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「なによそれ!? ふざけているにもほどがあるわ!」
「千佳は亡霊が目に見える。そういう体質だから、もともと霊的な力への相性がいいんだよ」
瑠璃と忍の口論を見ながら千佳は自分の胸に左手を当てる。そしてこれまでの状況を頭の中で整理してみた。瑠璃は千佳を黙らせるために不思議な力で気絶させようとした。だが瑠璃の力は体質的に千佳に通じず、放たれた力を逆に吸収してしまったらしい。胸に手を当てて意識を集中し身体の感覚を探ってみるが、風呂上がりのようにじんわりと身体の内側が温かいような気がした。
自分の特殊体質についてあらためて驚きつつ、肩の上の忍に怒りの目を向ける瑠璃を見て千佳はあることに気がついた。忍の本体であるペンダントはあくまで借り物なのだ。借り物は持ち主へ返さなければならない。千佳は首に下げたペンダントを急いで外し、それを瑠璃に差し出す。
「これ、勝手に借りてごめん。私が家にいない間、瑠璃の身体が心配だったから。返すね」
「そんなの、もう要らないわよ。あんたにあげる。私を勝手に人間に世話させる忍にも愛想が尽きたわ。忍なんてもうお払い箱よ」
「で、でも、こんなに凄いものをもらうほどのことはしてないし……」
「いいからあげるって言ってるのよ! 勘違いしないでよね。私はあんたに恩なんかまったく、少しも感じていないんだから。不覚にも世話になった借りを返しただけ。これで貸し借りはゼロ。あげる理由はそれだけなんだから」
目をそらし、腕を組んで赤い顔をする瑠璃。千佳はぽかんとし、忍のペンダントを手に乗せたまま硬直してしまう。
瑠璃は自分の足を見て靴をはいていないことに気づき、じろりと千佳をにらむ。
「私の靴はどこにやったのよ?」
「あ、瑠璃の靴ならそこに……」
部屋のすみに丁寧に並べて置いておいた瑠璃の靴。それを指差す千佳に瑠璃は礼も何も言わず、靴に近づいて拾い上げた。
「それじゃあ、さよなら」
一瞬だけ後ろの千佳に振り返り、瑠璃の身体がふっと消えた。
「きっ、消えた……!?」
「幽世へ行ったんだよ」
主人の瑠璃がいなくなったというのに肩の上の忍はあくまで落ち着いている。千佳は瑠璃が消えた場所に目を凝らし耳を澄ませてみるが部屋の中には瑠璃の気配がまったく感じられない。
「瑠璃に文句を言われたり怒られるのはいつものことだけど捨てられるほどの仕打ちはこれが初めてだ。千佳に介抱してもらったのが本当に頭に来たみたいだね」
「悲しくないの? 創ってもらった瑠璃から見捨てられたんだよ?」
「悲しいとか寂しいというような感情はないな。僕はただの道具だからね。さて、僕の所有権は瑠璃から千佳へ移った。これからは君が僕の主人というわけだ。それとも僕を別の誰かに渡すかい?」
忍に見つめられ千佳は首を横に振った。瑠璃はどこかへ消えてしまった。今となってはこの忍だけが瑠璃につながる手がかりだ。それほど貴重なものを捨てられるはずがない。
少し前までここで言葉を交わしていた瑠璃を思い出す。顔は青白く、足はふらついていて、すぐにでもまた倒れてしまいそうな様子だった。丸一日眠ってもなお体力が戻っていない。瑠璃が倒れた原因は単なる疲労だとは思えなかった。
「忍。瑠璃の居場所、分かるんでしょ?」
「うん。追いかけるつもりかい?」
「このまま放っておけないよ。あんな病み上がりの体で無理したら、きっと死んじゃうよ」
千佳は忍を持って家を飛び出し、瑠璃の位置を知る忍に導かれるままに道を走っていく。冷たい風がびゅうびゅうと全身に吹き付けて身震いするほどの寒さだった。あれほど衰弱している瑠璃がこの寒空の下で何をするつもりなのか、それを思うだけで千佳の胸は不安でいっぱいになる。
「……なんで瑠璃はあんなに怒ってたの? 私、あの子を助けない方がよかったのかな」
息を荒げながら歩道橋を上る千佳の脚がかすかに震える。その理由は走り疲れたせいだけではない。強く拒絶され、さらに消えた瑠璃を追いかけることは大きな間違いなのではないかと千佳は自信が揺らいだ。
少しの沈黙をおいて千佳の耳元に忍の声が届く。
「前にも言ったと思うけど、瑠璃はとても気位が高い。プライドが高いのさ。瑠璃は孤高の存在で自分の力以外は何も信じない。仲間も持とうとしない。誰かに助けられるのは瑠璃にとって屈辱なのさ」
歩道橋を渡り、小走りに道を進みながら千佳はどうしても聞いておきたい疑問を口にした。
「……ねえ、忍。瑠璃って本当に人間なの?」
「瑠璃は人間じゃないと思うのかい?」
「何も無い場所から剣を出して亡霊を斬ったり、煙みたいに消えたり、しゃべるペンダントの忍を創り出したり、色々人間離れしすぎてるよ。それに瑠璃を背負って部屋に運んだとき、体が軽すぎた。痩せすぎとかそういうレベルじゃなかった。少なくとも瑠璃は普通の人間じゃないと思う」
「なかなかの名推理だね。そこまで見抜いているのなら否定はしないよ」
やっぱり瑠璃は人間ではないらしい。小さな時から化け物の亡霊を何千何万も見続けてきた千佳はたいていの常識外のことには驚かないつもりでいたが、さすがに今回は衝撃で口を開けなくなる。目に見えて触れられる身体をもち外見も人間のものと変わらない。それなのに人間とは違う何か別の存在。瑠璃のようなモノに千佳はこれまで出遭ったことがなかった。
忍に指示されるまま黙って道を走るうちに千佳はある馴染みの場所に来てしまっていた。一年前に瑠璃と会い、昨日倒れていた彼女を見つけた因縁の路地だった。あいかわらずたくさんの亡霊が宙を舞い、できればすぐにでも逃げ出したい異常に危険な場所。
「ここだ。瑠璃はここにいる。またここに戻ってきたのは……おそらく途中で気絶してしまった不浄霊狩りの続き……瑠璃なりの雪辱戦のつもりだろう」
「どこ? 瑠璃なんてどこにもいないじゃない」
いくつかの亡霊が見えるだけで千佳には瑠璃の影も形も見当たらなかった。ここはまばらに通行人が行き来するだけの寂しい道で人ごみにまぎれて瑠璃の姿を見失っているようなことも考えられない。
「僕達が今いる世界は現世。ありていに言って現実世界だ。瑠璃は現世の裏側にある幽世に居るんだ。瑠璃が居る幽世に行ってみるかい?」
ごくりとつばを飲みおそるおそるうなずく千佳の右肩に忍が現れた。いつになく真剣な目で見つめられ、千佳は緊張で冷や汗を浮かべた。
「それじゃあ気をしっかりもって。驚きすぎてもしも気を失ったりしたら大変だからね」
次の瞬間、いきなり昼間から夜に移り変わったように周囲が暗くなった。千佳があわてて空を見上げてみれば、それまで青かった空が黒く染まっている。太陽は消え月も浮かんでいないが、目に見える風景は真っ暗闇というわけでもなくほんのりと明るい。ちょうど陽が沈み、夜になる直前の夕方くらいの明るさだった。
「ここが……幽世……?」
「そう。未練をもつあまたの亡霊が住む死後の世界。人間達は死んだ後に肉体から抜け出た魂が天に昇っていくと信じているようだけど、あの世はすぐそこにあったというわけさ」
千佳の目の前にはそれまで通りの街並みが広がっている。整列した一戸建ての群れも、ガードレールも、道路標識も、街路樹も、千佳が一年間見続けた路地の光景がそのままそこにあった。薄暮の中に見慣れた亡霊路地が今まで通り存在している。
そして異様な静けさに千佳は気がついた。常に耳に届いていた車の走行音が今ではまったく聞こえない。車が行き交っていた道路の方を見てみるが、道には何も走っていない。まるでゴーストタウンにでも来たようだ。身体に吹き付けていた冷たい風もここでは止まってしまっている。冬の寒さも感じられない奇妙な場所だ。
千佳の周りにはおびただしい数の亡霊がひしめきあっていて明らかに現世で見えていた数よりも多い。しかも亡霊の姿がよりはっきりと見え、そのまがまがしい気配が千佳の肌に伝わってくる。千佳は身を縮めておろおろと幽世の街を見回す。
すると千佳のすぐ横を半透明の人間が通り過ぎた。見た目は亡霊に似ているが動作がはきはきしすぎている。まるで生きている人間のような動きだ。千佳は驚いて飛びのき、そばに植えられている樹の幹にしがみついた。
「今のは現世の人間だね。この道を通りかかった一般人さ。幽世からは現世の人間が今のように見えるんだ。触れることもできないし、こちらからの声も届かない。いっさい影響が与えられないんだ。現世側の人間達も幽世にいる僕達を触ることも見ることも感じることもできない。今では僕達の方が亡霊のような存在なんだ」
「……私達、元の世界に帰れるんでしょ? このままずっと幽世にとどまったままなんてことはないよね……?」
「僕がいれば幽世への出入りは自由だよ。だが気をつけてくれ。僕を幽世でなくしたり壊したりすると君は一生ここから抜け出せない。それに現世に迷い出した亡霊と違って幽世の不浄霊はとても凶暴だ。今は僕が君を守っているけれど、僕を失えば君はあっという間に不浄霊達に取り殺されて奴らの仲間入りさ」
周りの亡霊達が千佳をまるで気にしていないのは忍が彼らの注意をそらしてくれているかららしい。千佳は首に下げたペンダントの先を両手でしっかりと持ち、間違ってもなくさないようにした。
「行こう千佳。瑠璃は向こうの曲がり角にいる」
千佳はそこかしこにたたずんでいる亡霊達の間をくぐりぬけながら曲がり角を目指す。近づくにつれて現世に居た時には感じ取れなかった足音がはっきりと聞こえるようになる。コンクリートの路面の上をせわしなく跳び回る足音だ。忍の言う通り瑠璃は現世ではなく幽世にいたらしい。千佳は息を呑み、覚悟を決めて曲がり角の先をのぞきこんだ。
「本当は人間には聞かせてはいけないことなんだけど、今や君は僕の主人だ。しもべには主人の知りたいことを教える義務があるし、ここまで真実を知ってしまったらもう隠し続ける意味がない」
両刃の剣を両手に持つ瑠璃。一年前に見た瑠璃がそこにいた。千佳は瑠璃の戦う姿に目を見張り、肩の上でしゃべる忍の言葉もほとんど頭に入ってこない。