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榊原研究室  作者: 青砥緑
第三章 秋(前篇)
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事件発生 凶行

 克也は扉も窓も開かないことを確認すると、その後はおとなしくしていたが誰も訪れることは無かった。知らぬ間に寝入ってしまった克也が目を覚ましたのは、再び細野が戻ってきた時だった。今度はノックもなく扉が乱暴に開かれた。後ろに二人知らない男性がついてきている。克也は無言で3人を見ていたが、彼らも無言で克也の方へやってきた。


 細野が頷くと、二人の男は克也の体を押さえて腕をひっぱり服の袖をまくりあげた。

「何をするんですか」

 克也が質問しても返事はない。無言で注射器を取り出して克也の腕に針を差し込んだ。克也は驚いて透明の液体が体に流れて行くのをじっと見つめていた。針が抜かれて腕に小さな赤いドームができる。血を見ると気分が悪くなる。猿君が怪我をしたときほどではないが、軽い吐き気を覚えて目をそらした。


 二人の男はすぐに部屋を去り、細野は先ほどまで克也が腰かけていた椅子を引き寄せて克也の前に座った。じっと克也の様子をみている。

 克也は先ほどの液体はなんだったのだろうかと考えるが、もちろん考えても分からない。少し気分が悪い他は体調の急激な変化は感じられなかった。

 克也は白いベッドのシーツを眺めたまま、細野はそんな克也を眺めたまま長いこと無言だった。時間の感覚が狂っていく。どれくらいの時間そうしていたのか分からない。克也は自分のこめかみあたりが熱くなるのを感じて手でぬぐった。汗をかいている。

「暑いかな。」

 細野が問いかけてきた。

「暑くはないです。」

 克也はようやく彼の方へ視線を向けた。

「そうかい?随分汗をかいているようだけど、熱でもあるかな。」

 克也は首を傾げた。克也の体感では熱く感じるのはこめかみと後頭部だけだ。

「そうか。本当に強情だね、君は。」

 細野は立ち上がって近づいてくると、注射されたのとは逆の腕をとった。克也は振り払おうとしたが、どういう訳か力が入らない。細野は悠々とポケットから注射器を取り出し、克也の腕にまた透明の液体を注ぎ込んだ。

 腕に触れられている感触も、針の感触も厚い布越しのように鈍く感じた。触覚が全て鈍っている。克也はどうして注射を打たれるのかと疑問に思った。

「なぜ注射を打つのですか。」

 そう聞いても返事はない。使い終わった注射器をポケットへ戻した細野はまた椅子に戻ってじっと克也を見つめた。何を待っているのだろう。克也は疑問に思う。


「何を待っているのですか。」

 細野は少し笑みを浮かべた。

「君が話してくれるのを待っている。」

 克也はこめかみと後頭部の熱がじんわりと上がって行くのを感じた。体が痺れている。意識も段々と薄れていく。何かを掴もうとしても煙のように掻き消えてしまう。

 段々目がうつろになっていく克也をみつめていた細野は克也に改めて質問を始めた。

「君のお父さんの名前は?」

「江藤友助」

「お母さんは?」

「江藤緑」

「お父さんと最後に会ったのはいつ?」

「おじいさんの家に行った日」

 克也は問われるまま、うわごとのように回答する。

「お父さんと最後に話した言葉は何?」

「わからない。」

 細野は舌打ちする。

「お父さんと住んでいた家はどこ?」

「わからない。」


 細野が克也に投与したのは自白剤だ。もう自分で話す情報をコントロールできる理性はないはずだ。まさか本当に覚えていないのだろうか。ありえない。背中が一気に熱くなって汗が浮かんでくるのを感じた。もし克也の記憶が本当になければ、これまで克也のことを調べ上げ、人を使って襲わせ、今日自ら誘拐までしてきたリスクは無駄になる。そして細野の研究者生命を永久に絶つだけの失態となる。江藤友助の消えた研究成果を取り戻すことが、研究チームを外されて以来13年間、細野に課されつづけた至上命題だというのに、唯一の手掛かりが目の前にいるのに、本当に記憶がないなんて断じて受け入れられない。

 認めない。

「君は、どこから覚えているんだろう。君が生まれたところを覚えているかな?」

 細野は息を落ちつけながら質問する。

「白い壁に青い屋根の家で、自宅で生まれたんだよ。」

「わからない。」

「広い庭があって、緑さんは木が好きだったから木で一杯だった。そこに君は1週間とちょっとだけ住んでいて、それからお父さんとどこかへ行った。車にのって遠くへ行ったんじゃないかな。」

「わからない。」


 克也は「わからない」を繰り返した。細野の焦りは募る。克也と話をするために払った代償は大きい。ここで回答を得られなければもう取り返せない。焦りは彼からほんの少しだけ残っていた慎重さも奪い去った。

「君のお父さんは、君が生まれる前にHOPEというプロジェクトを指揮していた。ホープ。希望。聞いたことはないか。」

「わからない」

「HOPEは人類の究極の望みを叶えると期待されたプロジェクトだった。その成果は世界のあらゆる遺伝病に苦しむ人にとって救いとなるはずだったんだ。それを君の父親が、持ち去った。跡形もなく。」

 細野の声は段々大きく、感情も露わになる。細野は、江藤友助が失踪した後にHOPEの立て直しに抜擢された。そもそも江藤友助がS&Kリサーチに入社する前からこのプロジェクトの構想を検討し、立ち上げに携わっていた細野にとってそれは抜擢というよりも当然の指名であった。管理職であったと同時に純粋に研究者としてエース級であった友助の失踪でプロジェクトは壊滅的な打撃を受けていた。現状を整理し直すだけで1カ月以上かかった。そして整理した結果わかったことは主要な研究成果が全て失われていることだった。その全てのデータにアクセス可能だったのは江藤友助しかいない。

 もう退職処理も終わって、江藤家も人手に渡った後で、データは取り返すことはできなかった。社運をかけていたHOPEプロジェクトは細野を中心に再始動したが江藤友助が持ち去ったとされるデータのレベルに実験結果が到達することはないままたった2年で打ち切りになった。細野は自分で呼び戻した記憶で再びその時の怒りを思い出した。自分が、逃げ出した江藤友助に能力的に劣るというレッテルと貼られたあのプロジェクト打ち切りの決定。屈辱の決定だった。同時に下ったアメリカへの異動の辞令は肩書上は栄転だったが実質は左遷だった。必死に這い上がって今の地位を手に入れて日本に戻ってきた。プロジェクト打ち切りの時の絶望を13年間忘れたことはない。絶望の深さは、そのまま江藤友助への恨みになり、友助の死後は素知らぬ顔で幸せそう生きている克也への恨みへ転化した。


 唇を噛みしめて細野は克也へ意識を戻した。

 克也の目の焦点はあっておらず、小刻みに震えだしていた。薬剤を投与し過ぎただろうか。

「克也君?」

 もう返事はない。聞こえてもいないようだ。ふらふらと体が揺れてそのままばったりとベッドに倒れ込んだ。目は開いたままだ。全身から汗が噴き出している。顔色もどんどん赤くなってきている。


 このまま廃人になるか、死んでしまうだろうか。

 細野は甲高い調子の狂った笑い声を上げた。克也が死んだら、細野も終わりだ。死ななくても、克也が江藤友助の遺産を引き継いでいない限り、自分は終りなのだ。


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