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 次の瞬間には現世から幽世へと移動していた。夜になったように辺りが暗い。使い慣れた机もベッドもそのままだが、ここは亡霊達が住まう幽世なのだ。物音一つ聞こえず、暑くも寒くもない奇妙な空気で満たされている。

 薄暗い部屋の中を見回しても瑠璃の姿はどこにもない。わき上がる不安に千佳の胸がざわついた。


「忍、瑠璃はどこにいるの?」


「外だ。ここから少し離れた地点にいるね」


「まさかまた不浄霊狩りを!?」


「いや、戦っている様子ではないな」


 千佳は幽世から現世へ戻り、家の外へ飛び出した。瑠璃のいる場所を感じ取ることのできる忍に導かれて道を走る。すでに夕方になり、空は濃紺色に染まりつつある。肌に当たる向かい風が冷たくて息が詰まるようだった。

 走り続けて息が切れ、千佳は道の端に立ち止まって小休止をとる。乱れた呼吸を整えていると、千佳は奇妙な二人組が向かってくるのに気がついた。

 一人は小さな女の子だ。華やかな黒いドレスで身を飾り、アンティークドールを思わせる容姿の印象的な少女だった。不気味なデザインのぬいぐるみを両腕で抱きかかえている。

 もう片方は千佳よりも少し年上くらいの背格好をした少女だ。十二月の冬だというのにぶかぶかのシャツ一枚ともも丈のスパッツしかはいていないという驚異的な薄着だ。それでも本人は寒がっている様子がなく、肌にしみる風の中を平然とした顔で歩いている。

 二人組は並んで道の真ん中を歩き、通りの向こうへと消えていった。遠ざかる二人の後ろ姿を、千佳はその場に立ったまま目で追いかける。


「千佳。あまりじろじろ見ないほうがいい」


「そ、そうだよね。あんまり人を見つめちゃ失礼だよね」


「そういう意味じゃない。今の二人組は人間じゃない。瑠璃と同じ幽姫だった」


「ええっ……!?」


「幽姫の二人組とは珍しい。あまり注目して正体を知っていると気づかれたらやっかいだ。何をされるか分からない。幽姫の中には何を考えているのか分からないような者もいるからね」


「何をされるか分からないって、何をされるの?」


「最悪の場合、口封じに殺されることもあり得る」


 一段と寒く感じるのは夕陽が沈みきったせいか、それとも恐怖で悪寒がするせいか。千佳は緊張でつばを飲み込み、ふたたび瑠璃のいる場所を目指して走り出した。

 家を出てから十五分ほどで千佳は目的地にたどり着いた。今回は瑠璃と初めて出会った因縁の路地ではない。見通しの良い交差点だった。日が暮れたことで人通りは少なく、ヘッドライトを点けた車が行き交っている。

 千佳が見回しても瑠璃の姿はどこにも見当たらない。ということは瑠璃は現世ではなく幽世にいる。千佳は自動販売機の陰に隠れ、幽世へと移動した。

 幽世は一段と暗い。道路を走っていた車も、横断歩道前で信号待ちをしていた人達も消えた。道の向こう側にパジャマ姿の瑠璃が立っているのを見つけ、千佳はほっとした気持ちで駆け寄った。瑠璃の背後に立ち、おずおずと口を開く。


「瑠璃。戦っちゃダメって言ったでしょ。瑠璃は今弱ってて、無理はできないんだから」


「戦わないわよ。というよりも、もう戦えないの」


 瑠璃は道のずっと遠くでうごめいている不浄霊を眺めていた。距離をとっているため、不浄霊は瑠璃を敵として認識できないらしい。

 瑠璃は右手を上げて千佳に見せつける。右手から剣を生み出すが、剣はすぐに形を保てなくなって消滅してしまう。息を呑む千佳に、瑠璃は小さく笑った。


「狩りをしていた日々がとても遠く感じるわ。この現実が信じられない。まるで悪い夢の中にいるようよ。剣も作れなくなって、戦えなくなった幽姫なんて存在する意味がない。しかも私は千佳の邪魔になっている」


「瑠璃は邪魔なんかじゃない! 私、ずっと瑠璃と友達になりたいと思ってた。友達は邪魔じゃないし、損得が目的で付き合うわけでもないよ。友達はただそばにいるだけで嬉しいものなの」


 ああするしかなかったとはいえ、桃香に見つからないように瑠璃を幽世へ追いやったことは彼女の心を確実に傷つけていたのだ。プライドの高い瑠璃は語ろうとしないが、千佳にはちゃんと分かっていた。千佳と桃香が楽しそうにしているのが見ていられなくなって瑠璃はこんな所まで来たのだ。

 それまでずっと千佳に背中を向けていた瑠璃がゆっくりと振り向いた。振り向きざまに瑠璃の身体が傾き、千佳に胸へ倒れ込む。もともと瑠璃は軽いのでとっさのことでも問題なく抱きとめたが、彼女の荒い呼吸と苦しげな表情に千佳は凍りつく。


「瑠璃。もう少し自分の身体をいたわったらどうなんだい? 家を飛び出したあげくにこんな場所まで来てしまって、千佳に迷惑をかけ通しじゃないか」


「う、うるさいわねっ……」


 千佳の肩に現れた忍に言い返すくらいの余裕はあるらしい。千佳はふうと安堵のため息を漏らし、さっさと瑠璃を背負って帰り道を歩き始めた。


「降ろしなさいよ! 一人で歩けるんだからねっ」


「瑠璃は無理しちゃダメだよ。いいから私に任せておいて」


 意識のある瑠璃を背負うのはこれが初めてで、恥ずかしいのは瑠璃だけでなく千佳も同じだ。生まれもった赤面症が恨めしい。背中の感触に千佳は耳まで赤くしながらもくもくと道を歩く。

 幽世は静かだった。現世で吹いていた風は消え、道には車も通らず人通りも無い。亡霊や不浄霊がうようよしているが、彼らの注意は忍の力でそらすことができる。千佳は慎重に亡霊達の間をぬいながら道を進んでいった。


「……悪かったわね。手間をとらせちゃって」


「いいっていいって。こうして頼ってくれた方が私は嬉しいよ。私の方もごめんね。桃香も昔からの大事な友達だから瑠璃のことを教えるわけにはいけなかったんだ。一人で幽世の部屋にいて寂しかった?」


「さ、寂しいわけないでしょっ!? ちょっと暇で、それで散歩に出ただけなんだからっ」


 怒って千佳の髪を引っぱる瑠璃にあわてて謝りつつ、千佳はこの時間をどこか心地良いと感じていた。

 瑠璃を背負って歩き続け、しばらく黙っていた瑠璃が「言いたいことがあるの」とつぶやく。何かとても大切なことらしい。


「幽姫はただ不浄霊を狩るためだけの道具だと思っていた。友達として、道具でない人間として扱ってくれたのは千佳が初めてよ。千佳には感謝してる。どれだけ言葉を尽くしても言い足りないくらいに。千佳を守りたい。千佳を不浄霊から守る剣になりたい。……でも、私にはもう戦う力が残っていないの」


 背中の瑠璃が震えている。もしかすると泣いているのかもしれない。千佳は返す言葉が見つからず、瑠璃を思う気持ちで胸をいっぱいにしながら道を歩く。

 千佳の向かい側から誰かがゆっくりと歩いてくる。足取りは確かで、はっきりとした意思を感じさせる。不規則で滅茶苦茶な亡霊の動き方とは違う。千佳は驚き、道の真ん中に立ち止まった。


「これはこれは。何ともおかしな場所で逢いましたわね、千佳」


「四季さん……!」


 千佳の前で立ち止まったのは四季。あいかわらず日傘を差し、ドレスは色とりどりの花々で飾られている。ドレスを彩る花たちは生きているような生気を放ち、ただのイミテーションとは思えなかった。街で見かける四季の服とは質感がまったく違う。驚いて固まる千佳と同じように背中の瑠璃もぼう然としていた。


「……四季さんは本当に幽姫なんですか?」


「こうして幽世で逢ったことが何よりの証拠だと思いますわ。ついに見破られてしまいましたわね」


 忍の言ったことは本当だった。四季は人ではなく、亡霊の姫君なのだ。幽姫を人間と勘違いして友達付き合いしてきたことへの恐ろしさはあまり感じない。それよりもむしろ納得がいったという感想の方が強い。四季のもつたぐいまれな美しさや非人間的なカリスマ性は、彼女が人ならざる幽姫だからだったのだ。


「千佳。わたくし、以前に申し上げましたわ。つまらない火遊びからは手を引くようにと。人間がこんな幽世にまでやって来てしまって、呪いのつまった幽姫をおんぶをして、感心しませんわ」


「で、でも、瑠璃は一年前に命を助けてもらって、どうしても放っておけなかったんです!」


 上品に笑い、ピンク色の瞳で穏やかに千佳を見つめる四季。四季の正体を知ると彼女の底知れない目がどこか恐ろしい。


「四季といったわね。あなた、今は狩りの途中なの?」


 瑠璃の声は固い。わずかな怒りさえにじんでいる。遊び歩いているようにしか見えない四季にいきどおりを覚えているらしい。


「いいえ。ただお散歩を楽しんでいるだけですわ。人が住む俗世もにぎやかで素敵ですが、幽世も静かでなかなか趣深い所ですわ」


「あなたも幽姫でしょ? どうして不浄霊を狩らないの? 世界の穢れを狩り取るのが私達幽姫の務めでしょ?」


「四季さん。瑠璃は今とても弱っていて、不浄霊と戦えないんです。私からもお願いできませんか」


 瑠璃と千佳の心からの言葉にも四季は微笑むだけだ。縦ロールの金髪を指でくるくるといじり、真剣さがまったくうかがえない。


「そんな汚れ仕事、わたくし興味ありませんわ。この街はわたくしの庭。広い庭に少々の害虫がわこうが気になりませんもの」


「でも、瑠璃はずっと独りで戦ってきて、そのせいでたまった呪いに苦しんでいて……!」


「もうよせ、千佳。説得しても無駄だ」


 透明化している忍の声で千佳は我に返り、とっさに口を閉じた。


「あの四季という幽姫は並の幽姫とは格が違う。人間一人、幽姫一人の説得になど応じはしないだろう。それよりもへたに話をこじらせて怒らせる方がまずい」


 忍の言うとおり、四季という幽姫は瑠璃とはモノが違う。この世の全てを見通しているかのような余裕は彼女の非凡な実力からくるものだ。もしも次元違いの力をもった神のようなものが存在するのなら、神は遙かな高みから静かに世界を見下ろすだけで細かなことにいちいちこだわったりはしないだろう。四季が千佳にときおり見せる底の知れない恐ろしさは決して怒らせてはいけない相手だと物語っている。

 千佳はうつむいて唇を噛み、別の方法で助けを求めようと考えた。


「……四季さん。瑠璃はたまった呪いに苦しんでいます。どうにか呪いを取り除く方法はありませんか?」


「わたくしが千佳に目をかけているのはなぜだと思います?」

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