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少年素描

プラチネリィ

作者: 稲見晶

 七月の新月の宵に、僕はボートを漕いでいた。

 朝から雲が深かったせいで空も湖ものしかかるように暗い。風は生温い湿気を孕んで僕の肌を重くした。

 櫂を引く度に、街の灯が遠くなる。幾許も離れてはいないのに郷愁めいた痛みが胸に湧いた。


 ひとりぽっちの航路を終えてボートを彼岸へつける。軽くなった船体はちゃぷりちゃぷりと揺られていた。

 ここからのびる短い獣道をつくったのは僕だ。湖を左手に見ながら歩くと五分もしないうちに翠と紫の家の庭に出る。何度も通っているうちに、いつしか地面は踏み固められていた。

 それでもこの時期には繁茂する草が足首を刺す。なるだけ大きく踏み出して進んだ。提げていた紙袋が音を立てた。


「どうしたのソーダ水、そんなに跳ねて」

 道がぱっと途切れて庭に出た矢先、声がかろやかに飛んできた。いきなりのことに僕はすっかりどぎまぎしてしまって、しばらく返事もできなかった。

 翠は背もたれのある藤の椅子を両手で抱えていた。かれの足の先にはおなじく藤を編んでできているらしい楕円のテーブルがあった。


 椅子を地面に置いて翠が駆けてくる。スカーフを細く結んだ白いセーラー服で、歩調に合わせて背中の襟がぱたぱたと揺れた。

「ソーダ水、君だよね」

 エメラルドの瞳が一瞬きらめいた。

「そうだよ。……ごめん、外にいるとは思わなくて、驚いたよ」

「紫もじきに来る。今夜はプラチネリィだから」

 プラネタリウムを翠流に呼ぶとプラチネリィになる。紫はいちいち訂正したがるようだけれど、僕は翠がそう言うのがなんだか好きだった。


「翠、よかったら、これ」

 僕は紙袋をすこし掲げてみせた。中には酸桃が十ばかりごろごろと入っている。夕暮れの東の空を密にかためて薄く雲を吹いた玉。

 半袖から伸びるすんなりした腕で、翠は「ありがとう」と屈託なく紙袋を受け取った。

「いい匂いがする。よく熟れているね」

 翠は酸桃をひとつ僕に渡し、もうひとつがさごそと取り出して、早速それにかぶりついた。果汁の甘い香りが辺りに散った。


 ふたりして酸桃をかじっていると、家のほうから氷砂糖のような声が聞こえた。

「翠、そっちの支度はどう」

 見れば紫が銀色のお盆を持って歩いてくる。

 今日のかれは、装飾の少ないブラウスにリボンタイを左右均等に結び、丈の短い吊りズボンを重ねていた。白い膝が慎重に歩みを進める。

「あとは椅子を並べるだけさ」と翠は片手に酸桃を隠して涼しい顔で答えた。

「全然進んでいないじゃないか」

 ちいさな溜息。続けてかれはアメシストの瞳を僕に向けた。表情と声音が仄かに明かりを灯した。

「カミツレ、そろそろ来ると思っていたよ。ゼリィが綺麗に固まったから」


 細い指がことことと働く。ガラスの器の上に花の形のゼリィがゆれる。

「葡萄、夏蜜柑、キーウイフルーツ。どれにする、カミツレ」

「それじゃあ、夏蜜柑をもらうよ」

「なら僕はキーウイフルーツがいい」

 快活な声が横から入った。

「まったく」と呆れながらも、紫は澄んだ若葉色のゼリィをテーブルに置いて翠のほうへ滑らせた。

「そうそう、ソーダ水から酸桃をもらったよ」

 紙袋が翠から紫へ渡る。

「それで君は、プラネタリウムの準備もせずに摘まみ食いをしていたわけだね」

「摘まみ食いなんかするものか」

 紫は眉をひそめて「君、指先から甘い匂いがするじゃないか」とぴしゃりとやった。


「手を拭くものが必要そうだね。……言っておくけれど、まさかそのスカーフを使おうなんて思っちゃいないだろう」

 先回りした紫の言葉に、翠はちょっと首をかしげてから訊いた。

「舐めたら君、怒るかい」

「当たり前だ」

 翠はそれ以上何も言わず肩をすくめた。

「カミツレ、君もね」

 お見通しの口調に、僕は幾分きまり悪く思いながらも「頼むよ」と応えた。


 紫は濡らした桃色のタオルを僕たちに一枚ずつ手渡して、また中へ引っ込んだ。

 果汁のべたべたを拭った僕と翠は、急いで籐椅子の位置を調えた。


 それぞれの席の前にゼリィの器とスプーンを置いて、少しした頃に紫は出てきた。

 また別のお盆を両手で支えている。

「椅子を並べたよ、紫」と翠は得意げに胸を張った。

「ようやくだね」と紫は大して取り合わなかった。

 テーブルの上に現れたのは縁に蔦模様を描いた琺瑯引きのボウル、それから涼やかな幾何学紋様の切子の鉢。

 切子の鉢には、半分に割って種を取った酸桃が鮮やかに重なる。紫は小さな金色のフォークまで用意してくれていた。


 一方のボウルの中身は見たこともないものだった。とろりとしたパステルイエローのスープに、たっぷりの泡のような雲のような、白く丸くぷかぷかと浮かぶもの。

 しげしげとそれを眺めていると、細い指がスープの表面を撫でていった。

「翠」

 紫が咎める。

「よく冷えている。抜かりないね」

「君ときたら、一寸目を離すと猫みたいに悪さをする」

「温くならないうちに食べてしまったほうがいいさ。ほら、ソーダ水」

 翠はゼリィのスプーンでパステルイエローを一掬いし、滑らかな動作で僕に差しだした。

「なんだい、これ」

「メレンゲをミルクで茹でてカスタードに浮かべたんだ。翠、カミツレを唆すのは止せ」

 カスタードを湛えたスプーンを自分でくわえて、翠はくすくすと笑った。


「まだ用意するものは残っているの」

 紫はテーブルをざっと見渡してから僕の問いに答えた。

「あとは飲みものだけ出してしまうよ」

「手伝おうか」

「いや。……それより、翠を見張っていてくれるかい」

 声には見過ごしてしまいそうなほど微かな笑みが交じっていた。その視線の先の翠は籐椅子に座って左腕で頬杖をつき、右手の指にスプーンを挟んでくるくるさせていた。

「そうだね、それがよさそうだ」


「座りなよ、ソーダ水」

 翠がこちらに首を向ける。僕が腰を下ろしたのを認めて、かれは「もうすっかり暗い」と湖を示した。

 何気なく見遣って息を呑んだ。見晴らす限りの深い墨色。

 岸辺近くの水は翠と紫の家からの灯りを襞に折る。その向こうはもう、濃密な湿気が黒々とするばかりだった。対岸にあるはずの街の気配すらちらとも見えない。

「君の家はどの辺りだったっけ」

 右手を指さす形にして目を凝らす。けれども眼前の闇の一点を指すことが、僕にはどうしてもできなかった。

 唾を飲んで「暗いね」と呟いた。

「プラチネリィの前触れさ」

 大人びた口調で翠が告げた。


 氷をたっぷり入れたグラスを三つ、ガラス瓶を二本。紫の歩く影が前方に細く長く伸びる。

「もうじきだね」

 紫は二本の瓶の中身を順に注ぐ。二本目のときには細かな泡が気の早い拍手のようにサアァと弾けた。

「そっちの瓶は」とソーダ水ではないほうを指して尋ねた。

 紫は答える前に僕を見て、まるで無邪気に頬を緩めた。

「カミツレシロップ」

 新しいグラスの氷の間をシロップが滑る。ぴきき、とささやかな囀りが聞こえた。

「今年初めての瓶なんだ。君が来るから、開けるのを取っておいた」

「ありがとう」

 口に出した後で、なんだかちぐはぐな気がした。それでも紫は機嫌よさそうに笑っていたから、あえてなにか言い直す気にはなれなかった。


「僕のはソーダ水を多めにしてくれる」

 最後のグラスに翠は注文をつけた。指一本分ほどの高さにカミツレシロップを注いで紫が言う。

「君は本当にソーダ水が好きだね」

「勿論。あんなに面白い飲み物ってないだろう。甘くって冷たくって、口の中がしゅわしゅわ賑やかになって」

 紫がグラスにソーダ水をなみなみと充たす様子を、翠は大きな目で観ていた。


 それから僕たちはめいめいのゼリィの前に座って喉を潤した。

 酸桃はぱきっとした歯触りの後で果汁を溢れさせたし、ゼリィは舌の上で無数の柔らかな結晶にほぐれた。

 メレンゲ菓子は口に入れると正体もつかめないうちに溶けてしまい、後からカスタードがぽってり香った。


 カミツレシロップのソーダ水割りの泡に合わせて、僕の目の端で何かが煌めいた。その行き先を目で追う。

 いつの間にか厚い雲は跡形もなく、僕は星空に浮いていた。

 無数のかがやきは上にいくほどまたたき、下にいくほどゆらめいた。それでようやく、湖が満天の星を写して夜空を倍にも広くしているのだと気が付いた。

「プラチネリィが始まる」

 空気をわずかにも震わせまいとするように翠が囁いた。

「プラネタリウムだったら」

 おなじだけのひそやかな息遣いで紫が訂正した。

 僕はその間に挟まれて、こっそり笑った。


 不意に白い星の一つがすい、と右下にひらめいて消えた。

「流れ星だ」

 はっと指をさす。両脇からさざ波のような笑い声。

「違うよ、カミツレ」

「見ていてごらん」

 僕は熱くなる頬をごまかして顎を上げた。


 また別の光が、今度は上のほうにつう、と動く。

 あちらでもこちらでも、星が音もなく飛び交う。

 呆気にとられる僕に近寄る光があった。その細部が見えた。

「螢だ」

「ご名答」と翠の声。

「毎年この晩に来るんだ」と紫の声。

「すごいや、確かにこれはプラネタリウムだね」

 ふたたび笑い交わすふたつの声。

「まだほんの序の口さ」

「プラネタリウムはこれからだよ」


 無数の星を背景に螢が明滅する。そのいくつかが寄り集まって、どこか見覚えある形をつくった。

「北斗七星」と翠。

「違う、小熊座だ。あの尻尾が北極星」と紫。

 言っている間にも螢は舞う。何頭かが重なり星座の中にひときわ明るい星が現れる。

「大犬座だね」

「なるほど、あれはシリウスなんだ」


 続いての曲線的な星座は、僕も知っていた。

「蠍座」

 紫は「ああ」と頷いた。

「赤くないアンタレスだと、ずいぶんと印象が変わる」

 翠はしばらくきょろきょろして「あっちに本物がある」とまっすぐな指を伸ばした。

 その先の星を選んでたどっているうちに、白い心臓の蠍は消えてしまった。


 射手座、山羊座、と紫は螢が織りなす名前を僕に教えてくれた。

「僕、山羊座が好きだ。暗い星だけど、なんだか滑稽で」

 翠が宙の三角形を指でなぞる。

「カミツレ、君の好きな星座はなに」

 僕は言葉に詰まり、考えて、ようやく「水瓶座」と答えた。自分の生まれ月の星座だからという他愛もない理由で。

「君に似合うね」と二人が口々に言う。その理由を訊こうとしたとき、紫が「ほら、水瓶座だ」と細い首を反らした。

 白い光をどうつないだら水瓶になるだろうと考えているうちに、螢たちは端からほどけてしまった。


 魚座、牡羊座。

「紫は牡羊座が好きなんだ」

 翠が僕に耳打ちした。紫はまるで睨みつけるような眼差しで湖面の星を見つめていた。

 その並びが姿を変える。「牡牛座だ」と紫がぴんと張った表情を解いた。


 次いで螢たちはほとんど左右対称にひろがった。

「双子座だね」

 一瞬だけ草もそよがない静けさが訪れた。

「ねえ紫。僕たち、どちらがカストルでどちらがポルックスだろうね」

 星も螢も虚空に貼りついてじっとしていた。

「君がポルックスさ。決まってる」

 紫は翠に視線も遣らずに答えた。風にさざ波が立って、水面が滲んだ。


 煌めきの輪郭がくっきりと戻ってから、翠はもう一度紫を呼んだ。

「カストルとポルックスは、どちらが神でどちらが人間なのだっけ」

 あるかないかの間を空けて、険のある口ぶりが返る。

「教えてやらない」

「ソーダ水、君は知っている」

「僕もわからない。でもきっと──」

「カミツレ、蟹座だ」

 こちらに体を傾けて紫が空を指した。

「本当だ」

 やさしく瞳を細めて翠が星を仰いだ。


 獅子座、乙女座、天秤座を順に形作って、螢はふわりとちりばめられた。

 かれらは星とペアをつくって踊る。

 酸桃の皮がぷちりと鳴った。僕も金のフォークで一切れを取った。

 グラスの氷はすっかり溶けて透明な層を重ねていた。

 

 一頭、また一頭と螢が灯を落として草木へ消える。夜空はきんと静謐。

「メレンゲをもう少しどう」

「ありがとう、いただくよ」

 甘味の増したカスタードを少しずつ舐める。

 深い眠りのような口当たりに瞼が重くなりかけたとき、目の前を露ほどの光が横切った。

 はぐれた螢はしばらくテーブルをさまよって、琺瑯引きのボウルの縁にとまり、羽を広げてふらふらと僕のシャツの襟に落ち着いた。

 翠と紫がそろって僕の首の辺りを覗き込む。どうにも照れくさくて、二人のまるい瞳から目をそらして息を詰めた。

「きっと君のことが気に入ったんだ」

「連れて帰るといい。釣鐘草をあげるから」

 僕が頷くよりもはやく、紫は家の脇の茂みに入った。白いふくらはぎは草の中で痛々しいほどか弱かった。


「カミツレ、ほら」

 並んで顔をうつむける釣鐘草を一枝。

「ありがとう」

 花のなかに収めようと襟に触れてみたけれど、螢はじっと動かなかった。

 紫が不安げに首をかしげる。釣鐘草と同じ色の眼差しで。

「このままくっつけて帰るよ。これも部屋に挿して飾る」

「そう」

 なんでもなさを装った声だった。


 ボートを着けた岸辺で翠はゆっくりと声を発した。

「今日から三日目の晩に、螢を放してやってくれるかい」

 それはまるで、最奥の秘密を打ち明けるようだった。

「わかった」

 僕はその言葉を心に留めた。


 オールで水を掻く。紫と翠が立っているのが遠く暗く見える。

 首をめぐらせると街の灯りが星よりも鮮やかに夜を染めていた。

 ボートを進めるためにいっぱいに腕を動かしても、僕の螢は眠ったように襟を離れなかった。


 きっかり三日が経って、僕は釣鐘草を片手に学校の近くの川へ来ていた。花弁のふちは少しかわいて色褪せてきている。なにかを囁きたそうな紫色のひとつの中で、螢が光を呼吸する。

 スレイベルを鳴らすように手首を振ると螢はひらりと姿を見せた。

 僕の周りを明滅しながら舞う。だんだんと羽根を動かして温度のない明るさを頭上に運ぶ。


 夜空はよく晴れていた。ここから見える星をかぞえる。

 螢が僕の視線を二つの柄杓の形へ導き、小熊座の尻尾の先に重なる。

 まっすぐにまっすぐに白い光が遠のいていく。

 とうとう螢は星と見分けがつかなくなって、空には細い月とまばらな星が黙り込むばかりになった。


 僕は釣鐘草をそっと川に浮かべた。その色がみずみずしさを取り戻しながら下流へ往くのを、僕ははるか彼方まで見送った。

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