鋭い。


「ヴェルナは、あなたの星図では小さな港国だったでしょうね。滅びても大陸は残った。なら、切り捨ててよかった国?」


 イーサーは沈黙した。


 テイルが続ける。


「龍神湖の霊脈が裂けたら、竜族の里だけ切ればいいのか。親父も、湖も、あそこで生きてる奴も、記録すれば終わりか」


 アリスも、震えながら言った。


「シオゥルの死者の国を、外から見たら、もう死んでる人たちばかりだった。切り捨てても、世界は困らない。でも、ラディウスはいた」


 その名が出た時、イリスの荷に結ばれた兜がかすかに光った。


 ハルナは白い卓の星図を睨んでいた。


「機械でもね、壊れた部品を外すのはあるよ。あるけど、何の部品か見ないで外すと全体が壊れる。小さい歯車でも、抜いたら全部止まることがある。地上の町を部品扱いするなら、せめて何の歯車か見てから言って」


 イーサーは彼らを一人ずつ見た。初めて、ほんの少しだけ困惑の影が瞳に差した。彼は反論できないのではない。反論はあるのだろう。大陸規模の汚染、星の船の再接続、黒星核の侵食、空中庭園を守る責務、世界の保存。彼の側にも理はある。だからこそ、この対立は簡単ではなかった。


「あなた方は、尊い」


 イーサーは静かに言った。


「目の前の一人を見捨てない。その旅は、確かに美しい。ですが、美しいものが常に正しいとは限りません。エノク殿、あなたが一つの村を救うために遅れ、そのために星の船が大陸の霊脈へ根を下ろしたなら、あなたは何万人の死を背負えますか」


 エノクは息を呑んだ。


 それは、彼がまだ答えを持たない問いだった。目の前の一人を助けたい。名前を忘れたくない。けれど、そのためにもっと大きな破局を招いたら。イーサーの言葉は冷たいだけではない。正しさの一部を持っている。だから胸に刺さる。


 イリスがエノクを見た。アリアも、テイルも、アリスも、ハルナも。誰も、簡単な答えを求めていない。


 エノクはゆっくり言った。


「背負えるかは、分かりません」


 イーサーの瞳が揺れない。


「なら」


「でも、最初から線を引いて、この先は助けないと決めることを、賢さだとは思いたくない」


 エノクは続けた。


「僕たちは、遅いかもしれない。弱いかもしれない。全部を救えないかもしれない。でも、切り捨てる前に、その場所へ行きたい。そこに誰がいるのか、名前を聞きたい。助ける方法が本当にないのか、見たい。見ないまま、地図の上で消すことはしたくない」


 イーサーは、初めて長く沈黙した。


 空中庭園の風が、彼の銀白の翼を揺らす。翼は美しい。だが、その美しさは今、重い責務の証にも見えた。空から世界を見る者。世界全体を守るために、地上の一部を切り捨てる判断も必要だと教えられてきた者。その視点は間違いだけではない。けれど、何かが欠けている。


 アイオンが不意に口を開いた。


「イーサー殿。セラフィアは、千年前も同じ判断をしましたか」


 イーサーの視線がアイオンへ向く。


「何を指していますか」


「星の船が初めて現れた時。カオスが地上へ降りた時。パンドラボックスの封印が不完全に終わった時。セラフィアは記録した。介入しなかった。それは世界全体のためでしたか。それとも、空中庭園を守るためでしたか」


 その問いは鋭かった。アイオン自身も沈黙と逃避の罪を抱えているからこそ、相手の沈黙に切り込めるのかもしれない。イーサーの表情に、ほんのわずかな影が差した。


「両方です」


「正直ですね」


「偽る理由がありません」


「理由なら、いくらでもありますよ」


 アイオンは微笑んだ。痛い笑みだった。


「自分たちは正しかったと思うため。降りなかった罪を掟と呼ぶため。見捨てた名を記録へ変えて、手の汚れを薄くするため」


 アリスがアイオンを見た。イーサーも見た。エノクも、胸がざわついた。今の言葉は、イーサーへ向けられているようで、アイオン自身へも向いている。


「あなたは何者ですか」


 イーサーが問う。


 アイオンは少しだけ帽子を下げた。


「しがない吟遊詩人です」


「その答えは、観測上、不十分です」


「でしょうね」


 イーサーはそれ以上追及しなかった。だが、彼の星のような瞳は、アイオンの欠けた弦を記憶したようだった。


 やがて、イーサーは白い卓へ手を置き、星図を変化させた。黒い円から伸びる軌道が拡大され、星の船の現在位置らしき影が浮かぶ。地上の山脈、黒い炎の侵食線、霊脈の流れ、魔導汚染の予測図。恐ろしく精密だった。


「情報は提供します。ただし、セラフィアはまだあなた方へ全面協力しません。星図塔の記録庫への入場も、長老会の許可が必要です」


「条件は?」


 アリアが問う。


「あなた方が、感情だけで世界を危険に晒さないと示すこと。そして、地上の痛みを語るなら、空の責務も理解すること」


「理解したら、切り捨てに同意しろと?」


「いいえ」


 イーサーは静かに言った。


「反論するなら、理解した上で反論していただきたい」


 その言葉だけは、先ほどまでより少し人間味があった。彼自身もまた、若き長老として、空の掟をそのまま抱えているだけではいられないのかもしれない。だが、今はまだ遠い。彼は空から見ている。エノクたちは地上から来た。その距離は、雲海より深かった。


 イリスが記録帳を開いた。


「イーサーさん。あなたの名を書いてもよいですか」


 イーサーは意外そうに彼女を見た。


「私の名を?」


「はい。セラフィアの若き長老。星図管理者。地上の一部を切り捨てる判断も必要だと語った人。そして、まだ地上の名を知らない人」


 イーサーの翼が、わずかに揺れた。


「厳しい記録ですね」


「事実です」


 イリスは静かに返した。


 アリアが口元を少し緩めた。


「イリス、最近本当に容赦なくなったわね」


「必要に応じてです」


 ハルナが感心したように言う。


「神官さんの帳面、下手な請求書より怖い」


「請求はしません」


「だから怖いんだよ。金で済まない」


 テイルが短く笑った。アリスも、ほんの少しだけ笑った。


 イーサーは、その小さなやり取りを見ていた。おそらく彼の星図には記されない会話。世界全体のためには不要に見える、旅の途中の小さな掛け合い。だが、それもまた世界の一部だった。


 彼は静かに言った。


「今宵はセラフィアに留まりなさい。地上の客としてではなく、星図塔の審問対象として」


「歓迎の言葉としては最悪ね」


 アリアが言う。


「正確な言葉を選びました」


「空の人って、冗談が下手?」


 ハルナが訊くと、イーサーは少し考えた。


「努力します」


「そこから?」


「そこからです」


 エノクは思わず小さく笑った。イーサーは冷たい。だが、完全に閉じてはいない。そう思えたのは、その一瞬だけだったかもしれない。それでも、その一瞬は覚えておく価値がある。


 雲海の向こうで、夕陽が沈み始めた。地上は赤く霞み、遠い山々は影となり、星図塔の上にはまだ昼の空が残っている。空中庭園セラフィアは美しかった。美しく、静かで、遠かった。


 エノクは白い庭園の縁から下を見た。地上は小さい。街も、森も、戦場も、墓も、見えない。ここに長くいれば、イーサーの言うことも分かってしまうのかもしれない。世界は大きく、一人は小さい。だが、その小さな一人に名があることを忘れた時、世界はきっと別の形で壊れる。


 胸元の鍵が、風の中でかすかに鳴った。


 星の船の正体へ近づくためには、空の記録が必要だった。だが、空の記録を読む前に、エノクたちは空の冷たさと向き合わなければならなかった。

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