運動会をしよう-2
その日の午前中、最上は自身もなんの分科会だか忘れてしまった会議に参加していた。本題の議題が終了すると、最上は大きく後ろに伸びをして天気もいいことだし外の喫煙所にタバコを吸いに行こうかと窓を眺めた。すぐ脇では、他の研究室所属の助教や準教授達が何やら話している。声高なのは隣で伸びている最上に聞かせるためだ。
「秘書を雇わなきゃならないなんて、榊原教授の苦労も推して知るべしですなあ。」
普通の研究室には秘書などというものは存在しない。教授を頂点とする研究室ヒエラルキーの中で雑用は格下の研究者陣の仕事になっている。榊原研究室には万年ドクターコースの学生の他、ファカルティーは榊原教授と最上しかいない。当然、この場合雑用は最上の仕事になる。ところが、榊原研究室には例外的に秘書として黒峰が雇われており榊原教授個人のスケジュール管理から、研究室全体のスケジュール、設備管理までを行っている。下働きに追われる他の準教授や助教陣にすれば、羨ましい限りであり嫌味も一つも言いたくなる。一つどころか二つも三つも言いたくなる。よって、先ほどの発言は、榊原研究室唯一の下っ端教職者である最上が無能だから、秘書などというものが必要になるんだ、と当てつけていたわけである。
最上に言わせれば、東東大学において榊原教授と同じ程度に予定の立てこむ人気教授など片手で足りるほどしかおらず、そういう研究室は揃って大所帯で雑用を分担できるだけの人数が揃っている。最上一人で榊原教授のスケジュール管理を引き受けたら、最上の研究対象は榊原教授の生態になってしまうのは必定だ。そういう人物に教職者としての給与を払う気が学校側にあるのだとしたら、それについては学費を治める学生とその保護者に告発した方が良いと思っている。そんなことも分からんのか、と最上は憐みを込めて嫌味を言いあう同僚たちを眺めやった。しかし一つずつ説教して回っても何も得るところはないので無言で立ち去る。
最上にはとにかく風当たりが強い。いつでも暴風雨の様相を呈している。
もちろんそれには理由がある。通常この大学において教職者として給料をもらって働ける人間は、東東大学の卒業生や学校関係者が自らと同等かそれ以上の学歴を持っていると判定したものだけだ。それゆえに皆、輝かしい経歴の持ち主ばかりである。しかし最上はどこの大学かも分からないような三流大学を出て、有名で実績もあるが金に任せて有能な研究者を引き抜くことで知られる大学で研究を続けていたという御世辞にも輝いてはいない経歴の持ち主である。更に賞罰の欄には学会での受賞歴の他、若い頃の補導歴もずらりと並んでいる。
なぜそのような人物が誉れ高い最高学府に籍を置くに至ったかといえば、榊原教授の独断に他ならない。誰にも文句を言わせぬ実績、学生を集める集客力、メディアへの露出による学校の知名度向上への貢献、なにより積み上げた高額の寄付。これらの力を総動員して最上の席を作ってしまったのである。そんなわけで初めて来たときから、最上は歓迎されていなかったし、その後本人も受け入れられる努力を怠ったので、ますます浮いたまま移籍9年目を迎えている。
最上は外の喫煙所にも気の合わない教授陣を発見し、さっさと回れ右をして研究室に戻った。そのまま定位置の換気扇の下まで行ってタバコに火をつけ、ネクタイをぐいっと緩めて窓に寄りかかる。最上は何かの会議が終って帰ってくると大抵、ささくれだった精神状態になっているので、誰も声をかけなかった。
タバコを一本吸い終わると、そのまま無言で教授室へ消えて行く。普段であれば気分が落ち着くまで教授室で一人悪態をついて過ごすのだが、この日は5分もせずにまた研究室へ戻ってきた。既に眉間のしわが消えて機嫌が直っている。
「おい、昼飯行くか。午後は運動会なんだろ?」
食ってすぐ動くと腹が痛くなるぞ、と最後は克也に向けて付け加えると返事も待たずにさっさと研究室を出て行く。それもそうだと皆それぞれに後追って研究室を出た。
この日、榊原研究室のタイムスケジュールは完全に運動会を中心に回っていた。