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榊原研究室  作者: 青砥緑
第四章 秋(後篇)
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あの日の記憶-2

「榊原教授。」

 語り終えて、水を飲んでいた克也が再び口を開いた。


「僕、思い出したんです。」

「何をかね。」

 榊原教授は、答えを予感しつつも平静を装って聞き返した。

「父のことを。」

 隣にいる猿君が息を飲んだのが分かった。戸口付近に陣取っている最上は絶えず廊下の気配に配っていた注意を一瞬だけ、克也に振りむけた。

「友助君のことだね。」

 榊原教授が念を押すと、克也は頷いた。

「このことも警察に話すべきなんでしょうか。昔のことだし、僕がたまたま忘れていただけで、今回の事件に関係がないと思います。」

「君が、そう思うなら話す必要はないだろう。細野のようなことを考えている人間が他にもいる可能性がある。君は友助君のことは何も知らないことにしておいた方が将来のためかもしれん。」

 克也は榊原教授の言う通りだと思ったので、やはりこの件は警察には言わないでおこうと決めた。

「では、思い出さなかったことにします。」

「そうしなさい。事件に関係がないと思ったと言うことは、友助君は研究所から何も盗んでいなかったんだろう?」

「父は、追われていると思い込んでいました。たぶん研究所の人に。ずっと怯えて暮らしていました。でも何も盗んでいなかったはずです。家を出るときに僕と、母の骨だけしか持っていなかったですから。」

 榊原教授は克也の最後の一言に絶句した。友助が家を出たのは克也が生後2週間になるやならずの頃だ。記憶があるのだろうか。

「覚えているのかね。君の父親が君を連れて家を出た日のことを。」

「はい。でもその頃の記憶はとても断片的です。写真があるような感じでつながりが良く分からないですが。」

 それはそうだろう。榊原教授は克也が本物の天才だと、ここにきてやっと納得した。いわゆる大人になると普通の人になってしまう神童とは確実に違う。

「その写真に、君のお母さんの遺骨と君を連れているシーンがあるんだね。」

 そう聞くと、克也は頷いた。

「父は怯え過ぎて気が狂っていました。誰も追いかけてきていないのに逃げ出したり、食べ物も良く疑って、食べずに捨てることもよくありました。誰かに見つかったら僕を奪われると思っていたみたいで、小さい頃はずっと女の子の格好をさせられて名前も今と違う名前で呼ばれていました。おじいさんの家に僕を預けるときに、初めて男の子の服を着せてもらって今日から「克也」だと。」

 思い出したと言ったと思ったら予想を遥かに超えて過酷な記憶に猿君はまた涙腺が緩むのを感じた。ここで泣いたら駄目だと必死に涙を堪える。


「そうか。思い出したきっかけは分かるかね?高熱のせいかな。」

 榊原教授は同情もせずに、すんなり克也の告白を受け入れた。

「わかりません。確かに熱が出た後だったと思いますけど。細野さんが偶然、僕の名前を呼んだからかもしれません。名前のつもりではなかったんだろうけど、あの時の僕には名前に聞こえました。」

「名前?」

「はい、昔、父だけが使っていた名前です。」

 榊原教授は小さく嘆息した。

「その名前の話も、まだ誰にもしていないね?」

「はい」

 克也のその返事を聞いて、榊原教授は間にあってよかったと心から安堵した。もう一度最上に視線をやると軽く頷かれた。廊下にも人の気配はない。きっと誰にも聞かれないで済んだろう。

「では、それも今しばらく君と、ここにいる私達だけの秘密にしておこう。名前そのものも誰にも教えてはいけない。」

 猿君は混乱した。それは秘密にしておかなければならない情報なのだろうか。今ここにいる人間だけの秘密にすれば山城夫妻も他の研究室のメンバーにも話せないことになる。

「猿渡君も、最上君も、よいかな。」

 ダメだという理由はないが、なぜ誰にも話してはいけないのか分からない。

「どうして内緒なんですか。」

 猿君が質問すると榊原教授は授業で質問に答えるような調子で答えた。

「私は江藤君の話を聞く限り十年以上忘れていた江藤君のお父さんに関わる記憶の、いわば鍵がその名前なんだろうと思う。江藤君の膨大な記憶にとって、これほど重要な役割を占めるものを軽はずみに扱うのは危険だと思うのだよ。今回の高熱も薬剤のせいもあるだろうが、もしかしたら5年分の記憶を一気に蘇らせたことによって脳が何かの反応を起こした結果という可能性もある。安全が確認できるまで無闇に口にすべきではない。」

 克也の5年分の記憶。乳幼児期とはいえ365日24時間意識がある限りの全ての知覚した現象を記憶してしまう克也の場合、記憶の膨大さは計り知れない。高熱がこのせいだという榊原教授の仮説も安易には否定できない。猿君は納得して首を縦に振った。そういうことがなくても父との大事な記憶の、大切な名前だろう。辛い記憶かも知れない。克也が胸に秘めておきたいのなら無理に聞こうとは思わなかった。


 克也も、記憶の中で名前を呼ばれただけで心臓が止まるかと思うような衝撃を受けたものを自ら口に出したいとは思っていなかったので榊原教授の提案は歓迎すべきものだった。深く頷いた。しかし、一つ気になることがあった。

「こういうことを、和おじさんや乙女さんに言わなくてもよいのでしょうか?」

 榊原教授は水気の少ない掌を克也の手の甲に当てて微笑んだ。

「今は、まだ話すべき時ではない。時が来るのを待つことが必要なこともある。大丈夫だ、彼らは分かってくれる。」

 賢者のような一言に克也は少し安心したように頷いた。


天才 江藤克也、ここにあり。です。

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