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「実験って、何の実験?」
「千佳の身体の何がどれだけ変わったかを確かめる実験さ。昼休みが終わるまであと十五分ある。幽世の不浄霊を相手に狩りをして、千佳がどれだけ動けるのかを実験してみるってことさ」
「…………」
「最初に言っておくけど、現実を目の当たりにすれば君はさらにショックを受ける可能性もある。実験をせずに身体の変化を見て見ぬふりをするって選択肢もあるよ。どうする? 千佳」
「……お願い、幽世へ連れていって」
今すぐに結果が欲しかった。これ以上不確かな場所にいたくなかった。千佳の真剣な目に、忍も何も言わなかった。だまって千佳を幽世側へと移動させる。
この瞬間に千佳は現世の学校から消えた。しかし、目撃者が誰もいない以上、千佳が消えたことを知る教師や生徒は誰もいない。
辺りが暗い。それまでの人の気配や物音が消え、一人もいない深夜の学校へ侵入したかのようだ。人の気配が消えた代わりに、そこかしこから不浄霊の不気味なうなり声や足音がとどくようになる。
「忍。剣を」
千佳の右手に片刃の短剣が現れる。剣の柄を握ったまま階段を降りていく。これから忍のサポートも無しに化け物達と戦おうというのに、どういうわけか恐怖心がまるで感じられなかった。少しも負ける気がせず、不浄霊狩りもちっぽけな害虫を始末する程度にしか考えられなかった。
廊下の曲がり角に不浄霊がたたずんでいる。体格は少女の千佳のおよそ五倍。歩いて近づく千佳に気づき、不浄霊が腕を振り上げる。強化された千佳の動体視力をもってすれば腕の動きが止まって見える。千佳は横に跳んで軽くかわし、剣で胴体をなぎはらう。それだけで不浄霊は煙のように消え去った。
下りの階段の前に立つ。何の躊躇もなく階段から飛び降り、下の踊り場に難なく着地した。脚の骨も腱も痛めていないし、痺れさえ感じない。怪我をするかもという考えは浮かばず、今回も出来て当然という感覚に従っただけだった。
「千佳、次が来る。気をつけろ」
言われるまでも、見るまでもなく気づいていた。やはり勘の良さも並ではなくなっている。背後から跳びかかってくる不浄霊の一瞬の動きがゆっくりと時間を引き伸ばしたように見える。
この距離なら余裕でかわせるが、ここはあえてかわさない。千佳は跳ぶかわりに左腕を顔の前に構え、不浄霊の打撃を正確にガードする。その威力に千佳は身体ごと吹き飛ばされたが、宙を飛ぶ間に身をひねって回転し安全に着地する。階段から飛び降りたときにうすうす気づいていたことだが、今の攻撃を無傷で受けきったことで千佳は確信した。肉体の耐久力も、身体を操るセンスも人間離れしてしまっている。
吹き飛ばされた約十メートルの距離を走って詰め、剣を振って不浄霊の首を狩る。千佳は止まらずにそのまま廊下を駆け、通りすがりの不浄霊を一瞬で八つ裂きにする。
初めて幽世へ来た時、忍から初歩的な戦闘訓練を受けたことを千佳は思いだしていた。あの時はわけもわからず忍に操られて一方的に振り回されるだけだったが、今ならあの訓練内容を上手く再現できる。
走りつつ、前方に三体の不浄霊が居るのを見た千佳は床を蹴った。教室の壁面を足場にして一体目に突撃して両断し、着地すると同時に斜め前の天井へ向かって跳ぶ。空中で身体をひねって天井を足場にし、不浄霊の頭上から斬りつけて消滅させる。ようやく千佳に気づいて反撃に乗り出した最後の一体を軽く消し去り、フロアの隅から隅まで掃除し尽くした千佳は階段を飛び降りて一階の生徒用玄関にたどり着いた。
「ここまでにかかった時間が約五分か。千佳の教室の上の階がまだ残っているけど、どうする?」
「もう、いい」
「まるで超人のような身のこなしだったな。ここまで動けるとは予想以上だ。数日前の限界寸前だった瑠璃と同じくらいは動たんじゃないかな?」
千佳はその場に崩れ落ちるように座り、頭を抱えてうずくまる。戦っていた最中は凍りついたように静かだった心が急にざわつきだし、忘れていた恐怖がようやくわき上がってくる。身体の震えが止まらなかった。
「千佳。もうすぐ昼休みが終わる。教室に戻らなくていいのかい?」
忍の声で顔を上げれば、千佳の前をたくさんの生徒が通り過ぎていくのが見えた。授業開始のチャイムが鳴る前に教室へ急いでいる。
つい数日前までは千佳も彼らと同じように真面目で平凡な中学生だったのに、今ではかつての日常がとても遠くの世界のように感じる。幽世からでは現世側の人間が半透明の輪郭状にしか見えないが、彼らの動きは普通そのものだ。千佳のように壁や天井を足場にして跳び回るような化け物じみた動きはしていない。
「私、もう普通の人間に戻れないの?」
涙があふれ、肩が震える。廊下に人の姿が見えなくなった。もう現世の方では授業が始まっているらしいが、とても授業に出るような気分ではない。千佳はひざを抱えたまま泣き続けた。
それから一時間ほどが経ち、ふたたび廊下に人間の姿が増え始める。五時間目の授業が終わり、下校をしたり部活動へ向かう生徒達で玄関前がごったがえしていた。
とうとう午後の授業には出られなかった。授業をサボるというは初めての経験だ。自分の身に起きた異変への衝撃が大きすぎてサボることへの罪悪感がほとんど感じられなかった。
「桃香を助けた時、もしも押す手に力を入れすぎていたら大怪我させてた。もしかしたら、殺していたかも知れない」
胸にたまった色々な感情を涙にしてはき出した後は多少の落ち着きを取り戻すことができた。赤くはれた目でぼんやりと人の往来を眺める千佳に、それまで沈黙していた忍が右肩の上に現れる。
「大事な友達を怪我させたり、殺さなくて良かった。この幸運を君は喜ぶべきだ」
「いやみのつもりなの?」
「とんでもない。何ごとも過度に悲観するよりは良い方に考えた方がいいと僕は思う。誰も怪我人を出さず、何も壊さずに身体の変化を確認できたんだ。被害に困る前に対策が打てる。良い事じゃないか。怪我をさせるどころか、君は友達の桃香を重大な危機から救ったんだよ」
「……そうだね。そう考えればずっと気持ちが楽になる」
「考えようによってはこの変化は君に素晴らしい利益をもたらすぞ。たとえば優れた運動能力を生かして運動系の部活動をすれば、君にかなう人間は誰もいないだろう。スポーツ推薦で良い高校や大学にも簡単に入れる。オリンピック選手にだってなれる。勘の良さを使って要人を危険から守る無敵のボディガードという選択肢もある。君は素手で亡霊を退治できるようになったんだから有能な除霊師として生きることもできる」
「……この変化を悪い方に解釈してみたら、私はどうなる? どうすればいいの?」
「普段はできる限り実力を隠すことだ。下手に本気を出すと人や物を壊してしまう。成功の人生どころか犯罪者になってしまう。それに桃香には気をつけることだな。あの人間は千佳の変化に敏感に気がついた。異様に勘が鋭い。しかもまるで恋人のようにべたべたと千佳に触れてくるだろう。千佳の身体の変化にふとしたことで気づきかねないよ。桃香とは少し距離を置くべきだと僕は思う」
「うん、そうするしかないね……。霊が見えることだけでもきっと引かれるのに、体質までおかしかったら桃香に嫌われちゃう」
千佳は大きなため息をつき、ひざの上にあごを乗せる。身体が鉛のように重い。何もしたくない気持ちだった。静かで暗い幽世の方が落ち着く。良くない傾向だった。身体は人間から遠ざかってしまっても、心だけは人間のままでいたい。人間の住む現世から離れてはいけない。千佳は人通りがまばらになった廊下を見つめながらそう思う。
「ねえ、忍。この力、瑠璃の役に立てられないかな? いっしょに戦うとか、私が瑠璃の代わりに不浄霊を狩ってあげるとか」
「そんなことは瑠璃は望んでいないと思うけど。はじける寸前だった時の瑠璃ならいざしらず、今の回復した瑠璃に君がついていっても足手まといになるだけだ。いくら君が常人よりもはるかに強くなったと言っても幽姫の瑠璃には遠くおよばない」
「……そっか。よく考えてみたら、余計なことをしたら瑠璃に気づかれちゃうしね。瑠璃って誰かの世話になるのを嫌う性格だから、瑠璃から吸収した呪いで私が変わったって知ったらすごく落ちこむと思う。だからこのことは私と忍だけの秘密だからね」
「この変化を逆に利用して瑠璃をいいなりにすることもできる」
「は? いいなりって?」
「千佳がこうなった原因は瑠璃がためこんでいた呪いだ。だから瑠璃に責任があると言えば、罪滅ぼしに君のお願いを何でも聞いてくれるだろう。たとえば自宅の半径百メートル内の亡霊を常に狩り続けて千佳が快適に生活できるようにして欲しいとか、着せたい服を瑠璃に着させて遊ぶとか、好きな年数だけ千佳の部屋に住まわせるとか」
「忍、あなたって瑠璃に創ってもらったんでしょ? その瑠璃に逆らうようなことを言っちゃっていいわけ?」
「僕はただの道具だ。過去の創り主ではなく、現在の持ち主のために尽くす。誰からも必要とされず、使われなくなったら道具の僕はこの世に存在する意味が無くなってしまう。だから持ち主の役に立つことを証明し続けなければならないのさ」
「私には忍が必要だよ。手放したいなんて思わない。こうして忍にアドバイスをもらわなかったら、今ごろはどうしていいか分からずに泣いたままだと思うよ」
「ありがとう、千佳」
淡い笑みを向ける忍に千佳も笑顔を返す。役に立つこと、使ってもらえることが道具の忍には最高の喜びなのだろう。忍の笑顔などめったに見られないから、千佳には新鮮な気持ちだった。
忍の言うとおり、能力が劇的に上がったことは大きな強みになる。勘の良さはあらゆる危険を回避するのに役立つし、腕力の強さや足の速さは生活全般で活用できる。なによりも長年悩まされた亡霊を忍抜きで退治できるようになったのが大きい。
だがそれらの大きなメリットと引き換えに失ったものもまた大きい。千佳は普通の人間ではなくなってしまった。人前では全力を出してはいけないという制約も課せられた。何も起こらなくても、心安らぐ当たり前の日常が懐かしい。




