28頁
「……っ!!」
「肩の上の荷物を捨てるんだ! 氷菓の目的はトラじゃないから置いていっても襲われたりはしないはずだ!」
「そんなことできないよ! もうだまっててよ!」
今まで聞こえなかった氷菓の足音を千佳は感じとった。コンクリートの上を走る音がだんだん大きくなっている。氷菓との距離が縮まっている証拠だった。
見たくはなかったが首が勝手に後ろへ向いてしまう。クマァを両腕で胸に抱えた氷菓が……すぐそこまで迫っていた。幽世の暗い街の中で、黒いドレスに身を包む氷菓の白い顔がどんどん近づいてくる。千佳が生まれてからこれまでに見たどの亡霊よりも恐ろしい。
千佳は前へ向き直り、歯を食いしばって悲鳴のような金切り声をもらす。パニック状態でなにかをまともに考えられる時ではなく、力の限り足を動かす。だがそれで二倍も三倍も速く走れるようになるのなら苦労はない。どんなに頑張っても限界以上の速度は出せない。
「なかなか速いね、お姉ちゃん。人間にしてはだけど」
氷菓の笑い声が背中から届く。もしもこの世に死神がいるとしたら、人が死ぬときはこんな風に声を掛けてくるに違いない。
「でも、つーかまえたっ!」
氷菓の伸ばした左手が千佳の後頭部に触れる。千佳はこの絶望的な現実から逃げたくて固く目を閉じる。
「!?」
その時、千佳は見えない何かに突っこんだ。同時に、氷菓は白い花びらの吹雪に巻きこまれて視界を白に覆われる。
突然の花びらの大群に氷菓はせき込み、自身を包む小さな竜巻を腕を振ってかき消す。
「……消えた?」
「どうなってやがる……?」
千佳も、千佳が運んでいた瑠璃もトラも、その場から綺麗に消えてしまっていた。辺りは静まりかえり、千佳がどこかを走ったり跳んだりする音も聞こえてこない。氷菓の妨害をした花びらも路面に落ちて煙のように消滅した。
正体不明の現象に、氷菓はクマァを抱きかかえたまま立ちつくすことしかできなかった。
千佳は花畑の中に四つんばいになり、ぜいぜいと肩を上下させる。瑠璃は千佳の横であおむけに倒れていて、トラも向こう側に転がっている。
後ろを見ても草木で出来た奇妙な壁があるだけで氷菓はいない。
ここは千佳の知る幽世ではない。日だまりの中のように明るく、そして暖かい。床には生きた花々がしげっていて本物の花畑だった。花と草の心地良い香りと清らかな空気で満たされている。
氷菓にあっけなく殺されてそのまま天国までやって来てしまったのか。千佳は四つんばいのまま手元の花を見つめて不思議に思っていると、見覚えのあるおしゃれな靴が目に入って顔を上げた。
「大変そうでしたからお助けしましたわ。もしかして余計なお世話だったのかしら?」
「四季さん!」
妖精のような、あるいはアンティークドールのような姿をした五体のしもべを周囲に浮かべ、そこに四季が立っていた。
ここは天国の花畑でなく、四季が創る庭園だったのだ。
恐怖。安堵。感謝。悲しみ。たくさんの感情が一気に噴きあがり、千佳の胸の中でごちゃまぜになる。感情の大波は涙となって目からあふれ出し、千佳は四季の脚に抱きついて泣いた。そんな千佳に、四季は小さなため息をつく。
「千佳。いいかげんに離れてほしいのですけれど。わたくし、立ったままで少々疲れましたわ」
四季のいらだった声に千佳ははっとし、泣くことも忘れて脚を放した。
「そ、そういえば氷菓は!? 氷菓は今どこに!?」
四季は庭園の中央にある木の枝で出来た椅子に座り、ひと息つく。彼女の周りに浮いていたしもべの二体が壁へ向かって飛び、そこへ手を触れる。すると緑の葉に覆われていた壁に楕円形に暗い穴が出来上がった。
暗い穴の向こうに氷菓が立っていた。きょろきょろと見回し、消えた千佳達を探しているらしい。
氷菓と目が合った千佳はびくりと震えて息を呑むが、氷菓の方はすぐに別の方向へ目を向けるだけだ。庭園の中にいる千佳の存在に気づいていない。
「前にもお伝えしましたが、ここは他の幽姫や不浄霊に認識されない造りになっていますの。あの猟犬がここに気づいたり、ましてや入ってくることなどあり得ませんわ」
外の世界と四季の庭園を隔てる壁に物理的な穴が空いたのではなく、穴をテレビ画面のようにして外の景色を映し出しただけらしい。
氷菓は胸元のクマァを見つめ、口を動かして何かをしゃべっている。姿は見えても声は届かない。しばらくクマァと会話を続けた後、氷菓は路面を跳んでどこかへ消えた。氷菓の姿をとらえられなくなるとともに穴がふさがり元の草木の壁へと戻る。
とりあえず氷菓がいなくなったことで千佳は魂が抜け出るかのような盛大なため息をもらし、がちがちに固まっていた手足から力を抜いた。千佳の肩の上に、今まで声のみで指図していた忍が具現化する。
「とりあえずここにいれば氷菓に見つかることはない。安全地帯だ」
「好きなだけ居てもらって構いませんわ。千佳の危機には力をお貸しすると約束しましたものね」
「ありがとうございます、四季さん」
千佳は大きな感謝を胸に土下座でもするように深く頭を下げ、涙で濡れた顔を制服の袖でぬぐう。氷菓の魔の手から逃げることはできたのだから、次の行動へ移らなくてはならない。
千佳は倒れたままの瑠璃の顔をのぞきこんだ。ちゃんと息はしているが、目を閉じて気を失ったまま起きる様子はない。氷菓との戦いで負ったダメージは破れた服や至る所に染みこんだ血、腕や脚にできた赤黒いあざにしっかりと表れている。目をそむけたいほどの痛ましい姿に千佳の胸にもナイフが突き刺さったようだった。
「……忍。瑠璃は、瑠璃は大丈夫なの……?」
「たしかに重傷だが、この程度なら問題ないだろう。幽姫は傷を負っても、命に関わるほどの怪我でなければ自然に回復する」
千佳はだまって瑠璃の右手を握り、まだ彼女とつながっていることの喜びを噛みしめる。もしも瑠璃が死んでしまっていたら。それを思うと、手の中の温かみに感謝を捧げずにはいられない。
千佳は瑠璃から手を離し、トラの方を見る。四季の庭園に入ったことは予想外のことだった。入った瞬間につまずいて転び、トラ入りの飴は瑠璃よりも少し離れた場所に転がっている。
千佳はトラの前まで歩み寄り、おそるおそる飴の中をのぞきこむ。落ちた衝撃で中のトラが飴ごと砕けていないか心配だったが、飴にもトラにも傷一つついていない。非常に頑丈な樹脂で固められているかのようだ。
飴に閉じこめられたトラの表情や姿勢やしっぽの位置には少しの変化もない。トラ自身ではまったく動けないらしい。氷漬けにされた死体のようで、見ていてぞっとする。
「ねえ忍。剣で周りの飴を削って、中のトラを助け出せないかな?」
「やってみよう」
忍のサポートで千佳の右手に短剣が現れる。剣の柄を両手で握り、飴の端に全力で刃を突き立てる。だが……割れるどころかかすかな傷さえつけられない。反動で千佳の手が痺れたほどだ。
「ダメだね。この強度は並の封印じゃない。トラを封じた氷菓本人でなければトラを解放することは不可能だ」
手の中の剣を消し、千佳はトラ入りの飴に背中を預けて座りこむ。これでもう、ただ氷菓から逃げればいいだけでは済まされなくなった。どうにかして氷菓を倒さなければ閉じこめられたトラを見殺しにすることになる。
かといって、あの化物のような氷菓をどうやって倒せばいい? 瑠璃とトラの幽姫二人がかりでも氷菓にはまったくかなわなかった。氷菓があまりに強すぎて対抗手段が思い浮かばない。トラは封印されてもう戦えない。ぼろぼろに痛めつけられた瑠璃と千佳の二人で氷菓相手に何ができるというのだろう。
向こう側でのんびりとくつろいでいる四季の存在を意識せずにはいられなかった。おそらく、規格外の力をもつ四季なら氷菓をも倒しうる。それだけの実力をもっているだろう。
しかし、きっと四季は何もしないだろう。こうして千佳達を自身の庭園内にかくまってくれてはいるが、興味のあることにしか手を出さない四季がわざわざ氷菓と戦おうとするはずがない。氷菓にあと少しで殺されそうだった千佳に何も事情を聞こうとしないのがいい証拠だ。四季は千佳を気に入っているから、千佳が死ぬほどの状況になれば助けてくれるかもしれない。だがそれ以外では何があっても傍観に徹するだろう。ここ三年の四季との付き合いで彼女の性格はだいたい把握していた。
頭の中は悩み事でいっぱいで、千佳は抱えたひざに顔をうずめた。
そうしたままいくらかの時間が過ぎ、足元に四季のしもべが舞い降りたのを見て千佳は我に返った。
四季のしもべは右手に銀色のはさみを持ち、うっすらと笑顔を浮かべたまま無駄な葉や枝を切り落としている。他のしもべは庭園中に散っていて、それぞれにはさみや如雨露を手に花の手入れをしている。まるで妖精の国に迷いこんだかのような光景だった。全員が同じ顔をしていて一体一体に個性は無いが、顔や雰囲気がどことなく主の四季に似ている。
千佳はうつむいて考えをまとめた後、顔を上げて四季の方を見た。
「四季さん。氷菓は自分の力が瑠璃よりも上だと証明するために戦いを挑んできたんです。幽姫同士って、そんな理由でよく戦うんでしょうか?」
「ずいぶんとつまらないことにこだわりますわね、その氷菓という幽姫は」
四季は椅子に座ったまま、けだるい声で返事をする。
「普通、幽姫同士が戦うことなどありませんわ。個人間でいざこざが起これば結果的に戦うこともあるでしょうが、そんな話はわたくしも聞いたことがありませんわね。好きこのんで誰かに戦いを仕掛けるだなんてずいぶんおかしな幽姫ですこと」
口元を手で隠して控えめに笑う四季に、千佳は四季も幽姫としては十分変わっていると言いたくなる。ろくに不浄霊を狩りもせずに現世の街を散歩するのが趣味の幽姫など、瑠璃やトラのような正統な幽姫とはずいぶんかけ離れている。
「幽姫が他の幽姫に襲われて困っている時って、どうすればいいでしょう。これって犯罪ですよね? 人間側でいう警察のようなものって無いんでしょうか?」
「ありませんわね。そもそも人間に較べて幽姫の数は遙かに少ないのですわ。幽姫同士が交流をもつこともまれですし、調停をする警察のような機関が存在する必要がありません。もしも幽姫間で問題が起これば、それは当事者同時で解決するしかありませんわね」
お待たせしました。引っ越しの作業が一段落つき、今週からいつも通りのペースで更新が行えるようになりました。




