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「ねえ、千佳ちゃん。今日、お家に遊びに行きたいな。成績表の見せ合いっこ、しよう?」
「だめ!!」
千佳自身が驚くほどの大声が廊下に響く。桃香は突然冷や水を頭から被ったかのように目を見開き、指先がかすかに震えていた。千佳から放たれた人間離れした異様な気配を感じとり、恐怖を抱いたらしい。
「ごめん、桃香。本当にごめん。そのうち、全部話すから。それまで待っててくれる?」
「うん……」
「もう桃香だけが私の、千秋千佳の支えだよ」
千佳は消え入りそうな小さな声でそう言うと、ぼう然と立ちつくしている桃香に背を向けて下駄箱から靴を出し、一人で校舎から出て行った。
あらゆる能力がはね上がったおかげで身体が羽のように軽い。それなのに帰り道を歩く足は果てしなく重かった。
純粋な人間だった過去と、人間から離れてしまった現在をつなぐ者が幼馴染みの桃香だった。桃香を見ているとまだ昔の自分が続いてることが感じられて嬉しくもあり、同時に胸が張り裂けそうになる。桃香との間に開いた距離が、そのまま人間から遠ざかった距離を意味しているからだ。
胸元に下げた忍のペンダントを意識するが、特に忍と話すこともないし、話したい気分でもなかった。
「よお、千佳」
「……トラ」
細い路地の真ん中にトラが立っていた。いつも千佳の部屋の中で生やしている猫耳としっぽが消えている。人目につく場所や時間では人でない幽姫の特徴を隠しているらしい。
「ちょうどこれからお前の部屋へ行くところだったんだ。屋根の上からお前の姿が見えたから待っていた。いっしょに行こう」
「うん、いいよ」
つい数日前に会ったばかりで友達のような間柄でもないのに、トラと自然に肩を並べて道を歩く。小さな事にこだわらないおおらかさと親しみやすさがトラにはあった。
横目でトラを見つめてみても今の彼女は人間にしか見えなかった。冷たい風が吹く真冬でも裸の上にぶかぶかのシャツ一枚とスパッツのみという目を疑うほどの薄着姿だが、それ以外ではおかしなところはどこにもない。元気なスポーツ少女のような雰囲気だった。
秘密を隠さなければならない桃香といっしょにいた時よりも幽姫のトラと歩いていた方が気が楽だった。こうした感覚や、瑠璃以外の幽姫と馴れ合っていることがすでに普通人のそれではないことに千佳は気づき冷や汗を流す。
「……トラ、いつも氷菓のことを教えてくれてありがとう。氷菓はどう?」
「あいかわらず別行動中だよ。街の人間達への聞き込みで瑠璃を探してる。クマァの指示で警察の人間を使うことはしてないけどさ、それもいつまで続くか分からないな」
「やっぱり、瑠璃が隠れたままでいても氷菓はあきらめないのかな」
「おそらくな。あいつの狙いは瑠璃の命だ。瑠璃に謝ってほしいわけでも、瑠璃の持ち物が欲しいわけでもない。瑠璃を殺して自分が上だと証明しなければ気が済まないんだ」
「氷菓って、最低」
胸の内にたまった毒を吐き出すようにとげとげしくつぶやいた千佳に、トラは表情を暗くする。
「こんなことになっちまってお前達には済まないと思ってる。氷菓がこの街に来たのはあたしのせいでもあるからな」
「トラは氷菓に騙されたんだから悪くないよ。それにトラが氷菓のブレーキになってくれてるから警察の人達を巻きこまないで済むし、氷菓の情報も届けに来てくれるし」
「氷菓の能力は分かってるんだ。いざとなったらあいつと戦うしか終わらせようがないな。放っておいたら街の人間達が犠牲になるし」
ぽつぽつと言葉を交わすうちに千佳の家へとたどり着く。玄関ドアの鍵を外して中に入り、トラも玄関で靴を脱いで千佳の後ろについてくる。
部屋のドアを開けて、座布団に正座していた瑠璃と対面する。瑠璃にはトラといっしょに家に入った気配が伝わっていたらしい。隣のトラを見ても驚かなかった。
「珍しいのね、二人いっしょだなんて」
「そこで偶然千佳を見かけてね。ここに来るついでだったからさ」
「あなたからは氷菓の情報をもらうだけで十分よ。それ以上の深い関係は望んでいないわ。千佳もあまり気を許してはいけないわよ」
「何でそんなに怒ってるんだ? 部屋に一人でいてさびしかったからか?」
「何ですって……!?」
怒りの理由が本当に分からずに頭をかくトラに、瑠璃はさらなる怒りを燃え上がらせた。
立ち上がってにらみつける瑠璃の隣に千佳はあわてて歩みよった。
「今日で二学期の授業が終わったから、しばらくは一日中部屋にいられるよ。これで瑠璃ともっとお話できるね」
「ずっと居てくれるの?」
「うん」
瑠璃と腕を組んで笑顔を寄せる千佳。瑠璃は千佳を見つめ、二人をぼけっと見ているトラに気づいて顔を赤くする。
「か、勘違いしてもらっては困るけど、一人でもさびしくなんかないんだからね! 退屈しないで済むってだけだから!」
「それって、つまりさみしいってことなんだろ?」
「うるっさいわねっ! 猫のくせに! そんなことより、さっさと氷菓の情報を置いていったらどうなのよ」
「ああ、氷菓は今も別行動中で、特に変わったことは……」
トラは後ろ手にドアを閉め、千佳達が立つ部屋の中へと歩く。その途中、トラの頭から猫の耳がぴょこんと生えた。
耳を別の生き物のようにぴくぴくと動かし、ドアの左側の壁に顔を向ける。その壁の向こうにあるものは廊下だ。瑠璃もトラに続いて同じ方向を見る。
瑠璃に数瞬遅れて千佳もようやく何が起きているのかを聴き取った。身体能力が人間以上になったせいで聴覚も向上したのだ。部屋の外……廊下を誰かが歩いている。大人の重く沈むような足音ではない。この軽い音は小さな子どもの足音に違いなかった。
まだ昼間だ。この時間帯では共働きの両親が帰ってくるはずもない。千佳は一瞬桃香ではないかと疑ったが、ドアチャイムを押さずに忍びこむようなまねをする子でないことは長年の付き合いでよく分かっている。
なによりもおかしいのは廊下に足音が突然しだしたことだった。千佳の部屋は二階にあり、階段を使わなければ二階廊下に来ることができない。階段を上ってくれば必ずその足音に気づくはずだ。それなのに階段の足音はしなかった。そう、まるで足音の主が廊下の真ん中にいきなり現れたかのような奇妙な現象だ。千佳が知る限り、こんなことは幽世側の廊下から現世側の廊下へと移動することでしか不可能だ。
小さな足音はドアの前で止まり、ドアノブに手がかかる。千佳達三人はそろってドアを見つめたまま固まっていた。誰かが部屋の中に入ってきそうならすぐに幽世へ隠れるルールも忘れ、瑠璃は息を止めてドアの向こうを意識している。
ドアが開き、その向こう側に立つ黒ずくめの女の子がにこりと笑う。可愛らしい顔と黒いドレスに、右腕で抱えた気色悪いクマのぬいぐるみが異彩を放っていた。
「やっと会えた。また会えて嬉しいよ、瑠璃」
氷菓がしゃべり終えた瞬間、瑠璃は隣の千佳を抱きかかえて後ろ跳び、そのまま幽世へと離脱する。トラもほぼ同時に幽世へと消えた。一人になった部屋の中で氷菓はくすりと笑い、瑠璃を追って幽世へ移動する。
瑠璃は壁をすりぬけて屋根の上を走り、屋根から屋根へと次々に跳ぶ。千佳をわきにかかえたままだ。そのすぐ後ろをトラが走り、後ろから氷菓が追いすがる。薄暗い幽世において黒いドレス姿の氷菓はますます黒く、人型の影が追いかけてくるようだった。
やがて瑠璃は屋根の上で止まり、片腕で抱いたままだった千佳を降ろす。そして背後の氷菓に目を向ける。
トラは瑠璃達の隣にある人家の屋根に立ち、後ろを向く。部屋から直接逃げたためにトラは裸足のままだ。それを気にする様子もない。二本のしっぽを生やし、右手の爪を伸ばす。
「……どうして瑠璃の隠れ家が分かった?」
「それはね、トラに教えてもらったからだよ」
風が吹かず、自動車も走らない静かな幽世ではよく声が通る。氷菓は瑠璃達よりも数軒離れた家の屋根に立ち、両腕でしもべのクマァを大事に抱えている。
「猫野郎。てめぇが氷菓を裏切っていたのはとっくに気づいてたんだ。この数日にてめぇが何度もあの家に足を運んでいたのは調査済みだ。別行動をとったふりをして、てめぇを尾行してなぁ。だから準備をばっちり整えて参上したってわけさ」
「幽霊ちゃんはめいっぱいに捕まえてあるよ。そういうことだから、覚悟してね、瑠璃」
氷菓は笑顔のままクマァの腹をぽんぽんとたたく。
「――少し話をしたい。いいかしら、氷菓」
「いいよ。死ぬ前に何か言いたいことがあれば言っておくといいよ」
瑠璃は千佳のすぐ横に立ったまま、離れた場所の氷菓を見る。氷菓との戦いは避けられそうにない。それなのに瑠璃は妙に落ち着いていて、その不自然な静けさが千佳の不安を誘った。
「あなたのことはトラから色々聞いたけれど、あなたの口から直接聞いて確認しておきたいの。まず、私を狙う理由は?」
「剣の瑠璃を殺してお菓子の氷菓の力が上だと証明するため」
「なぜ? どうして氷菓はそんなに名声にこだわるの?」
「こだわることはいけないこと?」
「私達幽姫は幽世の不浄霊を狩って人の住む現世を清浄に保つために存在している。幽姫には生まれつきの姿や生まれもった能力にそれぞれ違いがあるのは事実。それでも不浄霊を狩る幽姫の役目からすればそんな違いに大した意味はないのよ。どちらが上でどちらが下かなんて、はっきり言って馬鹿げているわ」
「瑠璃ってさ、幽姫が生きる意味を考えたことは無いの?」




