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どうにか乾かし終えたところでちょうど洗濯が終わる。洗った服を洗濯機から出し、それを持って瑠璃といっしょに千佳の部屋へ戻る。
ハンガーと洗濯ばさみで濡れた衣類を部屋の外のベランダに吊す。湯を張った風呂や瑠璃の使ったバスタオルは千佳が風呂に入ったという理由で問題なく通る。だが瑠璃の服の方はそうもいかない。いつも母親が洗濯物を干している庭の物干し竿を使うのは家族の目につきやすく危険だったので、瑠璃の存在を隠し通すにはこうするしかない。
千佳のパジャマを着た瑠璃は気の抜けた顔で座布団に座っている。湯上がりのシャンプーの香りとうっすら湿った髪が妙になまめかしく、なぜか千佳は赤くなってしまう。瑠璃がちらりと目を向けて、千佳ははっとした。
「……その。ありがと。お風呂、思っていたよりも良かったから」
「よかったあ。気に入ってもらえなかったらどうしようかと思ってたよ」
「知らなかった。この世の中には苦しいことだけじゃなくて楽しいこともあるのね」
微笑む瑠璃に千佳は何も言えなくなる。敵を斬り殺し、傷つくことだけが生きることの全てだった幽姫の瑠璃は、人間が当たり前に楽しんでいることすら無縁の道を歩いてきたのだ。美味しい食事も、綺麗な服も、温かいベッドも、それらを楽しむ喜びを瑠璃は何も知らない。
ドアチャイムが鳴り、千佳は物思いの世界から現実へと引き戻された。回覧板か宅配便のどちらかだろうと思いながら千佳は部屋を出て玄関へ向かい、ドアを開けた。
「千佳ちゃん! 来ちゃったよ!」
「……も、桃香……?」
たくさんの本が入った紙袋を持つ桃香に、一瞬だけ千佳の頭が真っ白になる。
「ほら、この前言ってた面白い漫画だよ。千佳ちゃんを驚かせようと思ってわざと連絡しなかったんだ。今、お家に上がってもだいじょうぶでしょ?」
千佳はぎくしゃくとうなずき、桃香といっしょに階段を上がる。千佳の部屋の前にたどり着くと、冷や汗を流しながら固い笑顔を作る。
「ちょっとだけ! 三分間だけここで待ってて! すぐに部屋の中を片付けるからさ!」
「別にいいよぉ。恥ずかしがることないよ。汚かったら私が綺麗にお掃除するから」
「いや! いつもそれじゃ本当に悪いし! 絶対に中をのぞいちゃダメだからね!」
千佳はドアのすき間から滑り込み、座ったままの瑠璃の前にしゃがみこむ。
「誰? この部屋に入ってくるの?」
小声でしゃべる瑠璃は階段を上がる千佳以外の足音を聴き取っていたらしい。千佳は顔の前で両手を合わせて拝み、目を閉じて頭を下げる。
「幼馴染みの友達なんだ。桃香っていうんだけど、あの子が帰るまで幽世の方に隠れてて! 私が亡霊が目に見えることとか、幽姫の瑠璃のことは知られちゃまずいんだよ。この通り! 本当にごめん!」
「……私がいない方がいいっていうの?」
「そんなことないよ! でも、誰かが部屋に入ってきそうなときは瑠璃が幽世に隠れるってルールだったでしょ!?」
千佳はそういう約束を瑠璃と交わしていた。突然両親が部屋に入ってきそうになったときのためのルールだったが、両親は千佳の部屋に近づこうともしない。瑠璃が隠れるルールが使われるのはこれが初めてだった。
瑠璃は困りに困った千佳の表情と、千佳に貸してもらったパジャマにそれぞれ目を向けた。そして一瞬、泣き出しそうな悲しい顔をしたかと思いきや……きつい目で千佳をにらむ。
「分かったわよ。邪魔な私はすっこんでいればいいんでしょ!」
瑠璃は決して邪魔ではないが、今の状況ではある意味で彼女の言うとおりだった。上手くなだめる言葉を考え出す前に、瑠璃が座ったままの姿勢で煙のように消える。現世から幽世側へ移動したのだ。これで誰にも瑠璃の存在は感じ取れない。
千佳はもやもやとしたものを胸にため込んだまま「もう入っていいよ」とドアの向こうの桃香へ声をかける。
「あれぇ? 全然汚くないじゃない。もっと散らかってるかと思ってたよ」
紙袋を手に部屋に入ってきた桃香は部屋の中を見回し、きちんと整頓された本棚やゴミ一つ落ちていない床に首をかしげる。
桃香はカンが鋭い。学校へこっそり持っていった忍のペンダントにも千佳の態度のわずかな異変から気がついたほどだ。部屋を眺めたまま何かを考えている桃香に千佳の心臓が高鳴る。
「汚い部屋を短時間でこれほど綺麗に片付けられるとは思えないなぁ。散らかった物を部屋のすみに押しのけるだけならできるだろうけど、そういうゴミの山も見当たらないし。これはちょっとした謎だね。理屈に合わない謎を推理してみます」
「ちょ、ちょっと桃香! そんなのいいから、早く漫画読もうよ!」
鼓動は速くなり、千佳は緊張で呼吸を乱す。桃香はあごに左手を添えたまま部屋の中を歩き回っていた。
「散らかった部屋を短時間で片付けるのに無理があるなら、そもそも部屋は綺麗だったと考えるのが自然だよね。ではなぜ千佳ちゃんは散らかっているという嘘をついてまで時間をとったのか? それはきっと私に見られたくない"何か"を部屋から隠すためです!」
「な、何をバカなことを……。いったい何を証拠にそんな決めつけをするのよ?」
「あの短時間でできることはせいぜい見られたくない何かを隠すのが精一杯だからだよ。証拠は無くても状況から推理すれば導き出される答えはただ一つ。千佳ちゃんは時間をとって部屋の中にあった何かを隠した。それが真実です!」
千佳の足が震え、壁際へ後ずさる。桃香には亡霊が見えない。見える千佳にも幽世側の瑠璃は感じ取れないのだから、桃香には絶対に瑠璃の姿は目視できない。しかし秘密を抱えていることは見抜かれている。このまま瑠璃の存在を推理で言い当てられてしまったら? 千佳は陸に打ち上げられた魚のように口をぱくぱくさせ、何も言い返すことができない。
桃香はうつむいたまま考え続け、やがて何かに思い至ったらしい。急に顔を上げて千佳を見つめた。
「まさか千佳ちゃん、エッチな本とかDVDなんかを見ていたの……!?」
「はあ……!?」
「そんなのダメだよ千佳ちゃん! バカなエロ男子じゃあるまいし、女の子がそんなものを見ちゃダメッ! エッチな本を私に見られたくなくて部屋のどこかに隠したんでしょ!? どこに隠したの? 幼馴染みを健全に保つためにこの私が没収します!」
「ちがーうっ!」
赤い顔で必死にまとわりつく桃香を振りはらい、「お茶、淹れてくるから」と言い残して千佳はキッチンへ向かった。
とりあえず瑠璃のことは何とか隠し通せる。千佳はほっとしながら二人分の紅茶とクッキーをトレイに載せて部屋に戻ってくると、桃香は部屋の端に立ったまま窓の外を見つめている。桃香の視線の先にあるものはハンガーに吊した瑠璃の服だった。
「千佳ちゃんの服の趣味ってこんなのだっけ……?」
桃香は納得いかないという顔で首をひねっている。トレイを持つ千佳の手が震え、カップからわずかに紅茶からこぼれる。千佳はトレイをテーブルの上に置き、桃香の関心を他へそらそうと近寄った。
「桃香、私……早く桃香の持ってきた漫画が読みたいなぁ」
「その変わったペンダントも着けたままだし、服の好みも前とは違う」
桃香の目が自身の胸元に向けられているのに気づき、千佳はシャツの上からペンダントの先を握りしめる。亡霊をはじいてくれるという便利さゆえに忍のペンダントをいつも身につけていることが裏目に出てしまったらしい。
「アクセサリーと服の好みが変わることはすなわちイメージチェンジ。イメチェン……まさか千佳ちゃん、好きな人でもできたの!? 好きな人の目を引くためにそんなペンダントやこんな服をっ!?」
「ちがーうっっ!!」
「やだやだ千佳ちゃん! 私達、いつもいっしょでしょ!? 千佳ちゃんだけ遠くに行っちゃやだよ! 恋愛なんてきっと恐いよ、やめときなよ!」
千佳の胸に飛びこんで大泣きする桃香に赤くなりながら、しばらくそのままで彼女が落ち着くのを待つ。その間に桃香を瑠璃から遠ざけるための作り話を頭の中で組み立てた。
「違うんだってば、桃香。エッチな本とかを見てたんじゃなくて、部屋に掛けてあった服を外へ隠してたんだよ。結局、隠し場所が悪くてすぐに見つかっちゃったけど。このペンダントもそうだったけど、新しい趣味の服を桃香に見られたら恥ずかしいから」
「そう。そういうことだったんだね。心配することなかったんだ」
くすんと鼻を鳴らす桃香を座布団に座らせて二人でテーブルを囲む。実際に隠したのは幽姫の瑠璃だが、恥ずかしいから隠したと桃香に言ったものは瑠璃に関係する彼女の衣服なので完全な嘘というわけでもない。それでも笑顔で袋から本を取り出す桃香を見ていると千佳の良心が痛む。
お茶を飲みながら漫画を読み、桃香と感想を交わし合う。そのなにげない時間がひどく懐かしいと千佳は感じた。ここ数日で千佳が日常を離れ、慣れ親しんだ場所からずっと遠くにいたことの証拠だった。
忍のペンダントを手に入れて、幽姫の瑠璃を部屋に住まわせて、世界の裏側の仕組みを知った。千佳は今、おそらく境界線の上に立っている。千佳の前には非日常の領域が広がり、後ろ側には日常の領域がある。境界線を越えて先に進むのも後戻りするのも千佳の自由だった。それが楽しくもあり、同時に恐くもあった。
幽世にいる瑠璃には現世側の千佳と桃香の会話は聞こえない。声は聞こえなくても人の輪郭は幽世側からも見えるから、瑠璃は二人の動きを見ているのだろうか。瑠璃が気になって漫画の内容が上手く頭に入ってこない。
はじけそうな呪いに苦しんでいる瑠璃を幽世に引っ込ませて桃香と遊んでいることが千佳には申し訳なくてたまらなかった。そして瑠璃の存在を隠している桃香にも同じ気持ちを抱いていた。
漫画を読み始めてから約三時間が経ち、桃香は満足げに帰って行った。玄関で見送ると、千佳は急いで自分の部屋へと戻る。
部屋の中で待っていてもいっこうに瑠璃が出て来ない。瑠璃が幽世の部屋にいるのなら桃香が帰ったことは分かるはず。何か変だと感じた千佳はシャツの中からペンダントの先を引っぱり出す。
「忍。幽世へ連れていって」