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「…………」


 子どものように落ち着かない氷菓の空気が、変わった。顔から笑みが消え、氷のように冷たい目で瑠璃を見る。


「幽姫が生きる意味って、どういう話かしら」


「世界からかってに生み出されてさ、きたない幽霊ちゃんを狩る仕事を押しつけられてさ、こちらは何も得るものはない。それってつまり、いいように使われるだけの奴隷と同じでしょ。何か生きる意味を見つけないとやってられないと氷菓は思うんだよね」


「あなた、変な幽姫ね」


「そうかな? 何も考えてない瑠璃とかトラの方がバカだと思うけど。氷菓は幽姫の中でも強い。すごく強い。氷菓にとっては強さがすべて」


 にらみ合う瑠璃と氷菓の間で空気が張りつめていく。触れればずたずたに引き裂かれる無数の見えない刃が二人の間で行き交っているかのようだ。


「だから瑠璃を殺して氷菓の強さが上だと証明するの。それが今の氷菓にとっての全て」


 冷たくて固い、揺るぎない覚悟が氷菓から千佳へ伝わってきた。これが今まで瑠璃を探し回っていた幽姫の氷菓……事件の張本人なのだと納得し、同時にその心の奥底に触れてぞっとする。

 千佳が知る幽姫の瑠璃や四季やトラの誰とも違う氷菓の異常なこだわり。彼女が幽姫達の中でも特別変わっていることがこの短いやりとりからでも十分に理解できる。強くなった分、相手の強さもよりはっきりと分かるようになった。氷菓の小さな身体に秘められたどうしようもない恐ろしさとまがまがしさを感じとり、千佳の手足が震え出す。


「そう。それがあなたの正義ってわけね、氷菓。不浄霊を狩る存在の幽姫としてはおかしいと思うけれど、じつは分からないでもないの。私も、私を救ってくれた千佳を守ろうと決めたから。それが今の私の正義」


 遠くの氷菓を見つめたまま、瑠璃が千佳の右手を握る。千佳は驚き、握られた手に目を向ける。瑠璃の手から伝わってくるぬくもりを感じ、優しい気持ちが胸に広がる。そのおかげで震えがおさまった。氷菓に恐怖で縛られていた身体が解放されたようだった。


「氷菓の正義を受け入れて素直に命を差し出すことはできないし、千佳を危険に晒すこともできない。私は私の正義に従う」


「なんかかっこいいね、二人とも。あたしの頭じゃ残念ながら難しくってよく分からないや」


 トラはため息をつくと油断無く氷菓を見すえたまま耳としっぽを逆立てる。彼女の気合いの入れようが身体の猫の部分に表れていた。


「あたしのドジのせいで氷菓の奴に千佳の家の場所を知られちまった。氷菓を街に連れて来ちまったことといい、つくづく申し訳ない。責任をとって最後まで瑠璃に付き合うよ。それでチャラってことにして」


「感謝するわ、トラ」


「おい、氷菓! お前の体力や能力はもうこっちには分かってるんだ! 足は子ども並のお前が、不浄霊をお菓子に変えるだけの能力であたし達二人に勝てると思うなよ。降参するなら今のうちだぞ」


「どうかな? やってみないと分からないよ。それに、氷菓は敗けるだなんて思ってないもん。死ぬのはそっち、剣の瑠璃と裏切り者のトラ」


 にたりと薄気味悪い笑みを浮かべる氷菓にトラは左手で頭をばりばりとかきむしり、「バカ野郎が」となげくようにつぶやいた。


「さてと。話もまとまったところでそろそろ始めない? さっきから身体がうずうずしちゃってさ、もう我慢できないんだ」


 妙に大人びていた氷菓の雰囲気が元に戻り、子どものあどけない笑顔のまま膨大な殺気を放つ。氷菓の周りにゆらめく殺気のせいで彼女の小さな身体が千佳には三倍も四倍も大きく映るようだった。


「千佳の家の場所が割れてしまった以上、もう逃げても無駄ね。氷菓は何を言っても聞きそうもないし、今ここでやるしかないわ」


 つないだ手を離し静かに前へ進み出す瑠璃に「気をつけて」と千佳は言った。瑠璃は「うん」と前を向いたまま応え、両手に長剣を生み出す。

 トラも右手の爪を顔の前で構えたまま、じりじりと氷菓との距離を詰めていく。氷菓はぬいぐるみのクマァを両腕で抱きかかえたまま、左右の二人が攻めてくるのをその場でじっと待っている。

 瑠璃が屋根の上を走り、それに一瞬遅れてトラが続く。屋根と屋根の間を跳び、棒立ちの氷菓に瑠璃が双剣で斬りかかる。氷菓はクマァを抱いたまま剣を紙一重で上手くかわすが、そこへすぐにトラが戦線に加わった。二本の剣とトラの爪による嵐のような斬撃に氷菓はあっという間に余裕を失い、後ろへ跳んで二人と距離を取る。

 屋根の上を跳んで逃げる氷菓に瑠璃とトラが追いすがり、難なく追いついた二人は氷菓を挟み撃ちにする。戦いに関してはてんで素人の千佳にも氷菓の劣勢は明らかだった。氷菓の動きは瑠璃やトラよりもずっと遅く、瑠璃の剣をさけるだけで精一杯らしい。そこへ素速いトラの爪攻撃が加わるのだから氷菓にはたまらない。このような無謀な戦いを仕掛けた氷菓が哀れにさえ思えるほどの一方的な展開だ。

 瑠璃の剣が腕をかすめ、氷菓は痛みで足をすべらせ屋根の上に転ぶ。そこをトラがのがさずに腹を蹴り上げる。氷菓は宙をボールのように吹き飛んでそのまま路面に落ち、あおむけになったまま動かない。もはや勝負は決したかに見えた。

 トラが屋根を蹴って跳び出し、弾丸のようなスピードで道路を走って氷菓の前に迫ると、間髪入れずに左手で氷菓の首をつかむ。そうして地面に押しつけたまま身動きを封じ、右手の爪を振り上げた。

 その瞬間にトラの爪が変わったが、まだ彼女はそれに気づいていない。非情に徹し、全力で振り下ろした爪を氷菓の胸に突き立てた時になってトラはようやく異変を知った。

 突き刺さるはずだった硬い爪が粉々に砕けたからだ。茶色の破片に目と意識を奪われたトラは硬直し、氷菓はその隙をついてトラの腹を蹴り飛ばす。あおむけに倒れていた氷菓は立ち上がり、吹き飛んだトラと間合いを取り直す。

 瑠璃が両手に剣を構えて氷菓に突進するが、剣の間合いに入る直前でふたたび異変が起こる。瑠璃の剣が二本とも薄っぺらな茶色のクッキーに変化してしまったのだ。

 瑠璃はとっさに剣の形をした大きなクッキーを捨てて後ろへ退避し、氷菓と距離をとる。


「どういうことなの、トラ!? 氷菓がお菓子に変えられるのは……不浄霊だけのはずでしょ!?」


 手や足が無事なことを確かめつつ声を上げる瑠璃に、トラも右手の指を元に戻しつつ「氷菓自身がそう言ってたんだ、一体どうなってる……!?」と声を張り上げる。

 氷菓はクマァを抱いたまま二人に薄笑いを向けるだけだ。まだ攻めてくる様子はない。瑠璃は黙ったまま何かを考え、やがて右手に剣を出して氷菓に突っこむ。

 瑠璃の剣はまたしても茶色のクッキーに変えられ、瑠璃の動きに耐えられずに根本から折れて砕け散る。こんなにもろくては武器として使い物にならない。そのことを確認した瑠璃は瞬時に屋根の上へ跳び、路面に立つ氷菓へ向けて三本の長剣を射出する。

 剣は宙を飛ぶ途中でそのすべてがクッキーに変化し、標的の氷菓にとどく前にばらばらに砕けて路面に散らばった。


「……氷菓が幽姫をお菓子に変えられないというのは本当ね。もしも変えられるなら、近づいた時に私自身を変えて砕けばそれで勝負はついている。氷菓がお菓子に変えられるのは不浄霊だけじゃない。私達幽姫の武器もお菓子に変えて無力化してしまうのよ」


「ご名答。剣が使えない瑠璃や爪無しのトラなんて、お話にならないわよ」


 薄笑いを浮かべた氷菓が前へ歩み出す。瑠璃とトラの二人は固い表情のまま、氷菓に気圧されるようにして後ずさる。

 氷菓が幽姫の武器までお菓子化できるのは計算違いだ。幽姫は変えられないのだから楽に勝てると思われていた氷菓戦だが、想定外の事態に不穏な気配が立ちこめる。


「……これならどうだ!」


 トラが路面を蹴って人家の壁面へ跳び、そこを足場にして瞬時に向かいの家の壁へ跳ぶ。周囲の路面、壁、電柱を猛スピードでバウンドし続け、目にもとまらぬ動物的な動きと速さで位置情報をかき乱す。氷菓はぽかんとした顔で頭上を見上げたまま、トラの影さえ追えていない。

 完全に氷菓の後ろを取ったトラが家の壁を蹴って奇襲をしかける。左右の手の爪を伸ばして無防備の氷菓を背中から引き裂こうとするが、触れる直前で爪がクッキー化した。不意をついてなぎ払うつもりだったのに爪は氷菓の身体に触れて粉砕し、元爪のクッキー片が雪のように舞う。


「だからトラの爪は無意味だってば。トラって本当にバカなのね。耳とかしっぽだけじゃなくて、頭の中も猫並みなのかな?」


 振り向きざまに笑う氷菓に、トラも鋭い八重歯をむき出しにして挑発的に笑い返す。両手を元に戻し、人の手を使って氷菓の胸ぐらをつかみ上げた。そうして氷菓を軽々と宙吊りにする。


「爪が使えないんだったらな、このままお前をぼこぼこにしてやれば済む話だろうが」


 右手を握り拳にして振り上げるトラに氷菓が笑い、両腕で抱きしめていたクマァを前に突き出す。

 クマァの全身から大量の黒い触手が飛び出し、トラの手足をくし刺しにする。驚きと痛みで目をむくトラを刺したままおもちゃのように振り回し、横のコンクリート塀に叩きつけた。

 衝撃でブロックが崩れ、その中に倒れるトラへクマァが追い打ちをかける。黒い触手を瞬時に編み上げて二つの巨大な手にし、左右の手を握り合わせてトラを叩きつぶす。


「トラっ!」


 屋根の上から飛び降りた瑠璃ががれきの中のトラへかけ寄ろうとするが、氷菓がそれをさせなかった。走る瑠璃に向けてクマァの口を向け、瑠璃の身の丈をはるかに上回る大きさの赤い球を撃ち出したからだ。

 電光石火の攻撃に瑠璃は反応が追いつかず、球の直撃を受けて向かいの塀まで吹き飛ばされる。硬い球と、背中の崩れた塀にはさまれて痛みにうめく瑠璃がよろりと立ち上がり、赤い球を見て「大きな……飴玉……!?」と苦しげに声を上げる。

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