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桃香の最後の反撃に、瑠璃はようやく反応らしきものを見せた。あごに手を落ち添えて落ち着いて考え、やがてほおをほんのり桃色に染めながら千佳から目をそらす。
「私がこれまで生きてきた中で……互いに命を預け合っていっしょに死線を越えた……ただ一人の戦友ね」
瑠璃の答えはもはや桃香が対抗できる限界をはるかに超える物だった。たとえ小さい頃からの幼馴染みでも、親友でも、戦友には到底かなわない。なぜなら桃香には命を賭けて千佳と共に成し遂げた出来事など過去に一つもなかったから。
「千佳ちゃん! 千佳ちゃんっ! 私は別格なんだよね!? 私達、これからもずっと親友なんだよね!?」
桃香に両肩をつかまれてがくがくと揺さぶられる。いつ終わるとも知れない張りつめた空気のせいで心に負荷がかかり続けていた千佳は、桃香の行為が引き金となりうっかり頭のスイッチが入ってしまう。
瑠璃へと変身しぎょっとする千佳と、両肩に手を置いたままの桃香が至近距離で見つめあう。ほんの数秒の間が千佳には数十倍も数百倍も長く感じられる。この世の何もかもが凍りついているかのような時だった。
桃香は千佳の顔と隣の瑠璃の顔を見比べる。今の二人は同じ顔をしているのだ。
「これはその、霊を取り込んだ副作用というか何というか」
目を泳がせながら説明に困っている千佳をよそに、桃香は脱力して胸の中へ倒れ込んできた。そのまま少しも動かず、ショックで気を失ってしまったらしい。
瑠璃化を解除し、桃香の名前をくり返しながらほおを軽く叩いて起こそうとする千佳。そんな千佳の肩の上に忍が現れた。
「今は眠らせておこう。眠りには混乱と興奮を鎮める効果がある。そして新たに得た知識と記憶を整理する作用もね」
「……うん。年が明けるまでは寝かせておこう……」
千佳は桃香を軽々と抱き上げ、ベッドの上にそっと横たえる。こういう時、超人的な力が役に立つ。しかしそれも諸刃の剣だ。桃香の前で瑠璃に変化してしまったという失敗に千佳は顔に手を当てて大きなため息を漏らした。
「千佳思いの良い人間ね」
あれだけ嫌われながら瑠璃の方は桃香が気に入ったらしい。座ったままベッドの桃香に優しい目を向けている。
「これで分かっただろう? めったなことでは瑠璃化はできない。もしも公衆の面前で変身してしまったら身の破滅だよ、千佳」
「はい、気をつけます……」
「やはり桃香は危険だ。特級の秘密を目撃されてしまったわけだし。さっきのハプニングは夢でも見ていたことにして、彼女とはもう縁を切ったらどうだい?」
千佳は小さく笑い、首を横に振って桃香の肩に手を触れる。
「これまでも、これからも、桃香は私の大切な友達。昔の私と今の私を繋いでくれる、かけがえのない絆なの」
「人間は人間と繋がっているのね。一人一人は弱いから、そうしなければ生きられない。それは生まれついて個々に強い幽姫には考えにくい関係だけれど、繋がりも何だか良いものね」
「瑠璃も幽姫の友達を作ってみればどう? トラとか、四季さんとか、この短い間に他の幽姫達と知り合ったじゃない」
トラはあの俊足からすればもう隣の街にたどり着いたかも知れない。四季は飽きて嫌になっていなければ今もなお雪の中で花を配っているだろう。氷菓は敵だったが、これからどうなるのかはわからない。
「どっちもくせ者すぎて、付き合えば疲れそうね」
首をひねって瑠璃がひねり出した答えに千佳が笑っていると、窓になにかがぶつかる硬質な音が響く。音の質からして家の外から小石でも当たったような音だ。ぶつかった際の衝撃は小さく、ガラス窓が割れることはなかった。
千佳と瑠璃はそろって窓を見つめる。ただの偶然か、それとも何者かによるいたずらか。それまで緩んでいた部屋の空気が急激に引き締まる。窓を見たまま一分間ほど待っていると、ふたたび同じ音が届く。千佳はガラスに小さな球がぶつかるのを見逃さなかった。
千佳は窓辺に寄り、慎重に窓を開ける。冷たい空気が流れこんできて鳥肌が立った。窓の外の雪景色に目を凝らしていると、胸に何かが当たった。床に落ちる前に左手でキャッチすると、それは青色の小さな飴玉だった。それが外のどこからか千佳に向かって飛んできたらしい。
「これって、どう見ても……」
瑠璃といっしょに手の中の飴を見る。こんなことをするのは、千佳達が知る限りあの人物しかいない。
千佳は「そうするべきだ」という直感に駆られ、頭の中のスイッチを入れて瑠璃へと変身した。目を閉じて目から入る余計な情報をシャットアウトする。感覚を研ぎ澄まし、前方の闇へと意識の触手を広げていく。
道をたくさんの人が行き交っている。車が走り、何羽かの鳥が夜空を飛んでいるのも理解できる。そしてそれらの群れの中にまぎれて、一つの大きな存在がこちらをうかがっているのが読み取れた。その存在は明らかに異質だった。小さなアリがばらばらに動いている中で氷でできた人間がじっとたたずんでいるかのようだ。
瑠璃化は持続時間が短く不安定で非常に使いにくい能力だが、極度に集中した時には空間認識能力が上がることを利用して平時の広域探索用にも使えるなと千佳は初めて気がついた。瑠璃化を解き、窓の外の街並みを眺め続ける。
「見られているわね」
「うん。どこかは分からないけど、この独特の雰囲気は間違いなく氷菓」
「どうする? 行くか、無視するか」
瑠璃の冷静な問いかけに千佳は無言で闇に見入る。今回はこっそりと幽世側の玄関にお菓子を置いていくような遠回しなやり方ではない。はっきりと氷菓の方からその存在をアピールし、千佳達に誘いをかけているのだ。
罠か。それとも罠以外の平和的な目的か。二つの可能性を頭の中で天秤に掛け、やがて千佳は小さなため息をついた。分からないことをいくら考えてもあまり意味がないと悟ったからだ。
「……行こう。四季さんの言うとおりだよ。真実は自分達の目で確かめなきゃ」
ベッドで眠っている桃香を残し、千佳は現世側の玄関から、瑠璃は幽世側から、それぞれこっそりと家の外へ出た。塀の外で待っていた瑠璃とともに現世の街を歩いていく。
年の瀬の効果なのか、雪が降っているというのにあいかわらず人通りが多い。千佳と瑠璃は並んで氷菓の気配が濃い方を目指して進んでいく。
「氷菓とは命の奪い合いになった間柄よ。現世の、こんな人目がある街中で戦いを始めるほど馬鹿じゃないと思うけど、あの子の考えだけは分からない。こちらの思いもよらない行動を取るかも知れないわ。もしもまた戦いになった場合、もう見逃すことはできない。何度も同じことを繰り返せばいつかはこっちがやられてしまうわ」
戦いに生きる幽姫としては瑠璃の考えは至極まっとうだった。勝負運は長く続かない。倒せる時に機会を逃さずに倒してしまわなければ、勝者と敗者の立場はいとも簡単にひっくり返るだろう。
「できるだけ、戦う姿勢は見せないようにしよう」
「それは作戦? まずは油断させて、不意打ちを仕掛けるということ?」
「違うよ。敵意を消して氷菓に接しようってこと。幽世の玄関に置かれたお菓子とか、さっきの飴玉とか、氷菓の行為からは戦う気持ちが感じられない。もしも私達を殺すつもりなら、本気で攻撃してくるはずでしょ? 窓の前に立った私だって狙い撃ちできたのに、そうはしなかった。氷菓が何を考えているのかは私にも分からない。けど、多分氷菓は私達と会いたいんだよ」
「だから敵意を消してあの子と会うの?」
「そう。もしも私達が戦う気むき出しにすれば、氷菓にその気がなくても戦いになりかねないよ。無意味な戦いはしたくないから」
瑠璃にレーダーの役目をしてもらい、氷菓の気配の源の地点までたどり着く。氷菓は千佳達から逃げるように歩いて距離をとり続けていたのだが、ここで動きを止めた。大通りに掛かる歩道橋の上。
千佳と瑠璃は固い面持ちで階段を上がっていき、歩道橋の真ん中に立つ氷菓と対面を果たす。
氷菓はしもべのクマァを胸に抱いたままじっと二人を見つめていた。クマァの腹の刺し傷は綺麗に治っている。氷菓が修復したらしかった。
千佳はごくゆっくりとした足取りで、驚かせないように氷菓へ歩みよっていく。千佳のすぐ横に瑠璃がボディガードのように付き従った。
氷菓の三メートルほど手前で立ち止まった二人に、氷菓は反応らしい反応を見せない。これまで通り、ただ静かに千佳達を見上げるだけだ。そのまま二分間ほどの沈黙の時が流れる。雪が降る中では交通量が激減し、ほとんど車が通らない。雪が落ちる音さえも耳に届きそうな静寂が三人を包んでいる。
痺れを切らせた瑠璃が最初に口を開いた。
「……どうして私達を呼びつけたの? 理由ぐらいは話してくれるんでしょうね?」
「呼んでない。そっちが勝手に氷菓のところまで来ただけ」
氷菓は軽蔑するような口調で瑠璃に応えた。どうも瑠璃よりも自分の方が格上だと思っているらしい。実際、氷菓は最終的に勝負では敗れたがしもべのクマァを加えた戦闘能力では瑠璃よりも上だったのだ。お菓子の氷菓と剣の瑠璃のどちらが上かという氷菓の疑問にはたしかな解答が下されたことになる。
にらみ合う瑠璃と氷菓のせいで場の空気がぴりぴりと張りつめていく。放っておけばすぐに殺し合いに発展しそうな勢いだ。千佳は瑠璃の肩に手を添えて彼女の興奮を抑え、一歩前へ踏み出した。
「氷菓に会いたかったんだ。幽世の家の前にお菓子を置いていってくれたのは氷菓でしょ?」
笑みを浮かべてしゃべる千佳に、氷菓は口元をクマァの頭で隠しながら小さくうなずいた。とりあえず、千佳達とコミュニケーションを取ろうとする意思はあるようだ。
「あなたたち、どうしてまだ二人でいるの?」
千佳と瑠璃は顔を見合わせる。氷菓の質問の意味がまったく分からなかったからだ。
次回のアップ分で完結します。




