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「責任なんて取らなくていいよ! 瑠璃の呪いを吸い取ったのは私がそうしたくて勝手にやったことだもん!」


 ただそれぞれの中での真実を言い合うばかりの不毛な口喧嘩が続く。瑠璃は千佳が恨んでいると信じて疑わない。千佳は怒っていないし、ましてや責任を取れとも考えていないのに……そのことがどうしても瑠璃に伝わらない。心の中で思っていることは目に見える形をもたない。だからそう簡単には証明できない。

 こういうことは千佳は経験済みだった。親友の桃香と喧嘩をした時、桃香の怒っていないという言葉がなかなか言葉通りに受け取れない。桃香は本当は怒っていて、怒っていないというのは千佳を気遣うための嘘であると思ってしまうのだ。怒らせてしまった相手への申し訳なさが原因でこちらの失敗を過度に大きく見てしまう。人間に囲まれて生活してきた経験豊富な千佳でさえそうなのだ。不浄霊狩りが日常の全てで対人経験に乏しい瑠璃が喧嘩相手の感情の機微を読み取れなくても無理はなかった。

 恨んでいる。恨んでいない。瑠璃と千佳の主張は平行線のままで水掛け論がいつまでも続く。そのせいでお互いに過熱し始め、口論からは次第に論理性が失われてただの感情論へと堕ちていく。

 分からず屋の瑠璃に千佳の怒りが燃え上がる。だがその一方で、今まで通い合っていた気持ちがどんどんすれ違っていくことを悲しむ思いが千佳の中に膨らんでいた。顔と口で怒っていて心の中で泣いているような奇妙な心境を味わっていた。


「もういい! 私は私なりのやり方で決着をつける! 好きにさせてもらうから!」


「あっ……!?」


 怒りが頂点に達した瑠璃は千佳がつかんでいた腕を力任せに振りはらう。それに加えて鋭い目でにらむ瑠璃に千佳も一気に頭に血が上ってしまう。四季に向かってつかつかと歩く瑠璃の肩を止め、振り返った彼女の顔を全力で張り倒す。

 幽姫の体は軽い。しかも千佳の力は人間をのそれを超えている。瑠璃は小さな人形のように数メートルを軽々と吹き飛び、花畑の中に頭から突っこんでうつぶせに倒れた。

 そんな瑠璃と、平手打ちの衝撃で痺れた左手を見て、怒り一色に染まっていた千佳の頭が急速に冷えていく。頭から全身に向けて大量の氷水を注ぎ込まれたような感覚だった。どうしてあれほど熱くなり怒っていたのか不思議で、大声を上げていた自分自身が滑稽にさえ思えた。


「ご、ごめん、瑠璃……! だいじょう……」


「謝らないで!」


 上半身を起こし、横座りをした瑠璃が力のこもった目で千佳を見上げる。切れた下唇からうっすらと血がにじんでいた。流血の事態に、千佳は心臓を冷たい手で握りしめられるような思いがした。


「千佳が謝る必要なんてないわ。殴られて逆に嬉しいくらいよ。そんな力がふるえるような身体にしたのは、この私なんだから。さあ! 好きなだけ殴って、蹴って、罵りなさいよ! 私が氷菓に殺されに行く前に!」


 座ったまま、覚悟を決めて目を閉じる瑠璃。一方で、千佳はこれまでの瑠璃と歩んだ軌跡を一瞬で思い返した。

 千佳と瑠璃が対等だったことなど今までに無い。ある時は瀕死の瑠璃を千佳が介抱し、またある時は復活した瑠璃の力に千佳が驚いて後ろについて歩いていた。いつもどちらかが上でどちらかが下だった。常に相手への遠慮の気持ちがつきまとっていた。今この時もそうだ。無傷の千佳が傷だらけで悲しみに押しつぶされそうな瑠璃を見下ろしている。

 瑠璃と対等になりたいと千佳は心底願った。だがその方法が千佳には分からない。瑠璃は命を捨て、これから先に続くはずの未来をも無にしようとしている。そんな瑠璃と釣り合うためには千佳も命を張らなければならない。幽姫と人は能力に大差があっても、それぞれの命の重みは変わらないはずだ。しかし、たとえ千佳が命を捨てて瑠璃に加勢したところで氷菓の前では無意味に近い。むしろ足手まといになる可能性が高かった。

 瑠璃が氷菓の狙い通りに殺されれば問題は解決するという彼女の主張はある意味で正しいが、そんなことは千佳には絶対許せない。だからといって現時点の千佳側の戦力ではどうあがいても氷菓を打ち倒すことなどできはしない。もはや八方塞がりだった。

 四季の力は頼れない。四季からはあまり失望させるなと恐怖の警告を受けたばかりだ。それを無視してまた力を借りようとすれば今度こそ四季に見限られることになる。見限られるとは単に四季との友好関係が切られることではなく、おそらく千佳の死を意味するだろう。

 四季を意識し向こう側の椅子でくつろぐ彼女の横顔をちらりと見た千佳は何か手が無いかと必死で考える。

 四季から受けた言葉が頭の中に蘇り、ある一つの手だてが雷光のように浮かび上がる。そのアイデアをもたらした者は鬼か悪魔ではないかと疑いたくなるほどに無茶で危険でおぞましい方法だった。


「ふふ、うふふふ。くくっ、くくく……」


 その考えのあまりの馬鹿さ加減に千佳は笑いが止まらない。身体が小刻みに震える。それが笑いのためなのか、それとも恐ろしさのためなのか、千佳にはまったく区別がつかなかった。瑠璃が「千佳……?」と不安げに名前を呼んでも、笑いは収まらなかった。

 もしも千佳の考えが正しければ千佳と瑠璃は本当の意味で対等の立場になる。命を捨てて戦いを挑む瑠璃に勝るとも劣らない覚悟を示すこともできる。結果的に氷菓にも対抗しうる強大な戦力も手に入る。その代わり、千佳が負うリスクの高さは計り知れない。


「……四季さん」


「あら何かしら。あんまり瑠璃とばかりお話ししているから、わたくしのことは忘れられたのかと思いましたわ」


 拗ねたように振る舞ってくすくすと笑う四季に上手く応じる心の余裕がない。千佳は笑みで引きつった顔を足元の瑠璃に向けたまま向こうの四季へと語りかける。


「たかが人間の私では力不足。化け物の幽姫を倒すことができるのは同じ化け物だけ。あの言葉は……もしもこれ以上先へ進むのなら私に化け物になれと――そういう意味ですね?」


「そういうことですわ。せっかく千佳に大ヒントを差し上げたのに最後まで気づかないままではどうしようかと思いましたわ」


「いったい何を……言ってるの? 千佳……」


 やはり千佳の推理は正しかった。しかし少しも嬉しくない。よりいっそう全身を覆う絶望感が増しただけだ。


「だからさ、も、もう一度私が、瑠璃の呪いを吸って……」


 身体だけでなく声までもが震えていた。気味の悪い薄笑いがどうしても止まらない。これから千佳が話そうとしていることは狂気の沙汰だ。感情は滅茶苦茶に乱れていて、その内側の揺れが波のように表へ押しよせて笑いと化しているのかもしれない。


「瑠璃にたまった呪いを私が全部消して万全の体調にすれば……呪いがゼロの氷菓と条件が同じになる。私も今よりもっと強くなって、瑠璃といっしょに戦える」


 話の途中からすでに瑠璃の表情は凍りついていた。何とか千佳が話し終えるとほぼ同時に瑠璃は飛び出し、千佳の両肩を痛いほどにつかんだ。


「なに馬鹿なことを言ってるのよ! ふざけるのもたいがいにして!」


 肩をつかんだまま正気に戻そうと前後にがくがくと揺さぶる瑠璃に、千佳は抵抗する気になれなかった。揺さぶられながら妙に冷静な気持ちを味わっていた。

 これ以上瑠璃の呪いを取り込めばどういうことになるのか千佳にも察しがついている。すでに千佳の身体能力や感覚は人間のそれを超えてしまっている。瑠璃の身体に残ったもう半分の呪いをも取り込めば今よりもさらに症状が進むのは間違いない。そのときは人間でいられるかどうかすら分からない。身体が劇的に変わるかもしれないし、精神面への影響もあり得る。さんざん亡霊を目にしてきた千佳からすれば化け物になった自分の姿が容易に想像できた。


「できるわけない! もうこれ以上の迷惑を千佳にかけたくない!」


 瑠璃の顔をまっすぐに見ることができなかった。目をそらし、口を閉じて喉まで上っていた言葉を千佳は呑み込む。迷いを振り切り実際に行動に移すための覚悟が足りなかったからだ。


「もう千佳をこっち側の問題に巻きこみたくないの! 幽姫同士の問題に人間が関わっちゃダメなんだからっ!」


 まただ。また瑠璃と遠慮し合う距離を千佳は感じとっていた。瑠璃のよそよそしさに千佳は怒りさえ覚えたが、二人の間の隔たりを詰めて歩みよるのが恐くもあった。距離がゼロになるまで瑠璃に迫ったとき、千佳はきっとこれまでの千佳ではいられなくなるだろう。

 瑠璃の呪いを全て消して瑠璃を全快させ、同時に千佳が今以上に強くなる。理屈の上では間違っていないはずだ。成功した前例もある。だが今度も確実に上手くいくという保証はない。それが千佳の決断をにぶらせる最大の原因だった。

 嫌がる瑠璃を押し切る勇ましい言葉がどうしても出て来ない。うつむいたまま黙りこむ千佳に、ついに瑠璃の説得の言葉も枯れ果てる。千佳の両肩に乗っていた手が下ろされ、二人は目をそらし合ったまま重苦しい空気に包まれていた。


「こんな展開になろうとは思っていませんでしたわ、千佳」


 歌うように軽い四季の声に千佳と瑠璃はそろって彼女へ目を向けた。


「初めて出逢った時は少し変わった体質の人の子くらいにしか思っていませんでしたのに成長しましたわね。月日が経つのは早く、何やら感慨深いものですわ。しかし千佳。口ばかりが達者でも、そこに行動が伴わなければね……」


 自身へ向けられた四季の紅い瞳に千佳は思わず身震いする。期待と、その期待を裏切る結末の両方を待ち望むかのような無責任な残酷さが目ににじんでいる。


「わたくし、これからどうなるのか最後まで見届けさせていただきますわ。逃げるのも、成し遂げるのも、すべては千佳の器次第ですわね」

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