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少年たちと少女≒蝶と蜘蛛

作者: 香


 ひらひらと風に流れて蝶一つ(正岡子規) 


  すぐに仲間ができてしまう透也は、いつも不思議に思っていた。中学校に入学して二年が経とうとしているのに、一度も話したことのない女の子。気づくといつも、その子は窓の外を見ていた。

「森中の席に何かあるのか」

 その少女、森中鈴音の空席を見つめ続ける透也に、親友の杏里が声をかけた。

「別に」

 透也はそっけなく答えたが、その視線はまだ、その席に注がれている。

「森中って変なヤツだよな。誰ともしゃべろうとしないし。しゃべれない、とは違うよな」

「あの子って、蝶みたいだ」

「は?」

「俺、蝶って嫌い」

「なるほどね」

 杏里が笑って透也の肩を叩く。本当は知っている。杏里は一度もそんな素振りを見せたことはないけど、あの子を気にしている。

 はらはらと舞い飛び、消え入りそうに光る、あの子は蝶だ。でも俺は知っている。いつか蜘蛛に捕われてしまうこと。

 透也は、廊下の方から自分を呼ぶ杏里の声に応えて、淡い、冬の終わりの光が差し込む教室を出た。


 太陽の傾きかけた教室の、窓際の下の壁にもたれて、透也は目を閉じていた。強い西日が教室中を這い回り、壁を背にして陽を遮らないと目も満足に開けていられない。

 杏里と透也の所属している陸上部は、今日は休みだ。杏里は歯医者だとか言って先に帰ってしまった。透也は一人、誰もいない教室で、ケイタイにおとしたサカナクションを聞いていた。

 ケイタイを閉じると、いつもは声と音に溢れている教室が、まるで元から音がなかったかのように静まっているのに気づく。光の粒子が見えるくらいに。

 透也はヘッドホンを外して鈴音の席を見つめた。窓際の一番後ろ。その席からは、一体何が見えるのだろう。

 透也が立ち上がろうとした瞬間、誰かの乾いた足音と、教室の扉を開ける音がした。鈴音だった。いつも教師に違反だと言われても束ねようとしない、背の中ごろまである髪の毛が、鈴音をまるで日本人形のように見せている。

 鈴音は扉を閉めて教室に入ってくると、透也に気がつかないのか、窓際まで歩いて来ていきなり窓を開けた。陽の光で温まった教室に、二月の冷たい風が吹き抜ける。それでも透也は、身動き一つせずに鈴音を見つめ続けた。その視線の先に何があるのか知りたかった。

 窓枠に手をかけたまま、鈴音は黒い髪をなびかせて何かを見つめている。花の在り処を見つけたのだろうか?

「中谷君」

 鈴音が体勢を少しも崩さずに、独り言のように言った。透也は驚いて、自分の膝を机の足に思いっきりぶつけた。

「ってぇ・・・気づいていたんなら言えよ」

 鈴音が、透也を見下ろす形で視線を合わせた。透也は、自分の心がなぜか残酷さを帯びていくのを感じていた。何もかもを壊してしまいたいような。

「私って、蝶みたい?」

 鈴音のセーラー服の襟がはためく。心を読まれた?違う、杏里だ。でもどうして杏里が?

 鈴音は風で乱れる髪の毛をかきあげた。

「俺、蝶は嫌いだ」

 鈴音がゆるりと微笑む。金の燐粉が、風に乗って透也を惑わせる。花の在り処は、教えてくれそうにない。

「気になる?私のこと」

 透也は立ち上がり、鈴音が開けた窓を強く、音を立てて閉めた。それでも表情を変えない鈴音に、透也はいらだった。

「蜘蛛の巣にひっかかっちまえばいい」

 怒鳴るように言うと、透也は教室を出た。蜘蛛の巣に手も足も絡まって、動けなくなってしまえばいい。そしてもう何も見えないよう、その目をえぐり取られてしまえばいい。


「うちのクラスの伊藤、お前のこと好きらしいよ」

 給食を食べ終わったあと、透也と杏里は屋上へ来ていた。風が強く、二人は給水塔の下に座って風をよけた。

「へー」

 気のない返事をする杏里に、透也は眉根を寄せた。

「それだけかよ」

 伊藤は、学年で一番もてるタイプの女の子だ。どうして、と食い下がる透也に、杏里は怪訝そうな顔を向けた。透也の言ったことは全部嘘だった。しかし、杏里は身長も高いし顔もいい。おまけに成績優秀で口もうまいときている。大体の女子は杏里に気があるといっていい。伊藤の話だって、あながち嘘から出た真かもしれない。でも、二年近く一緒にいる杏里の口から、特定の女の子の名前を聞いたことはない。

「杏里、勉強ばっかりじゃ人生楽しくないよ」

「いつ俺が勉強ばっかりしているよ」

「じゃあどうなんだよ」

「何が」

「好きな女の子とかいないのか?」

 杏里は少し黙って、ポケットから煙草と百円ライターを取り出した。

「吸うか?」

「いい、俺、すぐ髪に匂いがつくから」

 透也が断ると、杏里は慣れた手つきで煙草に火をつけた。立ち昇っていく煙を見つめながら、

「いるかもな」

 とつぶやいた。

「何だよそれ」

 言いながら、透也が学ランの第二ボタンを外した。

「杏里、蝶好き?」

「蛾よりは好きかな」

 そして、何のこと言ってんの、と続けた。

「俺、見ていると殺したくなる。握りつぶしてぐしゃぐしゃにしたくなる。俺って、変?」

「普通」

 杏里は、遠く青い空を見つめていた。

「やっぱ俺も吸う」

「匂いがつくんじゃなかったっけ」

「いーよ、くれ」

「はいはい」

 杏里の、煙草とライターを渡す手が、妙に大人びて見えた。

「杏里、手ぇでかいね」

「まーね」

 透也がマルボロの重い煙を吐き出すと、それはすぐに風に消えた。

「二月にしちゃあ今年は寒くないな」

「うそかまことかの温暖化。北極の氷が溶けて流れて、俺たちもうすぐ死ぬんだろ」

 杏里の真っ黒い髪の毛にも、透也の薄茶色の髪の毛にも、昇る煙がまとわりついた。

「そういうお前はどうなのよ」

「・・・いるかもな」

 杏里は、黙って俺をにらんだ。

「お互い様だろ。今日のグラウンドならしの当番、俺らじゃなかったっけ」

「そうだよ」

「めんどくせー、マットとバーだけかたすのも大変なのに」

「じゃあやめれば?陸上部」

「しょうがないだろ。この学校、部活は強制参加なんだから。他にまともなのないだろ」

「それなら文句言うなよ」

 杏里は苦笑いしながら煙草を潰した。

「次体育だろ?もう行こう」

「えーダルイ。サボっちまおーぜ」

「俺、バスケ好きだからだるくないもーん」

「透也はスポーツなら何でもだろ」

 透也に続いて杏里がしぶしぶ立ち上がった。

「でも、来週のマラソン大会は負けないからな」

「ハイハイ」

 時々杏里は、透也よりも大人になる。そんな時透也は、悔しいというよりも憧れの視線を杏里に注いでしまう。

「あ、やば、本令なった」

「杏里、駆けるぞ」

「ハイハイ」

「そのはいはいって言うのやめろよ!むかつく!」

「ハイハイ」

「杏里!」

 追いかけっこが始まった。でも、俺は杏里に追いつけない。多分俺は、杏里の後ろにできた小さな影にすぎないんだ。


「中谷、記録とるぞー」

 顧問の声に、透也は休憩していた芝生の上から腰をあげた。立春を過ぎ、少しだけ長くなった日照時間ももうすぐ終わる。夕日は半分沈み、グラウンドはその最後の光を受けていた。

 透也が杏里の方をちらりと見ると、珍しく真剣にハードルを飛んでいた。悔しいほどサマになっている。

「中谷早くしろ!」

 透也が小走りでスタート位置につき、手を上げてからバーをにらんだ。飛べるのだろうか、なんて少しも考えない。ギリ、と乾いた砂を蹴って体を前に倒し、勢いをつけて走り出す。バーを意識しないこと。バーのその先に向かうこと。そして透也は飛んだ。

 飛んでいる最中に思うことは、夕日のまぶしさと、バーに足が触れていないかという少しの不安。そして、空白の白。

 沈み込むようにマットに倒れ、頭上を見上げる。カタカタと少しだけバーは揺れ、止まった。

「記録更新~!」

 透也は空に向かって叫んだ。

「惜しいよなあ。これだけ飛べれば大会でも相当なところまでいけるのに、どうしてお前はいつも大会の前になると腹壊すんだよ」

 透也のすぐ横で、顧問が悔しそうにつぶやいた。自分の背たけほどもあるバーを、軽々と飛び越えてしまう透也に、誰もが感嘆し、ため息をつく。けれど透也はそんなことは露ほども知らない。ただ、高く高く飛ぶことだけを思っている。

「透也」

 マットから上半身を上げ、声のした方を向くと、杏里が光を背にして立っていた。透也は目を細めた。

「今日はまじめにやっているかと思っていたら、もうサボりかよ」

 ハーフパンツから伸びる、透也の細い足を見ながら、杏里は笑った。

「前から聞きたかったんだけど、透也はどうして高飛びなワケ。お前、短距離早いだろ」

「走り高跳びは、自分の力で飛んでいるって感じがするじゃん」

 そう言うと、透也はまたマットに沈み込んだ。遠くで野球部のノックの音が聞こえた。空が、高い。

「中谷、村山!休憩はそのくらいにしろ!」

 時代遅れの熱血顧問が声を張り上げた。二人は目配せし合った。

「杏里」

 杏里の差し出した手を透也がつかみ、引っ張りあげてもらうと、透也はまた目を細めた。

「夕日がまぶしい」

 不意に目の前の校舎に視線を向けると、透也の教室に人影が見えた。誰かを見つめる、蝶の影。

「透也?」

「先生まじキレそー」

 杏里の耳元にささやくと、すぐに視線をはずし、透也はまたスタート位置に向かった。その後姿を、杏里が見ていた。


 放課後、いつものように透也はグラウンドに向かった。杏里は眼科に行くとか言って帰った。多分嘘だろう。頭がよく見えるとか言ってダテメガネをかけているようなヤツだ。基本的にふざけている。

 グラウンドへ向かう途中に通る、この時間はいつも人気のない旧校舎から、珍しく話し声がした。それは旧校舎と新校舎をつなぐ外の廊下から聞こえてくる。何気なくそこを通った透也だったが、その声の主が、鈴音と社会の教師だと気づいた。一旦は通り過ぎた透也だったが、気になる心を抑えきれず、近くの壁際に隠れて二人の会話を盗み聞いた。

「昨日も来なかったな。何か理由があってのことなんだろう?」

「忘れていました」

「今まで一回も参加していないのはお前くらいだぞ?一応入部しているんだから、少しは活動に参加しなさい」

 沈黙が続いた。首にあたるごつごつした壁の冷たい感触を気にしながら、透也は鈴音が何部だったのかを思い出そうとした。

「今日、これから出なさい。温室の植物に水をやって、枯れた葉を取るだけでいいから。わかったか?」

 仕方なく鈴音は同意したようだ。新校舎に教師が入っていくのを目で追いながら、鈴音は園芸部だったことを透也は知った。思い出せないのではなく、知らなかったのだ。誰かが、ほとんど活動がなくて楽だと言っていたことは思い出せた。

 透也は自分の方へ歩いてくる足音を聞き、慌てて死角になる旧校舎の陰に隠れた。鈴音は温室に向かったようだ。透也も、何も考えずに温室へ向かった。

 体育館と旧校舎に挟まれた温室は総ガラス張りだ。沈み行く夕日の弱い光を受けて、金色に浮かんで見える。温室の隣にある桜の巨木が、枯れているかのようにひっそりと立っている。その木に、たくさんの蕾が春を待っていることを、透也はまだ知らない。

時がたつにつれて温度が下がっていくのを肌で感じた。白い息を自分の手にかける。

鈴音が葉切バサミを持って温室に入って行くのが見えた。自分以外の誰かが温室の扉を閉める音で、鈴音は透也の方を振り返った。しかし別段驚く様子もなく、透也に背を向けると枯れた葉を切り始めた。教室三つ分もある広い温室には、他に人の気配はなかった。

「楽しい?」

 透也が皮肉をこめて言うと、

「楽しい」

 と、鈴音はそっけなく答えた。しゃがむとその髪の毛は、地面についてしまうほど長い。

 ぱちんぱちんという葉切りバサミの音が、ガラスに小さく振動した。

「何ていう花」

 透也が、鈴音の切る花の鉢を指差して言った。

「黄梅。でも、梅じゃない」

「どうして」

「形が似ているから。別名迎春花。春を迎える花」

 黒い幹に、小さな薄黄色の花がたくさん咲いている。

「香りは少しもない」

 鈴音が、その一つの花に顔を近づけて言った。

「お前さ、誰ともしゃべらなくて寂しくないの」

「私が言葉を話さなくても、誰かが話しているから気にならない」

「どういうことだよ」

 透也が聞き返しても、鈴音はそれ以上答えなかった。

「話すのが面倒くさいってことか?」

 透也は徐々にいらだっていくのを感じた。こんなにも思い通りにならないことは、初めてだと思った。反対に鈴音は、透也のことは気にもしない様子で、次々に枯れた葉を切り落としていく。

「その花は」

 学ランが汚れるのに少しもかまわず、透也は地べたに座り込んだ。

「クロッカス。陽の当たらない所では育たない。あなたみたいな花」

「どういう意味だよ」

「でも仕方ない。陰がある所にこの花は生まれないから」

 そう言って鈴音は紫色の花に触れた。透也は、小学生の頃に理科の授業でこの花を育てたこと、その球根から伸びる長い根に驚いたことを思い出した。水を吸い、太陽を浴びる健やかな花。

 そうしているうちにも陽は傾き、温度は下がっていく。

「これ、ヒヤシンスだろう」

 透也が言うと、鈴音が振り向いた。

「いい香りでしょう」

 色とりどりの花は、何かを拒むように下を向いている。

「今日はよくしゃべるな」

 どうしてこんなに刺のある言い方をしてしまうのだろうと、透也はひそかに自分に問いかけた。馬鹿にされるのは杏里で慣れている。普通の会話をしているのに、こんなにも相手を憎らしく思ったことはない。

「お前がこんなにしゃべるの、初めて聞いた」

「だってあなたと話す理由なんてないもの」

 座ったまま見上げた、鈴音の長いまつげが気になった。そのくらい、二人は近くにいた。

 鈴音の肌は白い。細い首も、繊細な指先も。なのに透也は黒いアゲハ蝶を思った。ただそこに存在するだけで目を奪われる、漆黒の羽。透也の中を、綺麗なものと残酷なものとが交互に流れていった。

「外に咲いている、桜じゃない方の木は何ていう木?赤い花が咲いているやつ」

「紅梅。紅い梅」

「梅か」

 透也は室内から、外の小さな木を振り返った。もうほとんど、その木が見えないほどの闇だ。温室内は、豆電球が優しい橙に室内を染めている。

「とても紅い。でも香りもほとんどないし実も取れない。白梅の方が役に立つのに、人間は紅が好き。紅梅は、木の髄まで紅いの。人の血液みたいに」

「紅すぎて俺は無気味だと思うけど」

 透也は、乾いた茶色い土を触りながら言った。夜が二人をしきりに追い立てる声がするのに、透也はどうしても立ち上がれないでいた。

「水仙の花言葉、知っている?」

「知るわけないだろう」

 透也は鈴音をにらんだ。

「あなたの約束を守りなさい」

 その抑揚のない声は、透也に注意を促すように響いた。

「花が好きなんだな」

 鈴音は静かに微笑した。

「あなたなんかよりずっと好き」

 試されているようなその言葉に、心底ぞっとした。透也はそれを振り切るように立ち上がり、そばにあった大きな空の植木鉢を思い切り蹴った。ガチャン、と瀬戸物の割れる鈍い音が響き渡った。

「花にまみれて窒息しちまえ」

 低く叫ぶと、透也は温室を出た。扉を開けると、その温度差に全身が震えた。

ムカムカして気分が悪い。ああ、何もかもぶち壊してしまいたい。あいつも学校もこの星も俺自身も。何もかも粉々に砕け散って、消えてしまえばいい。あいつが欲しがる花なんか、この世界から一本も残らず燃やされてしまえばいい。温室を出て走りながら透也は思った。 

どうしてこんなことを思いながら泣きたくなるのかわからなかった。悔しいんじゃない。違う、そんなんじゃない。俺は、あいつを捕まえられない蜘蛛だ。狭い自分のテリトリーの中でもがいているだけなのか。

それでも蝶は舞う。そのすぐ後ろで、蜘蛛が待っているのも知らずに。


「出席番号十六番中谷透也、川の流れのように、歌いまーす」

「おーい、いつの歌だよそれ」

 昼休み、教卓をステージに男子が集まって騒ぎ出す。中心はいつも透也だ。

「誰の歌~?」

 女子も、遠巻きに笑いながら野次を飛ばす。

「何言ってんだよ、美空ひばりだよ!知らねーの?泣けるぜ~?」

「オヤジかよお前」

 大きな笑いが起こり、透也の一挙一動に、クラスメイト全員が引き込まれていく。

「早く歌えよ!」

「アンコール~」

「まだ歌ってないっつうの!」

 必要もないのにギターをかき鳴らす真似をし、声を張り上げる。男子の大半は学ランを脱いで、まだ二月だというのにYシャツ一枚になっている。

「コラ!また中谷か!教卓に乗るなっつったろ!」

 上背のある数学担当のクラス担任が、大声で怒鳴りながら教室に入って来た。

「逃げろ!つかまったらまたマラソンさせられるぞ!」

 透也の声で、その場にいた男子全員が校庭へと駆け出す。

「少しは次の時間の予習でもしろ!」

 そんな教師の声は、彼らの耳には届かない。

「外で野球しようぜ!」

 次の遊びで頭がいっぱいだ。透也のおかげで、このクラスは他のクラスよりずっとまとまりがいい。困ったなあという顔をしつつ、その後姿を見る、担任の表情は柔らかい。

透也には、否応なく人を惹きつけてしまう何かがあった。透也の周りは、いつも人が集まって来る。野性的なまでのその感性を、透也は誰に教わるわけでもなく身につけていた。

人は、自分にないものを持つものに憧れる。透也は愛されるべき人間だと、誰もが口に出さなくても知っていた。雨の日も、雪の日も、透也の上にだけは光が降り注いでいると。 

花は、揺れる。触れたらその毒に殺されてしまうことなんて、誰も知らない。


春の光に似た柔らかい日差しが、教室中に降り注いでいた。

ちょうど心地良い温度なのか、五時間目の教室は大半の生徒が眠りに落ちている。実験室ではなく、クラスでの理科の授業だからなおさらだ。透也も、実験なら楽しいのにと思いつつ、うつらうつらしていた。

何の気なしに透也の二つ左隣の杏里を見ると、透也の予想に反したところを見つめていた。鈴音を見ていた。どんな目で鈴音を見ているのか、透也の席からは見えない。透也の席は廊下側の一番後ろだ。鈴音の席の右直線状にある。

鈴音はいつものように窓の外を見ていて、その表情をうかがい知ることはできない。

透也は不意に、わけのわからない焦りと不安を覚えた。春近くのこの空気とは対照的に、冷たい氷のような「予感」が、透也の指先に落ちた。

その時、カタリ、と窓が鳴った。透也の席からは聞こえるはずがない、微かな音だ。クラスの人間は気づいているのだろうか?透也はとっさに鈴音の方を見た。

黒い大きなアゲハ蝶が、鈴音の周りを飛んでいる。一瞬、自分が夢を見ているのではないかと思った。杏里は気づいているのかいないのか、その姿勢は保たれたままだ。

ひらひらと、幻想のように蝶が舞う。銀の燐粉を落としながら、はらはらと飛び廻る。蝶が見えているのは、自分だけなのではないかと透也は思った。こんな時期にアゲハ蝶がいるはずはない。

「お、でかいアゲハ蝶だな」

 突然教師が言い、眠りに落ちていたクラスが目を覚まし始めた。そして、鈴音の周りを舞うアゲハ蝶に目を奪われていく。見えるのか、と透也は安心したようながっかりしたような複雑な思いがした。

「アゲハ蝶は夏の虫のはずなんだけどな。あんまり暖かいから、初夏と間違えて迷い出てきたのかもしれないね」

 教師は鈴音に話し掛けたが、鈴音は虚ろに窓の外を見つめたままだ。教師は小さくため息をつくと、次はクラス全体に向けて話し始めた。

「今までの授業とはそれるが、冬、蝶はどうしていると思う?」

 まだ寝ぼけているのか、クラスは少しざわついただけだ。

「蝶は熊なんかと同じで、冬になると体温が下がってしまう。だから飛べなくなるんだ。そうなると、木のほら穴などで冬眠をする。それを凍蝶という。アゲハの種類は、さなぎのまま冬を越す。だからアゲハ蝶は、今の時期はさすがに早すぎるけどね。タテハ類は、正月を過ぎた頃に見た人もいるんじゃないか?黄や赤のぎざぎざのついた、アゲハ蝶よりも少し小さい蝶だ。俳句なんかで、初蝶って言っているのは種類が決まっていて、黄蝶のことなんだぞ」

 静かに、若い理科教師は言った。クラスはその声を子守唄代わりに、また眠りに入っていく。

「凍蝶」

 杏里が、前を向いたまま口だけを動かしてつぶやいた。

蝶はもう目覚めてしまったのだろうか。羽を震わせ、少し早い春に気づいてしまったのだろうか。。。             


「蝶が気になる?」

 部活をサボって、学校の近くのコンビニで雑誌を立ち読みしながら、透也は言った。

「どういう意味」

「そういう意味」

 杏里は透也よりも頭一つ分背が高い。透也が杏里の方を向くと、綺麗な角度の首と顎が見える。

「凍蝶を目覚めさせたのはお前だ」

 雑誌に目をはせながら杏里は言った。透也はその横顔を凝視した。

「蝶って目が見えると思う?」

「見えるんじゃないの?あんなおっきい目がついてるじゃん」

 透也が次の雑誌を探しながら言った。

「見えないんだよ。花に反射する光で、その花が何色か判断するんだ」

「杏里、お前難しいこと知ってるな」

「難しいことなんて、一つも言っていないと思うけど?ま、俺と透也じゃ脳みその詰まり具合が違うから仕方ないけどな」

「ムカつくなーお前。でもどうしてそんなに詳しいんだよ。やっぱり蝶が好きなんだろ」

「嫌いだとは言っていない」

 パラ、と杏里が骨ばった指でページをめくる。

「花は蝶が必要だ。子孫を残すためにはな。蝶だって、生きるためには花が必要だ」

「ギブアンドテイクってわけか」

「花と蝶ともう一つ」

「蜘蛛、だろ」

 透也のその言葉に、杏里は横顔のまま少し笑った。

「そう、蜘蛛だ」

「蜘蛛は厄介者なんじゃない?」

「蜘蛛にも生きる権利はある」

「何か、お前ってテツガクシャみたいだな」

 その時、ドタン、と並々ならぬ音がしてコンビニのドアが開いた。音につられてそっちを見ると、陸上部の顧問がすごい形相で二人をにらんでいた。

「やっぱりここか!中谷!村山!」

「やばー・・・」

 二人は顔を見合わせて、そぅっと雑誌を置いた。

「部活サボってばかりで何やってんだ!もう逃げられないぞ!」

 顧問の体の周りに、心なしか青い炎が見える。全校集合の時も脱がない、その青いぴちっとした上下ジャージ姿が、まるで舌を出す蛇のように見えた。

「逃げられなさそうだな、杏里」

「だな」

「お前ら、これから学校に行って部室の掃除してこい!」

「だってもう七時・・・」

「いつも遊びまわっているなら、七時なんてまだ真昼間だよなぁ?」

「え~」

「明日の朝見てやってなかったら、お前ら一ヶ月トイレ掃除と草むしりだ!今なら校長先生のお説教付きだぞ!早く行け!走れ!」

「くそーついてない。杏里のせいだからな!」

「何で俺のせいなんだよ!」

「ぶつくさ言っていないで行け!」

「「はーい」」

 二人同時に、コンビニを出て走り出す。外はもう闇。ヘッドランプとテイルランプが行き交う国道を避け、車通りの少ない海岸通りを行った。

二人の通う中学校は、周りを小さな森に囲まれ、少し小高い丘の上に位置する。そこまでの坂道が、生徒の毎日の悩みの種だ。とにかく急で、長いのだ。

かけていると、口には冷たい風が入り込んでくるのに、体の内部は火を灯したように熱くなる。

「坂は歩こうぜ」

 透也が言い、二人で荒い息を落ち着かせながら坂を登った。

「誰がチクったのかな」

「いや、あいつが密かに調べていたのかもしれない」

「有り得ない話じゃないな。陸上部、人数多いから部室も他より広いのに」

「次はもっとうまくやらねば」

「杏里って将来、悪徳官僚とかになって、罪のない市民から血税をふんだくりそうだよな」

「そうなるつもりだけど?」

 杏里はその整った顔でにやりと笑い、メガネを直す仕草をした。

「何でこんなヤツがもてんのかなぁ。世間は間違っていると叫びたいよ。しかもどうしてダテメガネだって誰も気づかないのかな」

「ま、俺はカリスマだからな」

「カリスマ馬鹿?」

「お前が馬鹿とか言っても説得力ないな」

「むっかつく~」

 透也は地団太踏んで悔しがった。やはり、言葉では杏里にかなわない。

「その嫌味な態度直せよな」

 杏里は黙って、グラウンドに隣接した部室に向かった。陸上部専用の鍵を、近くに建つ銅のモニュメントの下から取り出した。

「無視すんなよ」

「透也のせいで俺の株が下がった。何かおごれよ」

「あいつの株くらい下がったってどうってことないだろ」

 杏里はその言葉を受けて、考え込むような仕草をした。

「俺といるから、少しは頭が働くようになったな」

「褒めてんの、けなしてんの」

「両方」

 そう言いながら、杏里は誰もいない部室の電気をつけた。

「うわ、くっさー。さっさとやって帰ろうぜ」

 部室の窓から外を覗くと、見えるのは道路を照らす街灯だけ。生徒も教師も、もう学校には残っていないらしい。

「杏里、ホウキ取って」

 すのこをロッカーに立てかけた透也が杏里に向かって叫ぶと、ホウキが投げてよこされた。さっき走ったせいか、人のいない部室でも寒さを感じない。

ホウキで床を掃き出して十分ほど経った頃、透也は杏里の気配がないことに気がついた。

「杏里?」

 返事はない。

「杏里!」

 透也はさっきよりも大声で呼んだ。

「杏里―!」 

 声は虚しく壁に吸い込まれて消えた。途端に、灰色の不安が透也を襲った。

「杏里、杏里!」

 透也はホウキを投げ出したものの、どうしていいかわからず途方にくれた。その様子を、杏里は二階へと続く階段脇の壁にもたれて聞いていた。

「杏里、どこに行ったんだよ!」

 慌てた様子で杏里の名前を呼びながら、走ってくる透也の足音。

「杏里・・・!」

 壁際に立つ杏里を見つけると、透也は感情の入り混じった表情で、杏里の首に巻かれたマフラーを引っ張った。

「・・・いきなり消えんな」

 その、今にも泣き出しそうな顔を見て、杏里は満足げに微笑み、透也を抱き寄せた。

「杏里、・・・」

「よしよし」

 杏里の手が、透也の色の薄い猫っ毛をなでた。

「子供扱いすんじゃねえ」

 杏里のコートに顔をうずめているせいか、くぐもった声で透也は言い、杏里から体を離した。強引に自分の学ランの袖で目をこすると、透也は杏里に背を向けた。

「杏里が悪いんだからな。掃除サボってんじゃねーよ」

「はいはい」

 羽化する前の少年は、自分がまだ何に変化するのかを知らない。白い優しい糸にくるまれて、目覚めの時を待っている。

「杏里、学校探検しよーぜ」

 真っ暗な校舎を指差して、透也は言った。

「はぁ?何言ってんだよ」

 透也の突拍子もない発言に、杏里は呆れ顔だ。

「早く早く!」

 透也はそれでも、笑いながら校舎の入り口へと駆けて行く。杏里は小さなため息をついてその後ろに続いた。透也が言い出したら聞かないことを、杏里が一番よく知っていた。

 その中に溶けてしまいそうなくらい深い闇の中を、二人は泳ぐように歩いていく。

「あ、鍵がないとは入れないんだっけ」

「お前、そんなの初歩の初歩だろ?これをこうやって」

 杏里は、ポケットから針金を出すと、少し曲げてから職員玄関の鍵穴に入れ、巧みに鍵を開けてしまった。

「お前、犯罪じゃんそれ」

「お前が行きたいっつったんだろ。この校舎は古いし、防犯設備もついてないから大丈夫だよ。一回も泥棒に入られたことがないからって、防犯システムに加入してない学校側が悪いんだ」

 杏里は吐き捨てるように言うと、玄関を開けた。二人はマットの上で靴をはたき、そのまま廊下に上がった。

「透也の親、心配してるぞ」

「杏里と一緒だったって言えば平気」

「俺って信用されているんだ」

「お前が家に来るたびに、母さんにうまいこと言うからだよ。お前、年上の女落とすのうまそうだよな」

「実際うまいぜ」

「嘘」

「嘘だよ」

「ムカつく~」

 叫んだ透也の声が、伽藍堂の校舎に響いた。

「電気つけるなよ。通りかかった人が不審に思う」

「つけない方がスリルあっていいじゃん。街灯と月明かりで結構見えるよ」

 昼の学校とはまるで変わってしまった、音のない空間が二人を迎えた。

「眠っている人の体内を歩いているみたいだ」

 一本の街灯を囲むようにコの字型に建っている新校舎の窓に、手を触れながら透也は言った。その青白い光に頬を照らされたまま、杏里の方を振り返った。そして不思議な表情で杏里を見つめている。

「夜、蝶はどこにいるんだろう」

「眠っているんじゃない」

「眠ってはいないよ。きっと、花を求めて飛んでいるよ」

「言ったろ。蝶は光がないと何も見えないんだよ」

「じゃあ光を求めて飛んでいるよ」

 二人を飲み込んだ物音一つしない校舎。透也は何をも恐れてはいなかった。

「行こう、杏里」

 この学校は、外部は灰色のコンクリートに覆われているが、内部は全て木造の、変わった造りをしている。だから、木の感触はあるが、木造特有のギィギィという木のきしむ音はほとんどしない。

「うわー職員室めっちゃ不気味」

「鍵閉まってるな。開けるの面倒くさいから次行こうぜ」

「どこも閉まってるんじゃねーの?」

「確か保健室は鍵がしっかり閉まらないよな。扉を強く引けば開くと思ったけど」

「俺、保健委員の仕事以外でここに来るの、初めてだ」

 杏里の開けた保健室の中に入りながら、透也は言った。

「お前、いつもどこかしら怪我してるのに保健室行かないよな」

「だってめんどくせーんだもん。舐めときゃ治るし」

「凄い回復力だな。さすが野生児」

「うるっさいなー」

 グラウンド側に面している保健室は、グラウンドを照らす常夜灯の薄い明かりで満たされていた。

「水のない水槽みたいだ」

 透也が放心したようにつぶやく。

「不気味っていうか、妖しい」

 そして二つ並んでいるベッドの白いカーテンを引き開けた。

「このベッドも初めてだ。わー気持ちいいな。数学の時間とか、仮病使ってここで寝ていようかな」

「お前の仮病はすぐばれるよ」

 杏里は、ベッドから離れた三人がけのイスに座って、青く沈むグラウンドを眺めた。誰もいない。音もない。

「透也?」

 杏里の声に、返事はない。

「透也」

 もう一度、つぶやく。杏里は立ち上がってベッドの方に向かった。白い毛布に包まって、透也はまるで死んでしまったかのように眠っている。

夜の足音が響き、空気が微かに揺れた。

杏里は、透也の頬に触れた。途端、触れてはいけない禁忌に触れてしまったような錯覚に陥った。

まだ、少年、という形容がぴたりと当てはまる透也の輪郭。いつもは何もかもを吸い込むような深い色の瞳も、笑い声を漏らす赤い唇も、閉ざされたまま。俺だけのものにしたい、と杏里は思ったのだろうか。

夜が羽を広げ二人を覆ってしまうと、杏里は自分の唇を透也の唇に重ねた。

闇に体が溶けてゆく。心ごと溶けてゆく。

「起きていたのか?」

透也がゆっくりと目を開けた。

「お前に起こされたんだよ」

「死んでいるのかどうか確かめたんだ」

杏里は言い、透也の髪の毛に触れた。

「杏里の唇って冷たいんだな」

言いながら透也は、腕を伸ばして杏里の唇に触れた。杏里が不敵に笑った。

「お前は太陽じゃなくて、闇だ」

言いながら杏里は、ベッドの前のイスに腰をおろした。

「杏里って刺があるよな」

「トゲ?」

「それで身を守っているんだろ?」

 花は身を守るためだけに、刺を持つなんて嘘だ。

「・・・タイムリミット」

「はあ?」

「もう帰るぞ」

「えーだって少ししか見てない」

「お前のお母さんの信用をこれ以上落としたくないからな」

 透也はそれを聞くと、素直にベッドから下りて靴をはいた。

「杏里、待てよ」

 透也が杏里の学ランの袖をつかんだ。振り向いたその顔は、白い百合の花のように端正だ。それゆえ、人に冷たい印象を与える。

二人は中学校に入学して、同じクラスになって初めて話すようになった。杏里、なんて気取った女みたいな名前なのに、杏里には杏里という名前が本当に良く合っていた。他の名前なんて考えられない。仕草、視線、声、そのなにもかもが、杏里を杏里たらしめていた。

性格も見た目も正反対だった二人だから、最初はお互いに反発し合っていた。入学して最初の何ヶ月かは、一言も口を聞かなかった。しかし、偶然同じ陸上部に入って、嫌でも一緒にいる機会が増えてくると、いつのまにかお互いを受け入れていた。そして急激に近づいた。ほとんど毎日、二人は一緒に行動する。だから、杏里が杏里でしかないことは、透也が一番よく知っていた。

廊下を引き返していると、透也がいきなり立ち止まった。

「透也?」

「杏里、蝶」

 杏里が闇に目を凝らすと、昼間のアゲハ蝶が頼りなげに揺れ飛んでいた。夢か現か、まだらの羽を広げ、呼んでいる。

・・・誰を?

「透也、どこに行くんだよ!」

 透也が蝶のあとをふらふらとついていく。熱に浮かされたように、燐粉の作る道を辿って行く。杏里がそのあとを追った。

 こちらへおいでこちらへおいで。躊躇うなんていけないよ。信じるなんていけないよ。嘘も本当も、最初からないのだから。

 薄暗い階段を上り、蝶はゆらゆらとどこかへ向かっている。

「透也、戻るぞ」

 杏里がつかもうとした手をすり抜け、透也は蝶を追う。

「透也、行くな!」

 杏里がやっと透也の腕をつかみ、強く引き寄せた。余りの力に、透也はそのまま床に倒れ、その上に杏里が折り重なった。

「透也」

 杏里は叫ぶと、透也の首筋に噛み付くようにキスをした。

「嫌だ、杏里」

 透也が杏里をはねのけようと手足を動かしたが、身長差も体重差もある杏里には、少しも通用しない。

「やめろ、杏里」

 透也が大きくかぶりを振ったが、杏里は無理矢理透也を押さえつけた。

「杏里!」

 その透也の叫び声で、杏里も、透也自身も我に帰った。

「杏里、もう蝶は消えた」

 透也が震える声でいい、杏里がゆっくりと顔をあげた。透也の首筋には無数の血痕が残された。満月に少し欠けた月が、二人を冷ややかに照らし出している。

「蝶はもう、いない」

 杏里の目から涙がこぼれていることに気づいた透也は、それを指でぬぐった。

「・・・ごめんな、杏里」

「全部お前のせいだ」

 そう言って杏里はまた、透也に唇を重ねた。

 花は開く前から花であるのなら、散った後も花なのだろうか。いつかは消える運命と知って、何を思って開くのだろうか。

「杏里、早く」

 校門を軽々と飛び越え、後ろからついてくる杏里を呼んだ。

「絶対俺の親、担任に電話してるよ」

「かもな」

「かもなじゃねーよ。杏里の家は、いつもお母さんとお父さんいないんだろ?うるさくなくていいな。ったくどうしてくれんだよ」

「どうもしないっつうの」

 言い争いをしながら、坂道を全力疾走でかけ下りていく。

青い青い月明かり。水を入れ忘れた夜の水槽。その中に花びらが舞い落ちる。引力に負けて散っていく。花の名前は秘密だよ。二人だけの秘密だよ。


音楽の授業ほど曖昧で不可思議なものはなかった。根本的に体育馬鹿の透也にとって、体育以外は全て苦手教科だ。音楽は、その中でも特に嫌いというわけではない。かといって好きとも言えない。つまり、あってもなくてもいいという程度の教科なのだ。

 オーケストラの映像を見たり、楽器を演奏したりするのは退屈だけど、ピアノの音や歌声を聞いているのは嫌いじゃない。つまらない時は、半円形に配置されている席から、窓の外の木立を見ていればいい。

「ほら、授業をはじめますよ。そこ、佐々木と横田、ちゃんと出席番号順に座りなさい。・・・じゃあ今日は先週言ったとおり、歌のテストがありますからねー。えーじゃないの。はい、教科書開いて。花の季節」

 髪の短いふくよかな音楽教師が、きびきびと指示を出した。誰でも歌のテストは嫌いだ。みんなの前で歌わされるからなおさらだ。

「ゆっくり歌うところと、早く歌うところの区別をしっかりね。最初の“遠い道を”のところの強さはピアノでね。ピアニッシモより少しだけ大きいのよ。“時はめぐり”からはメゾ・フォルテ。強弱もチェックしますからね。そしてそこからアレグロに変わるの、ちゃんと確認しておいて」

 クラスがざわつきを見せる。中央に置かれた、休み時間になると生徒の溜まり場となる石油ストーブが、赤々と燃えている。

「じゃあ今日は女子の一番から行こうか。この前は男子が先だったものね」

 先生も、ブーイングが起きることは承知だったので苦笑いだ。仕方ないという仕草で、出席番号一番の女子が歌いだした。

「 遠い道を ただ馬車は過ぎてゆく

  冬の静かな夜 森は今眠る     」

 女の子の声は、雨のしずくみたいだ。窓の外の、この冬最後であろう木枯らしに揺れる、高い木々を見つめながら、透也は頬づえをついていた。

 順番に歌い終わり、最後は鈴音の番だ。そういえば、鈴音の歌声を透也は一度も聞いたことがない。歌のテストのある日は、鈴音は毎回休むからだ。学校自体を休むこともあれば、気分が悪くなったといって早退したり、授業の最後の方に遅刻してきたりする。案外鈴音のことを見ているんだ。と、透也は自嘲気味に思った。

「森中さん」

 鈴音が立ち上がり、教科書を持った。そのまま歌おうとしない鈴音に、先生が歌うように促した。

「どうしたの、森中さん」

 その時突然、鈴音が床に吸い込まれるように倒れた。ゆっくりと細い体が揺れてその場に崩れ落ちるのを、クラスのほとんど全員が見ていた。先生が急いで駆け寄り、鈴音を支えた。クラスは愕然としたままその様子を見守った。

「・・・すみません、少し貧血気味で」

 夏虫のようにか細い声で鈴音は言った。気はしっかりしているようだ。

「でも顔が青いわ。このクラスの保健委員は誰?」

「大丈夫・・・ですから」

「保健室で休んだ方がいいわ」

「ハイ、俺ですけど」

 透也が手を上げると、先生は近くに来るようにと手招きをした。

「彼女を保健室まで連れて行ってあげて。内線で保健の先生には連絡しておくから」

 透也は、立ち上がった鈴音とともに音楽室を出た。背中に突き刺さるような、杏里の視線が気になった。

 昼間でも薄暗い音楽室の前の廊下を通り、旧校舎から新校舎への短い渡り廊下を越えた。

「お前って演技うまいな」

「まあね」

 悪びれもせずに鈴音は言った。

「そんなに歌うの嫌なのかよ」

「歌うことは神聖なことよ。どうしてどうでもいい人たちの前で歌わなくちゃいけないの?」

「何だよその理屈。カルト宗教の信者かよ。変なヤツ」

 一年生の下駄箱の脇の大きな全身鏡の前を通る時、透也は足を止めた。

「保健室、本当に行くのか?」

「ちょうど眠いし」

 鈴音は無表情のまま言い、保健室へ行くための廊下を曲がった。

「失礼します」

「どうぞ。連絡もらってるわよ。大丈夫?」

「ちょっと、貧血気味で」

「そう、少し顔が青いものね。ちゃんとご飯食べてる?お肉も魚もバランスよく食べないといけないわよ。もし貧血が続くようだったらお医者様に診てもらってね。熱は・・・ないみたいね」

 保健室の先生は、鈴音の額に当てていた手をはずした。

「少し横になって休んでらっしゃい。でも、ごめんなさいね。私、これから急な出張で出かけないといけないの。悪いけど、中谷君ここにいてくれる?」

「え、俺?」

「そうよ。私がいない間に森中さんが具合悪くなったら大変でしょ。そうなったら、職員室に先生を呼びに行くのよ」

 白衣の保健医は、あわただしくベッドを調えながら言った。

「先生には内線で伝えたから心配しなくてもいいわよ。授業が終わっても森中さんが具合悪いようだったら、お家に帰すように担任の先生に言っておくから、保健室の鍵を閉めて職員室に持っていってね。わかった?」

 保険医は、鈴音にベッドに寝るように指示し、安静に、と言い残すと荷物を持って出て行った。

「お前のせいで居残りで歌のテストやんなきゃなんないだろ」

 透也はカーテンの向こう側をにらんだ。窓の外は霧のように細かい雨が、全ての物音を消していた。

透也は濡れた木々が緑を増すのを見つめながら長イスに腰掛けた。何もすることがないので、熱を測ってみたり名簿に落書きをしてみたりしたが、すぐに飽きてしまった。

「あーヒマ」

 声に出しても返事はない。雨は透也の感情を優しく包み込む。心地いいけどこそばゆい。雨は母親のようだ。どんなに柔らかくても、今の透也には鬱陶しいだけ。

 透也は立ち上がってベッドの脇の白いカーテンを破るように開けた。

「もう俺戻っていい、・・・」

・・・見つけてしまった。そして瞳を奪わ

れてしまった。

ベッド、シーツ、鈴音の肌。何もかもが白い。そこに黒く長い髪の毛が、羅紗紙のようにちらばっている。綺麗だと思った。生きている人形のようだと。

 閉じている瞳に縁取る長いまつ毛。淡い薔薇色の頬。薄紅の唇。開いたばかりの牡丹の花。

「寝てんの」

 声にならない声で透也は言った。鈴音から目が離せない。口付けたい衝動が、透也の理性を奪っていく。鈴音が気づいていようとかまわない。

そして、触れてしまった熱に、透也はうかされる。

花が、花が咲き乱れている。見たこともないような花が。

「お前のファーストキスっていつだった?」

 いつものように屋上の給水塔の陰でタバコを吸いながら、二人は空を見上げていた。

「俺?入学してすぐ」

「嘘、マジ?どうして教えてくれなかったんだよ。誰?」

「去年転任しちゃった保健の先生」

「え」

 透也は、タバコを片手に持ったまま絶句した。

「あっちからしてきたんだよ」

「その先は?」

「その先って?」

「だーかーらっわかってんだろ?言えよ」

「妬ける?俺がヤッたから」

「やっぱヤッたんじゃねーかよ」

「成り行きだよ」

 杏里はそっけなく言った。

「お前のファーストキスは、俺だろ?」

「なッ」

 透也が顔を真っ赤にして、慌てて振った手から、タバコが灰色のコンクリートに落ちた。

「よかった?」

「よくねー。あんなのキスじゃない」

「じゃあどういうのがキスっていうんだよ」

 杏里は、ちょっとむっとしたような顔をして言った。

「わかんねーよ」

 透也が口ごもるのを見て杏里は言った。

「森中とのキスが本当のキスってやつ?」

「え、杏里見て、・・・」

 そこまで言って、透也は杏里の口車にまんまと乗せられてしまったことに気がついた。

「お前って悪魔だな」

「誘導尋問だよ」

 透也は上履きでタバコを踏み潰した。

「杏里ってさ、いつも俺から一歩引いて歩いているから距離感わかんないけど、やっぱり俺よりずっと前にいるんだな」

「逆だよ」

「ハ?」

「冗談」

「最近よくわかんないよ、杏里」

「わかられてたまるか」

 杏里は短くなったタバコを床ですりつぶした。最後の煙が低い空へ昇っていった。

「杏里って、不得意なものなんてないだろ。頭はいいし、スポーツできるし、口うまいし、女にもてるし、色々知ってるし」

「色々って?」

「色々だよ!」

「教えてやろうか」

「阿呆みたいなこと言ってんじゃねー」

 透也が顔を隠すようにそっぽを向いた。

午前中の雨はやみ、重たい雲が空に敷き詰められていた。息が、白く凍りついた。

「ったく杏里のタラシ、スケベ」

「随分な言いようだな。俺は欲望に忠実なだけだ」

「どーゆーこと」

「こーゆーこと」

 そう言って杏里は透也の手首を強くつかんで、自分の方に引き寄せ、強引に唇を押し付けた。驚いた透也が杏里を突き放すと、真っ赤になって怒った。

「何すんだよっお前は変態か!」

「お前だってエピキュリアンなんだよ」

「エピ・・・?」

 ほこりを払いながら杏里は立ち上がった。

「快楽主義者」

「俺が?」

「だって、したかったから森中にキスしたんだろ?」

 氷のように冷たい目で透也を見て、杏里は二本目のタバコに火をつけた。

「それとも何か理由があるのか?」

 何も言えず、透也は杏里をにらんだ。

「杏里の卑怯者」

「お前、蝶は嫌いなんじゃなかったっけ」

 透也は視線を杏里の足元に落とした。厚い雲の中を、飛行機が渡っていく音が聞こえた。

「嫌いだ。でも」

「でもなんだよ」

 透也が黙っていると、杏里は言った。

「鈴音を好きにならないって約束しろよ」

 タバコの、微かに苦い香り。

「どうして」

「どうしても」

 透也は黙った。杏里も黙った。少しの沈黙が落ちた。

「いいよ、約束する」

「破ったらお前をイヤって程苦しませてやるから覚悟しとけよ」

「そんなことできんの?」

「簡単だよ」

 杏里の瞳が冷たく光った。その時、誰かが屋上の扉を開ける音が聞こえた。杏里はすぐにタバコの火を壁に擦り付けて消したが、この場所が見つからないのはわかっていた。

「花の匂いにつられて来たか」

 杏里が、入ってきた人物を壁の影からのぞき見て言った。

「誰」

 透也も杏里に倣って、壁に体を寄せて覗き込むと、屋上の手すりにつかまって風に髪をなびかせている鈴音が見えた。透也は次第にイライラしてくる自分の感情を、学ランの襟をつかむことで抑えようとした。

二人が見ている前で、鈴音は手すりをつかむと、ひらりとそれを飛び越えた。声を出す暇もなかった。重い曇り空の下、冷たい風が吹き抜ける。

「あいつ、・・・」

「おい待て」

 杏里の腕が透也をつかもうとしたが、かけ出した透也を捕まえることはできなかった。

「透也!」

 透也は、鈴音が飛び越えた場所からグラウンドを覗き込んだ。

「何?」

 落ちたとばかり思って鈴音は、五十センチほど突き出たコンクリートの部分に座って、足をばたつかせていた。マントのように、髪の毛が舞い上がる。

「お前、・・・」

 気が動転して、透也は言うべき言葉が見つからない。

「だから言ったろ」

 あとから来た杏里が、呆れ顔で透也を見た。

「お前の方が飛び降りそうな顔してんな」

「だってこいつ、・・・」

「何よ」

 鈴音は、透也たちを見上げながら言った。

「何じゃねーよ」

 透也が鈴音に向かって叫んだ。

「危ないからあがれば?」

 杏里の言葉に、鈴音はむっとしたような顔をしたが、仕方なく手すりを飛び越した。

「これでいい?」

 そう言うと、目の前にいた透也の制服の襟をつかみ、顔をうずめた。

「な、!」

 突然のことに困惑した透也は、杏里に助けを求めるような視線を投げた。

「ここでいつもタバコ吸っているんだ」

 顔をあげた鈴音が、杏里見て意味深に笑った。そして透也を見た。

「私にキスした時もタバコの匂いがした」 

 襟から手を離すと、鈴音は言いながらスカートを払った。透也の顔がみるみる赤くなった。

「結構鈍感」

 その言葉を聞いて、透也は思い切り床を蹴った。鈴音が髪をかきあげる。微笑む顔は薔薇のようだ。透也は困惑した。鈴音は花なのか?蝶なのか?蝶に似た遊蝶花なのか?

「氷みたいだ、お前の目」

 透也が鈴音を見て言う。何もかもを見透かしてしまう、少年特有のまっさらな目に見つめられても、鈴音の本当の心は見えないままだ。何もかもを知っているような、初めから何も知らないような不思議な顔つきで、鈴音は透也を見つめた。

風が、強い。

「透也、五時間目が始まる。行くぞ」

 三人は、鳴り終わろうとするチャイムを聞いた。

「お前の好きな体育だぞ。今日はお得意の走り高跳びだろ」

「そうだっけ」

「マラソン大会終わったから、次に入るんだろ」

「っつーか、お前マラソン早すぎ。ちょっとは加減しろよ」

「お前が、スタートする時に本気出せって言ったんだろ?」

「うるせーそんなの冗談に決まってるだろ。わかんねーのかよ」

「わかるか阿呆」

「阿呆って言うなよ、ムカツク!」

「いいから、ホラ」

 杏里に背中を押され、しぶしぶ透也が屋上の出口へ向かう。

「お前は?」

 杏里が、興味なさそうに鈴音の方を振り返って言った。

「わかんない」

「あ、そう」

「杏里、早くしろよ!」

「今行く」

 杏里は答えて、きびすを返した。

蝶は、静かに羽ばたき始めた。


「やっぱサボったじゃん、あいつ」

 高飛びのバーを持ちながら透也は言った。

「あいつって森中のこと?」

「そうだよ・・・うわーほこりくせー。ここいい加減に誰か掃除してくれないかな」 

 扉を開けただけでほこりが舞い上がる体育倉庫にバーをしまい終えると、透也は置いてあるマットに腰掛けた。

「チューボーのくせにさぼるか?普通」

「お前だってチューボーだろ?」

「俺はサボってないもーん」

「さっき本令なったの気がつかなかったわけ?」

「おいー早く言えよ」

 それはエスケープの合図。

薄暗い、日の差し込まない倉庫は、湿ったカビの匂いがする。こんな天気の日にはなおさら匂いがきつくなる。

「お前、全然成長しないな」

 透也の隣に腰掛けながら杏里は言った。

「毎日牛乳飲んでいるんだぜ?」

「牛乳以外にも肉を食えよ、肉を。そんな体型じゃあ、女に間違えられるぞ」

「女に間違えられるなんてしょっちゅうだよ。ナンパされたこともあるぜ?男か女か区別もできないのにナンパするなんて、ただのアホだよな」

 マットに体を投げ出して透也は言った。

「じゃあもっと髪の毛、短く切れば?」

 女の子で言う、ショートカットに似た透也の髪型を指摘して杏里は言った。

「これ以上切ったら寒いじゃん。俺寒いの弱いって知ってるだろ?」

「髪の毛切るかガタイをでかくするかどっちかしかないだろ」

「俺、かなり食ってるよ?夜は、ご飯大盛り三杯は軽くいけるもん」

「それは食いすぎ」

 杏里が、呆れた口調で言った。

「さっき、何か言いかけたか?」

「・・・何かさ、あいつ見てると目が離せなくなって、自分がどこにいるのかさえわからなくなる時がある」

 中空を見つめていた透也の目が、杏里の視線と重なった。杏里は、透也の体がぼぅっと白く発光しているのを見ていた。

「夢の中なのか、現実なのか、わからなくなるんだ。そうすると、急に苦しくなったり悲しくなったりイライラしたりするんだ」

「誰のこと、言ってるんだ?」

「誰って、・・・」

 杏里の表情が、怒りを含んで暗く曇る。

「何怒ってんの、杏里」

「もう行くぞ、ほら立てよ」

 それ以上杏里は何も答えずに立ち上がった。透也も杏里に続いて体育倉庫を出た。

誰もいないグラウンドが、ひどく寂しいものに見えて仕方なかった。取り残されてしまった孤独のように。

「杏里、待てよ」

 杏里が振り返って立ち止まる。

「お前って歩くの速い」

「足が長いからな」

「嫌味なヤツ」

 杏里はそこで肩の力を抜いた。その時見上げた溝鼠色の雲は、当分晴れそうになかった。


陸上部の朝練がある日、透也はいつも秘密の抜け道を使う。学校の裏山に何百本という藪椿が自然のトンネルを作っていて、それをくぐっていくと校舎の裏手に出るのだ。少し遠回りになるが、透也はこの道がとても気に入っていた。

 高い梢には白や赤の花が咲き乱れ、道のあちこちに椿の花が散らばっている。夢の中のように美しい光景だ。

 透也はそのトンネルの下を通りながら、随分前に、杏里が椿は嫌いだと言っていたことを思い出した。なぜ嫌いなのかと尋ねたら、花ごと地面に落ちるからまるで首を切られたようで気味が悪いと言っていた。

「そんなことないのにな」

 透也はつぶやき、落ちていた赤い花を一つ拾った。そして、その花の色が血のようだとも言っていたことを思い出した。それを聞いてから、この道を杏里に教えることを躊躇っている。

杏里に、隠しごとが一つできてしまった後ろめたさはあるものの、自分だけの秘密ができたような気がして少し、嬉しかった。

木が密集しているせいで弱く光が差し込む頭上を見上げた。聞こえてくるのは鳥の声と葉ずれの音。足元に、椿が作るまだらの影が落ちている。椿の花は唇のようだ。

どうして俺は拒んでいた鈴音にキスをしてしまったのか。触れたくて壊したくて、泣きそうになった。シーツの白と、散らばる髪の毛の黒。コントラストに目がくらんだ。忘れてしまいたい。透也は椿の花を投げ捨てた。

 四方八方に伸びる椿の枝は、理科の実験室にある人体模型で見た、人間の神経線によく似ていた。

椿のトンネルを抜け、小さな生垣を抜けると温室の横に出る。ふと見ると、鈴音が言っていた梅の木があった。

『紅梅は、木の髄まで紅いの。人の血液のように』

 透也は手を伸ばした。紅い小さな花が無数に枝を飾っている。そして許しを請うように揺れる。透也はその手に力をこめた。

「透也」

 聞こえてきた声にびっくりして、透也は枝から手を離して後ろを振り返った。

「杏里」

 その人物を見た途端、透也はあっけに取られたようにつぶやいて体の緊張を解いた。

「何をしているんだ」

「別に」

 杏里が透也に近づいてくる。

「朝練の時は、いつもどこから来るんだ?」

「杏里が知らないところから」

「俺が知らないところって?」

 何だかいつもの杏里とは違うような気がして、透也は言葉を躊躇った。

「杏里の嫌いな花が咲くところから」

「俺の嫌いな花?」

「覚えていないなら、いい」

 そう言うと、透也は杏里の肩をすり抜けてグラウンドへと走った。透也が作った小さな風が、杏里の頬をかすった。

「俺の嫌いな花・・・」

 つぶやきながら杏里が振り返ると、射してきた朝日が、誰もいない温室をまぶしく照らし出していた。


 ストーブの上のやかんが音を立てている。さっきから透也は、目の前で話している担任の顔を見ながらその音ばかり気にしていた。誰かやかんを取らないと、水がなくなってしまう。

 人のいない職員室はとても奇妙だ。いつも呼び出されて説教される職員室とは違って見える。今日は運動部の大会や文化部の発表会が重なり、大半の先生が引率していていなかった。クラスも半数以上が空席で、授業のほとんどが自習だった。

 陸上部は大会もなく練習も今日は休みだ。俺が先生につかまる前に、杏里は耳鼻科に行くと言って帰っていった。

やかんは音を鳴らし続けている。風はガラス窓を大げさに揺すっている。冬は終わろうとしているのに、景色はまだそれを許そうとはしない。

「おい中谷」

「はいっ」

 反射的に答えると、鬼のような形相のクラス担任と目が合った。

「自習の時間、どこに行っていたんだ」

 最初はテストのことをどうこう言っていたが、いつのまにか話題が変わっていた。

「えーとですね、あまりにもおなかがすいたので、コンビニでおにぎり二個と、コーラと、」

「もういい」

「いいんですか?」

「お前なあ、どうして俺を困らせるようなことばかりするんだよ」

 担任は、急に鬼からしおれたほうれん草のような口調に変わった。

「だって先生が困ってる顔って可愛いんだもん」

 透也がにかっと笑って言うと、

「俺をからかってそんなに面白いのか」

 と、担任はまた怒鳴った。

「もういい。お前、これから校庭十五周走れ」

「えーっ」

「うるさい。今すぐ行け!走らないなら親を呼ぶぞ」

 担任は本気らしく、透也はしぶしぶうなずいた。

「めんどくせー」

 夕日に染まった風の通り抜けるグラウンドに立ち、アキレス腱を伸ばして深呼吸をした。

「制服でいっか」

 着替えるのも馬鹿らしく、透也は学ランのまま走り出した。冷たかった体は、徐々熱くなっていく。

透也は長距離が嫌いだ。グラウンドを何週走っても、景色が変わらないからつまらない。マラソン大会まで毎日あった早朝練習も、ずっとみんなでぐるぐるまわっているとバターになってしまいそうで怖かった。でも、校外のマラソンコースを走ると途端にタイムが速くなる。

 最初の方は余裕もあって早く十五周を終わらせようと意気込んで走っていたが、次第にペースが落ちていくのに気づく。透也は学ランの上着を脱いでシャツも脱いで、Tシャツ一枚になった。その白い背中は夕日の赤に染まっている。

 地面を見て走るのにも飽きて校舎を見ながら走っていると、日直の先生が回っているのか、人のいない教室の電気が次々と消えていくのが見えた。

あと何周だっけ?これが十周目だから、あと五周。苦しい。体じゃなくて肺が直接痛いような気がする。手のひらに汗がにじんでくる。あと二周だ。風が頬を通り過ぎるとぴりぴりと痛い。あと一周。透也は急激に走るスピードを上げた。あと半周。あと少し。

「終わった~!」

 透也は叫び、上体を倒してひざに手を置いた。少しすると息を整えることをやめ、グラウンドに大の字に寝転んだ。そうしてしまうと、元から自分は大地の一部だったような気がした。

少しずつ冷めていく体温に身を任せていると眠ってしまいそうに気持ちいい。このグラウンドでさえこんなに広いのに、世界はどんなにか大きいだろう。

走り終えた開放感と安心感で満たされ、なかなか起き上がることができない。熱を帯びた体の中心は、まだ火のように熱い。目を閉じていても、濃いオレンジ色がまぶたを通して伝わってきた。

「中谷―!」

 職員室の窓から、担任の顔がのぞいた。

「終わったのか―?」

「はーい!」

 透也は大声で返事をしながら起き上がり、制服の砂をはたいて学ランを着た。

「終わったらさっさと帰れ―!」

「はーい!」

 透也は、朝礼台においていたかばんを取って歩き出した。

夕日の橙が目に付き刺さるようだ。静まり返ったグラウンドを横切り裏門から出ようとすると、門柱に寄りかかっている杏里を見つけた。

「遅かったな」

「まあね・・・って何で杏里ここにいるんだよ。耳鼻科は?」

「ぐちゃぐちゃ言ってないで帰るぞ」

「はあ?わけわかんねー」

 杏里はまだかばんを持ったままだということに透也は気づいた。学校から出ていなかったのだ。いったいどこにいたのだろう。チラリと、杏里の何を考えているか全くわからない横顔を盗み見た。

「まぶしーな・・・」

 目を細め、大きな夕日を見つめる杏里はずっと遠い人に見えた。俺の隣にいるのは誰だろう?透也は急に寂しくなった。だから、それを振り払うように叫んだ。

「まぶしー!」

 そして一気に坂を駆け下りた。何度も転びそうになりながら、透也は駆けた。風が、体を包むのを感じた。

夕日に溶けていく少年は、遠くまで飛んでいける真っ白い翼をその背に秘めている。

「ガキ」

 やっと追いついた杏里が、透也を睨みながら息を切らして言った。

「杏里、今までどこにいたの?」

「耳鼻科」

「すぐにわかるような嘘、つくなよ」

「気になる?」

「別に」

 何だかくやしくなって、透也はそっぽを向いた。

「透也、お前砂だらけ」

 杏里が、透也の腕をつかんで自分の方に向かせた。取りきれていなかった砂粒が、夕日に反射してきらきら光りながら落ちていった。

「風邪ひくぞ」

 言いながら杏里は、透也のはずされたままのボタンに手をかけた。肩越しに夕日が沈んでいく。空はステンドガラスのようにてかてか光っている。

「杏里」

「何」

 シャツのボタンをしめながら、杏里は透也を見つめた。その目はひどく悲しげに澄んでいた。

「何でもない」

「何でもないなら言うな」

 トン、と透也の肩を押すと、杏里は背を向けて歩き出した。

「ありがとう」

 その小さな声に、杏里は気づいたのだろうか。

夕日が沈む。かつては太陽と呼ばれた、孤高の王が沈んでいく。


 次の日、杏里は部活を休んだ。そのことに透也は部活の途中で気がついた。バーをセッティングしている途中でふと見上げた窓に、杏里がいるのを見つけたのだ。じっと見ると、「今日休む」

 と透也に向かって言っているのがわかった。そしてすぐに窓から離れ、姿を消してしまった。

帰り道は、このグラウンドを通って裏門から出ないとかなり遠回りになる。杏里が帰る時につかまえて理由を聞こう。そう、透也は思った。部活に出ると言っていたのに、急に先生に呼ばれた、と教室を出て行ってしまったその行動がどうも腑に落ちない。

 余寒を含んだ夕の軽風が、透也の髪の毛を不安げに揺らした。黄昏が、杏里を待つ透也の頬を染めていく。

 十五分、三十分と時間は経っても杏里は来ない。ついに透也はかけ出した。背後で透也を呼ぶ声が聞こえたが、知らぬ振りをして新校舎の中に入った。夕日の薄い金色の光が漂う廊下は人けがなく、元から誰もいなかったかのように静まり返っている。

靴を脱ぎ、上履きは履かずに歩いた。職員室の横を通っても、教師は部活に出ているためか話し声は聞こえない。下駄箱を見ると、杏里の靴はまだそこにあった。

放送室の前を通り過ぎた頃、透也は誰かの弾くピアノの音を聞いた。今日の音楽の授業は先生が出張で自習だったはずだ。

透也は旧校舎にある音楽室へと向かった。相談室を過ぎ、階段の前を通り、日の当たらない廊下を抜け、音楽室の分厚い扉の前に立った。聞こえてくるのは『花の季節』。

新校舎とは違うコンクリートの冷気が、透也の足元を冷たくさせる。不意に曲が止まった。透也は両開き扉の片方の扉を開けた。

そこには、杏里ともう一人・・・鈴音がいた。そして透也が見たものは、抱き合ってキスをしている二人だった。黄金の光の渦の中、透也は立ち尽くした。声さえ出なかった。

 光の粒子がきらきらと輝いて落ちていく。まるで蝶の燐粉のように。

 透也は困惑し、体が動かせない。それでも別の自分が、早くこの場を離れろと警告を発している。どういうことなのかさっぱり理解できないが、透也にとっては世界で一番見たくない光景だった。

そしてとうとうかけ出した。音楽室を出て職員玄関へ戻ると、靴をはいてそのまま部室へ向かった。

「私をダシに使うなんて、いい根性してる」

 杏里を突き放しながら鈴音は言った。

「こんな遠回しな駆け引き、ずるいだけ」

 杏里を強く睨んで鈴音は言った。

「残念だけど、俺はあんたも手に入れたい」

 どちらも俺のものだと、杏里は笑った。

「透也は約束を破らない」

「悪趣味」

「お互い様」

 その言葉には何も返さず、鈴音はもう一度ピアノの前に座った。

「グリーグの『蝶々』弾いてよ」

 杏里がそう言うと、鈴音はシューマンの『蝶々(パピヨン)』を弾き始めた。

「お前って、本当につかめない女」

 蜘蛛は双方を見つめている。どこも見ていないような眼差しで。


 半分以上落ちてしまった椿の花のトンネルをくぐりながら、透也は瞳を伏せた。白と赤の花が、生きたまま首を落としている。 

朝日は木々の隙間からこぼれ、小さな鳥の鳴き声が聞こえていた。透也の唇から漏れる白いため息が空へと昇っていく。

 心が熱い。押さえ切れないこの嫉妬は、誰に向かっているのだろう。俺は誰を思って嘆いているのだろう。わからない。知りたくない。そして昨日の光景を思い出す。その繰り返しだ。まるでメビウスの輪。

 杏里は昨日、俺の存在に気づいていたのだろうか。昨日の夕日がまぶたの裏に焼きついて、まだ目を細めたくなるほど眩しい。あの、小さな光の洪水。

 透也は立ち止まり、咲いている赤と白の椿を見つめた。そしてその白い方に口をつけた。

 道草をしすぎたせいか、透也がグラウンドについた時にはもう、陸上部の朝練は終わっていた。

・・・今日は杏里に会いたくない。

今まで差し込んでいた弱い光を、薄灰色の雲がさえぎっていく。今の時間―教師は職員会議中、生徒は朝自習の真っ最中―に人通りが全くない、新校舎から技術室へと続く廊下の窓を開け、透也は軽い身のこなしで校舎の中に滑り込んだ。薄暗い廊下を通り、一年生の昇降口の脇の階段を上った。

 一階、二階、三階、四階。図書館には予想通り人影はない。透也は乱れた息を整えながら古い引き戸を開け、中へ入った。

左右にある大きな窓の右側からは小さな山、左側からは太平洋が見える。透也は海側の窓に近づいた。白く煙った波が、遠くかすんで見えた。灰色の雨雲が空を徐々に覆っていく。

窓ガラスに手を触れると、熱い手とは正反対の冷たさが、透也を拒絶しているように感じられる。窓に映った自分は、何て不安そうなまなざしをしているのだろう。 

窓から手を離すと、本棚を背に座り込んだ。

まだ少し鼓動が早く、手がジンジンとしびれていた。上を向くと、古い本の、かび臭いにおいが鼻についた。

 もうホームルームの始まる頃だ。ちら、と壁掛け時計を見て透也は思った。俺は何をしているのだろう?このまま逃げ続けるわけにはいかないのに。

だって、どうしても昨日のことを思い出してしまう。「どうしてあの場所に二人きりでいたの?約束をしていたの?偶然会ったの?」・・・聞けるわけない。

 降り始めた雨粒が、厚い窓ガラスを叩いた。透也は人の気配を感じて耳を澄ませた。教師だろうか。

階段を昇るゆっくりとした足音が近づいてくる。木造の引き戸が開く音。透也は隠れようともせずに、現れた人物を見つめた。

・・・鈴音はいつもの無表情な目で透也を見つけた。小さなデジャヴ。眩暈にも似たその感覚が、透也から立ち上がらせる意思を奪った。

「授業、始まっているんだろ」

「とっくに」

 昨日の光景と、目の前にいる鈴音が重なって見える。ドクドクと血管が大きく脈打つのを感じた。

・・・コントロールできない。

「杏里と、付き合ってるのか?」

 透也は、鈴音の苺のように赤い唇を見つめた。

「別に」

「じゃあ、」

 言いかけて躊躇った。

「昨日、見ていたんでしょう?」

 透也はその言葉を聞いて立ち上がった。

「杏里のことが好きなのか?」

「さあ」

 鈴音の形のいい口元が歪む。透也は鈴音を強くにらんだ。雨の降る音だけが世界の音の全てのような、不思議な空間。

「もうすぐ杏里がここに来る」

「何で」

「さあ」

 カッと、透也の頭に血が上った。体中が熱くなっていくのを肌で感じた。

「どうして俺たちの前に、そんな風に現れるんだよ」

 透也は気づいていない。杏里が階段を上りきったことを。

「どうして、」

 透也は鈴音に近づいた。

「私は蝶なんかじゃない」

 鈴音は、透也の目を恐れもせずに見つめた。

「俺はどうすればいいんだよ」

 そう言って透也は鈴音に顔を近づけた。触れたかった。ただそれだけの理由で。俺は鈴音に惹かれている。抗いようのない、強い力で。

杏里が音もたてずに引き戸を開けたことを、透也は知らない。もう何もかもが壊れてしまったことを。そしてもう、決して元に戻りはしないということを。


 雨が降った次の日は学校へ行くのが楽しみだった。小高い丘の上にある校舎の、下方にある森の木々から水蒸気が立ち上り、校舎がまるで雲の上にあるかのように見えるからだ。こんな日は、いつもより少し早く家を出る。

 朝焼け、という言葉が好きだった。本当に、空が焼けて溶け出したような色をしているから。

 白い息を弾ませて、透也は森の中へ入った。野生のままの桜の巨木が、小さな蕾をつけているのを見つけた。どうして今まで気がつかなかったのだろう。でも、綺麗に咲いた花も、春一番の風に吹かれて全て散ってしまうことを思うと、少し虚しい気持ちになる。

 遠く遠く、細い鳥の声が響く。弱い陽の光。薄白い霧が立ち上り、地面の上を歩いているような感じがしない。

 とうとう昨日は、一歩も教室に入らなかった。あの後すぐに学校を出てしまった。鈴音は、図書館に杏里が来ると言ったのに、結局杏里は来なかった。

どんな顔をして会えばいい?普通に?何もおびえることなんてないから?でも、もしかしたら杏里は何も知らないかもしれない。俺の勝手な勘違いかもしれない。・・・じゃあどうして俺が学校休んだのに何も連絡をくれない?怒ってる?聞きたいけど、多分聞けない。俺はいつからこんなに臆病者になったのだろう。

杏里が誰を好きだろうと、鈴音が誰を好きだろうと、俺には関係ない。でも、黒い蝶が目の前にちらついて離れない。誰かあいつを殺してくれたらいいのに。

原生林に近いこの森には、入ろうとする人間は皆無に等しい。熊が出るとか蛇が出るとか幽霊が出るとか、そんなありがちな噂話もない。切り開こうとする人もいない。この森自体を、誰もが忘れてしまったかのようだ。

 名も知らない小さな白い花が咲き、太さも長さもばらばらな木々が生い茂り、椿は容赦なく花を散らす。

この森を通ると、校門に続く坂を登っていくよりも十分は余計にかかる。学校の周りの崖を、ぐるぐると旋回するように登るからだ。だから急な、かなり角度のある崖も何ヶ所かあり、透也も足を滑らせそうになって冷や冷やしたことが何度もある。そういう場所に限って、苔がびっしり生えた木の根がせり出していたりするのだ。

 もうすぐいつもの校舎の裏につく、と言う所まで来て、透也は懐かしいタバコの匂いに顔を上げた。

「杏里」

 透也はつぶやき、表情を無くした。

「透也」

 悲しそうな、でも半分すねたような顔をして杏里は立っていた。無造作に伸びた髪の毛で、整った顔立ちで。途端に透也は、とてつもなく悪い嘘がばれたような気がして、思わずきびすを返した。

「透也!」

 杏里が背後で叫んだ。透也はもと来た道を駆け戻る。杏里が追って来るのがわかる。

「約束を守れ、透也」

 約束?乾いた落ち葉が、二人の足元で次々と壊れてゆく。ばさばさと、鳥の飛び立つ音がした。

透也は走った。全てから逃げるように。その道の先に、蝶が見えた。いつかの黒アゲハだ。蝶は透也を通り抜け、ふわふわと後方にいる杏里の方へと漂っていく。透也はなぜか、霧にも似た冷たい何かを感じて振り返った。

 透也は声にならない悲鳴をあげた。黒い蝶が揺れている。スローモーションのように、髪の毛が舞い上がる。杏里の、透也を呼ぶ声、なぎ倒されていく小さな枝、何かにあたった鈍い音。透也は恐怖に凍りついた。

 蝶が舞う。幻想のように蝶が舞う。

 透也はしばらくの間立ちすくんでいたが、はっと我に返り、叫んだ。

「杏里!」

 叫べば、夢から覚めると思ったのかもしれない。透也は名前を叫び続けながら、恐る恐る崖の下を覗き込んだ。硬い巨木の根元に杏里が倒れているのを見つけた。崖をかけ下り、杏里に近寄った。

「杏里」

 後頭部から血が噴出すように流れ、巨木がペンキをぶちまけられたように色づいている。

透也は杏里の肩を揺らした。血は、杏里のYシャツを真紅に染めていく。透也の両の目から涙がとめどなく流れ落ちても、杏里は目を開けない。杏里の血で透也の手が、顔が、深い紅に濡れていく。

何度も何度も杏里の名を呼ぶ透也を、蝶が見ている。濡れ葉色の羽を羽ばたかせ、じっと見ている。

杏里の傍らには、白い水仙の花。花はつぶやく。約束を守りなさい、と。あなたの約束を守りなさい、と。


 あの日から、罪深い森は立ち入りを禁じられ、透也は話すことをしなくなった。いつものように屋上へ行き、タバコを吸う透也のもとに、鈴音がふらりと現れた。透也は虚ろな視線を上げ、寄りかかっているフェンスをきしませた。

 以前は太陽のようだったその瞳の輝きは失せ、灰色の目は、それでも大切そうに鈴音を見ている。鈴音の首筋がもの欲しそうに揺れた。

「あなたの約束を守りなさい」

 透也の耳に、いつかの鈴音の言葉が響く。濁ったタバコの煙が、突き抜けるような青空に消えていく。

 鈴音が微笑む。まるで永遠のようだ。透也は眩暈を覚え、くわえていたタバコを床に落とした。そして言った。

「お前は蝶じゃない。蝶は俺自身だった」

「そんなこと、今気づいたの」

 鈴音の石榴の唇が楽しげに開く。生ぬるい風が、屋上を通り抜けた。

「お前は蜘蛛だった。捕らえられたのは俺だった」

 杏里、俺は杏里の約束を破ってしまった。だから杏里は俺をこんなにも苦しめる。

許して、杏里。

「杏里」

 透也の目から透明な水が流れ落ちる。ガラス細工のような涙が。

 鈴音の上質なビロードの髪が風に流れ、頬は薄赤に染まっている。

 光の粒子が、銀のフェンスに反射して金色に光った。

「杏里、許して」

 黒いアゲハは飛んでいった。

 少年は羽を広げ、空へと溶けた。フェンスは少しきしんでその音を止めた。何もなかったように。

金と銀の光が水のように飛び散り、牡丹色の風が吹いた。微かな羽音とともに、朱銀の燐粉が静かに辺りに漂っていた。


 さて小石の上に 今しも1つの蝶が止まり

 淡い、それでいてくっきりとした

 影を落としているのでありました

 やがてその蝶が見えなくなると

 いつのまにか 

 今まで流れていなかった川床に、水は

 さらさらとさらさらと 

 流れているのでありました・・・・・

     (「1つのメルヘン」・中原中也)


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