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ある森の中に、一つの湖がありました。その湖には、古い言い伝えがたくさんあって、その言い伝えから人々はあまり近づこうとはしませんでした。
――――あの湖には、ヌシがいる。ヌシは、人間の心を食す。決して近づこうとしてはいけない。
ですが、その話は逆に子供たちの興味を引き、一人、また一人と森の中に入っていきます。親は、それを止めることが出来ません。なぜなら、自分の心も食べられてしまったらどうしようかと考えるからです。
「ねーねーゲンちゃん。ここら辺にあるんだよね?」
「うん。ウワサだと、あと五分くらいで着くはずだよ」
「楽しみだね。ヌシって、どんな形してるのかな」
「意外と、人間の形してたりして」
「えー、なんかそれじゃつまんないよ」
「じゃあ、トシくんはどんな形してると思う?」
「ボクはね、犬みたいな形してると思う。なんかそんな気がする」
「犬かー。それも面白いね」
「でしょ?昨日から考えてたんだ」
森を進むゲンちゃんとトシくん。二人は、同じ幼稚園の同じクラスで、本当に仲が良くて、いつも一緒に行動しています。今日は、一ヶ月前から秘密に計画してきた、”ヌシの正体をあばいでやろー作戦”の実行をする日。もちろん、お母さんには内緒で出てきました。お母さんにこのことを話したら、止められるに決まっているからです。
「でもさー、本当に行って大丈夫なのかな、湖」
「大丈夫だって、ヨシオくんが言ってたよ。ヨシオくんは一人で湖に行って、ヌシの正体を見たって言ってた」
「でも、ヌシがどんな形だったとか、何にも話してくれなかったよ?ボクは嘘だと思うなあ」
「でも、ヨシオくんは嘘なんてつかないよ。優しいし」
そんなことを話しながらも、二人はどんどん森の奥へと入っていきます。草を掻き分けて、服を泥んこにしながらも、道なき道をひたすら歩き、まるで何かに引き付けられているように、ずんずん進んでいきます。
やがて、二人は周りとは違って、ちょっと拓けている所に出ました。無限の体力を持つと言われる幼稚園児も、さすがに山道を一時間歩けば疲れます。二人は、休憩をとることにしました。
「……」
「……」
二人の沈黙が続きます。最初に口を開いたのは、トシくんでした。
「……ゲンちゃん、見つからないね、湖」
「……そうだね。ボク、大分疲れたよ」
上空を見渡すと、あんなに高くにあった太陽が、もう山に沈みかけています。
「……帰ろっか。ゲンちゃん」
「……うん。また今度にしよう」
その後十分位休憩してから、二人はもと来た道を引き返し始めました。ですが、辺りはどんどん暗くなっていき、自分たちがどこを通ってきたのか分からなくなってしまいました。それに加えて、何時間もずーっと山の中を歩いてきたので、お腹は空くし、だんだん眠くなってきました。今頃お母さんは心配してるのかな、とゲンちゃんはちょっとだけ思いました。
「今、何時か分かる?」
「わかんない。時計、持ってこなかった」
「ちょっと休もうよ。足が痛くなっちゃった」
「わかった。ちょっとだけだよ?」
「うん。ありがとう」
そう言って二人は、その場に座り込みます。風が木々の間を通り抜ける涼しげな音に加え、夏の虫の大合唱が聞こえます。二人は、いつの間にか眠りに堕ちてしまいました。
二人は、夢の中でも一緒にいました。
――――俊樹くん、元気くん、そんな所で寝ちゃっていいのかい?家に帰らなくちゃいけないんだろう?
眠っているはずの二人に、不思議な声が囁かれます。
トシくんは答えます。
「今は休憩中なんだ。もうちょっとしたらまた帰りだすよ」
ゲンちゃんも答えます。
「本当は、湖のヌシを見つけてから帰るつもりだったけど、時間がなくなっちゃったから諦めて帰ってるんだ」
――――だったら、今すぐ起きないと危ないかもしれないよ。夜に活動する動物が、エサを探して動き出す時間だ。そんな所で寝ていたら、君達がエサになってしまうよ。
その声を聞いた二人はすぐに起き上がり、走り始めました。こんなことを言われてしまったら、誰だって怖いに決まっています。足の疲れなど気にしないで、月明かりだけの真っ暗な森の中を駆け抜けます。はぐれてしまわないように、しっかりとお互いの手を握っています。
走っても走っても、まったく出口が見えません。ですが、山の動物たちエサになってしまうの絶対に嫌なので、息が切れても走り続けます。
「あっ……」
ゲンちゃんが、木の根に足を取られて地面に倒れます。同時に、手を握っていたトシくんも倒れこみます。不運なことに、倒れこんだ先は坂でした。いくら身軽な幼稚園児とはいえ、一度転がり始めた体を静止させるには、力が足りません。二人は、山底へと転がり落ちていきました。
まず目を覚ましたのはトシくんでした。二人とも山を転がり落ちて、体中が傷だらけです。それでも骨を折ったりしないのは、不幸中の幸いというものでしょう。
「ゲンちゃん、ゲンちゃん」
トシくんはゲンちゃんを揺すって起こします。ゲンちゃんはすぐに目を覚まし、体を起こすと。辺りを見回して驚きました。
「……すごい」
そこには、湖がありました。月の光が湖面を照らし、辺りの鬱蒼とした森からは想像も出来ない美しさです。不思議なことに、湖の対岸には桜が咲き誇っているのです。
「ボクも起きてみて、びっくりした。山から落ちたら湖があるなんて、思わなかった。」
二人はしばし、湖面に映る月の影と、対岸の桜とを交互に見ていましたが、ハッと本来の目的を思い出したゲンちゃんは、
「そうだ、ヌシは?ヌシはどこにいるの?」
そう聞きました。
「ボクもさっきから探してるんだけど、見当たらない。もしかしたら、伝説は嘘だったのかもしれない。
「でも、嘘だったらずっと昔から伝えられるものなのかな」
――――カーン……
突然、どこからか音が聞こえました。どことなく鹿威しにも似た、高くて、澄んだ音でした。
「え?何?今の。ゲンちゃんも聞こえた?」
「うん。聞こえた。どこからだろう」
そう言って、二人はまた辺りを見渡し始めました。ですが、いくら観察しても何も見つかりません。
「ゲンちゃん、あの桜の所に行ってみようよ。夏なのに桜が咲いてるっておかしいよ」
「え?そうなの?」
「だって、桜は春の花なんだよ?図鑑に書いてあった」
「じゃあ、なんで今咲いてるの?」
「それが分からないから、行ってみようよ」
「うん、分かった」
――――カーン……
また音がしました。
「……大きい木だね」
「……うん、大きいね」
対岸から見れば小さかった桜の木も、近くに来てみると相当大きな木だということが分かりました。所々の木の肌からは樹液があふれ出ていて、そこには昆虫がたくさん集まっています。
「今気づいたんだけど……」
「どうしたの?ゲンちゃん」
「……この木、光ってるよね?
「え?」
確かに、木の前に立つと自分の後ろに影が出来ています。
「本当だ、光ってる。でも何で?」
「分からない。でも、やっぱり怪しいよ、この木」
「うん、ボクもそう思う」
「調べてみる?」
「うん」
二人は、木の周りをグルグル回りながら、木に何か変なところが無いか、隅々まで調べていきました。
風が、木の枝を揺らしました。すると、ヒラリヒラリと花びらが舞い落ちてきてきました。落ちてくる花びらをよく見ると、花びら一枚一枚が光を発しています。その花びらは二人の足元に積もっていき、気が付けば二人は光の中にいました。
「きれいだね、花びら」
「うん。きれいだね」
二人はまた本来の目的を忘れて、光の中を歩き回ることを楽しみました。
「あっ……」
ゲンちゃんがまた躓いて、転びました。
「今度は転がり落ちなかったね。よかった」
「ボクだって、何回も落っこちたくは無いなあ」
そう言って、手を付いて立ち上がろうとしたとき、ゲンちゃんが気づきました。
「トシくん、ここに何かあるよ。木の根っこじゃない」
二人は必死に、降り積もった桜の花びらを掻き分けました。
――――カーン……
今度は、二人の目の前から聞こえました。
花びらを掻き分けて土肌が見えると、そこには石ではない何かの角が顔を出していました。
「これだ」
「掘ってみよう」
二人は今度、必死に地面を掘り始めました。思っていたよりも土はやわらかく、埋まっているものすべてを露出させるまでに二十秒とかかりませんでした。
「あった……」
トシくんが感動したように言いました。土を掘って出てきたのは、一つの箱。決してゲームに出てくるような装飾はなく、本当にただの箱でした。大きさは、豆腐一丁くらいの大きさしかありません。その箱は、さっきから聞こえていた音を発して、点滅しながら箱全体が光っています。
「箱の中ってどうなってるのかな?開けてみようよ」
トシくんがせかします。
「ちょっと待ってよ。本当に開けていいのか分からないよ」
「でも、こんなもの見つけちゃったのに、何も見ないで帰るの?」
「うーん……」
数秒の間があって、ゲンちゃんは答えました。
「まあ、ちょっとくらいなら覗いても大丈夫だよね。元に戻しておけば、起こられたりしないよね?」
「うん、そう思うよ」
トシくんは、早くはこの中身がみたくでウズウズしています。
「じゃあ、せっかくだし二人で開けようよ。いっせーのでで」
「わかった」
箱の蓋の二点をトシくん、もう二点をゲンちゃんが持って、準備をします。
「いくよ、ゲンちゃん」
「うん」
「いっせーのーで!」
掛け声と同時に、ガバっと蓋を持ち上げました。そして、箱が開きました。
二人は箱の中を覗き込みました。しかし、そこには何もありません。見えるのは真っ黒な箱の底だけ。
「あれ?どういうこと?何も無いよ」
「……なんでだろう」
二人は黙り込んでしまいました。箱からはまだ音が聞こえて、点滅しています。
「じゃあ、このまま持って帰ろうよ。元に戻しちゃったら、誰かに取られるかもしれない」
とトシくんが提案しました。
「でも、箱は一個だけだよ?どっちが持って帰るの?」
「それは帰りながら決めればいいよ。とりあえずもう帰ろう」
「それもそうだね。持って帰ることには賛成だよ」
「じゃあ、行こうよ」
「うん」
そうして二人は、また歩き始めました。湖は森の入り口から近かったらしく、十分くらい歩いたら森の入り口についてしまいました。
――――あーあ、持ってかれちゃった。早いうちにもう一回来ればいいけど……。
その声は、誰にも聞こえませんでした。
結局は、不思議な箱はゲンちゃんが持っていることになりました。山を降りる頃には、ずっと鳴っていた音も消え、光も発しなくなり、ただの箱になっていました。
二人がそれぞれの家に帰ってこっ酷く叱られたのは、言うまでもありません。