頭の柔らかい人
「信じられない!」と女は叫んだ。「私の頭が固いですって?」
「そうだよ」と男は言った。
「あのね、たとえ百歩譲って私の頭が固かったとしても、そんな言い方はないでしょう?」
「いや、君が怒っているのは頭が固いからだ」と男はにべもなく言った。「頭の柔らかい人間はこんなことで怒ったりはしない。だって、頭が固くないんだから」
「信じられない!」と女はもう一度叫んだ。
「何度言っても同じだよ。悔しかったら頭を柔らかくすることだね」
「私は別に、頭の柔らかい人間になりたいとは思わないわ。だって、今だってそんなに固いわけじゃないし。あのね、私が怒っているのはね、頭が固くなんかないのに、固い固いって言われていることに対してなの。あなたがすぐに前言を撤回してくれれば、こんなふうに怒ったりしてなかったはずなの」
「前にも言ったけれど、頭の柔らかい人というのは、頭が固いって言われても正面から対抗してきたりはしないんだよ。例えば以前、知り合いの紳士に、『あなたは頭が固い人ですか?』って訊いてみたことがあるんだ。その人は、『さあ、どうでしょうねえ』って答えた」
「えっ、そんなことを訊いたの?」と女は露骨に嫌そうな顔をした。「その人、嫌がってなかった? なんか不躾じゃない?」
「全然、大丈夫だったよ。彼は頭が柔らかかったから。そこで僕はひとつクイズを出してみたんだ。『地球がもしも球じゃなかったとしたら、どうなっていたと思いますか?』って。君なら何て答える?」
女は不満気な顔をしながらも、頬に手を当てて十秒ほど考えた。そして言った。
「球じゃなかったら、地球っていう名前ではなかったと思う」
「たぶん地球っていう呼び方は、地球が丸いってことが知られるようになってから考案されたものだね」
「そんなことはどうでもいいから。……で、その紳士の人は何て答えたの?」
「彼はこう言った。『そうだねえ、水は地球の重心に向かって流れるから、もしドーナツみたいに重心が空中に出ている形だったとしたら、空に海があったかもしれないね』だそうだ」
「…………」
「何かコメントは?」
「人間は重心に向かって落ちていかないの?」
「遠心力でドーナツの内側壁面に押し付けられているんだろう、たぶん」
「ああ、分かった」と女は手を打って言った。「あんたがどうして私の頭を固いって言ったか、ようやく理解できたわ。要するに私は、意味のないことを考えるのが苦手なんだ。現実的じゃないことを考えたって仕方ないって思っちゃうの」
「でも、君はときどき小説を読んでいるよね」
「あれはみんなが読んでいるから。話に入るためで、ちゃんと実益があるわけ」
「何のためか分からないものだって、そのうち益があるかもしれないよ」
「生きている間だといいけどね」
「それじゃあ」と言って男は立ち上がった。「僕は用事があるから。しばらくお別れだ」
「次はいつ会えるんだっけ?」
「来週の日曜日」
「そう」
「じゃあ、また」
「またね」と女は言って、軽く手を振った。「そうだ、今度会うときはドーナツを用意しておいてあげる」
「ありがとう。僕も今度は面白い話を用意してくるよ。二次元トーラスではなく、友達に話して使える便利なやつをね」
「よく分かってるじゃない」
「僕はドーナツのおいしさが分からないわけじゃないんだ。ただ、そればかりだとちょっと飽きることもあるってだけさ」